短編怪奇小説『屋台の主』
ホラー系インフルエンサーの間で話題のホラー映画を観終え、映画館を後にする。正直なところ味気なく、途中あまりのベタさに声をあげて笑いそうになるほどだった。ここのところ映画の引きが悪かった。自分が検死なんてことを生業にしているせいで、この手のコンテンツの演出に麻痺しているせいも大いにあった。麻痺するが故にもっと刺激のある恐怖が欲しかった。少し苛立った時の癖で鼻を摩るとポップコーンのバターの香りが指先から鼻をつく。21時を過ぎている。腹が減った。さくっと食べて帰るか、手軽なものを買って帰るか。面白くない映画に2000円を払ってしまったせいか、夕食の予算は抑えたかったが、同時にお口直し的に美味いものが食べたい気もしてきた。繁華街を自宅方向に向かって歩き、何かピンと来るものがあれば、と思うがなかなか決まらない。もう少し安い方がいい、もっとしっくり来るものがあるはずだ、と奥底の欲深い自分が歩みを進めろと脚に信号を送り続ける。そうこうしている内に栄えているゾーンを抜け、徐々に住宅街に来てしまっている。こうなるともうコンビニとチェーンの牛丼屋が一軒あるのみだ。しっくりは来ない。もはや色々が面倒になりつつあった。それでも腹の虫が鳴く。どうしたものか、と思っていると視界の端に灯りがあった。ラーメンの屋台だ。この界隈で見たのは初めてだった。魚介系醤油スープの香りが漂う。そういえばさっき見た映画、冒頭でラーメンを食べるシーンがあったが、あれは美味そうだった。これは良い、と奥底の欲が唾液を垂れ流し始める。俺は屋台に入ることにした。
暖簾を潜ると先客が在った。女が一人、丼を覗き込む様にしてラーメンを啜っている。あまりじろじろ見るのも悪いと思い、視線を店主の方に向ける。
「いらっしゃい」
若い声に驚くが、その外見に更に驚いた。屋台から連想さるる勝手な先入観で頑固そうな恰幅の良いおやじか、引き締まった職人的老人を想像していたが、眉目秀麗な若い優男が寸胴の面倒を見ていた。これほどまでに美しい男を俺は見た事がなかった。女性の一人客がいるのも頷けた。
「ラーメン一つ」
と俺は人差し指を立てた。男はお冷を差し出しながら頷き、手元を忙しなく動かし始めた。隣からは麺を啜る音が続いている。なんとも食欲が湧く。海外の人間からすればこれが不快な音だというんだから文化の違いと言うのは面白い。待っている間、香ばしさの奥を分析してみようと思うが、素人の自分にはよく分からなかった。何か独特のクサさがある。醤油とんこつ系なのかもしれない。魚介だしだけじゃなく、何か動物性の髄の匂いがしている。あとはネギやにんにくに紛れて何かの香辛料を感じる。屋台の佇まいからしてシンプルストレートな中華そばを想像していたが、これは存外凝った一杯をいただくことが出来るかもしれないと喉がきゅると疼く。気休めにお冷を口に運ぶ。よく冷えている。そうやって五感を働かせていると、小さく声が聞こえる事に気がついた。隣からは相変わらず啜る音と咀嚼音が続いているし、となれば店主だろうか。視線を少し上げてカウンターの中を見る。すると店主が寸胴をかき混ぜながら何か呟いているのが見えた。見えたというのは、正直何を言っているかは聞き取れなかったが、その微かに動く薄い切り口の様な唇が見切れたからだ。一時期流行したメイドカフェでは「美味しくなぁれ、萌え萌えキュン」と言いながらオムライスにケチャップを掛け、映画かもめ食堂では「コピ・ルアック」と珈琲を美味しくする呪文を唱えていた。あの類か?呟くというより唱えるに近い印象だった。そのまじない的な行為がなんとも様になる男だ。その寸胴をかき混ぜる様は古の錬金術師を想わせて余りあった。魔術拉麺。オカルトサイトでも人気が出そうだと小学生並みの感想が頭をよぎったところで、店主が湯切りを始めそこからみるみるうちに渾身の一杯が組み上がり、俺の前に据え置かれた。見掛けは非常にシンプルだった。深淵を思わせる黒い濃さだが濁り少なく澄んだスープの中央に麺が行儀良く折重ねられ、脂の乗ったチャーシューが一枚添えられている。小細工のないその見た目にも好感が持てる。まずはスープから、とレンゲを持ったところでスープの底に何かが見えた。黒くて丸い何か。なんだろうと箸先で摘もうとすると、その黒い丸は消えてしまった。溶けきらなかったカエシだろうか。気を取り直してスープを口に運ぶ。口にしたことのない味が広がる。魚介は感じるが、同時に肉の旨味も感じる。そういったラーメンはこれまでにも食べたことがあった。何が違うのか。もう一口飲んでみるが分からない。兎に角麺も食べてみよう。麺を一束摘み上げ、隣の御仁に負けじと啜る。喉越しの良い、風味豊かな卵麺。これは美味い。もっと食べなきゃというある種使命感の様なものを抱き、丼を抱える様にして麺を啜ろうとした、その時だった。麺の合間にやはり黒い丸の様なものが見えた。何か具材だろうかとまじまじと見る。それはまるで髪の隙間から見える瞳の様だった。俺はそいつと目が合う。眼球入りのスープ。そんな言葉が頭を過り、今まで感じていた風味や旨味が生臭さと血の味にすり替わっていく。その目はまた消えた。見逃さない様見続けていると、またその目が現れた。瞬きをしているのだ。そこにまだ居る。俺は自分がおかしくなったのか、薬物でも一服盛られたのかと隣の席に目をやった。丼を覗き込む様にしているが、よく見ると箸もレンゲもカウンターに放られている。何か盛られた。ヤバい店だったのか。「おい」と女の肩を揺すると丼と彼女の顔の間に隙間が出来た。女は麺を啜っているわけではなかった。啜られていたは彼女の方だった。彼女の口からは舌が長く引き出され、丼の中へと引き込まれている。ぞぞぞという音に合わせて女の身体が脈打つ。とうに死んでいるのか土気色をした顔が声を上げることはない。俺は目の前の丼を払いのけ、逃げる様に屋台から飛び出した。悲鳴をあげた気もするし、声が出せなかった気もする。俺は目に入ってきた交番に飛び込んだ。全くのしどろもどろな上に、話が荒唐無稽過ぎるのは自分でも重々承知していたが見たままを話すより他ない。警察官は俺に深呼吸をさせ宥めつつ「兎に角その場所まで案内してください」と言った。察しの良い読者諸君、君たちが考えている通り、屋台はもうそこにはなかった。美形の店主も、舌を引き抜かれた女も、跡形もなく。
「更なる恐怖体験を求めた脳が自らに見せた幻影、ってところじゃないですか?」と助手が偉そうに言う。
「いや、そんなわけはない。素面だったんだ。あり得ない」
「まぁそういう話嫌いじゃないですし、似た様な話が出回ってないか、調べてみますよ。さ、本日のご対面ですよ」と助手がカバーを取る。
そこには知った顔があった。忘れるはずがない。土気色の女の顔だ。その口はぽっかりと開き、喉の奥の深淵があの時の丼の底を想わせた。
