<中編小説>『その手を取るな、死ね』第二王子×第一王子BL小説
<中編小説>『触るな、死ね』第二王子×第一王子BL小説|なつめの続き
夜会の夜、王城は最初から人を狂わせるためにあるみたいな顔をしていた。
大広間へ続く回廊は、壁に沿って並ぶ燭台の火に金を流し込まれたように明るく、磨き抜かれた石床には何百もの光が細かく砕けて揺れていた。高窓の外では夜の青が深く沈んでいるのに、城の内側だけは別の世界みたいに華やかだ。侍従たちの靴音は絨毯へ吸われ、遠くから楽団の調律がひとつ、またひとつと溶けてくる。薔薇と蜜蝋と酒の香りが混じり合い、空気そのものが甘く、少しだけ息苦しい。
そういう夜だった。
人の顔を綺麗に見せる。
言葉を飾らせる。
そして、隠したいものほどよく目立たせる。
リュシアンは大広間の入口脇に立ったまま、喉の奥でひどく小さく笑った。
笑っていないに等しい笑いだった。
黒の正装は彼によく似合っていた。夜そのものを仕立てたみたいな生地に、銀糸が控えめに走る。襟元は高く、肩線は鋭い。黒髪はいつもよりきっちり後ろへ流され、灰紫の瞳だけがむき出しの刃みたいに冷えている。整っているのに、整えば整うほど喧嘩腰の危うさが消えない顔だ。誰かを魅了するための装いではなく、近づいた人間に火傷を負わせるための美貌だった。
その視線の先に、エドガーがいた。
大広間の中央近く。
光のいちばん集まるところ。
群青の礼装はやはり腹立たしいほど似合っていた。深い夜の底みたいな色に、銀の刺繍が冷たく沈む。肩から胸へ落ちる線は細く無駄がなく、腰を絞った仕立てが長い脚をさらに際立たせている。淡い金の髪は灯りを受けて柔らかく光り、薄い蒼の瞳はこの喧騒の中でも氷みたいに澄んでいた。整いすぎた顔立ちも、喉元の白さも、手袋に包まれた指先の角度まで、何もかもが「第一王子」に相応しすぎていて、見るたび殴りたくなる。
しかも今夜のその姿は、あまりにも“見せるため”に整えられていた。
夜会の主役に近い位置。
婚約者候補が一曲目を求めてくる夜。
王城中の目が、そこへ集まる夜。
最悪だった。
「お似合いですね、第二王子殿下」
背後から、気配もなく近づいたカイルが言った。
リュシアンは振り向きもせず返す。
「死ね」
「穏やかではありませんね」
「今さらだろ」
「そうでした」
「お前、ほんと余計な時だけ現れるな」
「必要な時におります」
「なら失せろ」
「それは難しいです」
リュシアンは鼻で笑った。
難しい、だと。
こっちは呼吸するのも難しいくらいだ。
楽団が序曲を流し始める。
ざわめきが少しずつ形を変える。
大広間の空気が、何かを待つようにひとつへ向かって収束していく。
そしてその「何か」は、やはり来た。
ベルティーナ・ラウフェル公女が、広間の階段を下りてくる。
息を呑む気配が、あちこちで生まれた。
今夜の彼女は、これまででいちばん“正しかった”。
月光を織り込んだみたいな銀白のドレス。胸元は過度に開かず、だが首筋から肩へかけての線がもっとも美しく見えるよう計算されている。裾には薄い青の刺繍が流れ、歩くたび光を帯びた水みたいに揺れた。髪はやわらかく編み込まれ、耳元の真珠が灯りを拾って小さく揺れる。派手ではない。だからこそ高貴で、だからこそ誰にも文句を言わせない。
王妃候補として、完璧すぎる装いだった。
リュシアンの内臓が、ゆっくり煮立つ。
「顔」
横でカイルが言う。
「うるさい」
「見られます」
「知るか」
「知ってください」
「死ね」
「後ほど」
ベルティーナは、階段を下りると、まっすぐエドガーのほうへ向かった。
迷わない。
怯まない。
周囲の視線など最初から織り込み済みだという顔。
ああ、本当に気に食わない。
彼女はエドガーの前で止まり、完璧な礼をした。
広間のざわめきが、目に見えないかたちで細くなる。
「第一王子殿下」
柔らかな声だった。
「今宵の一曲目、お約束をいただけますか」
約束。
その言葉を使うのが上手い。
考えておく、という曖昧な返事を、公の場では“約束”に近いものへ変換する。責めるでもなく、押しつけるでもなく、ただ自然な顔でそう言う。断る側がむしろ冷酷に見える、絶妙な言い回しだった。
周囲の貴族たちが見守っている。
侍従たちも息をひそめている。
楽団は一曲目の入りを待って、静かに音を落としている。
すべての視線が、エドガーとベルティーナへ集まる。
そしてその集まり方そのものが、リュシアンには吐き気がするほど気に食わなかった。
笑え、と内側のどこかが命じる。
ここで顔を崩すな、と。
第二王子らしく鼻で笑って、退屈そうに酒でも飲んでいろ、と。
けれど、もう遅かった。
ベルティーナが手を差し出す。
白い手袋に包まれた指先。
正しい角度。
正しい間合い。
王の隣へ立つために差し出される、何の非もない手。
その瞬間。
リュシアンの中で、何かが音を立てて切れた。
乾いた音だった。
長いこと張っていた糸が、唐突に弾けるみたいな。
気づけば、歩き出していた。
黒の裾が翻り、石床を打つ靴音がやけに大きく響く。人々が道を開ける。何が起きるのか分からないまま、ただ第二王子の機嫌が終わっていることだけは全員に伝わるような足取りだった。
「リュシアン殿下」
どこかで誰かが小さく呼んだ気がした。
知るか。
エドガーがこちらを見る。
薄い蒼の目が一瞬、鋭くなる。
やめろ、と言いたい顔だった。
遅い。
「おい」
リュシアンの声は、広間に十分届く低さだった。
ベルティーナの差し出した手の上で、空気が止まる。
視線が一斉に集まる。
「何してる」
その問いは、ベルティーナへ向けたものだった。
だが本当は、エドガーにも向いていた。
ベルティーナはゆっくり瞬きをする。
「ご覧の通りですわ」
「見りゃ分かるよ」
リュシアンが笑う。
「だから聞いてるんだ。何してる」
「一曲目をお願いしておりますの」
「そうかよ」
「ええ」
「誰に許された?」
その一言で、広間の空気が完全に凍る。
ベルティーナの目が、ほんの僅かに揺れた。
だがすぐに戻る。
「夜会の正式な場ですもの」
「だから?」
「殿下とわたくしが並ぶことに、不自然なところはないはずですわ」
「不自然だろ」
「リュシアン」
エドガーが低く言う。
「下がれ」
「嫌だね」
「今はやめろ」
「お前も黙ってろ」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
そこまで言ってから、リュシアンはようやく自分が笑っていないことに気づいた。
さっきまで貼りつけていた笑みが、もうどこにもない。
灰紫の目だけが、あまりにも露骨に怒っていた。
駄目だ。
分かっている。
ここでこれは駄目だ。
王城中の目がある。
貴族たちが見ている。
側近たちがたぶん頭を抱えている。
それでも、止まらない。
「一曲目?」
リュシアンが言う。
「へえ。立派だな、公女」
「殿下」
ベルティーナの声が少しだけ固くなる。
「どうかお言葉を」
「慎めって?」
「公の場ですわ」
「知るか。公の場だから何だ」
「皆様がご覧になっています」
「だから気に食わねえって言ってんだよ」
完全に言ってしまった。
広間の端で、老貴族の誰かが息を呑む。
侍女が青ざめる。
楽団の一人が弦を押さえたまま固まる。
エドガーが一歩前に出た。
「リュシアン」
「何だよ」
「それ以上はやめろ」
「嫌だ」
「命令だ」
「聞くわけないだろ、死ね」
そのまま、リュシアンはベルティーナの差し出した手を見下ろした。
白くて、綺麗で、正しくて、完璧な手。
その手がエドガーの手を取るのだと思っただけで、胸の奥がひどく濁る。
「その手、引っ込めろ」
リュシアンが言う。
「今すぐ」
「お断りいたしますわ」
ベルティーナの声も、ついに少し冷える。
「わたくしは正式にお願いしているのですもの」
「正式なら何やっても許されると思うなよ」
「では、殿下は何としてここに立っていらっしゃるのです?」
「は?」
その言葉だけは、鋭かった。
ベルティーナは笑っていなかった。
いや、口元は笑っていた。
だが瞳だけが冷たい。
「第二王子殿下」
彼女が言う。
「あなたは、どの立場でわたくしを退けようとしていらっしゃるの?」
静かな声だった。
けれどそれは、広間の真ん中へ刃を置くのと同じだった。
どの立場で。
どの立場で。
どの立場で。
王弟としてか。
兄弟としてか。
それとも、口にできない別の何かとしてか。
広間の空気が重く沈む。
エドガーの目が細くなる。
リュシアンの喉が、かすかに上下する。
最悪だ。
この女、ここでそれを言うか。
今この場で、言葉にならないものへ形を与えようとするのか。
頭の奥が真っ白になる。
その白さのまま、リュシアンは笑った。
今度は、本当にひどい笑いだった。
「立場?」
ゆっくり言う。
「知りたいのか」
「ええ」
「だったら」
「やめろ」
エドガーが鋭く言う。
「リュシアン、黙れ」
「嫌だね」
そして、次の瞬間。
リュシアンはベルティーナの差し出した手首を掴んだ。
強くはない。
だがはっきりと、下ろさせるだけの力で。
周囲で誰かが息を呑む。
ベルティーナの瞳が初めて大きく揺れる。
「立場が欲しいなら」
リュシアンが低く言う。
「まず俺をどかしてからにしろ」
「……っ」
「できるもんならやってみろ」
「リュシアン!」
エドガーの声が飛ぶ。
その声で、ようやく理性が少し戻る。
まずい。
本当にまずい。
広間の真ん中で、公女の手首を掴んでいる。
何をやっている。
何を、言いかけた。
だが遅い。
もう引き返せる場所ではない。
ベルティーナは手首を掴まれたまま、震えることもなくリュシアンを見返した。
その強さがまた腹立たしい。
「離してくださる?」
静かな声だった。
「嫌だと言ったら」
「殿下」
彼女は一語ずつ区切るように言う。
「これは、脅しではなく警告ですわ」
「へえ」
「あなたがここで壊そうとしているものは、わたくしだけではなくてよ」
「知るか」
「知ってくださいませ」
「死ね」
「あなたのほうが先に」
その言い方すら、もう笑っていなかった。
リュシアンはその手を払うように離した。
離した瞬間、エドガーが間へ割って入る。
「もうやめろ」
低い声だった。
怒っている。
本気で怒っている。
「二人とも、下がれ」
「お前」
リュシアンが言う。
「何だ」
「そいつと踊るのか」
「……」
「答えろよ」
「今ここでそれを聞くな」
「踊るのかって聞いてんだ」
「リュシアン」
「死ね」
最後の死ねは、ほとんど吐き捨てるというより、痛みに近かった。
エドガーは一瞬だけ黙る。
それから、広間中が聞いているなかで、ゆっくりと言った。
「踊らない」
ざわめきが起きた。
小さい。
だが確実に。
ベルティーナの表情が、そこで初めて崩れる。
ほんの少しだけ。
睫毛が震え、唇の端が固くなる。
「殿下……」
「今夜の一曲目は、誰にもやらない」
エドガーが続ける。
「そういう気分じゃない」
それは断りだった。
だがベルティーナだけを切り捨てる形にはしていない。
賢い。
冷たい。
そしてひどく曖昧で、ひどく優しい。
リュシアンはその曖昧さすら気に食わなかった。
けれど、さっきまでの怒りの行き場が少しだけ失われる。
ベルティーナは数秒黙っていたが、やがて完璧ではない笑顔で一礼した。
「……承知いたしましたわ」
「ベルティーナ」
「ご心配なく」
彼女が言う。
「今宵の失態は、誰のものにもいたしません」
その言葉が、刃みたいに静かだった。
失態。
誰のものにもいたしません。
つまり、今夜この場で何が起きたか、彼女はちゃんと分かっている。
分かったうえで、表へは出さないと言っている。
怖い女だ、とリュシアンは思った。
そして、やっぱり死ぬほど気に食わないと思った。
ベルティーナはそのまま去った。
銀白の裾を揺らし、誰より美しく、誰より静かに。
その背中だけは、少しも勝者のものには見えなかった。
広間にはまだざわめきが残っていた。
だが誰も動かない。
楽団も、貴族たちも、侍従も、皆が王子たちの次の一手を待っている。
エドガーは深く息を吸った。
それから、リュシアンの腕を掴む。
「来い」
「離せ」
「黙れ」
「嫌だ」
「今は聞け」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
そのまま、ほとんど引きずるように広間の外へ連れ出される。
視線が背中へ刺さる。
ざわめきが遠くなる。
扉が閉まり、ようやく夜会の音が一枚壁の向こうへ押しやられた。
人の気配の少ない回廊。
窓の外は黒い夜。
城の中だけがまだ華やかで、その華やかさが今はただ鬱陶しい。
「……お前な」
エドガーが言う。
「何だよ」
「本気で何をする気だった」
「知らねえ」
「嘘つけ」
「知らねえよ」
「リュシアン」
「うるさい、死ね!」
そこでとうとう、リュシアンの声が割れた。
怒鳴るつもりだった。
なのに、最後のほうはほとんど掠れていた。
「何で黙って立ってんだよ」
「……」
「何であいつに好きに言わせてんだ」
「……」
「何で俺に、どの立場でとか言わせるんだよ」
「言わせてない」
「同じだろうが!」
「違う!」
今度はエドガーのほうが怒鳴った。
廊下に声が跳ねる。
リュシアンが、そこで一瞬止まる。
エドガーは肩で息をしながら、低く言った。
「違う」
「……」
「お前が勝手に飛び込んだんだ」
「……」
「俺は、止めた」
「……」
「止めたのに、お前が聞かないからこうなった」
「……知ってるよ」
「なら死ね」
「お前が先にくたばれ」
その返しのあと、数秒の沈黙。
リュシアンは壁へ背を押しつけた。
怒りすぎて、頭の芯が少し痛い。
胸の奥も、まだぐちゃぐちゃだ。
「でも」
ぽつりと言う。
「踊らないって言ったな」
「言った」
「……ああ」
「何だ」
「別に」
「嘘つけ」
「うるさい」
「死ね」
「くたばれ」
エドガーはそこで、ようやく少しだけ息を整えた。
それから、ひどく疲れた顔でリュシアンを見る。
「本当に」
「何だ」
「ブチ切れるなら場所を選べ」
「無理だね」
「知ってる」
「死ね」
「お前が先に」
けれど、その声はさっきほど鋭くなかった。
リュシアンは目を閉じ、壁に頭を預ける。
まだベルティーナの銀白が脳裏に残っている。
あの差し出した手。
あの“どの立場で”という声。
あの完璧な笑顔。
全部、気に食わない。
「俺」
リュシアンが言う。
「何だ」
「あいつ嫌い」
「知ってる」
「もう前みたいな“気に食わない”じゃねえ」
「……」
「普通に嫌いだ」
「そうか」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
その返事のあと、エドガーの手が伸びた。
今度は止めるためでも、引きずるためでもない。
ただ、リュシアンの頬に触れる。
さっきまで怒鳴っていたくせに、その指先だけが妙に静かだった。
腹立たしい。
「何だよ」
「別に」
「別にで済ませるな」
「お前が本当に壊れそうな顔してる」
「壊れてねえよ」
「嘘つけ」
「うるさい」
「死ね」
「くたばれ」
それでも、その手は離れなかった。
廊下は静かだ。
夜会の音は遠い。
ここだけが、ひどく近い。
エドガーは低く言う。
「一曲目は踊らない」
「……」
「誰とも」
「……知ってる」
「お前が騒いだからじゃない」
「……」
「最初から、そのつもりだった」
「……」
リュシアンはそこで、ようやく目を開けた。
薄い蒼の瞳が、近くにある。
冷たいくせに、こういうときだけまっすぐだ。
「嘘なら死ぬぞ」
「じゃあ死ね」
「お前が先にくたばれ」
そう言いながらも、リュシアンはようやく少しだけ笑った。
今度は、さっきまでみたいな壊れかけの笑いではない。
ひどく疲れて、ひどく馬鹿みたいで、それでも少し救われた笑いだった。
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