【創作】雨音に溶かす
弦くんを思い出したのは夕方のスーパーマーケットだった。平日の夕方、そろそろ夜に差し掛かろうとしているその頃、暑気払いみたいな通り雨が降って、傘を持っていなかったわたしは雨宿りのために目についたスーパーマーケットに入った。何を買うでもなく店内をそぞろ歩く。早く止まないかな。八月に降る雨はわたしを感傷的な気分にさせてしまう。
客導線に沿って店内の主通路を一周する。汗もひいて肌寒くなってきた頃、ヨーグルトや牛乳、チーズや生洋菓子といった乳製品のコーナーを見ていたら、わたしは突然、弦くんのことを思い出した。
☆
弦くんは小学校のときの同級生だった。偽物の関西弁みたいな話し方をする弦くんは、当時のわたしには正直苦手だった。「元気」を絵に描いたみたいで陽気すぎるし、それを補強するみたいに夏になるとすぐ日焼けしていて、Tシャツの袖の跡と靴下の境目がくっきりしすぎていた。「おれの元気の秘密はこれやで」といって牛乳ばかり飲んでいて、給食のとき、欠席の子がいる日の余りの牛乳はたいてい彼の机の上に置かれていた。弦くんはそれを「元気倍増や!」といって喉を鳴らしながらのむのだった。三本目のときは、ちょっと無理したりして。
弦くんはお父さんとふたり暮らしで、だからときどき、担任の先生から何か特別な気遣いを受けているのを目にしたことがあった。「何か困ったことはない?」人のまばらになった放課後の教室で、先生が訊いていた。「全然ないです。みんな、お父ちゃんと二人でさみしくないかって言うけど、全然そんなん思ったことないです」弦くんはいつもの調子で答えていた。
わたしはそういう弦くんが苦手だった。
わたしのうちは当時、パパとママと姉のすずちゃんとの四人暮らしだった。四人揃って暮らしていた最後の頃で、でももうパパは影が薄くて、ママは家を空ける日も多くて、すずちゃんはどこか冷めていたけれどわたしの「お世話」を怠ることはなかった。「すずちゃんがいるから、さきちゃんの心配もないわね」ママはそういって夜に出かけていくことも増え、わたしはその言葉を聞いてすずちゃんが何を思っているのか心配になりながら、同時にそのばかさ加減に呆れていたと思う。
ママは夜、出かける前にシャワーを浴びる。わたしたちの夕食をテーブルに並べ、洗い物しといてね、とどちらに言うでもなく言ってからまとめてあった髪をほどき、浴室にこもる。洗い物はたいてい、先に食べ終えるすずちゃんがしていた。わたしは食べるのが遅く、おまけに猫舌で、グラタンやシチューなどわたしたちの好きなメニューほどぐずぐずと時間がかかるのだった。
「こびりついちゃうから洗うよ」
大人びた口調ですずちゃんは言う。すずちゃんはさっさと自分の皿を流しに持って行くと、テーブルに戻り、わたしがようやく空にした味噌汁の椀をさらうように手に取った。
「お味噌汁はこびりつかないよ」
小さく反論すると、すずちゃんはいかにも機嫌を損ねたといった顔をしてわたしを見る。大げさに視線を斜め上に向けて、小首をかしげる。朝方帰ってくるママが観ている、アメリカのドラマに出てくる人みたい。わたしも視線を大仰に斜め上に向けて、首をちょっとだけひねりながら両の掌を天井に向けたジェスチャーをする。はーあ、マイクったら、まったくいやになっちゃうわね。わたしが箸を置いてまでポーズを取り、借りてきたようなセリフまで続けると、すずちゃんは「はあ?」と真顔で言った。
「じゃあ自分で洗ってね」
すずちゃんは汁椀を置いて、すたすたと台所に行ってしまった。
食卓のテーブルから台所はつながっていて、遮るものもないので流しにいるすずちゃんの後ろ姿がよく見える。流しにはねる水音に混ざるかちゃんかちゃんという音を聞きながら、わたしは残りの食事をすませた。
ごちそうさまでした、と皿を重ねて流しに行くと、すずちゃんはもう台所にはいなかった。残ったらタッパーによそって洗っておくはずの、マカロニサラダの入ったボウルもそのままに。おかしいな。いつもなら「さきちゃん食べる? 食べないなら片付けちゃうよ」なんて言いながら、菜箸のまま食べきってしまうのに。
「すずちゃーん、マカロニサラダ食べるよぉ」
真似をするみたいに菜箸で食べていたら、すずちゃんはママの部屋から出てきたのだった。「ちゃんと洗い物した?」すずちゃんはあくまでお姉ちゃん然としながら、次いで出た言葉は「ずるい、ちょうだい」だった。「あーんして」わたしは、むかしママにやってもらったみたいに言う。従順に口を開けるすずちゃんの、鼻の穴にマカロニを突っこんでやった。
三十分ほどするとママは浴室から出てくる。髪を乾かしたり着替えたり化粧をしたりして(お風呂上りのあんなにつるぴかの顔に、また複雑な施しをし始めるなんてもったいない、とわたしたちはいつも思った)、身なりを整えると「じゃあね、いい子でいるのよ」と言い残して出かけるのだった。すずちゃんはたいてい玄関まで見送り、ママが出ていったあとにすぐ内鍵を閉める。ママはその音を確かめてから家を離れることを、わたしもすずちゃんも知っていた。
それからわたしたちもお風呂に入り、宿題をしたり明日の準備をしたりして眠る。お風呂にはママのにおいが残っている。すずちゃんもわたしも、もうママがいないからといって夜更かしをすることもなくなった。ママが夜に出かけるようになった初めの頃こそ「起きててママを驚かせよう」なんて言って、アニメを観たり絵を描いたりして起きていたこともあった。けれど、ママの帰宅はたいていわたしたちの想像を超えて遅く、遊び疲れて自然な眠気がやってくると、どんなにがんばっても日付の変わるずいぶん前に寝てしまうのだった。
翌朝、わたしたちが起きるとめずらしくママはすでに起床していた。帰宅してからそのままの格好で寝ていたらしく、顔は寝ぼけているのに目もとや口もとには化粧が残っており、妙にくっきりしていてちぐはぐだった。
「あなたたち、ちゃんと起きてきて偉いわね」
ママは変なことを言い、落ち着かない様子で額をぽりぽり搔きながらコーヒーをのんでいた。ママが起きているからといって朝食が準備されているわけではない。すずちゃんはてきぱきと食パンをトースターに入れ、ふたりぶんの水筒にお茶をつめた。
「ママも早起きしてるから偉いよ」
わたしが言うとママは眠たげな猫みたいにやわらかな顔になり、そしてそのままテーブルに突っ伏した。
「ママ、なんかいやなことでもあったの?」
すずちゃんは突っ伏したママの頭を撫でながら唐突に訊いた。わたしは、帰宅したらすぐに外しているピアスをママがまだ付けていることに気づき、ママの耳からその小さな金属を外してやった。茄子紺みたいな紫色の石のピアス。「やさしくね」ママではなくすずちゃんが言う。「なくさないでよ」すずちゃんではなくママが言う。
あー、べつにいやなこととかはないけど、あ、パンが焼けるわよ、とママが言うとすずちゃんはわたしを一瞥して「出して」と言った。
「べつにいやなこととかはないけど?」
「あー、そういやお店のロッカーの鍵をなくしちゃって。どこに置いたんだろ。いつもバッグの内ポケットに入れることにしてるのよ、それ。まあ、ロッカーにはたいしたもの置いてないから、出てくるまで知らん顔しててもいいんだけど。なくしたって言ったら弁償しなきゃだし。たかがロッカーの鍵だけど、店長、いくらぶん取るんだろ」
すずちゃんはママの頭を撫でながら聞いていた。わたしはパンを皿に乗せテーブルに置く。冷蔵庫からジャムと洗っただけのミニトマトを出す。
「そうだったんだね。あ、もしかして、」
すずちゃんは何かを閃いた様子でぱたぱたと部屋を出て行った。わたしはその様子になんとなく違和感を覚えながら、ママの横に座りパンをかじる。
一分と経たないうちに戻ってきたすずちゃんの手には、小指の先ほどの大きさの鍵が握られていた。
「もしかして、これ?」
ママの目の前に件の鍵を置く。心配そうな表情の中に、少しの得意げな気持ちを隠せずにいるように見える。
「そうそう、これ、え、どこにあったの?」
「ママの部屋に落ちてたよ。朝、部屋の前を通ったときにきらって光るものが目に入ったのを思い出して。なんだろうって思ってたから」
さ、ごはん食べて行かなくちゃ。さきちゃん、ぼーっとしてないでさっさと食べるよ。一件落着といった様子ですずちゃんはパンにジャムを塗る。
「ありがとう、よかったわあ、大金払わなくて済む」
そう言うとママはだらしなく口を開けたまま、またテーブルに突っ伏した。
「大金なの?」
「知らんけど」
すずちゃんは何も気づいていない様子でパンをかじった。
「ジャム塗らないの?」すずちゃんが訊く。「素パンでいい」
それからわたしは黙って朝食を済ませ、ランドセルに水筒をつめて、すずちゃんより先に家を出た。
☆
学校に着いてもその日はずっとぼんやりしていて、算数の時間に当てられても十秒くらい無言で突っ立ってしまったし、得意の国語の音読もつっかえつっかえになって先生を驚かせてしまった。「いつも上手に読めるのに、めずらしいですね」って。散漫になってました、とひとりごとのように言うと、「さんま、塩焼きにしたらうまいやんけ」と弦くんが乗っかってクラスの男子が笑った。
給食を終えた昼休み、わたしは友達と運動場に繰り出すのを断って教室の窓辺から外を見ていた。「みんなで元気いっぱいに」「子どもらしく活発に」みんなと遊ぶのが、こうやってときどきとてもばからしく思える。子どものときにひとりで過ごす訓練をしていないから、大人はみんな寂しそうにしているのじゃないかと思う。
「さっき、ごめんな」
突然話しかけられたことに全身で驚いてしまい、わたしは思わず窓で頭を打った。集中して外を見ていたら周りの音が遠くなっていて、弦くんがそばまで来ていることに気づかなかったのだった。
「ごめん、驚かした?」
「あ、いや」
「それよか、さっきはごめんな」
「え?」
「ほら、国語の時間、さんまとか言って」
「ああ」
弦くんはわたしの目をしっかりと見つめた後、ゆっくりと視線を窓の外に向けた。
「いいよ、べつに」
「散漫、とか、大人っぽい言葉遣うよな」
「…なにそれ嫌味?」
「まさか。うちのお父ちゃんが遣う言葉みたいやなあって」
「…やっぱり嫌味?」
「まさか」
わたしは鼻の根本に皺を寄せて、わざとらしく弦くんの横顔を睨む。弦くんは、いつもの元気ぶりからエネルギーを蒸留したみたいな表情で窓の外を見ていた。消してはいけない大切なエネルギーだけがそこに宿っていた。仏様みたい。見たことないけど。自然に上向いたくちびるのカーブがやさしかった。
「なんかあったんか?」
「ん?」
「先生も言うてたやん。いっつも音読すらすらやのに、どうしたんかって」
「ああ」
いつの間にか弦くんはわたしと正対するように向き直っていた。日の当たる右眼を眩しそうに細めている。
「べつになにもないよ」
わたしの言葉の意味を探っているのか、続きの言葉を待っているのか、弦くんはそのまま表情を変えずわたしを見ていた。わたしはなぜだか少し焦って口をぱくぱくしてしまう。弦くんの視線は一瞬だけわたしの口もとに行き、そして眉間に皺を寄せた。
「べつになにもないんだけど…ね、たとえば、嘘って絶対ついたらだめなものと思う?」
わたしは弦くんを見上げるように言った。事実、わたしより弦くんのほうが身長は高く、わたしは本当は、ずっと彼を見上げていたのだった。
「嘘かあ」
「うん。絶対にだめと思う?」
「うーん、あんさん、難しいこと言わはりまんな」
弦くんは目をくるくるさせながら言った。
わたしは続けた。
「たとえば、誰かをよろこばそうとして、そのために嘘をつくのってだめと思う? だれかをちょっとだけ元気づけようとして、とか。そのために細工して、気づかれない程度にね、それで、ほら、よかったね、って嘘をつくの」
「うん」
「その嘘はだれも傷ついたり悲しくなったりしないの。どっちもよろこんだり、うれしかったりするの。
その嘘って、たとえ嘘でも、絶対にしちゃだめって言えないような気がするんだ。だって、嘘をついたほうもつかれたほうも、どっちもうれしそうなんだもん。ふたりともがよければ、それでいいのかな。ね、どう思う?」
わたしはまくしたてるように話していた。いつものおっとりした口調からは意外だと言わんばかりの顔をして、弦くんは静かにわたしの言葉を聞いていた。そして何度か意味ありげなまばたきをしていた。彼の動作をひとつひとつ確認するようにわたしは弦くんの前に立っていて、くちびるをぎゅっと閉じて次の言葉を待っていた。
少し経ってから、弦くんは言った。
「どっちもうれしそうでも、さきはいまこうやって悩んでるわけやろ? 音読間違えたりしてるわけやろ? じゃあ、ついたらあかんやつや、その嘘は」
弦くんの口調は仏様みたいだった。聞いたことないけど。
☆
あの頃のわたしはいまよりずっと傷つきやすくて繊細だったのだ。感情のざるの網目が細かくて、小さなことを拾ってはためつすがめつ眺め考え、そして口を閉ざしていた。教師からは場面緘黙症を疑われ、母親からは口の達者なすずちゃんと比べて発達の遅れを心配されていた。結果論だがそのようなことは杞憂に終わったのだけど。わたしは口数が少なくても、たいてい無数の言葉が頭の中を行ったり来たりしていた。十代になり、わたしはそれらの言葉を適宜脳みそから放出する術を学ぶ。
だからあのときの、誰かにとっては何ということはないかもしれない出来事も、わたしにとってはそれはそれは一大事だった。
あの日、すずちゃんの様子はおかしかった。
すずちゃんが、朝、たまたまママの部屋の前を通りかかり、前夜に失くしていたロッカーの鍵を見つけるなんて、わたしにはどう考えても不自然に思えた。そもそも、促すように「なんかいやなことでもあったの?」とママに尋ねたことも。そしてそれらの不自然さは、前日の夜に着地する。わたしが夕食を終え台所へ行ったとき、すずちゃんはママの部屋で何をしていたんだろう?と。
わたしは弦くんに尋ねる前から、これはただの考えすぎかもしれないと思っていた。それに、もしわたしが考えすぎた結果に出した疑念が本当だったとしても、わたしが思い悩む必要はないとも思っていた。勝手に考えて勝手に背負うなんてと。少なくとも、ふたりは何の損も不利益も被害も痛手も食らっていない(一晩、ロッカーが開けられなかったという事実こそあるものの)。
幼い頭をフル回転させて、もう考えるのをやめよう、思い出すのをやめようと一生懸命になった。けれど、あのとき弦くんはわたしのそばで何かを察して、見えない糸を手繰るようにわたしに話しかけてくれたのだった。
その後、弦くんとわたしは別の中学に進み、会うことはなかった。ふたりともしばらくは同じ校区に住んでいたはずだけれど、ばったり出くわすということもなく、わたしは弦くんのことを時折こころの中で思い出すよりほかなかった。弦くんも同じようにわたしのことをそうやって思い出してくれているといいなと願うよりほか、なかったのだった。
牛乳やらチーズやらが並ぶ売場の前で、わたしはぼうっと立っていた。そういえば雨が止んでいるかもしれないと思い、外に出る。八月の雨はわたしを感傷的にさせる。夕方の雨音は弦くんの思い出を置いて、八月から去ろうとしている。「弦くんに会いたいな」絶え間ない雨音の中でわたしは小さくくちびるを動かした。
☂
こちらのお空からも、しとしと、ぽつぽつ、ざあざあ
ぴちょん、
