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「犬って神さまなんですよ」

犬の一生はなぜ短いのか、ということを語るときによく引用される、どこか外国の獣医さんの文章がある。6歳の少年が、愛犬の安楽死に立ち会ったときのものだ。

獣医師として、私はベルカーの診察に訪れた。
その場にいたのは、飼い主のロンとその妻・リサ、さらに彼らの息子のシェーン。彼らはみなベルカーを心から愛し、ただただ、奇跡を祈っていた。

しかし、診察の結果、ベルカーはガンで、余命もわずかしかないことが判明。私は家族に、我々にできることはもう何一つ残っていないと伝え、自宅での安楽死を提案した。

準備を進める間、夫妻は私に、6歳のシェーンも処置の場に立ち会わせたいと言った。彼らは、自分たちの息子に、この死から大切な何かを学んでほしいと考えていた。

そして、翌日。
その時が来て、ベルカーのもとに家族が集まるにつれ、私は、幾度となく味わってきた喉の詰まりを覚えた。
シェーンは、年老いたベルカーの身体を撫でている。
その様子があまりにも落ち着いていたので、私は彼が、これから何が起こるのかを理解していないのではないかと思った。

それから数分後、ベルカーは、安らかにこの世を去った。
幼い少年は、親友の死を、苦痛も困惑もなく受け入れている様子だった。

処置からしばらくたったのち、大人たちは一緒に座り、なぜ動物の命は人間よりも短いのかについて、意見を交わしていた。
その際、傍で話を聞いていたシェーンが、突然口を開いた。

「ぼく、なんでか知ってるよ」

会話を止め、私たちは彼の方を見た。
次に彼が発した言葉に、私は、大きな衝撃を受けた。

「ぼくらは、自分たちがどう生きればいいかを、生まれた後に勉強するん だよね。みんなを好きでいるためには、とか、優しくするためには、とか。
だけど犬たちは、そのやり方を、生まれた時から全部知ってる。だから、ぼくらみたいに長生きする必要がないんだよ」

彼はそう言った。
私は、これ以上に納得のいく説明を、今までに聞いたことがなかった。

出典は不明


とても印象に残って、文章とリンクをコピぺしてPCに保存しておいた。でももう何年も前のことなのでリンクを辿るとページは消えてしまっていて、残念ながら出典がどういうものだったのかわからない。
当時私が読んだものも多分原典ではなく、孫引きだっただろうと思うけど。


犬は、
いえいえ、人間以外の動物たちは
本当に大事なものは何かを生まれながらに知っていると、私も思う。

「本当に大事なもの」ってなんなのか。
私にもよくわからないけれど、「ただひたすらに自分を生きる」ということなのかなという気がする。自己を肯定し、足るを知り、不平を言わず、ただ前を向いて今を生きることを、犬たちは教えられなくても知っているのだ。

ばんとカブ
2014年、カブが我が家に来たばかりの頃。

人間はなぜか、自分たちこそがあらゆる生物の最上位に立つものだと、当たり前に考えているように見える。知識とか、抽象的な思考とか、ある一つの物差しで測れば、人間は他の生物をリードしている点もあるのかもしれないけれど、嗅覚とか聴覚とか、磁場を感じる能力とか、見えなくても空間を把握する能力とか、人にはない能力を持っている動物はいくらでもいる。
では何をもって人間が一番と言えるのだろう。
優れている点なんて、どの側面に光を当てるかによって違うのだ。


私が動物を礼賛しすぎる傾向があるのは認めるし、情緒的過ぎるかもしれないとも思うけれど。それでも。
魂の清冽さという尺度で考えれば、動物の方が人間よりはるかに次元が高いに違いないと私は思う。

…なんて言うと鼻で笑う人もいるけど。
でも一緒に暮らしていればわかるはず。
私は誰に遠慮することなく我が家の犬たちを崇める。


何年も前のことだけど、犬散歩の途中で、見ず知らずの老齢の上品な女性に、全く唐突に
「犬って神さまなんですよ」と話しかけられたことがある。

むーちゃん・ドラの女子チームのお散歩が終わって、ばん・カブの男子チームとあちこち匂い嗅ぎの寄り道をしながらのんびり歩いている時だった。2頭ともそこそこ大きかったし、厳つい見た目で(私はそうは思っていなかったけど)知らない人に話しかけられることなんて滅多になかったのに。

でもその人は、大きな雑種犬を2頭連れた私のところにまっすぐ近づいてきて、唐突に、でもとても自然に「犬って神さまなんですよ」と言ったのだ。

その思い出は、何年かして、
偶然同じタイトルの本を知人に紹介してもらった時に別ブログに書いたんだけれど(ヘッダーの写真はその本の表紙で 版画家の山本容子さんの著作です)

その時のことは忘れられない出来事として私の胸に刻まれた。
その女性の言葉に心から同意する。


宮沢賢治の『虔十公園林(けんじゅうこうえんりん)』という短いものがたりがある。

村の人たちに「ちょっと足りない」と思われていた虔十が、せっせと杉の苗木を植林して残した林を通して、本当に大切なものは何か、本当の知恵や賢さとはどういうものかを考えさせてくれる、賢治の中でもとりわけ好きな作品。

ものがたりの最後に、ふるさとに里帰りした後(のち)の”偉い人”が、子どもたちが笑いさざめきながら遊ぶ虔十の林を見ていう言葉がある。その人は自身の子ども時代に、青年虔十が皆にバカにされ笑われていたことを思い出していた。

「ああ、全くたれが賢くたれが賢くないかはわかりません。ただどこまでも十力の作用は不思議です。」

この十力とは仏が持つ十の超人的な知恵のことで、民を救済するためになくてはならない能力なのだそう。つまり、例え人間には一見愚かに見えるようなことも、仏はそこに深い、尊い意味を見出すことができる…というようなことだろうか。(解釈はいろいろだと思うけど)

「虔十公園林」は『風の又三郎』に収録されています

頭脳明晰で、知識も豊富で、適切な判断力があって、仕事のできる人は、なんだか自分より立派な人のような気がしちゃうけれど、
人間の価値がそれだけではないことは、多くの人が知っているはずだと思う。

犬(や他の動物たち)は、一見、人間より劣ったものに見えるかもしれない。でも十力を持つ仏様の目から見たらどうなのか。

仏教ではこの世の生は”修業”と捉えられているそうだけれど、もしこの世での修行が終わった後に私たちが行く場所があって、そこに誰か大いなる存在が用意してくれる椅子があるとしたら、私はきっと、犬の座る椅子は人間よりもずっと高い位置に置かれているに違いないと思う。

そう思うのは、私が大いなる犬バカだからじゃなくて、犬たちから貰うものの大きさ、尊さから思い至った結論です。(いえいえ、犬バカだからかも)

異論は受け付けません・笑


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