短編小説『傷だらけの歌』――『僕の声を、君にだけ』原点の物語
——「変な声」「女の子みたい」
そう笑われ続け、自分の声を嫌いになった少年は、少しずつ言葉を失っていった。
家にも学校にも居場所はなく、孤独の中で何度も“消えたい”と願う日々。
それでも彼は、歌うことだけはやめられなかった。
そんなある日。
誰もいない公園で歌っていた彼に、一人の女性が声をかける。
「綺麗な声だね」
初めて肯定された声。
初めて触れた優しさ。
これは、“生きていい”と言ってくれた人との出会いが、一人の少年の世界を少しずつ変えていく、声と孤独と再生の物語。
活動1周年記念作品。
長編完結作『僕の声を、君にだけ』の原点となった短編小説。
※本作は『僕の声を、君にだけ』未読でもお楽しみいただけます。
※本作には、精神的な孤独や希死念慮、自傷行為を想起させる描写があります。読むタイミングによっては、心に強く触れる可能性があります。どうか無理のない形で触れていただけたら幸いです。
【作者より】 皆様の温かい応援に支えられ、活動1周年を迎えることができました。
本当にありがとうございます。
今作は、私の大切な長編『僕の声を、君にだけ』のすべての始まりを描いた短編小説です。 生々しい孤独や、心の痛みに深く踏み込んだ重い内容となっているため、お守りのように、本当に必要としてくださる方にだけ大切に届いてほしいという願いを込めて、有料での公開とさせていただきました。
1周年の感謝をぎゅっと詰め込んだ、私にとっても非常に特別な作品です。
必要な方の心に、そっと届きますように。
目次
・第1話 僕は声を失くした
・第2話 落下と目覚め
・第3話 「綺麗な声だね」
・第4話 また明日
・最終話 この声で、生きていく
・あとがき
第1話 僕は声を失くした
鏡の前で、僕は声を押し込めている。
「なんか高くない?」
「女の子みたい」
「変な声」
教室で笑われるたびに、僕の声は少しずつ遠くへ隠れていった。
音読の時間が近づくと、胸の奥がぎゅっと縮こまる。
手を挙げることもしなくなった。
声を出せば、またあの空気になる。
また、あの目で見られる。
廊下を歩く時も、僕はできるだけ静かに歩いた。
返事をする時も、できるだけ小さく答えた。
声を出さなければ、傷つかない。
声を殺せば、笑われない。
そう思っていた。
でも本当は違う。
声を殺すたびに、僕自身が少しずつ消えていくのを感じていた。
家に帰っても、誰も僕を待っていなかった。
「……ただいま」
小さく呟いても、返事はない。
リビングからはテレビの音だけが聞こえてくる。
母さん——義理の母さんは、ソファに座ってスマホを見ている。
父さん——義理の父さんは、まだ仕事から帰っていない。
帰ってきても、新聞を読むか、テレビを見るか、それだけだ。
僕の声に、誰も反応しない。
二人は僕を育ててくれた。
ご飯も作ってくれるし、服も買ってくれる。
学校にも通わせてくれている。
でも、それだけだった。
僕がどんな顔をしているのか。
何を考えているのか。
何に傷ついているのか。
そんなことには、興味がないみたいだった。
小さい頃、僕は知ってしまった。
自分が捨てられた子だということを。
「あの子、拾った子だから」
近所の人が、そう言っているのを聞いてしまった。
拾った子。
捨てられた子。
本当の子じゃない子。
その日から、何かが変わった。
僕は、自分がここにいてもいいのか分からなくなった。
母さんにと呼びかけても、「ん?」と生返事が返ってくるだけ。
父さんに「お父さん」と話しかけても、「後でな」と言われるだけ。
後で、は来ない。
いつも来ない。
学校のことを話そうとしても、「そう」で終わる。
テストの点数を見せても、「頑張ったね」と言うだけで、すぐに視線は別のところへ向かう。
僕は、透明になっていた。
家でも、学校でも、どこにいても僕は一人だった。
誰にも必要とされていない。
誰からも求められていない。
ただそこに、いるだけ。
やがて、僕は話さなくなった。
声を出しても、誰も聞いてくれない。
声を出せば、笑われる。
声を出しても、届かない。
だったら、もう声なんていらない。
学校では、必要最低限のことしか言わなくなった。
家では、ほとんど何も言わなくなった。
朝の挨拶も、夜の挨拶も、いつしか消えていった。
母さんも父さんも、気づいていないみたいだった。
それとも、気づいていても気にしていないのか。
僕が話さなくなっても、何も変わらなかった。
相変わらず、ご飯は黙って用意されて、僕は黙ってそれを食べた。
心が、閉じていくのが分かった。
ドアが一枚ずつ、静かに閉まっていく。
鍵がかかっていく。
光が、少しずつ遠ざかっていく。
僕は自分の声が嫌いになった。
この高い声。
変だと言われる声。
誰にも届かない声。
誰にも必要とされない声。
鏡の中の自分に向かって、試しに何か言ってみる。
「おはよう」
「こんにちは」
「助けて」
でも、聞こえてくるその声が、僕は好きになれなかった。
この声が、僕を孤独にした。
この声が、僕を笑いものにした。
この声が——
いや、違う。
悪いのは、声じゃない。
悪いのは、僕自身なのだ。
僕が捨てられた子だから。
僕が本当の子じゃないから。
僕が、必要とされていない存在だから。
三階の窓から見える空は、どこまでも遠かった。
一度目は、衝動だった。
放課後、誰もいない屋上に上がった。
柵に手をかけた時、風が僕の髪を撫でていった。
空は透き通るように青くて、雲が静かに流れていた。
美しかった。
この世界は、こんなにも美しいのに。
「消えてしまえば、楽になれるかな」
声に出して呟いた。
久しぶりに出した自分の声は、やっぱり高くて、やっぱり嫌いで、風に掻き消されていった。
でも怖くて、足が竦んで、結局何もできなかった。
柵を握る手が震えて、涙がこぼれた。
僕は、本当は死にたくないのかもしれない。
ただ、この痛みから逃れたいだけなのかもしれない。
二度目は、薬を集めた。
保健室の薬、家にある薬。
少しずつ集めて、机の引き出しに隠した。
いつか、本当に耐えられなくなった時のために。
お守りのように、それは引き出しの奥で僕を待っていた。
ある夜、手のひらに薬を並べた。
一粒、二粒、三粒。
数えながら、これで終われるのだろうかと考えた。
明日が来なければ、もう傷つかなくて済む。
もう、あの声で笑われることもない。
もう、誰にも必要とされない自分と向き合わなくて済む。
けれど飲む直前、母さんの泣き声が壁越しに聞こえてきて、手が止まった。
「どうしたらいいの。あの子、最近何も話してくれないの」
母さんは父さんに、そう言っていた。
「まあ、思春期だろう。そのうち話すさ」
父さんの、無関心な声が返ってくる。
「でも、最近ずっと部屋に籠もってて……」
「放っておけばいいんだよ。そのうち自分から出てくる」
会話は、そこで途切れた。
母さんは、少しだけ心配してくれていたのかもしれない。
でも、父さんの言葉に、それ以上は何も言わなかった。
扉を叩いて、僕の部屋に来ることもなかった。
薬は、そっと引き出しにしまった。
三度目——もう数えるのもやめた。
カッターを手にした日。
リストカットの痕を見つけられないように長袖を着た日。
お風呂で長く沈んでいた日。
夜中にベランダの柵に立った日。
数えきれないほどの、小さな死が、僕の中に積み重なっていた。
ただ、僕の中で何かが壊れかけているのは分かっていた。
鏡を見ても、そこに誰がいるのか分からなくなる日があった。
自分が自分でなくなっていく感覚。
輪郭が滲んで、溶けて、消えていく。
それでも、歌だけは手放せなかった。
誰もいない放課後の音楽室で、僕はピアノの前に座る。
鍵盤に指を置くと、心臓の鼓動が少し落ち着く。
そっと声を出してみる。
高い声で、好きな歌を口ずさむ。
嫌いなはずの、この声で。
不思議だった。
歌っている時だけ、この声が嫌いじゃなくなる。
歌っている時だけ、この声で良かったと思える。
誰もいない夜の自分の部屋で、ヘッドフォンをつける。
音量を上げて、世界を遮断する。
そして歌う。
メロディに合わせて、僕は自由になれる。
声が空間を満たしていく。
この狭い部屋が、僕だけの宇宙になる。
歌っている時だけ、僕は呼吸ができる。
歌っている時だけ、生きていてもいいと思える。
歌っている時だけ、僕は僕を許せる。
誰にも聞かせない、誰にも見せない、ただ僕だけの声。
それは儚くて、脆くて、すぐに消えてしまいそうで。
でも確かに、そこにあった。
ある日、YouTubeで見つけた歌い手の動画を見た。
その人も、高い声で歌っていた。
コメント欄には、
『綺麗な声』
『癒される』
『もっと聴きたい』
という言葉が並んでいた。
僕の声は、本当に変なのだろうか。
僕の声は、本当に気持ち悪いのだろうか。
画面の向こうの、知らない誰かは、高い声を褒めている。
でも教室では、僕の声は笑われる。
同じ高い声なのに。
同じ声なのに。
もしかしたら、悪いのは声じゃないのかもしれない。
悪いのは、声を笑う人たちなのかもしれない。
悪いのは——
いや、やっぱり分からない。
僕は、自分の声が嫌いだった。
でも、歌っている時だけは、少しだけ好きになれた。
それは矛盾していて、複雑で、痛くて、それでも温かくて。
窓の外では、また新しい朝が来ようとしている。
東の空が、薄く白んでいく。
鳥の声が聞こえる。
世界は、何事もなかったかのように回り続ける。
僕は目を閉じて、小さく鼻歌を歌う。
誰も傷つけない、誰にも届かない、ガラス細工のような歌を。
震える息に乗せて、そっと空気に溶かしていく。
それが僕の、唯一の祈りだった。
明日も、歌えますように。
明日も、この声で生きていけますように。
明日も、僕が僕でいられますように。
たとえ誰も聞いてくれなくても。
たとえ誰も必要としてくれなくても。
僕は、この声を手放したくない。
僕は夜の闇に、そっと声を溶かしていく。
この声が消えてしまわないように。
この声を、僕自身を、もう少しだけ守っていけるように。
第2話 落下と目覚め
朝日が部屋に差し込んでくる。
新しい一日が、また始まろうとしていた。
けれど、僕の心は、毎日同じ形ではいられなかった。
少しだけ呼吸が楽な日もあった。
歌を歌える日もあった。
空を綺麗だと思える日も、確かにあった。
でも、何も感じられなくなる日が、突然やって来る。
世界の色が消えて、自分の輪郭まで曖昧になっていく。
理由もなく涙が溢れる日。
涙すら出なくなる日。
「消えたい」が、頭の中いっぱいに広がってしまう日。
波があった。
生きたい自分と、消えたい自分が、いつも胸の中でぶつかっていた。
そして時々、その波は、自分でも止められなくなる。
ある日、精神の限界が来た。
朝、目が覚めた時、もう何も感じなかった。
悲しみも、痛みも、怒りも。
何もかもが遠くにあった。
ただ、疲れていた。
生きていることに、疲れていた。
学校には行かなかった。
母さんも父さんも、何も言わなかった。
気づいていないのか。
気にしていないのか。
昼過ぎ、僕は家を出た。
三階の窓じゃない。
屋上の柵じゃない。
今度は、ちゃんと終われる場所へ。
駅のそばにある、古いビル。
非常階段を上って、屋上へ。
誰もいない。
風が強く吹いていた。
柵を越える時、不思議と怖くなかった。
ああ、やっと終われるんだ。
これで、もう傷つかなくて済む。
これで、もう孤独を感じなくて済む。
これで——
身体が、落ちていく。
空が、遠ざかっていく。
風の音が、耳を劈いた。
そして、暗闇。
白い天井が見えた。
機械の音。
消毒液の匂い。
身体中が痛い。
動けない。
「意識が戻りました」
誰かの声が聞こえる。
看護師だろうか。
医師だろうか。
ああ。
また生きてしまったんだな。
奇跡的に命に別状はなかったと、医師は言った。
奇跡。
僕には、呪いのように思えた。
母さんと父さんが、病室に来た。
でも、何を話したのか覚えていない。
ただ、二人の顔が困惑に満ちていたことだけは覚えている。
精神科の先生とも話をした。
「なぜそんなことをしたの?」
そう聞かれても、答えられなかった。
声が、出なかった。
入院中、僕は一言も話さなかった。
第3話 「綺麗な声だね」
二ヶ月後、退院した。
身体は治った。
でも、心は何も変わっていなかった。
ただ、以前よりもっと空っぽになっていた。
学校には戻らなかった。
母さんと父さんは、しばらく休んでいいと言った。
それは優しさではなく、ただ面倒を避けたいだけのように思えた。
毎日、僕は公園に行った。
人のいない、午後の公園。
ブランコに座って、空を見上げる。
生きている実感がなかった。
ただ、身体が動いているだけ。
心臓が動いているだけ。
ある日。
誰もいないことを確認して、僕は小さく歌った。
久しぶりの、声。
最初は掠れて、震えて、うまく出なかった。
でも少しずつ、メロディが戻ってきた。
高い声で、好きな歌を口ずさむ。
歌っている間だけ、僕は生きている気がした。
「……綺麗な声だね」
突然の声に、僕の身体が硬直した。
振り向くと、少し離れたところに、女の人が立っていた。
大学生くらいだろうか。
僕より年上に見えた。
長い髪を風になびかせて、優しそうな顔で僕を見ていた。
心臓が、激しく跳ね上がる。
誰かに聞かれていた。
誰かに、見られていた。
「え……」
言葉が出ない。
息ができない。
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