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蒼い海に抱かれる二日月 Parallel Story

※本作は小説『蒼い海に抱かれる二日月』のもうひとつの結末を描いた物語です。
物語の内容をより深く味わっていただくため、本編を先にお読みいただくことをおすすめします。

本作では、ひとりの人物が迎える命の揺らぎを描いており、
胸の奥が静かに軋むような場面が続きます。

どうか、静かな波音に耳を澄ませるような気持ちで、読み進めていただけたら幸いです。

https://kakuyomu.jp/works/822139836663563480

目次
・第10話 儚い日々
・第11話 崩れゆく予兆
・第12話 最後の嘘
・最終話 ひとしずくの祈り
・???   (secret)
・あとがき



第10話 儚い日々

アプリを削除してから、一ヶ月が過ぎた。
僕は今、小さなアトリエで補助スタッフとして働いている。

絵筆を洗う水の音。
クレヨンが紙をこする、やわらかな音。
その合間に聞こえる、子どもたちの静かな息づかい。

その中に身を置いていると、
張りつめていた心が、ほんの少しだけほどけていく。

「結城さん、これ見て!」

小さな手が、カラフルな花の絵を差し出す。

「……すごいね」

そう言って、僕は微笑んだ。

ここでは、顔を見られても、
心の奥まで踏み込まれることはない。
触れられることもない。
「ルカ」と呼ばれることもない。

ただ、名前だけがあって、
役割だけがあって、
それ以上を求められない。

それが――
少しだけ、救いだった。

窓の外は深い冬。
冷たい空気が窓ガラスを曇らせ、夜の街灯が淡く揺れる。
雪はまだ降っていないけれど、遠くで粉雪の気配がしていた。

仕事が終わると、澪に連絡する。

『今日、会える?』

『うん、会いたい』

澪は、いつも笑顔で応えてくれた。

僕たちは、週に三回くらい会うようになっていた。
公園で。カフェで。映画館で。
普通のデート。
普通のカップル。
そう見えたかもしれない。

「朔くん、最近明るくなったね」 

ある日、澪が言った。

「そう?」

「うん。笑顔が増えた」

澪が、嬉しそうに微笑む。

「よかった」

僕も笑顔を返した。
作り慣れた笑顔。
でも、澪には気づかれないように。

本当は。
本当は、心の奥底で何かが腐っていくのを感じていた。

夜、一人になると、その感覚が押し寄せる。

——僕は、澪を汚している。

ベッドに横たわり、天井を見つめる。

——ルカとして生きた過去は、消えない。
あの日々。
あの夜。
差し出した身体。
求められるままに触れられた、記憶。

それらはすべて、切り離せない僕の一部だ。

朔として生きていても、
ルカだった自分は、どこにも行かない。

ただ静かに、
胸の奥で息をしている。

 
アトリエの机に残った絵の具の匂いを思い出す。
仕事の合間、ふと、心の奥で呟く。

どんなに綺麗な色を重ねても、下に潜む黒は消えない。

——この手は、誰かを救えるのだろうか。
——それとも、また誰かを傷つけてしまうのだろうか。

わからない。
自分が、わからなくなる。
わからない。
自分が、どこにいるのか、わからなくなる。

二週間後。
澪と手を繋ぎながら歩いていると、突然、その感覚が押し寄せた。

ガシッ——

誰かが、僕の手を握った気がした。
でも、それは澪の手。
柔らかく、温かく、優しい手。

なのに。
一瞬、別の誰かの手に思えた。
あの感触。
ルカとして触れられた、知らない女性の手。
身体に残る記憶の残滓。

「朔くん?」

澪が、心配そうにこちらを見る。

「大丈夫? 顔、青いよ」

「……大丈夫」

笑顔を作る。
微かに、光を帯びた、作り慣れた笑顔。

「ちょっと疲れてるだけ」

——嘘だ。
本当は、全然大丈夫じゃない。
澪の手を握るたび、胸の奥に、重たい罪悪感が浮かんでくる。

——この手で、澪に触れていいのか。
——かつて他の誰かに触れた、この手で。

指先に、過去の影がそっと絡みつく。
それでも、澪は何も知らず、笑っている。
その温もりが、嬉しいのに、切なくて、胸を痛める。

三週間後。
澪と映画を見た後、カフェでお茶を飲んでいた。

「朔くん、最近眠れてる?」

澪が、心配そうに聞く。

「……眠れてるよ」

また、嘘をついた。
本当は、眠れていない。


夜、目を閉じるたび、記憶の欠片が不意に押し寄せてくる。

「ルカくん」

遠くから呼ぶような、女性の声。

「可愛いね」
「……声、抑えて」

甘さを帯びた囁きの奥に、言葉にできない違和感が滲む。

そして――
胸の奥を冷たく撫でる、別の声。

「お前は汚れている」

母の声だった。

「その顔……」
「誰が、お前なんか……」

言葉の続きを聞く前に、身体が跳ね起きる。
背中は汗で濡れ、息がうまく整わない。

枕元の時計に目をやると、午前三時。

静まり返った夜の中で、
また眠れない時間だけが、静かに横たわっている。

スマートフォンを見る。
澪からのメッセージ。

『おやすみなさい。また明日ね』

その文字を見ると、胸が痛む。

——澪は、知らない。
僕が、どれだけ汚れているか。
僕が、どれだけ壊れているか。

冬の夜。
窓の外は、遠くで小さく舞う雪の粒。
静けさの中、白く冷たい風が僕の胸を締め付ける。

一ヶ月後。
澪の誕生日がやってきた。

僕は、小さなネックレスを手渡した。
ささやかな光を閉じ込めた、それだけの贈り物。

「朔くん、ありがとう」

澪は、春の光みたいに微笑む。

「……つけてくれる?」

「うん」

澪が少し身を寄せる。
僕はそっと、彼女の首元へ手を伸ばした。

指先が、澪の白い首筋に触れた、その瞬間——
世界が、ひっくり返る。

掴まれる感覚。
喉を締めつける力。
母の手。

——消えてしまえ。
——生きる価値なんてない。

「朔くん?」

澪の声が、現実へ引き戻す。
気づけば、手が震えていた。

「……ごめん。ちょっと、手が滑って」

また、嘘をつく。
守るための嘘なのか、逃げるための嘘なのか、自分でもわからない。

澪は何も問わず、ただ穏やかに微笑んだ。

「大丈夫。ありがとう」

その優しさが、胸の奥を締めつける。

——こんな僕に、そんな顔を向けないで。
——優しくしないで。

声にならない叫びが、心の中で崩れていく。

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