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【短編ホラー】第一夢、ゾンビ・アタックと黒い岩

 灰は、雪のように静かには降らない。もっとざらざらしていて、空から削り屑を撒かれているようだった。私は、口元を布で覆い、息を浅くしながら、ひび割れた道路を歩いていた。
 道路の左右には、建物だったものが並んでいる。壁の大半は吹き飛び、鉄骨が肋骨のように剥き出しになっていた。窓枠だけが残っている場所もある。どこかの階の床が斜めに落ち込んで、そこへ机や椅子や、正体のわからない白い破片が雪崩れこんでいる建物もあった。戦争が始まってから、街は死んだ。けれども死んだものは、案外きれいに消えてはくれない。肉が腐るように、街も腐り続ける。私はその腐敗の中を、何日もかけて北へ向かっていた。
 北に避難圏があるという話を、私はまだ捨てきれずにいた。もう誰もそんなものを信じていないのかもしれない。それでも、人がまとまって生きている場所がどこかに残っていると考えなければ、歩く理由がなくなってしまう。
 風が吹くたび、遠くの高架橋の残骸がきしんだ。金属がこすれる音は、いつ聞いても生き物の呻きに似ている。私は、肩に食いこむ荷を直し、交差点の真ん中で一度立ち止まった。焼け焦げたバスが横倒しになり、その陰に黒く乾いたものがいくつも積もっている。近づいて見ると、それは人だったものだとわかった。服の繊維だけが妙に残っていて、中身が抜けたようにぺしゃんこになっている。食われた死体とも、焼けた死体とも違う。皮の袋の中から、内側だけをこそげ取られたみたいだった。
 私は、思わず目をそらした。こんなものは珍しくもない。珍しくはないのに、慣れたくはなかった。

 交差点を渡った先に、小さなコンビニの跡があった。正面ガラスは砕け、看板も半分落ちている。壁には、黒い甲虫がびっしりと群れを作ってうごめいていた。
 入口の自動ドアは、開いたまま凍りついたように動かず、店内には棚が倒れ、商品だったものが泥にまみれて散らばっていた。私は、一応中をのぞいた。缶詰かペットボトルが残っていれば幸運だ。
 暗い店の奥で、何かがかすかに動いた。
 私は、反射的に腰を落とし、手近な棚の陰に身を寄せた。物音は、それきり止んだ。気配を探るように耳を澄ませる。風の音、どこかで落ちる砂利、遠い軋み。そのほかに、息づかいがひとつ。
「出ておいで」
 自分でも驚くほど、掠れた声だった。返事はない。
「撃たないよ。銃もない」
 しばらくして、陳列棚の崩れた隙間から、小さな顔がのぞいた。子どもだった。十歳くらいか。頬は痩せていたが、目だけが奇妙に澄んでいる。髪には埃がからみ、袖口は擦り切れていた。
 その子は、私を見上げると、店の床に落ちていた缶を一つ指した。私はそちらに視線をやり、豆の缶詰を見つけた。指先がわずかに震える。食料がなさすぎると、人は言葉より先に物を見るようになる。
 私は、缶を拾い、半分に割るように手で示した。子どもは何も言わず、うなずきもしなかった。ただ、私の手元ではなく、店の外を見た。
「どうしたの?」
 子どもは、やっと口を開いた。
「ここに、もうすぐ来る」
 しわがれていて、男の子なのか女の子なのか分からない声だった。私は、眉をひそめた。何が来るのか?と尋ねる前に、店の前の道路で、靴底がコンクリートを擦る音がした。
 ひとつでは、なかった。
 ばらばらと複数の何かが、ゆっくり近づいてくる。避難民かと思った。まだ生きている誰かなら、出会えた方がいい。そう考えて入口へ半歩出た瞬間、私の肩を、子どもが強く引いた。
「だめ!」
 道路の向こうから、人影が現れた。
 最初の一体は、女に見えた。髪が長く、肩を落として、足を引きずるように歩いている。次に、背の曲がった老人。その後ろに、若い男。さらに二体、三体。年齢も体格もばらばらなのに、歩き方に同じ癖があった。上体が少し前に倒れ、頭の揺れ方まで似ている。誰かが、違う人間の体を見よう見まねで動かしているみたいだった。
 私は、喉の奥が冷たくなるのを感じた。
「走るぞ!」
 そう言ったときには、先頭の女が顔を上げていた。
 目が合った。白目が濁っている。しかし、本当にぞっとしたのは、その表情が空っぽなのに、こちらを認識した瞬間だけ異様に素早く、獣じみた反応があったことだった。
 次の瞬間、そいつは、駆けた。
 人間の走り方ではなかった。膝も腰も不自然に硬いのに、速度だけがあった。
 私は、反射的に店の奥へ飛び退き、子どもの腕を掴んで裏口へ向かった。ガラスの砕ける音、棚が倒れる音、唸りとも呼吸ともつかない湿った音が背後から重なってきた。
 裏口の先は細い路地で、その向こうに、骨組みだけ残したようなビルがあった。外壁の大半が落ち、階段部分だけが辛うじて残っている。私は、子どもを先に押し込み、自分もその中へ転がりこんだ。
 薄暗かった。コンクリートの床には配管や鉄材が散乱し、雨の跡がぬめって光っている。私は、息を切らせながら辺りを見回し、足元に転がっていた鉄の棒を拾った。建築資材の一部なのか、片側が潰れて少し曲がっている。両手で握ると、ひどく冷たかった。
 入口の外で、足音が止まった。何体もいた。こちらを覗っているのが分かった。
 私は、子どもを背後の柱の陰へ下がらせた。
「動くな。私の後ろにいろ」
 その子は、言われた通り動かなかった。
 最初の一体が、闇の中へ踏みこんできた。さっきの女だ。顔の皮膚が頬のあたりからめくれ、下の筋繊維が乾いて見えている。腐っているはずなのに、腐臭は、ほとんどしなかった。代わりに、濡れた土をかき混ぜたような臭いがした。
 私は、鉄の棒を振り下ろした。鈍い手応えが腕に返る。頭蓋の一部が砕け、女は横に倒れた。しかし絶命したようには見えなかった。床に転がりながら、肩と肘がぎくしゃくと動き、起き上がろうとしている。私は、歯を食いしばって、もう一度打ち据えた。今度は首のあたりが折れ、ようやく動きが鈍った。
 そこへ二体目が突っこんできた。老人の形をしたそれの胸を蹴って距離を取り、私は、鉄の棒を横薙ぎに払った。腕がへし折れ、ありえない方向に曲がった。それでも構わず噛みつこうと顔を寄せてくる。私は、叫びながら顔面に棒を叩きつけた。
 そのとき、何かぬるりとしたものが私の手首に飛んだ。
 血ではない。透明に近い、粘っこい液だった。床に落ちたそれは糸を引き、雨水とも膿とも違う鈍い光を放った。私は一瞬だけ動きが止まった。その隙に背後から若い男の形をしたものが掴みかかってきて、私は柱に叩きつけられた。息が詰まる。鉄の棒を取り落としそうになりながら、必死に体をねじって相手の顎を避けた。歯が耳元でカチンと鳴る。
 私は、膝で腹を蹴り、距離を取った。腹の裂け目から、肉ではない半透明の塊がちらりと見えた。筋肉の隙間を何かが走っている。虫ではない――もっと液体に近い何かが。
 ――こいつらは、何かが感染した人間では、ない。
 そう考えた瞬間、入口からさらに三体が、なだれこんできた。多すぎる。狭い空間で囲まれれば終わりだ。
 私は、鉄の棒を拾い直し、少しでも広い方へと下がった。床の端は、吹き抜けになっていて、その先は、床がひび割れて崩れていた。逃げ場はない。
 子どもが柱の陰で息を殺しているのが見えた。助けられるかを考える余裕は、なかった。ただ、ここで倒れたら、あの子も終わりだ。
 私は、先頭の一体の膝を打ち砕き、倒れたところを踏みつけて、顔を殴った。横から来た腕を棒で受ける。骨は、軽く砕けるのに、痛がる気配がなかった。そいつらは、気味が悪いほど同じ速さで迫ってきた。まるで、何体もの人間を、ひとつの同じ意思が動かしているかのようだった。
 しんどい。喉が焼ける。もう数秒も持たない。そう思ったときだった。
 目の前の男の形をしたそれが、ふいに止まった。
 殴りかかろうとしていた腕が中途半端な位置で固まった。後ろの二体も、ぴたりと静止した。私は、反射的に棒を構えたまま後ずさった。何が起きたのか、分からない。
 そして、そいつらは崩れた。
 骨が折れたとか、皮膚が裂けたとか、そういう壊れ方ではなかった。全身が内側からほどけていくみたいに、輪郭をなくし、どろりと床へ落ちていった。頬も、眼球も、指も、服の襟も、全部が同じ粘性を帯びた液体になって混ざり合った。
 倒した女も老人も、さっきまで床でもがいていたモノ達も、一斉に溶けた。
 私は、息をするのも忘れて、その光景を見つめた。
 床に広がった液体は、血のように流れはしなかった。むしろ逆だった。ばらばらに散っていた透明な塊が、意志を持つみたいに互いを求めて集まり始めたのだ。床のヒビをまたぎ、鉄片をよけ、一本の流れになって中央へ寄っていく。いくつもの小さな滴がひとつの大きな粘塊へ変わっていく。その表面が、脈打った。
 私は、この様子を見たことがある、と、場違いな感覚が頭をよぎった。
 その粘塊は、しばらく呼吸するみたいに収縮を繰り返した後、するすると伸び始めた。細い茎のようなものがいくつも立ち上がる。先端が丸く膨らみ、茶色く色づいた。湿った光沢のある球体が、ビルの薄闇の中にぽつぽつと実った。
 私は、無意識に呟いていた。
「……細胞性粘菌の、子実体……」
 学生の頃、培地の上のものを顕微鏡で見たことがある。ひとつひとつは単細胞なのに、集まって、移動して、状況によって形を変える奇妙な生き物だ。餌がなくなると集合し、やがて茎と胞子体を作る。それを拡大して大きくしたようなものが、今、死体の残骸の上で現実に育っていた。
「そうだよ」
 背後で子どもが告げた。
 私は、振り向けなかった。
「みんな、ああなる」
 そのとき、ビルの吹き抜けの向こう、崩れた壁越しの空が不意に暗くなった。
 私は、顔を上げた。
 黒いものが、浮いていた。
 最初、それは煙の塊かと思った。しかし違う。輪郭は曖昧なのに、やけにはっきりした存在感があった。岩のようでもあり、金属の塊のようでもあった。ビル一棟分ほどの大きさがあるのに、音がまったくしなかった。あまりにも静かで、空に染みこんでいるように見えた。
 黒い塊は、子実体の上に影を落とした。
 すると、茶色い球体が一斉に震えた。表面が細かくほどけ、霧にも粉にも見える粒子になって、上へ吸い上げられていった。黒い塊の底に、穴でも口でもない、ただ暗さだけが濃くなった部分があり、そこへ粒子が流れこんでいくのが見えた。
 私は、ぞっとした。あれは食っているのではない。回収しているのだ――そんな言葉が、説明できない確信として、胸の内に落ちてきた。
「何だ、あれは?」
 問いかけたのか、独り言だったのか、自分でも分からなかった。
 子どもは、少しのあいだ黙ってから告げた。
「連れて行く、もの」
「何を?」
「人のこと」
 私は、その答えの意味をすぐには理解できなかった。理解したくなかったと言った方がいいかもしれない。
 しかし、目の前で溶けたものが何だったか、私の頭は、もう勝手に推測していた。あの人の形をしたものたちは、死者が生き返ったのではなく、別の何かが死体を使って歩いていたのだ。人を襲っていたのも、食うためではなく、何かを取り出すためだったのだ、と。
 黒い塊は、全てを吸い終えると、来たときと同じように音もなく上昇した。灰色の空へ溶けるように遠ざかっていく。子実体の透明な茎だけが床に残ったが、それもすぐにしおれるみたいに崩れた。
 ビルの中は、急に静かになった。
 風が吹き抜ける音だけがしていた。
 私は、鉄の棒を握ったまま、その場に膝をつきそうになった。全身の力が抜けかけていた。
 しばらくしてから、子どもが私のそばへ来た。
「ここは、もうだめ」
 その声は、淡々としていた。何度も同じことを見てきた者の声だった。
 私は、唇を湿らせた。
「君、名前はなんていうの?」
「ミオ」
「家族は、いる?」
 ミオは、目を伏せた。答えは、それで十分だった。

*	*	*

 ビルの奥には、崩れた管理室のような部屋があった。電気は来ていなかったが、壁際の配電盤に非常用の小型電源がつながっていて、奇跡みたいに赤いランプだけが生きていた。私は、扉をこじ開けて中へ入り、ほこりをかぶった無線機を見つけた。使えるとは思わなかったが、ノイズだけでも鳴れば何かの手がかりになるかもしれない。
 何度か叩き、配線をいじり、レバーを回す。最初は砂嵐のような音だけだった。私は、半ば諦めかけていたが、不意に、その向こうから人の声らしきものが混じった。
『……こちら……応答できるなら、繰り返して』
 私は、無線機に顔を寄せた。
「聞こえる。こちら都市北部、A区。応答者を確認したい」
 ノイズの合間に、女の声がした。疲れているが、言葉の選び方は妙に整っていた。
『私は、三崎。旧中央研究棟にいる。あなたは、一人?』
「子どもが一人いる。今、妙なものを見た」
 私は、早口になっていた。人の形のものに襲われたこと。それが溶けて粘液になり、茎のようなものを立て、茶色い塊を作ったこと。空から現れた黒い岩みたいなものがそれを吸っていったこと――話しながら、自分の言っていることが、ますます悪夢じみていくのがわかった。
 しかし、三崎は、笑いもしなければ、驚きもほとんど見せなかった。
『ついに、そこまで来たのね』
 私は、ぞっとした。
「知っているのか」
『知っているわ。正確には、知っていたはずだったものを、やっと現実として受け入れた』
 声の向こうで、紙をめくるような音がした。それは、あるいは咳だったかもしれない。
『死者が蘇ったのではないの。変異した細胞性粘菌が、死体を利用して動いているのよ』
 私は、無線機を持つ手に力が入った。ミオが黙って私を見ている。
「粘菌が、人を?」
『もともとは、軍の研究よ。戦場で失われる情報を回収するための生体媒介として改造されたの。死者の神経組織から、記憶の断片を読み出す。そういう道具』
「馬鹿げている」
『ええ。馬鹿げている。でも、戦争の終盤、人間はだいたい馬鹿げたことしか思いつかなくなったの』
 私は、反論できなかった。
 三崎は続けた。
『細胞性粘菌は、単純な生き物に見えて、集合すると驚くほど複雑な挙動をする。経路の最適化も、環境への適応もする。そこに神経パターンの読み取り機能を持たせたのよ。最初は死体だけを対象にしていたのに、すぐに、生体の方が鮮度の高い情報源だと学習したのね』
 私は、思わず吐き気を覚えた。さっきの連中が、飢えではなく情報を求めて襲ってきたのだとしたら、あまりにも気味が悪い。
「じゃあ、あれは、人を食っていたんじゃないのか?」
『食っていたのと同じよ。元の人間の細胞が死んだら、同じ』
 その言葉が、妙にまっすぐ胸に刺さった。私は、返事ができなかった。
 しばらく無線の向こうで微かなノイズだけが鳴った。やがて私は、先程の黒い塊について訊ねた。
「あの黒いのは、何だ?」
 三崎は少し間を置いてから答えた。
『私たちはアーカイブ・コアと呼んでいた。地上で集めた情報を保存するための中枢よ。少なくとも、そう理解していた』
「軍の兵器か」
『違う。少なくとも軍が一から作ったものではない。前からあった何かを、誰かが掘り起こしたのだ。地球外由来だという説も、人類以前の遺物だという説もあった。確かなことは分からない。ただ、文明が崩壊する段階になると起動するよう設計されていたの』
 私は、苦笑に似た息を漏らした。
「ずいぶん都合のいい墓碑だな」
『そうね。人類が滅びるとき、せめて何者だったかを残すための箱よ。けれど、救助船ではない。保存庫よ』
 保存。私はその言葉を頭の中で転がした。あの黒い岩に吸われていくものが、ただの胞子ではないのだとすれば、そこに収められるのは記憶なのだろうか。感情や景色や、誰かの声の調子まで……。
 ミオが、小さく言った。
「お母さんも、あれに持っていかれた」
 私は、顔を上げた。
「見たのか」
「うん。追いかけてきた。もう、お母さんじゃなかった。最後に溶けて、上に行った」
 ミオは、泣いていなかった。泣きすぎて涙が枯れたのかもしれないし、長く一人でいたせいで、感情の出し方を忘れたのかもしれない。
「だから、もう、どこにもいない」
 私は、何かを言おうとして、やめた。あの黒いものに記録されているなら、消えたわけではない、と。そんな慰めは、まるで意味がない。
 三崎の声が、再び無線機からした。
『聞いて。あなたに頼みたいことがある』
 私は、警戒した。
「何だ」
『その位置から東へ二キロほど、旧中央研究棟の地下に補助サーバーが残っている。まだ生きているなら、その中の保存データを起動して、アーカイブ・コアへ送ってほしい』
 私は、思わず笑った。乾いて、ひどく嫌な笑いだった。
「冗談だろ。私は、人を探しているんだ」
『人は、もうほとんど残っていない』
「ほとんど、ってことは、いるんだろう」
『探してどうするの』
 三崎の声は、冷たくなかった。むしろ、冷たくなれないまま、何かを切り捨てている声だった。
『この世界はもう交代してるの。今さら延命しても、種としては終わりよ。せめて何を考え、どう生きたかを残すしかない』
「そんなもののために、わざわざ死地に潜れって?」
『そんなもの、ではないわ。滅んだ文明の記録を残す、最後の機会なのよ』
 私は、無線機を睨んだ。相手の顔なんて見えるはずもないのに。
「私は、まだ諦めてない」
『私は、諦めたんじゃない。見切ったのよ』
 それきり、少し長い沈黙があった。外で風が鳴った。灰がどこかの隙間を滑っていく音がした。
 やがて三崎は咳きこみながら、低く言った。
『研究棟へ行けば、あなたもわかる。行くかどうかは任せる。でも、東へ向かう途中で同じものに何度も襲われるくらいなら、先に仕組みを知った方がいい』
 通信は、そこで途切れた。何度呼びかけても、返事はなかった。
 私は、無線機の電源を切らずに、しばらくその前にしゃがんでいた。仕組みを知ったところで、終わった世界が元に戻るわけではない。けれど、知らずに歩くのは、暗闇を目を閉じて進むのと同じだとも思った。

 ビルの上の方へ出ると、遠くが見えた。壊れた街路樹の向こう、崩れた高層建築の切れ目の彼方に、何か巨大なものが動いていた。最初は、煙の歪みかと見えたが、違った。
 長い首のようなものが上がり、背中がうねる。さらに隣にも、そのまた向こうにも、別の巨体がある。どれもゆっくり歩いていた。暴れてはいない。街の残骸の間を、昔からそこを通る権利があったみたいに進んでいる。
「怪獣だ……」
 思わずそう口にすると、ミオは不思議そうな顔をした。
「前から、いる」
 前から。私は目を細めた。戦争のあと、放射線や兵器や生態改変の噂は山ほど聞いた。しかし遠目に見たその影は、そんな説明を蹴り飛ばすほど大きかった。あれは、災害というより、新しい動物だ。
 私は、急に、世界が終わったのではなく、人間の番が終わっただけなのだと知った。

*	*	*

 研究棟へ向かう道は、地下鉄の通気口や陥没した道路で寸断されていた。私とミオは夕方までかけて瓦礫の間を縫った。途中で何度か、人の形をしたものを遠くに見たが、近づく前に避けた。もう正体がわかっている。下手に戦って消耗する理由は、ない。

 旧中央研究棟は、病院と研究施設を足して二で割ったような建物だった。上層部はほとんど崩れていたが、地下へ続く非常階段の入り口だけが辛うじて残っていた。扉は重く、赤茶けた錆で縁どられていた。押し開けると、冷えた空気が流れてきた。地上の灰臭さと違って、地下の空気には湿った土と薬品の気配が混じっていた。
 懐中電灯をつけて降りる。
 コンクリートの壁に水の跡が筋になって流れ、配管には半透明の膜のようなものが張りついていた。最初はカビかと思ったが、光を当てるとゆっくり脈打つのが見えた。私は足を止めた。
「触るな」
 ミオに、そう呟いた。
 階段を降りるにつれ、その膜は太く、複雑になっていった。壁だけではない。床の隅を這い、天井から糸のように垂れ、壊れた照明器具に絡みつき、まるで建物そのものの神経になったみたいだった。人型をとらなくても、もう十分に、ここを支配していた。
 地下二階のフロアに出ると、通路の先に小さな非常灯が一つだけ点いていた。その青白い光の中で、粘菌の網は、ほとんど血管のように見えた。
 私は、喉の奥を硬くしながら進んだ。途中、観察室らしい部屋の窓ガラスの内側に、乾いた影がいくつか倒れているのが見えた。人骨ではない。もっと形を保ったまま中身だけが失せた何かだ。私は、見ないふりをした。
 サーバールームの扉には「補助記録区画」と剥げかけた表示が残っていた。電子ロックは死んでいたが、非常用の手動レバーでこじ開けられた。中には背の高いラックが並び、古いサーバー機器が灰色の箱のように積まれている。奇跡的に、一部は、まだ通電していた。低い唸りとともにランプが点滅している。
 私は、操作卓の埃を払い、電源を確かめた。ミオは部屋の入り口近くに立ったまま、壁の外の気配を見張っている。
 画面は、しばらく真っ黒だったが、やがて古い起動画面が浮かんだ。文字列が流れ、保存領域の一覧が出る。
 私は、息を詰めた。学校記録。医療記録。住民台帳。音声ログ。生活映像。軍通信。一部は破損しているが、膨大な断片がまだ残っていた。
 私は、指を震わせながら検索欄にいくつかの名前を打ちこんだ。家族の名前。何年も口の中で繰り返してきた名前だ。ヒット件数が出る。けれど詳細の大半は壊れていた。画像ファイルも途中で欠けている。何度も開き直し、やっと一つだけ、短い映像が再生された。
 食卓だった。古びたテーブル。湯気の立つ皿。笑い声。画面の端から小さな手が伸びて、箸を取ろうとして失敗し、誰かが笑う。たった数秒だ。
 そこにいた――その数秒だけ、私の知っている時間が戻ってきた。
 私は椅子に座ったまま動けなくなった。胸の奥で、何かが焼けるみたいに痛んだ。映像が止まり、ノイズになっても、私はしばらく画面から目を離せなかった。
 無線機が、卓の上で突然ざらついた。
『見つけたのね』
 三崎の声だった。どうしてわかったのか訊く気にもなれない。
「断片だけだ」
『断片で十分よ。人間の生は、たいてい断片でしか残らないもの』
 私は、苛立って言い返した。
「だから送れと? あの黒い岩に?」
『全部とは言わない。送れるものを送って。地上のネットワークは、ほぼ死んでる。ここが最後の大きな塊なの』
「送ったらどうなる?」
『アーカイブ・コアに統合される。少なくとも消失は免れる』
「免れる?」
 私は、笑った。自分でも驚くほど低い声だった。
「それで何になる。箱に詰めて、どこかの誰かが後で眺めるのか? あれに吸われたって、その人が戻るわけじゃない」
 三崎の息が、向こうで少し詰まった。
『戻らないわ。でも、無かったことにも、ならない』
 私は、黙った。画面の隅で、凍った笑顔が止まっている。確かに、消えてしまうのと残るのでは違う。違うとしても、その違いは、今ここで飢えて死ぬ人間を救うことはない。
 三崎は、しばらくして、ぽつりと言った。
『本当のことを言うわ。私は、もう助からない』
 私は、目を上げた。
『ここにいる研究員は、みんな時間の問題だった。最初に粘菌を使おうとしたのは私たちだもの。報いと言われたら否定できない』
 咳が続く。無線の向こうで、液体のような音が混じった気がして、私は、背筋が冷えた。
『だから最後まで合理に賭けるしかないの。人類そのものがもう延命不能なら、せめて痕跡を残す。それしかないの』
「痕跡だけ残して、誰が救われる?」
『あなたが今、その映像を見て、動けなくなっているでしょう』
 私は、何も言えなかった。
 そのとき、ミオが小さく叫んだ。
「来る」
 私は振り返った。通路の向こうの青白い非常灯が、何かに遮られて明滅している。床を這うものの音がした。ずるずる、ぬるりと、まとまった水が斜面を登るような音だ。人の足音ではない。もっと多くて、もっと無数だ。
 壁の隅から、半透明の塊があふれこんできた。床を覆い、配線の穴から染み出し、天井の継ぎ目から滴る。ところどころに人の顔に似た凹凸が浮かんでは消えた。口だけ、瞼だけ、鼻梁だけ。記憶の残滓が表面に焼きついているようで、見ているだけで正気が削られる。
 私は、理解した。こいつらには悪意すらない。ただ集めるだけだ。死体も、生者も、声も、景色も、区別なく。世界が手のひらの砂をかき集めるみたいに、人の記憶をまとめていく。その仕組みの巨大さと無感動さに、私は、怒りと恐怖を同時に覚えた。
 操作卓には選択肢が表示されていた。アーカイブ転送。コア接続遮断。非常燃焼。どうやらこの区画は、最後に自壊させるための機構まで備えているらしい。
「送って」
 三崎が、言った。
 ミオは首を振った。
「だめ。壊して」
 二人の声が、同時に私を引いた。
 私は、画面を見つめた。
 全部を送れば、人類は丸ごと箱に詰められる。善も悪も、温度も冷たさも、そのまま、あの黒い無口な岩の中へ。
 だが、それは、違う気がした。あれは保存であって、継承ではない。丸ごと封じることは、誰にも手渡さないのと同じかもしれない。
 粘菌の波が、サーバールームの床へ流れこんできた。鉄の棒を握る手が汗ばむ。足元近くまで透明な膜が迫る。時間がない。
 私は、深く息を吸った。肺の奥が痛い。
「三崎」
『何?』
「全部は送らない」
 無線の向こうで、何かがきしんだ。
「家族の声、子どもの記録、授業の音声、日記、笑い声。生活の断片だけ送る。命令書も兵器の仕様もいらない。人類の骨じゃなく、温度だけ残す」
『それでは不完全よ』
「人間なんて最初から不完全だ」
 自分で言って、妙に腑に落ちた。完全な記録は墓だ。不完全な伝達だけが、生きたものの形をしている。
 私は、必要最低限のカテゴリを選択した。生活映像。個人音声。教育記録。手書き文書のスキャン。医療のうち、死因ではなく出生と成長の記録。画面の転送量表示が走り始める。上部のランプが点滅し、どこか遠くで機械が唸った。
 同時に、私は非常燃焼系の起動コードを打ちこんだ。三十秒後、この区画は熱と薬品で焼かれる。コアへの継続接続も断たれるはずだ。
『あなた、何を』
「回収し続ける仕組みはここで止める」
『それでは、この先の記録が』
「人のことを全部、あれに持っていかせる気はない」
 三崎は何か言いかけ、そしてやめた。長い沈黙の後、掠れた声で言った。
『……そう。なら、せめてちゃんと逃げて』
 転送完了率が上がっていく。粘菌の波は卓の脚に触れ、表面を這い始めた。私は鉄の棒でそれを払った。手応えはほとんどなく、ただぬめりが飛ぶ。ミオの手を掴む。
「走るぞ」
 扉へ向かう。通路は半ば粘菌で埋まっていた。
 私は、棒で床を打ち、配管を叩き、少しでも進路をこじ開ける。ミオは身軽に私の後を追った。壁から伸びる糸のような膜が腕に絡みつく。払いのける。階段へ飛びこむ。後ろで低い警報が鳴り始めた。
 上へ、上へ。何段上ったかわからない。呼吸が切れ、肺が裂けそうになる。ミオの小さな足音だけが頼りだった。
 地上へ続く最後の踊り場に出たとき、建物全体がごう、と鳴った。地下から熱風が突き上げ、背中を押す。次の瞬間、床の下で何かがはじけた。白い煙と焦げた匂い。粘菌の網が焼けると、妙に甘ったるい臭いがする。
 私たちは、扉を蹴るようにして外へ転がり出た。

*	*	*

 地上の空気は冷たく、灰の味がした。後ろで研究棟の一部が沈みこみ、窓のない壁にひびが走った。空へ向けて、黒い粒子のようなものが少しだけ舞い上がったが、さっきの黒い岩のような塊は現れなかった。少なくとも、この区画はもう働かないのだろう。
 私は、地面に手をつき、激しく咳きこんだ。吐きそうだった。
 ミオも、膝を抱えてうずくまっている。しかし生きていた。

 少し経ってから顔を上げると、夜が薄れていた。東の空が鈍く白み始めている。灰の雲の向こうで、朝が来る準備をしていた。
 そして、遠くの平地に、またあの巨影たちが見えた。
 今度は、はっきり見えた。長い尾で地面を払うもの。重い前肢で瓦礫を踏み越えるもの。背に岩山みたいな隆起を並べたもの。どれもゆっくりと、静かに歩いている。街を壊そうとしているわけではない。壊れた街など、彼らにとってはもう地形の一部でしかないのだろう。
 私は、その光景を見ながら、胸の中に妙な静けさが広がるのを感じた。
 恐怖はある。しかし、それだけではない。あれは終末の象徴ではなく、次の秩序の始まりだ。彼らは、人間のいなくなった地表へ、次の主役として現れているのだ、と思った。
「この星の次の支配者は、あいつらだな」
 私は、半ば独り言のつもりで言った。
 ミオが隣で空を見上げた。
「支配者って?」
 私は、少し考えた。
「……その世界に適合したものだ」
 ミオは、それを理解したのかしないのか、ただ怪獣たちの歩く方を見つめていた。朝の薄明かりの中で、その横顔は年相応の子どもにも、妙に古い何かにも見えた。
 無線機は、もう沈黙していた。三崎がどうなったのか、私は知らない。たぶん知ることもないだろう。地下で送った断片が、本当にどこかへ届いたのかも確かめようがない。それでも、全部を箱に詰めて明け渡さなかったことだけは、自分で選んだと言えた。
 私は、立ち上がった。足が震えたが、立てた。鉄の棒はまだ手の中にある。最初はただの武器だった。それがいつの間にか、まだ自分がこの世界に触れている証拠みたいになっていた。
「どこ行くの?」
 ミオが聞いてきた。
 私は、怪獣たちの向こうではなく、別の方角を見た。崩れた街の、その先の、まだ見ぬどこかへ。
「歩けるだけ歩くさ」
「人を探すの?」
「そうだな」
 私は、少し笑った。笑う筋肉がまだ残っていたことに、少し驚いた。
「誰かがまだ生きてるなら探す。いなくても、話せることは残ってる」
「何を」
 私は、空を見上げた。黒い岩は見えない。灰の切れ目の向こうに、薄い青が覗いていた。
「変な生き物の話とか」
 ミオは、初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
 朝の光はまだ弱く、世界は相変わらず瓦礫だらけだった。
 たとえ、怪獣の時代が来るのだとしても、それで人類が無かったことになるわけではない。誰かが誰かに語ったこと、笑ったこと、食卓で箸を落としたこと、そういう小さな断片は、たぶん箱よりもしぶとく、別の形で残っていく。
 灰の降る朝の道を、私は歩いた。隣にはミオがいる。
 そして、私の胸の中には、数秒だけ再生された古い食卓の笑い声が、まだ消えずに残っていた。
 
(了)


後書き:これは、『【短編ホラー小説】リビング・デッド・イズ・ノット・デッド|nazomura』の元になった、コロナワクチン副反応時に見た悪夢そのものを元に書いたホラーです。R指定モノですね。元は、「壁を這う蟲」「空を飛ぶ岩と怪獣」「ゾンビ」……みたいな感じの場面の夢だったので、それをつなげてまとめてみました。ちょっと、リビングデッド……の方の設定も入れた感じです。


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