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<中編小説>『死ねと言いながら、手は離さない』第二王子×第一王子BL小説

 <中編小説>『お前が先にくたばれ』 第二王子×第一王子BL小説|なつめの続き。




 朝の大食堂は、銀器の触れ合う澄んだ音と、貴婦人たちの抑えた笑い声、給仕たちの滑るような足音で満ちていた。

 高い天井から吊られたシャンデリアは、朝の光を受けて白く瞬いている。長く伸びた窓から差し込む陽光は磨かれた床の上をなめ、白いクロスの敷かれた食卓を容赦なく照らし出していた。香ばしく焼かれたパンの匂い、薄く甘い果実酒の香り、湯気の立つスープのやわらかな熱。いかにも王城の朝らしい、優雅で静かな景色だった。

 その静けさの中央に、場違いなほど不機嫌な美貌が二つ並んでいた。

 第一王子エドガーはいつものように背筋を伸ばし、何一つ乱れのない姿勢で席についていた。淡い金の髪は今朝も隙なく整えられ、額から頬にかかる線は研ぎ澄まされた彫像みたいに端正だ。冬の湖を思わせる薄い蒼の瞳は相変わらず冷たく、薄い唇は機嫌の悪さを隠しもしないまま真っ直ぐ結ばれている。

 だが、完璧ではなかった。

 右の下唇、その端にほんの小さく、赤い痕が残っていた。

 皮膚が薄く裂けたような、ごく浅い噛み跡だ。近くで見なければ分からない程度の小さなもの。それでも知っている人間が見れば一目で分かる。昨夜ついたものだ。しかも、自分のせいで。

 その隣に座る第二王子リュシアンは、何食わぬ顔で銀のナイフを手にしていた。

 黒髪は夜の名残みたいな艶を残し、紫を含んだ灰色の瞳は眠たげに細められている。寝不足のはずなのに、むしろ機嫌がいいようにさえ見えるのは、その口元に浮かぶ薄い笑みのせいだった。笑っているようでいて、どうしようもなく性格が悪い笑み。誰かを小馬鹿にするときにだけ綺麗になる顔だ。

 もっとも、その胸の内側では、朝からろくでもない満足感が火種みたいにくすぶっていた。

 あの痕は自分のものだ。

 あの傲慢で、冷たくて、口を開けば人を刺すことしかできない第一王子の唇に、自分の残した痕がある。

 それだけで、喉の奥に黒く甘い愉悦が溜まる。

 もちろん顔には出さない。出したら死ぬほど馬鹿にされる。だからリュシアンは平然と席につき、平然と給仕から紅茶を受け取って、平然とエドガーの横顔を見た。

 そして開口一番、言った。

「気持ち悪い顔だな。死ね」
「朝からお前の声を聞かされるこっちの身にもなれ。くたばれ」
「その顔でパンを食うな。食欲が失せる」
「安心しろ、お前の顔を見てる時点で俺も食欲はない」
「じゃあ食うな」
「お前が消えたら考えてやる」
「死ね」
「お前が先に死ね」

 いつも通りだった。

 侍従がぴくりと肩を揺らし、向かいの席に座る老宰相が咳払いでごまかし、端の方にいた若い侍女が必死に視線を落とす。皆もう慣れている。王城の朝における風物詩みたいなものだ。この二人がまともな挨拶で一日を始めることなど、季節外れの雪よりあり得ない。

 エドガーはスープに口をつけた。白磁のスプーンが薄い唇に触れる。そのたびに、あの赤い痕が視界にちらつく。

 リュシアンは内心だけで笑った。

 うっすら残っている。隠しきれていない。今朝の侍従たちは化粧でごまかそうとしただろうに、あの男がそんなものを嫌がって払いのけたのが目に見えるようだった。下手に触れられるより、よほどあのままのほうがいい。昨夜の痕跡が、朝の光の下に晒されている。

 最高に腹立たしくて、最高に気分がいい。

「おい」
 エドガーが低く言った。
「何だよ、氷像」
「お前、さっきから気色の悪い顔で何を見ている」
「別に」
「別にで済ませるな。死ね」
「お前の唇が面白いだけだ」
「……」
「なんだ、その顔。鏡見たか?」
「見た」
「なら分かるだろ。間抜けだな」
「お前がつけたんだろうが、この野犬」
「知らねえな。お前が勝手に噛まれやすい口してるだけだろ」
「今ここでその減らず口を叩けなくしてやってもいいんだぞ」
「やってみろよ。死ね」

 言葉の応酬は刃みたいに飛ぶ。周囲の空気が、見えない棘で少しずつ削れていく。だが当の二人は涼しい顔だ。涼しい顔で罵り合い、涼しい顔でパンをちぎり、涼しい顔で互いの急所だけを的確に踏みつける。

 そしてその間も。

 長いテーブルクロスの下、誰にも見えない暗がりの中で、二人の手は固く絡まっていた。

 最初に触れたのはどちらだったか、もう分からない。

 席についたとき、偶然を装って膝が触れた。互いに「邪魔だ」「失せろ」と小声で吐き捨て、それでも足は引かなかった。そのまま、クロスの下で指先がかすめた。逃げることはできた。なのにしなかった。次の瞬間には、エドガーの冷たい指がリュシアンの手首を掴み、腹立たしいくらい当然の顔で離さなかった。

 今もそうだ。

 表ではナイフより鋭い言葉を交わしながら、テーブルの下では指を絡め、掌の熱を奪い合っている。

 エドガーの手は見た目通り白く、骨ばっていて、指が長い。剣もペンも完璧に扱う手だ。普段は冷たいくせに、こうして握ると意外なほど熱がこもる。その熱を知っているのが自分だけだと思うと、リュシアンの胸の奥に暗い満足がじわりと広がった。

 エドガーは正面を向いたまま、クロスの下でさらに指先に力を込めた。

「力が強いんだよ。骨が折れる。死ね」
 リュシアンが小声で言う。
「なら振り払え」
「お前が掴んでるんだろうが」
「嫌なら離せ」
「お前が離せ、クソ王子」
「断る。くたばれ」
「訳分かんねえな、お前」
「それはこっちの台詞だ」

 エドガーはそう言って、何事もなかったように果実を切った。銀のフォークの動きは一分の隙もなく優雅だ。そんな取り澄ました顔で、自分の手を放す気が一切ないのだから性質が悪い。

 リュシアンは紅茶を一口飲み、香りの向こうでちらりとその横顔を盗み見た。

 綺麗だ、と不意に思う。

 腹が立つほど綺麗だ。朝の光は容赦がない。夜なら火と影が隠してくれたものまで白日のもとへ引きずり出す。整いすぎた睫毛の影も、薄い唇の線も、噛み跡の赤さも、すべてがくっきり見えてしまう。

 あの痕が、昨夜の自分を証明しているみたいでたまらなかった。

 エドガーが横目だけでこちらを見た。

「何だ、その顔」
「別に」
「朝から人を舐め回すように見るな。気色悪い」
「お前にだけは言われたくねえな。死ね」
「視線がうるさい」
「視線に音はないだろ」
「お前の場合はある」
「繊細かよ」
「お前が雑すぎるんだ」
「はいはい、ご立派な第一王子様は大変ですね」
「その言い方が腹立つ。死ね」
「くたばれ」

 向かいの老宰相がバターを塗ったパンを落とした。隣の侍女が息を呑む。だが誰も何も言わない。口を挟んだところで火に油を注ぐだけだと知っているからだ。

 リュシアンは平然とパンを口に運ぶ。噛みしめた小麦の甘さの下で、胸の内だけがじわじわと熱い。

 自分だけが知っている昨夜の顔がある。

 人前では一切乱れない第一王子が、昨夜、自分の腕の中で呼吸を崩したこと。
 あの薄い唇が、死ねだの黙れだの罵りながら、最後には自分の名前の欠片みたいな息をこぼしたこと。
 冷たい顔のくせに、キスのたび指先だけは隠しきれず震えたこと。

 全部、自分だけが知っている。

 そう思うだけで、胸の底が満ちる。汚くて、子供っぽくて、どうしようもなく独占欲じみた満足だった。

 もちろん、それを言葉にする気はない。

 そんなことを言えば終わる。終わらせたくない。だから代わりに、今日も毒を吐く。

「その唇、隠す努力くらいしろよ。品位って言葉知ってるか?」
「誰のせいだ」
「知るか。寝相でも悪かったんじゃねえの」
「今この場でお前の口を裂いて左右対称にしてやろうか」
「お前こそ見苦しいぞ。赤くなってる」
「なってない」
「なってる」
「死ね」
「くたばれ」

 その瞬間、クロスの下でエドガーの指がぐっと食い込んだ。

 痛いほどではない。だが、分かる程度には強い。

 やっぱりこいつ、怒っている。

 リュシアンは内心でだけ笑った。表には出さない。出したら本気で足を踏まれるか、あとで首を絞められる。それでも嬉しい。こうして人前で完璧な顔を保ちながら、テーブルの下では感情を隠しきれていない。自分にだけ分かる苛立ちが、掌を通して伝わってくる。

 エドガーは無表情のまま給仕に言った。

「ジャムはもういい」
「かしこまりました、殿下」
「あと、この無駄にでかい害獣の分はいらん」
「誰が害獣だ、失礼な死体野郎」
「食欲が失せる」
「上等だ。お前と同じもの食いたくねえよ」
「だったら黙って飢えてろ」
「お前が飢えろ。くたばれ」
「死ね」

 言いながら、二人の手は一向に離れない。

 むしろ会話が刺々しくなるほど、指先の絡みは深くなっていく。互いの存在を罵りながら、互いの体温だけは確かめずにいられないのが滑稽で、醜くて、でもたまらなくこの二人らしかった。

 食事が中ほどまで進んだ頃、若い侍従が緊張しきった顔でエドガーの傍へ寄った。

「で、殿下。本日午前の評議会ですが」
「予定通りだ」
「その……お加減は」
「何が言いたい」
「い、いえ、何も」

 侍従の視線がほんの一瞬だけ、その唇の赤い痕に落ちた。

 エドガーの目が凍った。

 食堂の空気が音を立てて冷える。

「言いたいことがあるなら言え」
「め、滅相もございません」
「では失せろ」
「は、はい!」

 侍従は飛ぶように下がっていった。

 リュシアンは堪えきれず、鼻で笑った。

「怯えさせるなよ。朝から可哀想だろ」
「元凶が何を言う」
「元凶?」
「他に誰がいる」
「証拠は?」
「お前の性根」
「それ証拠になってねえだろ」
「十分だ。死ね」
「くたばれ」

 エドガーはそこで、やっと少しだけこちらを見た。真正面からではない。誰にも悟られない程度の、ほんの僅かな横目だった。だがリュシアンには分かる。その目に混じる色がある。苛立ちだけじゃない、昨夜の続きみたいな熱が、ちゃんと残っている。

 胸の奥がじくりと痺れた。

 この男はたぶん、今も昨夜のことを思い出している。

 自分の唇に残った痕の意味を、誰よりよく知っている。
 そして知っていながら、人前で堂々と座っている。
 消さない。
 隠しきらない。
 まるで、誰に見られても構わないわけではないくせに、自分だけには見せつけるみたいに。

 それがたまらなく腹立たしくて、嬉しい。

「なあ、エドガー」
「何だ、鬱陶しい」
「お前、その顔で会議出るの?」
「出るが」
「はは。最悪だな」
「お前ほどじゃない」
「皆、お前の唇ばっか見るぞ」
「その前にお前を黙らせる」
「やってみろよ」
「あとでな」
「……」
「何だ」
「別に」

 その一言だけ、ほんの少し低くなった。

 リュシアンは紅茶に口をつけるふりで誤魔化す。危ない。今のは少し、昨夜を思い出しすぎた。あとでな、なんて、いかにもあの男らしい脅しなのに、妙に甘く響いてしまうのが腹立たしい。

 エドガーも、それ以上は何も言わなかった。

 ただクロスの下で、絡めた指の位置を直すように、そっと握り直した。

 その仕草がまた、ひどく自然だった。

 まるで昔からそうしてきたみたいに。
 まるで罵り合いながら手を繋ぐのが当たり前みたいに。
 まるで愛しているとでも言う代わりに。

 リュシアンは顔を上げ、平然とした顔で最後のパンを口に入れた。

 満足しているなんて、絶対に顔には出さない。

 だが胸の奥では、黒い獣が尾を振っていた。
 あの痕は自分がつけた。
 あの手は自分を離さない。
 この冷たい第一王子が、朝の席でも自分だけは放っておけない。

 それだけで十分だった。

 十分すぎるほど、嬉しかった。

「食べる音が気に障る。死ね」
 エドガーが言う。
「お前のその顔のほうがよほど気に障る。くたばれ」
「視界に入るな」
「お前がこっち見てるんだろうが」
「自意識過剰だな」
「そっくり返すよ、クソ王子」
「黙れ」
「嫌だね」
「死ね」
「お前が先に」

 食後の茶が運ばれ、朝の儀式じみた応酬はまだ続く。

 周囲の者たちはもう半ば諦めた顔をしていた。毒を吐き合うその声音があまりにもいつも通りで、けれどその一方で、どういうわけか今朝は二人のあいだに奇妙な密度があることに、誰もがうっすら気づき始めていた。

 だが誰にも分からない。

 テーブルの下で、ずっと手を繋いでいることも。
 第一王子の唇に残った赤い痕を見て、第二王子が胸の内側だけで密かに笑っていることも。
 死ね、くたばれと吐き捨てるたび、その言葉の裏側で、今日も生きてここにいろと互いに確認し合っていることも。

 エドガーはカップを置き、ようやく立ち上がった。

「評議会だ。失せるぞ」
「命令すんな。死ね」
「来るなとは言ってない」
「は?」
「護衛くらいはしろと言ってるんだ、この役立たず」
「言い方どうにかなんねえのか、お前」
「無理だ。くたばれ」
「ほんと可愛げねえな」
「お前にだけは言われたくない」

 言いながら、クロスの下で最後に一度だけ、強く手が握られた。

 ほんの一瞬。
 誰にも見えない別れの挨拶みたいに。
 昨夜から今朝まで繋がっていた熱を、名残惜しむように。

 それからぱっと離れる。

 何事もなかったように。

 エドガーは完璧な第一王子の顔で歩き出し、リュシアンは不機嫌そうな第二王子の顔でその後に続く。いつもの距離。いつもの険悪さ。いつもの毒舌。

 ただし、リュシアンの胸の奥だけは、どうしようもなく満ちていた。

 あの唇に残る痕を、会議の間じゅう皆が見るのだと思うと、笑いが込み上げる。
 それでも当の本人は、平然と王子の顔をして座るのだろう。
 そしてその裏で、誰につけられた痕かを知っているのは自分だけだ。

 それがたまらなく甘かった。

 エドガーが振り返りもせず言う。

「何をへらへらしている。気持ち悪い。死ね」
「してねえよ、馬鹿。くたばれ」
「嘘が下手だな」
「お前ほどじゃない」
「うるさい」
「はいはい、死ね」
「……お前が先に死ね」

 その声だけが、少しだけ低く、少しだけやわらかかった。

 リュシアンはそれに気づいたが、何も言わなかった。
 言う代わりに、誰にも見えないところで唇の端をほんの僅かに上げた。

 朝の光は明るすぎて、秘密には向かない。

 それでも、この程度ならまだ隠せる。

 死ね、くたばれと吐き合いながら、
 今日もまた、どうしようもなく互いから離れられないことくらい。

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