【800字小説】ぬくもりになっていく
「ちょっと、何これ。どうして黙ってたの」
バツの悪そうな顔をした母が、観念したかのように皺っぽい脛にできた大きな青痣を晒している。
おかしいと思っていた。毎朝の散歩を欠かさない母が、このところ部屋に閉じこもったきり顔を出さない。理由を聞き出さなければと思って、急いで帰宅したらこれだ。
増えた体重が気になり、厚着をしてランニングしようとしたら、足がもつれて転んでしまったらしい。
「なんでもっと注意しなかったの。骨折でもしたらどうするつもりだったのよ」
私の口から飛び出した言葉が四角い部屋にキンキン響いて、立体になった矢印みたいに跳ね返ってくる。
「信じらんない。もう若くもないのにさ」
目の前にいるのはまるでむくれた子供だ。空中を泳ぐ視線にかつてのような鋭い光はない。
私はなぜか無性に胸を掻きむしりたくなって、ピシャリとドアを閉めると、無駄な足音を立てて台所へと向かった。
蛇口を捻り、コップに並々と注いだ水を飲み干す。
母は私の鈍臭いところを嫌っていた。もともと躾に厳しい人だったが、父と離婚してからは些細なことにも一層目くじらを立てた。いつも怒ってばかりの母を、私も嫌いだった。
公園でドジを踏んで帰った日のことだ。怪我をしてじゅくじゅくになった膝小僧を長い靴下で隠してしまおうとした子供の浅知恵を、母はすぐさま見抜いて叱った。ばかね、傷跡になったらどうするの!
うっかり忘れ物をしてしまった時だってそうだ。もう中学生なのに何ボケっとしてるのよ。もっとしっかりしなさい!
あの日の母の声に、表情に、もう一度出会う。喉の奥がぐうっとつかえる。
古びたフライパンや卵焼き器、焦げた小鍋、ぺたんこのミトンがじっと私を見ている。それらがぼやけて歪んで、シンクに落ちていく。
さっき、私は驚いたのだ。あまりにも母と似ている自分の口調に。そしてそれらの言葉を投げかけたとき、私は少しも母が嫌いではなかったことに。
800字小説(了)
