あるピアニストの秘密 【特別版】
大正東京。
如月奏は謎めいた若手ピアニスト。
百合子は奏を男性として愛し、恭一郎は奏を女性として愛した。
でも奏は——。
大正という時代を背景にひとりのピアニストが自分自身を探し続けた、切なくも希望を宿した物語。
※本作は大正時代を舞台にした創作です。
歴史的な正確性よりも、読みやすさ、心理描写の深さ、物語性を優先しています。そのため、言葉遣い、登場人物の価値観、社会制度の描写などに、実際の大正時代とは異なる表現が含まれています。
厳密な時代考証ではなく、一つの物語としてお楽しみください。
・第一章 百合子
・第二章 恭一郎
・第三章 奏
・第四章 三人
・第五章 求愛
・第六章 露呈
・最終章 月光
・エピローグ
・現代(令和)
・あとがき
第一章 百合子
大正六年の秋、私は神田の小さなホールにいた。
客席は半分ほどしか埋まっていない。
平日の昼下がり、こうした演奏会に来るのは、よほどの音楽好きか、時間を持て余した人々だけだろう。
私は前者だった。
女学校を出てから三年。
父の給金は少なく、本格的な音楽教育を受ける余裕はなかった。
それでも、私はピアノを諦められなかった。
独学で、時には町の教会でピアノを借りて練習を続けている。
こうして時間を見つけては、演奏会に足を運ぶ。
入場料の安い、無名の演奏家の会に。
今日の演奏者も、私は知らない。
プログラムを開く。
『如月奏 ピアノリサイタル』
きさらぎ かなで。
珍しい名前だ。
プログラムには「氏」とある。
男性なのだろう。
照明が落ち、舞台に人影が現れた。
私は息を呑んだ。
黒いスーツに身を包んだ、細身の姿。
肩にはわずかに丸みがあり、動くたびに柔らかい布が揺れる。
顔立ちは美しいというより、儚げだった。
男性にしては華奢で、でも——
首を振った。
舞台に立っているのだから、男性に決まっている。
ただ、中性的な美しさを持った人なのだろう。
如月奏は客席に一礼し、ピアノの前に座った。足元の革靴は、舞台の板張りに軽く響く。
しばらく静寂。
やがて音が、流れ始めた。
ショパンの夜想曲。
最初の一音から、私は動けなくなった。
この音は何だろう。
柔らかく、しかし芯がある。
悲しく、しかし美しい。
まるで、月明かりのように——
涙が溢れそうになった。
こんな演奏、聴いたことがない。
技術的には完璧ではないかもしれない。
でも、この音には何かがある。
言葉にならない、何か。
私は舞台の人物を見つめた。
如月奏。
その指が鍵盤の上で静かに動く。
顔はわずかに伏せられ、長い睫毛が光を受けて揺れる。
表情は読めない。
でも、音が全てを語っていた。
孤独。
祈り。
諦め。
そして——
かすかな希望。
曲が終わり、静寂。
やがて拍手が起こった。
私も拍手をした。
手が、震えていた。
如月奏は立ち上がり、頭を下げ、舞台を去った。
私は席を立てなかった。
他の客たちが帰り始めても、私はそこに座ったままだった。
まだ、あの音が耳の奥に残っている。
——会いたい。
その思いが、突然、胸に湧き上がった。
あの人に、会いたい。
話がしたい。
どうして、あんな音が出せるのか、聞きたい。
私は立ち上がり、楽屋口へ向かった。
玄関の木製の扉や、壁にかかった古い油絵、重厚なカーテンの質感——
その全てが、私の足音に反応するように息をひそめているようだった。
楽屋口の前には、数人の客が待っていた。
みな、如月奏に会いたいのだろう。
私は列の最後に並んだ。
やがて、扉が開いた。
如月奏が現れた。
近くで見ると、やはり不思議な人だった。
年齢は二十代前半ほどか。
白い肌、黒く柔らかな髪、少し乱れた前髪が額にかかる。
男性、のはずだ。
スーツを着ているし、プログラムにも「氏」とある。
でも、なぜだろう。
この人を見ていると、男性とも女性とも判断できない。
「ありがとうございました」
如月奏の声が、私の思考を遮った。
声は低くもなく高くもなく、中間的で落ち着いている。
客たちが感想を述べる。
「素晴らしかった」
「また、聴きに来ます」
如月奏は一人一人に丁寧に頭を下げていた。
やがて、私の番が来た。
「あの——」
声が震えた。
如月奏が私を見た。
その目は深く、静か。
私は、言葉が出なくなった。
「どうぞ」
如月奏が優しく促した。
「あの……演奏、とても美しかったです」
私はようやく言葉を絞り出した。
「ありがとうございます」
「私も、ピアノを少し、弾くんです」
私は続けた。
「如月さんのような演奏、できるようになりたい」
如月奏は少し驚いたような顔をした。
「あなたも、ピアニストですか」
「いえ、そんな。ただの、素人です」
私は慌てて首を振った。
「でも、音楽が好きで。いつか、如月さんのように……」
如月奏は静かに微笑んだ。
その微笑みに私の胸がぎゅっとなった。
何、この感じ。
「お名前を、聞いてもいいですか」
如月奏が尋ねた。
「立花百合子と申します」
「立花さん」
如月奏が私の名前を呼んだ。
その声に心臓が跳ねた。
「もしよろしければ、また……」
如月奏が言いかけ、ためらった。
「いえ、すみません。失礼なことを」
「いいえ!」
私は思わず声を上げた。
「また、お会いしたいです。演奏も、聴きたいです」
如月奏は少し驚き、そして、微笑んだ。
「では、次の演奏会の時に。よろしければ」
「はい!」
家に帰る道すがら、私はずっと考えていた。
如月奏。
あの人の演奏。
あの人の微笑み。
あの人の声。
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