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短編小説『ダッチワイフはビニール羊の夢を見るか?』

zine『ビニール袋』に寄稿していた作品です。

機会をくださったY氏に感謝を。


※この物語はフィクションです。
実在の人物、団体、その他諸々の事物とは関係ありません。


【ビニール袋】びにーるぶくろ
塩化ビニル樹脂製の袋。または、ポリプロピレンなど塩化ビニル樹脂以外の合成樹脂でつくられたものも含め、耐水性のある袋全般を指していうこともある。→ポリ袋
[デジタル大辞泉より]

「マンハント2」の記事における「ビニール袋」の解説
顔に被せて相手を窒息死させる。もしくは、視界を奪ってから首をへし折る。装備時に壁や敵を叩くと壊れてしまう。[ウィキペディア小見出し辞書より]

レジ袋はビニール袋と呼ばれがちだけど誤用。レジ袋はポリエチレン(PE)またはポリプロピレン(PP)。
[Twitterにあったどこぞの誰かの呟きより]


面積約75km²、人口およそ70,000人。5kmも行けばそこはもう村で、古びたボーリング場と忘れ去られた様に雑草がちらほらのテニスコート、巨大なプール以外特に目立った娯楽施設はないが、美容院と学習塾と歯科医だけ異様に多い。「この町で一番美味い飯屋はマクドナルドだ」と奥山は言った。そんな萎びた町。俺の育った町。

朝食のベーコンエッグは取り出そうとした時にフライパンの上で黄身が破れた。半熟の黄身をベーコンに絡めることを昨晩から楽しみにしていた身としては納得し難いが、もう一度焼くのは億劫だった。数年前にくたばった親父だったら母親に焼き直させていたであろう不格好なベーコンエッグもどきとトーストを皿に乗っけて、定位置につく。テレビのローカルニュースでは市内のビニールハウスでビニールが切り取られて持ち去られる事件が流れていた。鉄が盗まれて売り買いされるなんて話は聞いたことあるが、ビニールハウスのビニールにそういった需要があるとは思えなかった。犯罪学者やら警視庁捜査一課のOBやらがそれらしい仮説を話している。他の農家による嫌がらせ説や果物を狙った犯行説だとか。それに対してアナウンサーとタレントがオブラートに包み過ぎて却って飲み込み辛くなった様なコメントを交わす。誰の言葉もいまいちピンとは来なかった。チャンネルを変えようかと迷っていると次のニュースが流れた。市内で起きた交通事故のニュースだった。夜中になるとスピードを出す車もよく見かける通りだった。女性が1人亡くなったらしい。年齢は35歳。俺の3つ上。顔は市内で見た事ある気がするが、知らない名前だった。

「走るダッチワイフ?」
俺は自分の耳を疑って訊き返した。
「そう、走るダッチワイフ」
勤めて5年になるぶるぼん堂(半分以上がアダルトビデオとアダルトグッズを扱う古本屋で、風俗店のない田舎町のエロライフラインの一つ)の店長佐藤は今日入った商品を陳列しながら、さも古くからその言葉を知っていたかの様に淀みなく「走るダッチワイフ」と繰り返した。
「それは新商品か何か?」
と俺は訊く。年々技術が発達して肌ざわりやおっぱいの柔らかさが進化してきているとは聞くが、ダッチワイフが走ることに何かメリットがあるとは思えなかった。そして俺は準備万端でダッチワイフに逃走される裸の男を夢想する。ただでさえダッチワイフに相対する男にはなんらかの哀愁を感じるものだが、それに更に拍車が掛かる。
「違う違う。噂噂。ここから北に少し向かうと廃墟があるだろう。団地か何かの。あそこに夜な夜な出るらしいんだよ。そういう話好きだろう?」
「そういう話?」
「幽霊とか都市伝説とか。昔オカルト雑誌のライターだったって前に言ってたじゃないか」
「あいや、違う。ムーに読者投稿で写真やら文章やらを送っていただけです」
佐藤はどっちでも良さそうに頷いて話を続ける。
「まぁそんなせいか、ここ数日ダッチワイフの売れ行きが良い」
確かにここ数日で2回買い求める客に対応した。明らかに新記録だ。
「関係あるんですか?普通売れなくなりそうだけど」
「そもそもなかなか売れない商品だからね。寧ろ変な層が食いついているのかもしれない。僥倖、僥倖。ダッチワイフが動いたら皆嬉しいからね」
そう言って佐藤はダッチワイフの箱を叩く。嬉しいか?俺は正直怖い。その直後、入店音が響き渡る。佐藤がいつになく場違いで威勢の良い挨拶をする。俺たちの作業しているスペースからは客の姿は見えないが、きっとギョッとしたことだろう。そういう挨拶をする店じゃない。
「そうそう、あの廃墟、もう暫くすると改装してしまうらしいから、噂を確かめるなら早いうちだよ。昼間はもう業者入ってるらしいから、忍び込むなら夜だね」
「そんなイリーガルな。行かないっすよ」
俺はそう言いつつまんざらでもなく、いつ廃墟に行けるか頭の中の予定表を確認した。ヘイ!頭!今月の予定は?白紙だった。だから俺には手帳も要らない。

「この時期にアロハシャツを探してるの?」
地元のリサイクルショップナスビーズで古着コーナーからアロハシャツを引っ張り出している俺に、中学の同級生、久保田秋(クボタ・アキ)が声を掛けてきた。黒髪ショート、ナチュラルメイク。中学時代のギャルメイク、ギャルファッションを知る俺としては、この年齢と時代に合わせた変貌ぶりに驚かされる。男でこういう変化を見せる奴は珍しい。大抵学生時代のなんらかを引きずって痛いおじさんになりがちだ。ギャルと言えば昨今ブームが一周回ってきて、昔のギャルを真似たリバイバルギャルがこの辺りの高校にも生息している。よく考えれば秋がいつギャルになり、そしてギャルを辞めたのか思い出せない。
俺は質問に答える。
「面倒だから年中アロハにしたんだよ、選ぶ手間が省ける。皆が服を選ぶのに四苦八苦している朝、俺は眠る」とレザージャケットの下に着たアロハを見せる。
「寒くない?」
「上着は着てるだろ」
「それでも寒い」
信じられないといった顔で秋が片眉を吊り上げる。外見に関してはまだまだ20代と言えるが、体感温度的加齢には勝てないらしい。よく考えれば秋は年中生脚で歩いて地元老人のただでさえ見えない目を盗んでいた記憶があるが、最近はめっきり見なくなった。
「季節外れと言えば、子供用のビニールプールを買って行くやつもいるんだよね」
「どんなやつ?」
「同級生だよ」
「ってことは俺も知ってるやつ?」
「いや、高校の同級生だから、あんたは知らない。そう言えばあんた、やたら遠い高校行ってたよね。何処だっけ。進学校じゃなかったっけ?」
「うるさいよ」
「随分燻ったね」
秋の嘲笑がムカつく。俺はなんとか話題を戻したかった。
「それでそのプールを買っていく男は、室内で子供でも入れてやるのかな?」
「あいつに子供なんかいるはずない。気持ち悪い」
他人の悪口なんか聞きたくない俺は更に話題を変えた。
「お前もここに勤めて長いよな」
と秋の使い込まれたエプロンを見て言う。秋は時代を遡る様に目を回す。
「もう勤めて10年だね。ずるずると」
結婚とかしないのか?と無意識に質問しそうになって寸でのところで飲み込む。流石にデリカシーのない質問だとたまに風呂をサボる俺でも見当がついた。
「あんたは相変わらずあの如何わしい古本屋?」
「そうだよ。今日も町の男たちのリビドーを肌で感じてきた」
「うえ、キモいって。あんたが相手しているみたいじゃん」
「確かに」
秋は想像の中、鼻息を荒くして俺に欲情している町のおっさんか、それとも女物のランジェリーを纏った俺(おっさん)が町のおっさんの性欲処理に従事している姿、どちらにより高度なキモさを感じているだろう。キモがられついでに訊ねた。
「走るダッチワイフって知ってるか?」
「走るダッチオーブン?」
「ダッチワイフ」
「セックスドールか。知らないよそんなの。なにそれ?」
「最近廃墟に出るらしいんだよ。そういう都市伝説」
「女装家ならよく見るけど。ほら噂をすれば」
自動ドアが開いて金髪のヅラにばっちり濃い目の化粧、チューブトップと毛皮のジャケット、タイトスカートに網タイツを装備した女らしきソレが入って来る。一瞬は女性に見えるが、よく見ると肩や関節がゴツゴツしている。美脚なのが却って腹が立つ。
「アレだって寒いだろ」
「まぁね」
「アレはレザースーツとか着るの?」
「レザースーツ?」
「峰不二子とかキャッツアイ的なやつ」
「キャッツアイはレオタードじゃなかったっけ?」
「そうか、でも分かるだろう?」
「分かる。着てきたことあるかも」
走るダッチワイフ第一容疑者発見だ。こいつがレザースーツをまとって走り回っているのかもしれない。そう考えた所で、秋の質問がまた違った角度で俺を殴った。
「ところであんたは結婚とかしないの?」
数十秒前のデリカシーに関する逡巡が虚無へと還る様に涙を流しそうになるが、俺はその涙すらも飲み込んで、「する様に見えるかい?」と辛うじて持ちこたえる。
秋は答える。
「町を見ていて思うけど、どんなに不細工でも基地外じみていても小汚くとも、大抵のおっさんは結婚してる。だから、そういう意味で言えば見えなくはない」
「それはフォローか?」「かもね」
俺がアロハ2枚を持ってレジへ向かうと秋はカウンターの内側に回る。
「あんた無頓着って感じだけど、顔は悪くないよ」
「それはフォローだな?」
「そうだね」
二着のアロハの合計金額がレジスターに表示された時に、売り場で探すべきものがあったのを思い出して秋に訊ねる。
「ここって喪服はあるか?あとそういうシャツとネクタイ」
秋が皮肉めいた笑みを浮かべる。
「中古の喪服って縁起悪くない?」
「他人様が死んだ時点で良くはない」
秋は肩を竦めて売り場に向かった。俺はそれについていく。葬式に使えそうな諸々はそこにあった。

秋が丁度定時だと言うので車で送ることになった。
「悪いね」
秋が助手席に身体を滑り込ませながら言う。
「ドクペ一本」と俺。
「よく飲めるね、あんな薬みたいなの」
「あんなウマい薬が出るなら小児科だって楽しかったろうよ」
サイドブレーキを下ろす。俺はあまり器用な方じゃないから、運転を始めると言葉がなかなか出なかった。何か話題を探そうと五感を澄ませると秋の香水が鼻をかすめる。普段秋に対して何かそういった気を起こすことはないが、助手席に乗せているというシチュエーションによって、単純な俺の頭に一瞬秋の裸が過ぎる。ますます変な台詞しか出てこなさそうだ。そうこうしていると秋が沈黙に耐えかねたのか勝手にオーディオのネジを捻り出す。助かったとも言える。周波数が表示され、ぼそぼそとした若い男の声がスピーカーから発せられた。どうやらラジオの人生相談のコーナーらしく、友達が受けているいじめについて話しているらしい。女子によるいじめだ。その声にどことなく聞き覚えがある気がした。それを思い出そうとしていると秋が口を開いた。
「アタシたちの学年っていじめとかなかったよね」
そう問われて記憶を遡る。しかし正直なところ、俺は付き合いの良い方ではなかったから、学年全体でどういう人間模様が広がっていたのか皆目見当もつかなかった。
「分からないな。そうとも思えるし、そうでないとも思えるし」
俺がそう言うと秋は怪訝そうな声で、
「あんたってハルキストなの?」
と言った。
「ハル?なに?」
「羊を巡る冒険とか、ねじまき鳥クロニクルとか」
「RPG?そういうゲームはあまりやらない。でもゲームは好きだよ。野々村病院の人々とか」
「それは患者を診察していくゲームなの?」
「入院した探偵が院長死亡の謎を追っていく」
「へー、面白そう。今度貸してよ」
いろとりどりのナースとムフフなことになる点を黙って貸したら、こいつはどういう反応を示すんだろう。それとも、女の場合家庭用ゲーム機範囲のエロ描写なら、男みたいに騒がず難なくスルー出来てしまうんだろうか。興味が湧いた。
「セガサターン持ってるのか?」
「あるよ。メガドライブもネオジオも」
「マジか!?」
「中古屋なめんな」と秋が笑う。
さっきとは違う目的で秋の家にお邪魔したくなってきた。そんな俺の目の色を察したのか、秋はとびきり艶やかに、「アタリもある」
と低く囁いた。弾けるシナプス。記憶の引き出しが一斉に開き出す。ハリーポッターがオリバンダーの店を訪ねた際、一本目の杖を握った時のバタバタみたいだ。幼い頃親戚のゲーマーニキが披露してくれたゲームコレクションが走馬灯の様に記憶の回路を走り回り、身体の奥底から熱いものが込み上げてくるのを感じた。ラジオは宇宙人の話題に切り替わっている。俺は夢遊病患者みたいに秋の実家である松屋家の門を潜り抜け、秋の自室へ招かれた。
そして俺達はこの後めちゃくちゃゲームした。
ヤーズリベンジ、メタルスラッグ、バーチャファイター。クラッカーとオレンジジュース。夜通しゲームをしたのはいつぶりだろう。気付いたらカラスが鳴いていた。朝だ。
「そろそろ帰るよ」
秋の淹れたコーヒーを飲み終えたところで俺は上着を手に立ち上がる。
「また来なよ」
いつの間にか部屋着姿になっていた秋が寝ぼけ眼で手を振る。俺も手を振る。外に出ると朝の冷たい空気が心地よかった。

自宅。顔を洗ってひと眠りしてまた顔を洗い、冷凍ピラフ二人前を平らげると、俺は少し埃っぽい喪服に袖を通した。髙橋家式場と書かれた案内板の矢印の通り右に折れ、少し進んだところにセレモニーホールはあった。血縁関係以外の葬儀に参列するのは初めてだった。アロハ慣れした首元が些か苦しい。
髙橋光樹(タカハシ・ミツキ)。彼とは同い年だったが同じ学校にいたことはない。小学生の頃、たまたま公園で出会って遊ぶようになった。あの頃はその場限り遊ぶ相手がたまにいた様に思う。そんな中、光樹は印象的だった。特異な外見をしていたというわけではなくて、自然と好印象を持っていた。こういう無意識の相性というのはある気がする。電車で見かけただけで仲良くなれそうだと思えたり、逆に初対面で愛想が良かろうと酷く憎いケースもある。彼とは趣味も合った。散歩が好きで、工業地帯、団地、廃墟を歩き回って、駄菓子屋でチェリオを飲み、ムーを読んではあーだこーだと議論した。家に行ったこともある。
しかし光樹の母親が俺のことを覚えていて、俺の実家の電話番号も記録していたことには驚いた。なんせ俺とあいつは16年は会っていない。俺も詳しくは知らなかったが、光樹は16年前、今の年齢の半分、俺たちが16歳だった頃突然入院することになって俺の目の前から消えた。見舞いに行きたいと彼の母親に申し出たことがあったが、やんわりと断られた。待てど暮らせど光樹は戻らなかった。俺はあいつが何の病気だったのかもしらない。当然どうして死んだのかも。見舞いはダメで、16年経った今、葬儀には呼ばれたことも不思議だった。
「自殺なんてね」
式場入り口近くにいたグループの囁きが漏れ出て俺の聴覚に染み込んでくる。耳をそばだてる。断片的に聞こえてきた言葉。「ぼしかてい」「せいしんびょういん」「とうごうしっちょうしょう」「びにーる」「くび」。そうか、光樹は精神病院に入院させられていたのか。それなら見舞いを断られたのも頷ける。そして自殺。これも納得しないと言えば嘘になる。ふと光樹が時折見せた危うさを思い出す。彼は身体が薄く、色素が薄く、影の色も薄く見えた。俺に来た早めの、そしてなかなか去ることのなく今に至る厨二病は、そんな髙橋光樹という存在を何処となく神秘的なものとして捉えていた。象徴的なエピソードがある。俺は光樹がいなくなる少し前まで時間を巻き戻した。

俺と光樹の最期の夏。何処だったか。
探索を終えて、屋上へ出た。太陽が高い。長袖の光樹。
「好きな子がいるんだ」と光樹は屋上の端に立って言った。
光樹は素っ気なくそう呟いたが、なんだか芝居がかって見えた。そして顔を上げる。
俺は彼がそのまま、そこから飛び降りるイメージをしていた。汗が流れる。その汗を気持ち悪いと感じていた気もするし、その状況をドラマチックだと楽しんでいた気もする。
光樹は太陽、もしくはイメージの中の恋焦がれる彼女に目が眩んでか、身体が後ろに傾いた。
「危ない!」言うが早いか、俺は転落しそうになる彼の腕を掴んでいた。袖が少しめくれて、無数の痣が見える。俺は誰がつけた傷か瞬間的に考えていた。
「ありがとう。死ぬところだった」
と光樹が小さく笑う。俺は泡立った肌が気持ち悪かった。三ツ矢サイダーが飲みたかった。
「死んで、生まれ変わった方が良かったりして」と光樹は冗談めかして言った。
笑えなかった。

焼香の順番が回ってきて、棺と遺影、坊さんの背中、木魚。坊さんの身体は空洞で、だからお経はホーミーみたいに聞こえるのか。何故坊さんは魚を叩くのか。遺影はかなり古いものだと思えた。俺が知っている頃の光樹だと思う。光樹の亡骸入りの棺桶を見下ろす。16年ぶりの再会。マッサージの施術台みたいにぽっかり空いた穴から見える顔は、面影はあったが、大きくなって、でも痩せていた。
式が終わり、帰ろうとすると呼び止められた。光樹の母親だ。
「ごめんなさいね、久しぶりの連絡がこんな形になってしまって」
俺は警戒しながら応じる。
「それで、悪いんだけど、光樹の持ち物をいくつか受け取って貰えないかしら?」
俺が黙っていると、
「家に置いておくのが辛いの」と付け加えてきた。
俺の沈黙を合意と受け取ったのか、彼女は家に入って小さな段ボールを抱えて戻ってきた。
「私はこ…よく見ていないの。嫌だったら捨てて構わないから。ごめんなさいね」
俺は俯きがちに家に戻る光樹の母の後ろ姿を見つめていた。
段ボールにはムー、江戸川乱歩、夢野久作の小説、諸星大二郎、伊藤潤二のコミック、ポケットラジオ、懐中電灯、双眼鏡、ノート。タイムカプセルみたいだなと思った。

ぶるぼん堂によく来る少年がいた。名前は知らない。俺はその少年を「少年」と呼び、彼は俺を「おじさん」と呼んだ。少年は15歳だった。身につけている地元高校の、確か秋の母校の、二十年近くデザインの変わらないその制服は、彼の身体に比べて随分と大きい。彼は見たところ身長が160もない。身に覚えがあるが、学生の制服というのはこれから伸びる身長を見越して男子は大きいものを買わされる傾向にある。それが却って彼の小さく痩せた体躯を強調している様に思えた。少年は中古のトレカを一通り見てから漫画を立ち読みし、時たまこっそりとアダルトコーナーの暖簾に目配せする。そんな姿に昔の自分を重ねる。また、たまたま彼が手に取っていた漫画が山本賢治のカオシックルーンだった事をきっかけに俺が声を掛けてみた。それ以来、来店する度に話す仲になった。定期的な対話で分かったことは、彼は大人しそうな外見でありながら案外話好きで、だけど学校に友達がいない。そしてクラスメイトの森岡という人物からいじめを受けているということだった。殴られたり蹴られたり閉じ込められたり。俺は「やり返せ」とか「放っておけ」とか説教くさいことは避けた。またエプロンの腹についたポケットから便利な未来ガジェットを取り出すこともなく、彼の独白に本棚を整理しながら、または多くの場合一服しながら、ただただ相槌を打った。本人が助けを求めていない場合は手を出さない。これはサタニストの教えの一つでもあるが、俺の母親が重んじていたルールでもある。今思えば母親は悪魔崇拝者だったのかもしれない。
その日少年の顔は普段に比べて明るかった。
「何かいいことでもあったの?」
「まぁ、そんなところだよ」
少年の頬には治りかけの傷痕があった。もしかしたら相手を返り討ちにでもしたのかもしれない。
「おじさんって宇宙人とかUMAとかって信じる?」
懐かしい話題だ。
「宇宙人?まぁ半々だな。いてもおかしくない。UMAもものによっては後々正体が分かったりするしな」
「そっか。実はさ、」
ここで俺は思い出したことを少年の声に被せてすかさず質問した。
「そうそう、宇宙人で思い出した。忘れないうちに訊いておきたいんだけど、走るダッチワイフって知ってるか?」
「ダッチ?なに?車?」
「違う。ダッチワイフの噂だよ」
「ダッチワイフ?ダッチワイフってなに?」
少年は心底きょとんとした顔で訊ねる。一瞬R18暖簾の奥に案内して実物を見せてやろうかとも思ったが、その純粋無垢な眼差しに免じて、俺は手を振って質問をやめにした。

「走るダッチワイフ」という都市伝説がそもそもあるのかとネットで検索してみたがそんなものはなかった。ローカルな噂らしい。もしこれから伝播するものだとしたら確かにホットなネタだし、自分で記事にしてムーかオカルトサイトに送るのもやぶさかではない。
以下、夢中になってネットサーフィンをしている内に俺が入手したダッチワイフに関する情報。本編と関係ないかもしれないが、読むとダッチワイフ博士になれるかもしれない。
その昔、中国に竹夫人という暑さを凌ぐ用のひんやりとした竹製の抱き枕があった。それが巡り巡ってオランダ占領下にあるインドネシアへと渡り、オランダ人はそれを大層気に入ったという。それを見たイギリス人が「あれがオランダ人の妻か」と言ったそうな、皮肉を込めて。ダッチ=オランダの、ワイフ=妻、になり、ダッチワイフという言葉が生まれたのだ。そんな揶揄されたオランダ人を気の毒に思いつつ、その後実際に性欲処理用の抱き枕を考案してしまうのもまたオランダ人だったりするので、俺は擁護を諦める。彼らは海上作戦中の性欲処理用に羊の革を使った穴付き枕を拵えた。名前にしろ物にしろ、起源はオランダ人ということになっている。
時を大きく進めて第二次世界大戦。
ヒトラーはパリ占領後、街に巣食う娼婦達を眺めて感染症のリスクを感じていた。そして下々の者に命じたのが「ボーグヒルド計画」。一見格好良さそうな計画名がついているが、実のところ「リアルなダッチワイフを作れ」という計画だ。オリエント工業の職人がタイムスリップすれば、ヒトラーに大層気に入られたかもしれない。そのボーグヒルド計画におけるダッチワイフのコードネームはリリ。しかしその計画は頓挫したという。
「それってリリスから来てるのかな?」
スカイプで作業通話の相手をしていたハンドルネーム__(アンダーバー)が画面越しに高い声を投げかけてくる。
「リリス?そんなバンドいなかったっけ?」
「それって上海の?それともリトルがつく方?マニアックだね。いやいや、バンドの話じゃない。リリスはアダムの最初の妻。イヴの前にね。魔性の娘。淫魔とか魔女とか色々言われてる。確かナボコフの小説にも注釈があったっけ、ロリータの語源と言われてるとか」
「悪魔的少女?」
「男が、自分の思うがままに出来て、感染のリスクも子供が出来る心配もない。それで悪魔的に魅惑的な造形をしているなら、そのダッチワイフにリリの名は相応しいって言えるかもって」
「なんでも知ってるな」
「なんでもは知らないよ。知っていることだけ」
どこぞの物語の爆乳眼鏡(猫属性)が脳裏を過って、今日は後で眼鏡っ子ものを拝見しようかな等と考える。さて、本題ならぬ余談に戻る。
ボーグヒルド計画頓挫から暫くして、日本でも性欲処理を目的としたダッチワイフが登場する。戦後、国家再建と科学技術の復興を世界に示す為、当時の日本は南極という未開のフロンティアを目指していた。その第一次南極地域観測隊が1957年、昭和基地に持ち込んだダッチワイフ。それが南極一号だ。海外での極地探索におけるストレスを鑑みた対策。極寒の地ということもあって、腰の部分に4リットルの湯を注いで人肌にするという心遣いもあったのだが、これが設置されていたイグルー(カナダのイヌイット族が住居としていた氷のブロックを重ねて作ったドーム状の家)に行くまでが寒すぎる点、4リットルの湯を用意しなければいけない点、そして何より見た目のグロテスクさから、南極一号は処女のままその役目を終えたという。
その後昭和40年、お馴染みの空気を入れるタイプのダッチワイフが発売。
当時の触れ込みは「人毛肉質ポルノワイフ」。
「まるでカルトホラーの邦題だね。女の皮膚を剥いで人形を作る男の話とかさ。エド・ゲイン系譜だ。ノーマン・ベイツとレザーフェイスの兄弟分。いっちょ描くかな」と_は笑った。後日Twitterに_の描いた人毛肉質ポルノワイフに出てくる殺人鬼のイメージ画が投稿され、俺が見た時には48個のいいねがついていた。物好きもいるものだ。数日後「ちょっといいなと思ってたコスプレイヤーにブロックされた!」と_から悲鳴の様なメッセージが届いた。

俺は光樹の段ボールに入っていた懐中電灯片手に目的の廃墟へと向かった。時刻は午後11時。誰か連れて来れば良かった。秋とか。若い奴らだって、心霊スポットには男女混合で来てわーきゃーするから楽しいんだ。手を握られたり抱きつかれたり。おっさんが一人で来て握れるのはライトと汗のみというのは哀しすぎる。というか、これを警官に見咎められれば間違いなく長時間コースの職務質問が待っている。俺は慎重に進んだ。気を張って、あまり物を踏まない様に歩くのは疲れる。そんな中何かを踏むと何を踏んだんだろうと足元に妄想が広がる。幸い廃墟内には生体反応が感じられなかった。美味しい食べ物がなければ鼠もいない。飽食の時代、みんな人里で仲良く暮らす。結局何も見当たらなかった。俺は若干のデジャブを覚えながら最後の扉のノブに手を掛ける。三ツ矢サイダーが飲みたい。ここを調べたら帰ろう。温かいラーメンが食べたい。確か家にチリトマトヌードルがまだあったはずだ。あれに冷蔵庫にある6Pチーズを入れよう。それで熱々の熱湯を注ぐんだ。この戦争が終わったら結婚する的なフラグだったりする?俺はノブを回す。難なく開く。チリトマトヌードルの妄想がカビと饐えた匂いで飛ぶ。少しひらけた空間。水の滴る音が響いている。そしてその中央に、大きな花の蕾の様なものが横たわっている。いくつかの色が重なって毒花みたいに鮮やか。懐中電灯の光をてらてらと跳ね返す。どうやらビニールか何かで出来た大きな袋の様だ。何かが入っている。そんな風に膨らんでいた。俺は好奇心に負けていた。子供の頃、竹藪で見つけた薄汚れた袋には、誰かが捨て置いたえっちな雑誌でも入っているんじゃないかと手をかけたあの日。実際入っていた日も思い出していた。その成功体験は脳にキた。自分で自由にエロを入手出来る大人には得られない快感。俺はその頃に戻ろうとしていた。袋の端を持ち上げて開く。そこには人形らしきものが入っていた。俺は噂のダッチワイフかと思ってライトを当てて覗き込む。俺はツインピークスの冒頭、湖のほとりで発見されたローラ・パーマーの遺体を思い出していた。

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