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石川啄木の三陸沿岸修学旅行、一関での日々 丸谷喜市との友情

今年は石川啄木生誕140周年の節目の年。今回は啄木の盛岡中学校(現盛岡第一高校)時代のことなどを紹介しましょう。

明治33(1900)年7月下旬、盛岡中学校3年生の啄木は三陸沿岸旅行に出かけましたが、その途中一関を訪ねています。

7月18日、担任の富田小一郎と石川啄木、阿部修一郎、小野弘吉、船越金五郎、川越千代司、佐藤二郎、宮崎道郎、伊東圭一郎は朝5時半盛岡発の列車に乗り、水沢で下車、中尊寺を経て徒歩で一関に向かいました。

伊東圭一郎によると、途中、啄木は富田小一郎の口真似を盛んにしたといいます。啄木にとって富田は愛すべき恩師で、「よく叱る師ありき 髯の似たるより山羊と名づけて 口真似もしき」と歌に詠んでいます。

一行は一関・大町にあった旅館「亀屋」に一泊しました。夕食の際、女中をてんてこ舞いさせるほど、皆はお代わりをしました。啄木は十一杯ご飯を食べたといいます。

夕食後、富田だけが一人部屋で、生徒たちは大部屋で雑魚寝しました。伊東圭一郎によると、啄木が放屁したことが機縁となり、放屁競争が行われたそうです(『人間啄木』、岩手日報社)。啄木にとって、一関は恩師や仲間たちと楽しい時間を過ごした懐かしい地域だったに違いありません。

盛岡市にある啄木新婚の家内部

一関とは、丸谷喜市を介しての縁もありました。明治45(1912)1月11日の日記にこう、記されています。
 
もう午近くなつて丸谷君が来た。暮から一の関の許嫁の処へ行つてゐたのか、今朝帰つて来たのださうだ。豆銀糖と林檎を持つて来て、町の片側に雪の残つてゐた北国の静かな町の話をした。
 
丸谷喜市は明治20(1887)年10月、函館に生まれました。道立函館商業学校の同級に、後に啄木の義弟となる宮崎郁雨がいました。

丸谷は函館商業学校卒業後、北海道炭鉱汽船株式会社に入社しましたが、明治39(1906)年に神戸高等商業学校(現神戸大学)に入学、同校を卒業した後、東京高等商業学校(現一橋大学)に入学しています。啄木の日記にある「許嫁」とは、明治42(1909)年に婚約した七宮きよです。

啄木は明治43(1910)年5月31日に起こった大逆事件に触発され、社会主義に対する関心を深めましたが、この頃丸谷と盛んに社会主義に関して議論しています。

翌明治44(1911)年に啄木は雑誌『樹木と果実』の発行を企図しますが、丸谷は助力を惜しみませんでした。残念なことに印刷所が倒産し、『樹木と果実』の発行は頓挫しています。

明治45(1912)年3月7日、啄木の母カツが肺結核で亡くなりますが、土岐哀果と協力して、浅草の等光寺にカツの骨を納骨したのは丸谷です。啄木にも死が迫っていましたが、啄木は再三丸谷に日記の焼却を依頼したほか、丸谷は啄木の妹・光子宛の絶筆を代筆しています。啄木は4月13日に永眠しました。26歳2か月の短い生涯でした。

啄木にとって、丸谷は晩年を支えた得難い友人であり。啄木の死後日記が公刊されますが、丸谷は啄木との約束を守り、日記の公刊に反対の立場を貫きました。

丸谷が七宮きよと結婚したのは大正3(1914)年になってからで、丸谷はその後、神戸高等商業学校教授となり、経済学者として大成しました。
 
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