金融・保険業界の「ネイチャーポジティブ」最前線
本稿では、グローバルな金融・保険業界がネイチャーポジティブに向けてどのような挑戦を始めているのか、特に資産運用(アセットマネジメント)と保険の領域に焦点を当て、TNFD後の投融資判断やリスクの価格付けの実例、および自然資本の価値を金融に組み込むインセンティブ設計について最新動向を解説します。
まとめインタラクティブ画面:金融が拓く、自然の未来(Google Canvas)
※いずれも外部画面に遷移します。
1.グローバル金融業界の動向:自然リスクへの対応が主流に
自然関連リスクへの対応は、グローバル金融業界におけるトレンドとなりつつあります。リスク認識の高まりを受け、機関投資家や金融アライアンスによる自然保護へのコミットメントが表明されています。例えば2025年6月には、アクサやカルパース(米加州公的年金)などが参加するNet-Zero Asset Owner Alliance(NZAOA)の86機関投資家(総運用資産9.5兆ドル)が、2030年までに投資ポートフォリオから森林破壊を根絶する行動を取るよう業界に呼びかけました。また、気候変動に対する投資家連合「Climate Action 100+」になぞらえ、生物多様性版ともいえるNature Action 100も2024年に発足し、2025年現在すでに世界の機関投資家230社以上(運用資産30兆ドル超)が参加して企業へのエンゲージメント(対話)を開始しています。Nature Action 100では、生態系破壊の防止策や情報開示の強化を企業に求める協働行動が展開されており、これら投資家の連携は企業経営に対する大きな圧力・後押しとなっています。
投融資の世界では、自然関連プロジェクトへの資金流入も急増しています。国連環境計画・金融イニシアチブ(UNEP FI)の報告によれば、民間部門による自然関連ファイナンスは2020年時点の約94億ドルから2024年には1,020億ドル規模へと、わずか数年で11倍以上に拡大しました。これは自然保護区域の拡大や森林再生、持続可能な農業などを対象とする投融資が飛躍的に伸びていることを示します。近年発行されるグリーンボンドやサステナビリティ・リンク債にも、生物多様性保全や自然資本に資金使途を特定したものが増加してきました。
国際的にも、TNFDの枠組みは他の報告基準との整合性が図られ急速に普及しつつあります。ISSB(国際サステナビリティ基準審議会)やGRI(グローバル・レポーティング・イニシアティブ)、欧州のESRS(欧州サステナビリティ報告基準)など主要な開示基準とも対応関係が整理されており、企業は既存の気候開示(TCFD等)に加えて自然関連情報の開示も一貫した形で取り組める環境が整ってきました。また2023年施行のEU違法伐採規制(EUDR)は企業に森林破壊に関与しない調達を求めており、金融機関にも投融資先の森林リスクへの注意義務が高めようとしています。このように「気候だけでなく自然も」という流れが各国の金融規制や業界自主ルールがはじまっており、金融機関は気候リスクと同様に自然リスクへの対応を検討の必要がある時代となっています。地域別に見ても、欧州はCSRDやEUDRで規制面を先行し、米国では規制こそ遅れているものの大手資産運用会社が自主的に自然対応方針を打ち出し始めています。新興国・途上国でも自然資本を組み込んだ開発金融の動きが出てきており、自然保護と債務削減を両立させる「債務・自然スワップ(Debt-for-Nature Swap)」の事例が広がりつつあります。
金融機関におけるTNFD開示準備の状況においては、2025年7月現在、日本の金融業界は世界で最もTNFD導入が進んでいる市場のひとつです。2025年春時点で、TNFD公式アダプター企業(Early Adopter)として登録された日本の金融機関は103社(うち銀行・証券・アセットマネジメント・生損保を含む金融グループが約40社)となり、これは全世界のTNFDアダプターの約18%に相当します。とくに三菱UFJフィナンシャル・グループ、三井住友フィナンシャルグループ、みずほフィナンシャルグループといったメガバンク、第一生命、住友生命、日本生命といった大手生保各社は、いずれも2023~2025年にかけてTNFD対応の推進母体を立ち上げました。2025年3月の時点で、国内銀行の資産規模上位15社中13社がTNFDアダプター登録済みであり、地域銀行やネット専業銀行にも開示準備が広がっています。特にメガバンクグループは「ポートフォリオ全体における森林・水資源・土壌依存度」を開示し、2030年に向けたポートフォリオ移行戦略を示しました。日本生命・第一生命では、生物多様性リスクを保険引受審査・資産運用の両面で管理する体制を構築し、「投資先企業のTNFD開示をエンゲージメントの必須テーマ」とする方針も公表されています。
2.自然関連リスクウェイト債権とNature Positiveの関係
生物多様性や自然資本に関連するリスクを金融規制に織り込む動きも本格化しつつあります。金融当局や中央銀行のネットワークであるNGFS(グリーンファイナンス・ネットワーク)は、気候変動と同様に生物多様性の喪失が金融システムの安定に影響を及ぼし得るとの認識の下、2024年7月に自然関連リスクの概念的フレームワーク最終版を公表しました。この報告書は中央銀行や金融監督当局による行動指針を示すもので、森林減少や水生態系劣化など自然喪失が経済・金融に与えるリスクを評価し、規制・監督に組み込む重要性が強調されています。また国際的な金融安定理事会(FSB)の調査でも、各国当局が生物多様性ロスに伴う金融リスク評価に着手し始めているものの、その取組状況は様々であると報告されています。こうした議論を背景に、銀行の自己資本比率規制において自然関連リスクウェイト債権(自然資本に関連するリスクを考慮したリスクウェイテッドアセット)の導入が検討されています。
具体的には、環境に配慮した資産のリスクウェイトを軽減する「グリーン・サポーティング・ファクター」や、環境に有害な資産のリスクウェイトを引き上げる「ブラウン・ペナルタイジング・ファクター」といった既存の気候分野の概念を、生物多様性など自然関連の金融エクスポージャーにも適用しようとする提案です。例えば欧州連合では、中小企業向け融資にリスクウェイト軽減措置(SMEサポーティングファクター)を設けた前例があり、これにならって生物多様性保全に資する融資への優遇措置(逆に自然破壊につながる融資への加算)も議論されています。このようなリスクウェイト調整により、自然ポジティブなプロジェクトへの融資コストが引き下げられ、資金の流れを自然資本の保全・再生へシフトさせる狙いがあります。
フランスのナティクシス銀行は社内で「グリーン・ウェイティング・ファクター」を実施し、環境に良い案件のリスクウェイトを最大50%引き下げ、逆に環境・自然に有害な案件は最大24%引き上げる運用を行っています。融資ポートフォリオのリスク加重資産(RWA)をこのように環境・自然要素に応じて調整することで、銀行自ら自然ポジティブな案件を優先するインセンティブが働くわけです。総じて、「自然関連リスクウェイト債権」とは、生物多様性損失に起因する信用リスクを自己資本規制に織り込む取り組みと、自然ポジティブな資金供給を促す優遇策の双方を指します。これらは金融システム全体で「自然ポジティブ経済」への移行を支える施策として位置づけられており、日本を含む各国で具体的な制度設計の検討が進むことが期待されています。
3.自然資本の価格付けと金融インセンティブの設計
次に、金融業界が模索している自然資本の評価とインセンティブ設計の動きについて触れます。従来、市場で十分に価値づけされてこなかった「自然のサービス」に価格を付し、その価値維持・向上への行動を促す仕組み作りが各方面で進展しています。
一つは「自然資本の会計・リスク評価」です。銀行・保険各社、さらには中央銀行や金融規制当局の中にも、貸出ポートフォリオや保険資産に対して「自然資本ストレステスト」や「生物多様性リスク・シナリオ分析」を試行する動きが出てきました。オランダ中央銀行(DNB)やフランス銀行(BdF)は自国の金融機関の自然関連リスクを定量分析し、オランダでは金融機関の総資産の36%が生物多様性劣化の影響を強く受けうると報告するなど、初の包括的評価を実施しました。またイングランド銀行(英国中銀)も自然関連リスクを金融安定の観点から研究し始め、主要生態系サービスの喪失がマクロ経済や物価安定に与える影響を分析しています。さらに各国中銀が参加するNGFS(気候変動リスクに関する中央銀行ネットワーク)は2023年に自然関連リスクの概念的フレームワークとシナリオ開発の勧告を公表し、加盟当局に対し「自然リスクを金融政策・金融監督に組み入れる準備を進めるべき」と提言しました。こうした定量分析の進展は、将来的に融資金利や保険料へのリスク反映につながるでしょう。つまり、自然破壊リスクが高い事業には資金コストを上乗せし、逆に自然保護に貢献するプロジェクトには優遇条件を提示するといった差別化が金融の世界でも現実味を帯びてきたのです。実際、民間の融資でもサステナビリティ・リンク・ローンに生物多様性KPIを組み込む事例が見られます。例えば借り手企業が森林減少をゼロにする目標を達成すれば金利が所定幅引き下げられる契約や、特定保護地域の拡大目標を設定した事業体に金利優遇を与える融資などが登場し始めました。こうしたローン契約では「自然を守ること」が借り手の金融コスト低減につながるため、企業の行動変容を促す効果が期待されます。
また、保険と資本市場を組み合わせた革新的な金融スキームも注目されています。例えば2021年にベリーズ政府が発行したブルーボンド(海洋保全債)では、ハリケーン被災時に国債の元利払いを一定期間猶予できる保険契約(パラメトリック条項)が組み込まれ、自然災害リスクをヘッジする工夫がなされました。この債券は自然保護団体TNC(ザ・ネイチャー・コンサバンシー)の仲介によりベリーズの対外債務を借換えて海洋保護区の拡大資金を捻出したものですが、同時に「ハリケーン保険付き債券」とすることで投資家にとって災害リスクが軽減され、結果として低利での起債が可能となりました。このような「自然保護と金融メリットの両立」スキームは他国にも広がりつつあります。世界初の野生動物保全債である「サイ債券」(2022年発行)では、南アフリカに棲む絶滅危惧種クロサイの個体数が5年間で一定の増加目標を達成すれば投資家に追加クーポンが支払われる仕組みとし、結果的に調達資金が保護区のレンジャー増員や密猟対策に充当されました。この債券では世界銀行(IBRD)が成果連動支払いの保証人となり、投資家にとっては「クロサイ保護の成功=利回り向上」となる斬新なモデルでした。加えて、途上国の公的債務を自然保護と連動して削減・借換する債務スワップ**の動きも加速しています。エクアドルは2023年、ガラパゴス海洋保護の資金確保を条件に150億ドル超の対外債務を約11億ドル削減する大型取引を実行し、これまでで最大規模のデットスワップとして注目されました。このようなソブリンレベルの取り組みは、自然保護を国家戦略と結びつける上で画期的なモデルケースといえます。
さらに、市場メカニズムの創出という観点では、水源涵養や炭素吸収など生態系サービスへの支払い(PES:Payments for Ecosystem Services)の枠組み強化が進んでいます。例えば保険会社や銀行が出資して上流の森林再生プロジェクトを行い、下流域で得られる洪水リスク低減や水質改善の恩恵を関係者間で分配するといった、リスク共有型の官民パートナーシップも各国で模索されています。スイス再保険は2022年、自然を活用した防災インフラ(例えば海岸のマングローブ林や湿地)の投資と保険を組み合わせる商品性を検討し、保険のリスクモデルによって自然による防護効果を定量化し投資判断に役立てる試みを発表しました。このように「自然を守ると経済的に得をする」**インセンティブを金融商品に巧みに組み込むことが、ネイチャーポジティブ達成のカギとなるでしょう。
4.ブルーボンド/グリーンボンドの最新発行動向
グローバル市場の傾向:自然関連ファイナンスの拡大 – 近年、債券市場では生物多様性や自然資本をテーマとした資金調達が急増しており、2024年は「自然関連ファイナンス元年」とも称されました。2024年には緑の債券やサステナブル債の調達資金の約14%が自然関連プロジェクトに充当され、過去最高水準に達しました。生物多様性関連の公的・民間債券発行額は年間で約3,000億ドル規模に達したと推計され、これは生物多様性損失を食い止め回復軌道に乗せる目標(2022年末のCOP15で採択された昆明・モントリオール生物多様性枠組)を支える「自然関連」金融の高まりを示しています。一方でCOP16では先進国による新たな資金拠出の約束は乏しく、引き続き年間数千億ドル規模のギャップが課題として残っています。しかし気候変動対策としても生態系の復元は費用対効果が高いとの認識が広がり、こうした背景から自然資本に投資する債券への需要は今後も拡大が見込まれます。
ブルーボンド市場の急成長 – 中でも、海洋分野に特化したグリーンボンドであるブルーボンド市場の台頭は注目に値します。世界初のブルーボンドは2018年にセーシェル政府が発行した1,500万ドルの債券でしたが、その後市場は飛躍的に拡大しました。2023年には年間で計16件・総額47.9億ドルのブルーボンドが発行され、特に同年11月の韓国輸出入銀行(KEXIM)による10億ドル起債が市場拡大を後押ししました。2024年通年の発行総額は前年をやや下回りましたが、件数は増加しており、ブルーボンドという手法がより多様な発行体に受け入れられつつあることを示しています。実際、これまで政府や国際機関が中心だったブルーボンド発行者に民間企業が相次いで参入してきました。例えばフランスの水道大手Saur社は2024年10月に5.5億ユーロのブルーボンドを発行し、中東の物流企業DPワールド社は2024年12月に中東・北アフリカ地域初となる5年債・1億ドル規模のブルーボンドを発行しました。ブルーボンドで調達した資金は海洋汚染防止や持続可能な水産業などブルーエコノミーの分野に充てられ、発行体にとっては投資家層の多様化やサステナビリティに資する企業イメージ向上といった付随効果も得られます。実際、ブルーボンドはSDGs目標6(安全な水管理)や14への寄与が評価されやすく、発行体は従来とは異なる投資家層へのアプローチが可能となり、持続可能な開発への貢献を通じたレピュテーション向上にもつながると指摘されています。投資家側の関心も高まっており、2024年10月には英フィデリティ社が海洋・水資源テーマのブルーファンドを立ち上げるなど、新興のブルーファイナンス市場への資金流入も進みつつあります。
グリーンボンド資金使途の変化:自然資本プロジェクトの台頭 – グリーンボンド市場全体も拡大傾向が続く中で、その調達資金の使途において「自然資本」関連プロジェクトの比重が高まっています。国際資本市場協会(ICMA)は2022年にグリーンボンド原則の適格プロジェクトに「陸域・水域の生物多様性保護」を加え、海洋・森林・水資源など自然関連プロジェクトへの資金供給を公式に後押ししました。これを受けて森林保全や水環境保護を資金使途とする債券発行が世界的に増加しています。実際、チリの製紙パルプ企業CMPCは持続可能な森林再生と水資源管理を目的とする債券を発行し、フィンランドの製紙大手ストラエンソ(Stora Enso)も森林管理や水質汚染防止に収益を充当するグリーンボンドを複数発行しています。中国では中国銀行(Bank of China)が生物多様性保全プロジェクトや持続可能な資源管理を対象とする「生物多様性債(Biodiversity Bond)」を発行するなど、新興国から先進国まで自然資本関連ボンドの事例が広がっています。こうしたネイチャーポジティブな資金循環は、単に気候変動緩和だけでなく、生態系サービスの維持・再生を通じて長期的な経済安定にも資するとの認識が高まっており、今後も各国でガイドライン整備や革新的な金融商品(例:生物多様性クレジットやデット・スワップ)の開発とともに市場拡大が続くと見られます。
日本における動向:発行体・投資家の取り組み加速 – 日本でも、公的機関・民間企業の双方で自然資本に着目した債券の発行やそれへの投資が活発化しています。公的部門では、東京都が全国に先駆けて2017年度から「東京グリーンボンド」を発行し、森林整備や干潟の保全など自然環境プロジェクトを資金使途に含めてきました。その東京都は2024年度から海洋環境保全事業も対象に加え、発行名称を「東京グリーン・ブルーボンド」にバージョンアップしています。また地方自治体レベルでは、千葉市が2023年12月に国内自治体として初めてブルーボンド(10年債・30億円)を発行しており、募集額30億円に対し約2.2倍の応募が集まる盛況ぶりでした。一方、民間では、水産大手のマルハニチロが2022年10月に日本企業初のブルーボンド(5年債・50億円)を発行し、調達資金を陸上養殖における環境配慮プロジェクトに充当しています。この債券は需要申告の段階で発行額を上回る約60億円の投資希望が集まり、生命保険各社をはじめ地方銀行、協同組合、事業会社など幅広い投資家層に販売されました。さらに海運大手の商船三井(MOL)は2024年1月に国内初のブルーボンド(5年債・100億円)を公募発行し、海洋汚染対策や洋上風力発電など「ブルーエコノミー」関連事業に資金を充てる計画です。同社のブルーボンドは国際的なガイダンスに沿ってフレームワークが策定されており、全資金使途が持続可能な海洋経済に資する点が評価されて、日本格付研究所(JCR)から最高評価の「Blue1(F)」を取得しました。これは海運業界として世界初のブルーボンドとなり、注目を集めています。このように、日本でも自治体から民間企業まで発行体の裾野が広がり、機関投資家も含めた投資マネーがグリーンボンドの自然資本プロジェクトやブルーボンドといった手段を通じて、生物多様性保全・持続可能な資源利用への資金供給を加速させています。
5.保険業界の取り組み:自然リスクの引受と革新的商品
保険業界においても、自然関連リスクと機会に向き合う動きが本格化し始めています。保険は元来、自然災害や天候リスクと深く関わる産業であり、過去数十年にわたり気候変動リスクへの知見を蓄積してきましたが、近年は生物多様性の喪失や生態系サービス劣化がもたらす新たなリスクにも注目しています。グローバル保険シンクタンクのジュネーブ協会は2022年の報告書で「今後数年間で自然関連リスクに対する社会の認識がパラダイムシフトを起こし、保険を含む企業の中核的意思決定に影響を与えるだろう」と予測しました。同報告は、保険会社が直面しうる自然関連リスクとして以下の4つのチャネルを指摘しています:(1) 気候変動によって増幅される自然災害リスク(自然破壊が進むと社会の災害脆弱性が増し、損害規模が拡大する)、(2) 被保険企業の事業モデルやサプライチェーンにおける環境面の不持続性(乱開発や汚染による事業停止リスク等)、(3) 政府の開発政策による二次的影響(環境に配慮しない開発がもたらす損失)、(4) 炭素吸収源としての自然の喪失(気候変動対策の失敗による損害拡大)──です。実際、自然破壊が進めば損害保険(P&C)分野では気候災害リスクの増大により保険金支払いが急増し、保険料の高騰や特定地域での引受困難(いわゆる「非保険化」)を招く恐れがあります。また生命保険分野でも、生態系破壊に起因する感染症の拡大や公衆衛生の悪化によって死亡率・疾病率が上昇し、保険金支払いが増加するリスクがあります。さらに自然環境の変化が急激だと、従来のリスク引受モデルが通用せず、適切なリスク評価や価格設定が難しくなる可能性もあります。こうした分析はまだ端緒についたばかりで、生態系の防護効果(例:湿地が洪水を軽減する効果)や自然喪失の影響を定量化する保険数理モデルは発展途上ですが、逆に言えばここに大きなイノベーションの余地があり、自然の価値を保険契約に織り込むことで新たなソリューションを生み出すチャンスでもあります。
実際、保険業界では自然の持つ防護機能に注目し、それを保険の視点で評価・活用する取り組みが進んでいます。今、「Nature-Positive Insurance(ネイチャーポジティブ保険)」というコンセプトが生まれつつあります。国連環境計画・金融イニシアチブ(UNEP FI)の持続可能な保険原則(PSI)はネイチャーポジティブ保険を「自然への依存や影響、リスクと機会を考慮したリスク管理・保険戦略や商品を通じて、昆明・モントリオール生物多様性枠組(GBF)の目標達成に貢献するもの」と定義しています。具体的なアプローチとしては、(1) 自然要素(例えば地域の生態系サービスの水準)を従来のリスク管理フレームワークに組み込み、引受基準やガイドラインを策定すること、(2) 顧客企業や地域コミュニティと協働し、自然災害リスクの低減につながる生態系保全の取り組みを支援・促進すること、(3) 保険金支払いの際には環境に配慮した復旧・再建(サステナブルな災害復旧)を提案すること、(4) 自社の自然関連リスクを測定・開示しステークホルダーへの説明責任を果たすこと──といった点が挙げられます。これらはまだ新しい考え方ですが、2024年にUNEP FIはPSIネイチャーポジティブ保険ワーキンググループを立ち上げ、世界40以上の保険機関が参加してガイドライン整備や事例共有を進めています。大手保険会社の多くがこのワーキンググループに加わり、自然に配慮した保険引受の実践知を蓄積しつつあります。
保険商品の革新の面でも、自然に着目したユニークな契約が登場しています。代表例が自然資産そのものを保険で守る試みです。従来、保険は人間の資産(建物や車、人命など)にかけるものが常識でしたが、世界初のケースとして2019年にメキシコ・カリブ海沿岸のサンゴ礁に保険が掛けられました。これは沿岸部のホテル業界や自治体が資金を出し合って信託を組成し、パラメトリック保険(ハリケーンのカテゴリーなど一定の条件を満たした場合にあらかじめ定めた資金が迅速に支払われる保険)を購入したものです。カテゴリー4以上のハリケーンが発生してサンゴ礁が損傷した場合に最大約400万ドルが支払われる契約で、実際に2020年のハリケーン・デルタ襲来時には約85万ドルの保険金が即座に支払われました。これにより専門の「リーフ・ブリゲード(サンゴ礁救助隊)」が編成され、破壊されたサンゴ礁の回収・再生作業が迅速に資金支援されています。世界初の「自然資産への保険金支払い」によってサンゴ礁の復旧が実現したこのモデルは画期的な成功と評価され、その後同様の試みが各地に広がりました。米国ハワイ州でも2022年に州政府がサンゴ礁保険契約を導入し、2024年には補償対象を州内主要8島の沿岸に拡大するとともに最低支払い額を20万ドルに引き上げて契約更新しています。サンゴ礁のみならず、マングローブ林や塩性湿地など海岸防護に寄与する生態系を対象に、自然災害時に復元資金を供給する保険スキームを検討する地域も増えてきました。保険金によって生態系の修復・維持が可能になれば、将来的な自然災害リスクを低減し、結果的に保険会社自身も沿岸都市への巨額の保険金支払いを防ぐメリットがあります。実際、メキシコのサンゴ礁保険の事例では「自然が無傷であれば沿岸資産の被害は格段に小さく抑えられるため、保険会社にとっても自然を守ることは損失防止につながる」という指摘がなされています。
また、保険会社が保険料設定というインセンティブ付与策を通じて自然保護を促す動きも出てきました。ある研究では、米国西部で森林の適切な管理(計画的な野焼きや間伐など)を行うことで大規模山火事の発生リスクが低減され、その地域の住宅保険料を年間10~40%程度引き下げられる可能性があると試算されています。この分析は世界的保険ブローカーのWTWと自然保護団体TNCが共同で行ったモデル研究に基づくもので、森林管理への投資が確実に保険料削減につながる水準でリスクを軽減することを示したものです。課題は、多数の保険加入者に及ぶ小さな保険料減額の恩恵をどう集約して前広に森林管理の費用をまかなうかという仕組み作りですが、専門家らは地域コミュニティ全体を契約者とする「コミュニティ型保険」や、公的部門がグリーンボンド等で資金調達して自然対策を実施し、住民の保険料節約分で償還する仕組みなどを提案しています。いずれも実現には制度設計上のハードルがありますが、「自然を守れば保険料が下がる」という金融インセンティブが現実味を帯びてきた意義は大きいと言えます。今後、保険引受モデルに生態系データを組み込み、自然ベースの解決策(NbS)の効果を定量化して保険料に反映する動きが進めば、企業や社会に自然保護への強力な動機付けを与える市場メカニズムとなり得ます。欧州の保険規制当局であるEIOPA(欧州保険年金機構)も2023年に公表したスタッフペーパーで「生物多様性や生態系の防護効果を保険リスクモデルに組み入れることは、損失管理の改善に寄与しうる」と言及しており、規制サイドからもこうした方向性が支持されつつあります。
さらに、保険会社自身は大口の機関投資家でもあり、その資産運用の領域でも自然関連の取り組みが進んでいます。保険会社にとって自然に優しい行動を取ることは、将来の保険金支払いリスクを減らしつつ、新たな収益機会を掴むことにもつながるというわけです。
6.資産運用業界の取り組み:自然リスクの組み入れとポートフォリオ戦略
資産運用業界(アセットマネジメント)にとって、生物多様性の喪失や自然資本の劣化は長期的な投資リスクであると同時に、新たな投資機会でもあります。世界有数の運用会社であるアビバ・インベスターズは「私たちのポートフォリオと自然との関わりから重大な投資リスクと機会が生じている」と明言し、自然関連リスクへの対処は投資の長期価値を守る上で不可欠だとしています。多くの投資家にとってまず課題となるのは、投資先企業が自然に与える影響(負のインパクト)や自然への依存度をどう評価し、それを投資判断に織り込むかという点です。現在、各運用会社はTNFDの指針や独自の手法を用いてポートフォリオ全体の「自然フットプリント」を把握しようとしていますが、基礎データの不足や評価手法の確立途上といった課題も残ります。
それでも持続可能な投資に向け前進すべく、資産運用各社はエンゲージメント(企業との対話)や投資ポリシーの見直しに着手しています。例えばドイツのアリアンツの運用部門は、2024年にNature Action 100やPRI(責任投資原則)の生物多様性ワーキンググループなど複数の国際イニシアチブに参画し、投資先企業への働きかけを強化しました。アリアンツは「資産オーナーとして生物多様性リスクへの最も有効な対策の一つはポートフォリオ企業と対話し変革を促すことだ」と述べており、この協働を通じて企業の生物多様性対策や情報開示を深化させ、ひいては自社の投資ポリシー自体を強化する狙いです。同様に、イギリスのアビバは「ネイチャー・エンゲージメント・プログラム」を立ち上げ、株式・債券の主要保有先から生物多様性への影響が大きい企業を選定して重点的に改善を促す方針を掲げました。従来のESG対話では気候変動が中心議題でしたが、生物多様性や自然資本も議題の中核に据えられ始めています。
さらに投資ポートフォリオの組み替えや資金配分戦略にも変化が見られます。欧州を中心に「森林破壊ゼロ」(Zero Deforestation)方針を掲げる運用会社が増え、パーム油や大豆など熱帯林伐採のリスクが高いサプライチェーンを持つ企業への新規投資を制限したり、既存投資先に森林保全方針の策定を求めたりするケースが相次いでいます。また自然関連テーマへのインパクト投資も活発化しつつあります。例えば英HSBCグループは自然資本ソリューションに特化したファンドを組成し、森林再生や持続可能農業プロジェクトへの投資を開始しました。仏AXAグループも運用資産において「森林および海洋生態系への負の影響を削減する」という数値目標を掲げ、自然保護プロジェクトへの投資拡大や保有企業の自然リスク評価の強化に乗り出しています。このような取り組みは長期的には「自然に優しいポートフォリオ」を形成し、将来のリスク低減とリターン機会の創出につなげるものです。実際、自然保護への投資は極めて費用対効果が高い場合が多く、欧州委員会の調査によれば湿地や森林への大規模修復投資は投資額の8倍以上の便益を社会にもたらすと試算されています。金融機関にとっても、「自然を守ること」が結果的に自社ポートフォリオの安定と成長に資するというビジネスケースが徐々に明確になりつつあります。
なお、地域的に見ると欧州の資産運用会社は上記のように政策・市場両面で先行していますが、米国の大手運用会社も気候対応の延長で生物多様性への取り組みを加速し始めました。例えばブラックロックは2023年の投資家向けレターで「自然なくして真のネットゼロ達成はない」と述べ、生物多様性保全を気候戦略の柱に据える方針を示しました。またFinance for Biodiversity Pledge(自然関連財務誓約)という国際イニシアチブには2025年5月時点で28か国・計200の金融機関(総運用資産23兆ユーロ)が署名し、生物多様性の保護・復元に向けた投融資方針の策定を約束しています。日本の運用業界も遅れつつも動き出しており、2024年に複数の日系運用会社がFinance for Biodiversity Pledgeに加盟しました。こうしたグローバル潮流は、日本にとっても無縁ではなく、今後国内運用各社にも自然リスクの組み入れや対話強化が求められていくと想定されます。
7.投融資方針への“ネイチャーポジティブKPI”組込み手順
最後に、具体的に、資産運用会社が投融資方針に自然ポジティブ(Nature Positive)なKPI(重要業績評価指標)を組み込むステップを見て参ります。
重要な自然関連課題の特定: まず自社の運用ポートフォリオが依存・影響する主要な自然資本要素を洗い出します。例えば森林、生態系サービス(水供給など)、生物多様性ホットスポットへのエクスポージャーなど、業種や投資先ごとに「自然への依存度・影響度」を評価します。ここではTNFDの推奨するLEAPアプローチを活用すると効果的です。このステップにより、ポートフォリオにとって特に重要な自然資本要素(例:サプライチェーン上の森林破壊リスクなど)が明確化され、リスク・機会の分析の焦点を定めることができます。
ネイチャーポジティブの目標設定: 続いて、上で特定した課題に対応する明確な「自然ポジティブ」目標を策定します。これは国際目標(例えば「2030年までに自然損失を停止し回復へ向かう」※)や業界ベンチマークと整合するものとし、例えば「投資先企業における森林減少ゼロ達成」や「ポートフォリオ全体で湿地〇ヘクタールの保全」といった定量目標を定めます。各目標領域ごとに現状値(ベースライン)を把握し、将来のKPIモニタリングの基礎とします。(※2022年採択の昆明・モントリオール生物多様性枠組(GBF)における2030年目標)
KPI(主要業績評価指標)の選定と設定: 設定した目標の達成度を測る具体的なKPIを設計します。KPIは「Relevant(事業に関連性が高い)」「Measurable(定量的に測定可能)」「Ambitious(現状を上回る野心的な水準)」とすることが重要です。例えば、以下のような定量KPIが考えられます。
森林・土地利用: 「○年までに森林面積△ヘクタールの純増」(または減少ゼロ)や「保護区面積の拡大率(ポートフォリオ合計)」
生態系の復元: 「投資先企業による生息地復元面積△ヘクタール」や「再導入した絶滅危惧種の数」
持続可能資源調達: 「パーム油や木材の○%を認証(RSPOやFSC等)製品に移行」
水資源・海洋: 「水使用量効率を○%改善」や「サンゴ礁の白化防止プログラムで保全する面積」
サステナビリティ・リンク金融への組込み: 設定したKPIを融資や債券の条件に連動させます。運用会社自身が債券発行体の場合は自社起債に組み込み、投資家の立場であれば投資判断基準に組み入れるイメージです。具体的には、サステナビリティ・リンク・ローン(SLL)やサステナビリティ・リンク債(SLB)の契約条項にKPI達成状況に応じて金利やクーポンを調整する仕組み(ラチェット条項)を設定します。例として、前述のウルグアイ政府案では目標未達時にクーポンが一定幅上昇し、達成時には逆に低減する「両方向のラチェット条項」を導入する予定です。民間企業の例では、ブラジルの製紙パルプ企業Klabin社が自社の生物多様性目標(森林再生など)をKPIとするSLBを2023年に発行し、期限内に目標を満たせなければ利率が上昇する条件を付しました。またこのSLBでは、絶滅種の生息地への再導入や脅威種の個体数強化といった目標が設定されており、未達成の場合はクーポンが6.25bps引き上げられる仕組みになっています(工場の水使用量削減目標については未達時12.5bpsのクーポン増加条件)。資産運用会社にとっては、自社が組成を主導するローンファシリティや私募債等にこうした条件を組み込み、投融資先企業に自然ポジティブな行動変革を促す経済的インセンティブを提供することが可能です。実際、2024年に公開情報のあるサステナビリティ・リンク融資の約32%に生物多様性関連のKPIが含まれており, この比率は前年から大幅に上昇しています。こうした動向からも、KPI連動型の金融手法が自然分野で急速に広がっていることがわかります。
モニタリングと検証・開示: 設定したKPIについて、達成状況を継続的にモニタリング・検証し、透明性高く開示します。具体的には、定期的(四半期・年次など)に投資先企業から関連データを収集し進捗を評価します。必要に応じて衛星データや第三者機関の検証を活用し、報告されるKPI実績の信頼性を確保します。また、KPIの達成度合いや未達時の改善策を運用報告書などで投資家に開示し、透明性を担保します。これにより社内外のステークホルダーに対して説明責任を果たすとともに、目標未達の場合にはKPI目標値の見直しや追加のエンゲージメント強化といった対応につなげていきます。
以上のステップを踏むことで、資産運用会社は投融資ポートフォリオに「ネイチャーポジティブKPI」を組み込み、投資先企業の行動を自然共生型(ネイチャーポジティブ)へと誘導する運用が可能となります。特に重要なのは、KPIの選定が適切であること(自社事業との関連性・データ計測可能性など)と目標水準の設定(業界平均を上回る野心度を持ちつつ実現可能な範囲であること)です。国際資本市場協会(ICMA)も2025年6月に自然テーマのボンドに関するガイダンスを初めて発行し、グリーンボンドやSLBを通じて自然保護プロジェクトを支援する手法を明確化しました。この中で、発行体・投資家双方に有用な生物多様性KPIの例として、「保全・再生した生息地の面積」、「指標種(キーストーン種)の個体数」、「生態系への汚染物質排出削減量」などが挙げられています。資産運用会社としてもこうした国際ガイドラインを参照しつつ、自社の重点分野に即したKPIを策定・実装することが重要です。これらの取り組みを通じて、投融資ポートフォリオ全体で「Nature Positive(自然に対してプラスの効果)」を定量的に追求・実現していく経営が具体化していくでしょう。
参考文献・情報源(一部):
World Economic Forum, The Global Risks Report 2024, 2024
World Bank, The Economic Case for Nature, 2021
TNFD, Adopter announcements, 2024
Business for Nature, Call to Action, 2025
UNEP FI, State of Finance for Nature 2023, 2023
Nature Action 100, Investors list, 2024
Geneva Association, Nature and the Insurance Industry, 2022
Mongabay, Biodiversity credit approaches multiply, 2024
Aviva Investors, Navigating nature: Opportunities, 2024
Reinsurance News, Preventing nature loss, 2022
環境省, 昆明・モントリオール枠組とネイチャーポジティブ, 2023 他。

