濡れた翅のまま、赤い夜に溺れる
俳優・氷月の腕は、救いであり、逃れられない鎖だった。
三十五階の密室で、瑠璃はその甘い支配に、自ら溺れていく——。
俳優×元娼年。歪な独占愛、支配と服従。
※このお話は、別名義でも公開中の作品『愛してると呟く俳優は、僕を35階の部屋に縛りつけた ——飛べない蝶——』の特別編です。
時系列は第1話頃のエピソードになります。
本編を読んだ後に読むと、瑠璃と氷月のことがより深く伝わるかと思います。
なお、成人向けの内容を含みますので、18歳未満の方はご遠慮ください。
『愛してると呟く俳優は、僕を35階の部屋に縛りつけた ——飛べない蝶——』
窓の外は、あの日と同じだった。
すべてを灰色に溶かしていくような雨が、音もなく街を覆っている。
高層マンションの三十五階。
地上を走る車のライトも、人々の傘の群れも、霧の向こうで静かに消えていく。
僕は冷えかけたコーヒーカップを両手で包み、ガラスに映る自分の顔を見つめていた。
——雨が降るたび、あの日が蘇る。
十九歳の冬。
逃げ場を失い、心を死なせて立っていたあの部屋のことを、雨が降るたびに思い出す。
今の僕は、シルクのシャツを纏い、深いソファに沈み、何不自由ない生活を送っている。
けれど窓の外を眺める時の寄る辺なさだけは、あの頃と何も変わっていない気がして、胸の奥が小さく疼いた。
その時、玄関の電子錠が静かな音を立てて解かれた。
「ただいま、瑠璃」
低く、落ち着いた、それでいて劇場の天井まで届くような声。
心臓が一つ、跳ねた。
振り返ろうとした僕よりも早く、背後から冷たい雨の気配を纏った体温が、静かに僕を包み込んだ。
濡れたトレンチコートの袖が肩に触れ、都会の雨と、彼の落ち着いたシトラスの香りが混じり合って鼻をかすめる。
氷月さんは僕の髪に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「……よかった。ちゃんと、ここにいてくれたね」
「……おかえりなさい。撮影、早かったんですね」
「君が恋しくて、巻かせてもらったよ」
彼は静かに続けた。
「雨の日は、嫌いだ。……君が、この雨音に紛れて、どこか遠いところへ消えてしまいそうで。怖くなるんだ」
抱きしめる腕の力が、わずかに強まる。
かつてVIPルームで出会った時の彼は、冷えた僕の手を包んでくれる「救い」そのものだった。
けれど今の彼の腕は、僕をどこへも行かせないための「鎖」だ。
それでも僕は、その鎖を振り解こうとは思わなかった。
「消えたり……しません。僕にはもう、ここ以外に行く場所なんて、ないですから」
「……そうだね。君には僕しかいないし、僕にも君しかいない」
氷月さんは僕の身体をくるりと自分の方へ向けさせ、濡れた額を僕のこめかみに寄せた。
何千回と「愛」を語ってきたであろう俳優の瞳が、今は一点の曇りもなく、ただ僕だけを映している。
冷たい指先が、そっと僕の顎を掬い上げた。
「ねえ、瑠璃。……あの薄暗い部屋にいた頃の君は、今にも壊れそうな捨て猫みたいな目をしていた」
「……氷月さん」
「今はどうだい? 僕に愛されて、僕のそばで生きて。……あの雨の中を、もう二度と歩かなくて済む幸せを、噛み締めているかい」
「……はい。氷月さんのそばにいるのが、僕の幸せです」
嘘じゃない。
けれど、その言葉を口にするたびに、自分の魂が少しずつ、この豪華な鳥籠の床に沈んでいくのを感じる。
それでも僕は、その沈み方が心地いいと思い始めていた。
氷月さんは濡れたトレンチコートを床に脱ぎ捨てると、僕の唇に、深く、静かな口づけを落とした。
窓を叩く雨音はますます激しさを増し、僕たちの孤独を、この高い部屋の中に完全に閉じ込めていった。
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