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井上ひさし、色川武大、光瀬龍とゆかりが深い小さな文学館 一関・文学の蔵

私は岩手県南一関市にある小さな文学館、一関・文学の蔵の世話人をしています。以前noteで島崎藤村と一関との関わりを紹介しましたが、今回は井上ひさし、色川武大、光瀬龍との関わりについて、紹介します。

『イーハトーボの劇列車』などの作品で知られる井上ひさしは山形県の出身ですが、一関で過ごしたことがありました。ひさしは昭和24(1949)年4月末、一家で一関にやってきました。

一関は前年、前々年と台風による大水害にあい、堤防決壊によって大きな被害を出していました。父親はすでに亡くなり、母マスが生活を支えました。大林組の下請けとして「井上組」の飯場を開き、大水害後の堤防工事に従事したのです。

ひさしが14歳の頃のことで、一関高等学校(現在の一関第一高校)第二学年に編入しました。生活は楽ではなかったようですが、よき先生や学友に恵まれた楽しい日々を送ったようです。映画館に入り浸り、映画館では切符のもぎりをすることもありました。クラスで出していた文芸誌に詩を寄せたりして、文学志向が育まれました。

一関での日々は五か月ほどで打ち切られました。兄の病気などで、一家は離散を余儀なくされ、ひさしは弟と共に仙台の児童養護施設・光ヶ丘天使園に入園することになったのです。

一関での波乱万丈に過ごした体験が作家として大成するいしずえを築いた、といっても過言ではない、ような気がします。

一関・文学の蔵にある井上ひさしコーナー

『怪しい来客簿』などの作品で知られる作家・色川武大は平成元(1989)年3月、東京から一関に転居しました。色川は昭和4(1929)年3月28日、東京で生まれました。昭和53(1978)年、『離婚』で第79回直木賞を受賞しています。

色川が一関に転居したのはジャズ喫茶・ベイシーのマスター、菅原正二さんとの縁でした。二人は1978年頃、四谷三丁目にあったホワイトというバーで知り合い、親しくなりました。ジャズ好きであった色川はたびたび一関のベイシーを訪れるようになりました。

「これからはもっと文学に本腰を入れたい」という思いで一関にやって来た色川でしたが、引っ越しの荷物をほどき終わらない4月10日に急逝しました。一関での生活は一月に満たなかったのです。60歳でした。

色川は純文学執筆の際は本名を使いましたが、ギャンブル小説執筆の際には阿佐田哲也のべンネームを使いました。阿佐田哲也名義で発表した『麻雀放浪記』はベストセラーとなり人々に愛されました。そのことにちなみ、一関市民の有志はその死を悼み翌年から、命日の4月10日には法要をし、「阿佐田哲也を偲ぶ麻雀大会」を長く続けました。

一関・文学の蔵にある色川武大コーナー

東京生まれの光瀬龍は1945年春、母の郷里岩手県前沢町(現奥州市前沢)に疎開しました。やがて県立一関中学校(現一関第一高校)に編入。この頃に関して光瀬は、「中学時代を過ごしたこの町一関には、未だに少しも摩滅、風化していない私の青春時代の傷痍と怨恨が影のように揺曳している」と述懐しています。

東京に戻った光瀬は東京教育大動物学科・同哲学科を卒業後、高校教師を経て職業作家になりました。

1957年、星新一らとSF同人誌「宇宙塵」を創刊、63年には日本SF作家クラブを結成し、SF小説の先導者となりました。

『百億の昼と千億の夜』『たそがれに還る』などのほか、動物学を学んだ知識を生かした『ロン先生の虫眼鏡』も版を重ねて愛読されました。

一関・文学の蔵では、すでに詳しく紹介した島崎藤村、俳人の加藤楸邨、三好京三、星亮一、中津文彦、内海隆一郎などに関しても紹介しています。

一関・文学の蔵の詳細に関しては、下記のホームページをご覧ください。

いちのせき文学の蔵 - bungakunokura ページ!


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