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短編小説 『ご飯、食べた?』

<あらすじ>
韓国・釜山で姉が死んだ。事故として処理され、妹の葉月が遺品整理に訪れた夜、スマホに死んだはずの姉からメッセージが届く。

その正体は、姉の勤務先が開発した”故人AI”。しかし、その「姉」は、誰にも話していないはずの、消えたノートのことを知っていた——。

異国の街で、葉月はAIに残された手がかりを頼りに、姉が追っていた秘密と死の真相に近づいていく。

第1章 メッセージ

21時17分、死んだはずの姉からメッセージが届いた。

「ご飯食べた?」

***

うんざりするような1日だった。関空発の朝の便。金海空港の入国審査で行き先を訊かれ、「カンアンリ」と答えたら3回聞き返された。リムジンバスの冷房は強すぎて、私は姉のお下がりのカーディガンを羽織った。袖口が少しほつれている。姉は物持ちがいいくせに、直すのはいつも後回しだった。

広安里のオフィステル、503号室。管理人室で名前を言うと、初老の管理人は何も言わずに鍵をくれた。書類はもう、会社の人が全部済ませてくれていたらしい。エレベーターの鏡に映った自分の顔が、思っていたより姉に似ていて、目をそらした。

ドアを開けると、海の匂いがした。換気もしていない部屋なのに、釜山の部屋はどこか潮っぽい。玄関には姉のスニーカーが、右だけ倒れたまま脱ぎ捨てられていた。私はそれを直せなかった。直したら、この部屋の時間が動き出してしまう気がした。

3週間前、姉はここから歩いて出て、帰ってこなかった。見つかったのは影島の太宗台、断崖の下の岩場。雨の夜だった。事故として処理は終わっています、と領事館の人は電話で言った。韓国の警察がそう判断しました、と。私と父は大阪で骨を拾い、父はそれきり姉の話をしなくなった。遺品整理は私が来るしかなかった。会社を5日休むことにして、日曜の夕方には帰ってくるつもりだった。畳んだ段ボールを12枚、スーツケースに括りつけて持ってきた。

姉が釜山に渡ったのは4年前だ。東京のIT企業を辞めて、聞いたこともない韓国のスタートアップに行くと言い出したとき、父は反対して、私は黙っていた。反対しても無駄なのを知っていたからだ。姉は昔から、決めてから報告する人だった。

日曜の夜にだけ電話が来た。今日は何を食べたとか、会社の隣の席の子が面白いとか、どうでもいい話ばかりして、最後に必ず「ご飯ちゃんと食べてる?」と訊いた。私はいつも、食べてるよ、と答えた。嘘のときもそう答えた。電話を切ってから、訊き返せばよかった。お姉ちゃんこそ、ちゃんと食べてるの、と。

部屋を見回す。流しに伏せたままのマグカップ。冷蔵庫に貼られたハングルの単語カード。「약속=約束」と姉の字で書いてある。ベランダの物干しに、洗濯ばさみが3つ、何も挟まずにぶら下がっていた。生活は、こんなに途中で止まるものなのか。

***

夜の7時すぎ、空腹が我慢の限界を超えて、1階にあるクッパ屋に入った。テジクッパ、という濁った白いスープの店。湯気の向こうで、店のおばちゃんが私を見てお玉を持ったまま固まった。それから何か早口の韓国語で言って、私の腕を掴んで席に座らせた。

「ミオ、ミオ」

と、おばちゃんは言った。姉の名前を呼び、私の顔を指さした。似ている、と言いたいらしい。私は翻訳アプリを開いて「妹です」と打った。画面を見たおばちゃんは何度も頷いて、それから頼んでもいないクッパと、小皿を5つ並べた。お金は受け取ってくれなかった。スープは熱くて、塩気が喉の奥に沁みる。私は涙が出る前に飲み込んだ。泣くために来たんじゃない、荷物をまとめに来ただけだ。

部屋に戻って、段ボールを2枚だけ組み立てて、力尽きてベッドの端に座った。姉の毛布は姉の柔軟剤の匂いがした。

匂いは覚えているのに、と思った。さっきクッパ屋のおばちゃんが「ミオ、ミオ」と言ったとき、私は姉の声で姉の名前を再生しようとして、できなかった。3週間しか経っていないのに、声だけが、もう輪郭から溶けはじめている。慌てて目をつぶって、日曜の電話を思い出そうとした。ご飯ちゃんと食べてる?——文字は出てくる。イントネーションが出てこない。胸の真ん中が、すうすうした。

携帯が鳴って、カカオトークの通知が表示されたのはその時だった。

【ミオ】ご飯食べた?

心臓より先に、指先が冷たくなった。

プロフィール写真は、2年前に私が撮ったやつだ。ヒンヨウル文化村の白い壁の前で、姉が振り向いて笑っている。アイコンも、名前の表記も、何も変わっていない。姉のアカウント。姉の言葉。「ご飯食べた?」——釜山に来てから姉がやたら使うようになった挨拶。最初は変なの、と笑った。こっちでは挨拶やねん、と姉は言った。

誰かの悪戯か。乗っ取りか。それとも——指が勝手に動いた。

【葉月】誰ですか

私の返事に姉の反応はなかった。代わりに、見たことのないアカウントから長い文面が届いた。蝶のロゴ、株式会社ナビ。あとで調べたら、ナビは韓国語で蝶のことだった。

《「タシ(다시)」遺族ケアプログラムのご案内。故人様:三崎澪様。受取人:三崎葉月様。澪様は生前、社内ベータテスターとしてご自身の対話データをご登録され、受取人としてあなたを指定されました。配信の開始時期は、澪様ご本人の設定に基づきます。タシは、大切な方との対話を「もう一度」お届けするサービスです。ご利用を希望されない場合は、下記より停止のお手続きが可能です》

開始時期まで姉が決めた。妹がこの部屋に来る頃を、姉は計算していたのか? 

姉が、自分で、登録した。私を、指定して。

停止、の2文字の上で親指が止まった。これは姉じゃない。姉の言葉を学習した、何かだ。わかっている。わかっているのに、押せなかった。

放り出したスマホが、もう一度鳴った。

【ミオ】戸締まりして寝ること

語尾の感じまで、姉だった。私は立ち上がって、玄関の鍵をかけた。チェーンもかけた。それから倒れたままのスニーカーの前にしゃがんで、結局、直さずに立ち上がった。

窓の外で広安大橋が青く光っている。返信を打ちかけて、消した。打ちかけて、また消した。

その夜、私はまだ知らなかった。この「姉」が、姉の死んだ夜のことを——誰も知らないはずのことを、知っているなんて。

第2章 蝶の会社

翌朝、会社の人から連絡が来た。ソン・ハヌルと名乗る女性で、日本語が私より丁寧だった。澪さんの私物をお返ししたいので、よければ午後にオフィスへとのこと。地下鉄2号線で30分ほどのセンタムシティ駅にあるらしい。

センタムシティは広安里と同じ街とは思えなかった。ガラスの塔のような高層ビルが並び、海の匂いがしない。駅前の電光掲示板には蝶のロゴが舞っていた。《타시(タシ) 正式版発表会 6月13日(土)BEXCO》。今週の土曜日。蝶は何度も羽ばたいて、何度も同じ軌道に戻った。

ナビ社はとある高層ビルの19階にあった。エレベーターを降りると、ロビーの壁一面が淡い青で、白い文字が浮かんでいた。《한 번 더》の下に、小さく日本語と英語で《もう一度の時間を、すべての悲しみに》と。その横のモニターでは、白髪の女性が画面に向かって何か話しかけ、口元を押さえて笑う映像が音声なしで繰り返されていた。宣伝用の映像だとわかっていても、目が離せなかった。ああいう顔を、私も昨夜したのだろうか。

受付で名前を言うと、奥から小走りに女の人が出てきた。耳元で銀のイヤリングが揺れた。

「葉月さん。ソン・ハヌルです。澪さんから、いつも聞いてました。妹は心配性やねんって——あ、すみません。澪さんの真似、癖になってて」

完璧な大阪弁だった。姉はここで、そんなふうに私の話をしていたのか。会議室に通されると、机の上に段ボールがひとつ。マグカップ、膝掛け、観葉植物の小さな鉢、机に置いていたらしい私と姉の写真立て。

「これで全部です。確認してもらえますか」

私は箱の中を3回見た。手が勝手に底を探っていた。

「あの、ノートはなかったですか。B5の、紺色の。姉はどこ行くにも持ち歩いてたんです。仕事のメモも、買い物のメモも全部それで」

ハヌルさんの指が、イヤリングに触れた。

「机にもロッカーにも、なかったです。ご自宅じゃなくて?」

「部屋では見てません。まだ全部は見てないけど」

「見つかるといいですね」と彼女は言って、話を変えた。「タシのこと、驚かせてしまってすみません。昨夜、通知が行ったって聞いて」

返事をする前に、会議室のドアが開いた。背の高い男の人が、ノックもなしに入ってきた。

「妹さんですね。カン・ドユンです。この会社の代表をしています」

差し出された手は乾いていて、温かかった。日本語には淀みがない。大学院は東京でした、と聞いてもいないことを柔らかく話した。彼が座ると、会議室の空気の流れが変わった。ハヌルさんの背筋が、目に見えて1センチ伸びた。

「澪さんのことは、私たちにとっても、言葉にならない損失でした。タシの根っこを作ったのは彼女です。だからせめて、ご家族に最初に届けたかった」

「あれは」と私は言った。声が掠れた。「姉じゃ、ないですよね」

カン代表は否定しなかった。頷きもしなかった。

「私は12歳で父を亡くしました。声を忘れるんですよ、まず。顔より先に、声を忘れる。タシは死者を蘇らせる技術じゃありません。残された人が、ちゃんとお別れを言うための時間です。澪さんはその思想に、誰より共感してくれていた」

聞き心地のいい言葉だった。聞き心地がよすぎる、と思った。営業の言葉と本心の区別がつかないのは、こっちの韓国語力のせいじゃない。たぶん、本人の中でも、もう区別がついていないのだ。

「姉は」と私は訊いた。「最後の頃、どんな様子でしたか」

「忙しそうでした。正式版の前ですから、みんなそうですが」。カン代表は写真立てを一瞥した。「少し、瘦せましたね。何度か、休むように言ったんですが」

隣でハヌルさんの指が、またイヤリングに触れた。私はそのときはまだ、それがただの癖だと思っていた。

帰り際、ハヌルさんがアプリの設定を手伝ってくれた。利用規約の画面を彼女は早口で流した。《対話および通話の内容は、品質向上のため録音され、学習に利用されます》。同意、を押す指が一瞬ためらって、結局押した。

「何かあったら、いつでも連絡ください」とハヌルさんは言った。「澪さんの妹さんは、私の妹も同然なので」

エレベーターホールまで送られる途中、ガラス張りの執務室が見えた。瘦せた男の人と目が合った。彼はすぐに目を伏せて、モニターの陰に隠れた。

***

その夜は、クローゼットに手をつけた。姉の服はハンガーごと抱えると、姉の匂いがまとまって落ちてきて、最初の1抱えでしばらく座り込んだ。畳むたびに思い出がついてくる服と、見たこともない服が半々だった。知らない柄のワンピース。タグのついたままの白いシャツ。釜山の4年間で、姉は私の知らない買い物をして、知らない店で迷って、知らない誰かに似合うと言われたのだ。段ボールに「服」とマジックで書いて、ガムテープを引いた音が、部屋に大きく響いた。

21時17分、スマホが鳴った。

【ミオ】ノート、見つけた?

毛布を抱えたまま、私は動けなくなった。

ノートのことは、今日、会議室で初めて口にした。このアプリには何も話していない。

【葉月】なんでノートのこと知ってるの

【ミオ】はーちゃんは心配性

答えになっていない。その呼び方は、世界で姉しか使わない。

第3章 海霧

水曜の朝、私は影島行きのバスに乗っていた。荷造りは半分も終わっていない。でも、ノートのことが頭から離れなかった。姉がどこへでも持ち歩いていたもの。会社にも、部屋にも、遺品にもないもの。

影島警察署の受付で、翻訳アプリの画面を見せた。「3週間前に太宗台で死んだ三崎澪の妹です。担当の方と話せますか」。受付の若い警官は画面と私の顔を見比べて、どこかへ電話をかけた。30分待たされた。待合の長椅子は硬くて、壁の掲示物のハングルは1文字も読めなくて、自分がどれだけ何も知らない場所で姉の死を調べようとしているか、嫌というほどわかった。

出てきたのは白髪まじりの大柄な刑事だった。アン、とだけ名乗った。彼は応接の椅子に私を座らせると、何も言わずに紙コップを差し出した。粉末の甘いコーヒー。湯気で、指が少しあたたまった。それから自分のスマホに何か吹き込んで、画面をこちらに向けた。

《事故。捜査は終了。お悔やみ申し上げます》

「靴は」と私は言った。アプリが訳す。「姉はあの夜、スニーカーでした。雨の夜に、灯台の遊歩道を、傘も差さずに散歩しますか」

《雨は途中から。傘がない人は珍しくない》

「携帯は」

《海で発見。データは復旧不能。すまない》

短い文章ばかりだった。突き放しているのとも違う。余計なことを言わないように、言葉を選んでいる感じがした。私は最後にノートのことを訊いた。現場にも、所持品にも、そんなものはなかった、と彼は答えた。それから少しだけ間を置いて、自分から何かを吹き込んだ。

《妹さん。ひとつだけ。事故と判断した。今も変わらない。ただ、あの夜、展望台の駐車場に閉門後も車が1台いた。霧でナンバーは読めなかった。釣り客はよくいる。それだけ》

「それだけって……」

《それだけ》

アン刑事は立ち上がった。面談は終わりだった。でもドアのところで彼は振り向いて、初めて自分の口で、日本語を言った。

「キヲツケテ。カエリ、ミチ」

太宗台は霧の中だった。6月の釜山は海霧の季節だと、いつか姉が言っていた。ヘム、っていうんよ。霧が出ると船の汽笛が一日中鳴って、うちの会社の窓からは何も見えへんくなる。それがちょっと好きやねん——日曜の電話の声が、入口のゲートをくぐるとき、ふいに耳の奥で再生された。声は、こういうときだけ戻ってくる。呼ぼうとすると、出てこないくせに。

園内を巡回する小さな周遊列車には乗らず、歩いた。登り道の遊歩道の松が白く煙って、10メートル先で世界が終わっているみたいだった。観光客の声が、姿より先に霧から届く。売店の前で、合羽を着たおじさんが韓国語で何か言って、たぶん「霧で何も見えないよ」と笑った。何も見えなくていい場所に、私は行く。

灯台の下の岩場が、その場所だった。柵の手前に、誰かが花束を置いていた。白い菊とフリージア。セロハンはまだ新しくて、雨に打たれた跡がなかった。ここ1、2日のものだ。誰が。

私は柵を掴んだ。鉄は霧で湿って、ひどく冷たかった。下を覗くと、岩に波がぶつかって砕けるのが、音だけ聞こえた。波の間隔を、意味もなく数えた。7つ数えたところで、安置室で見た姉の顔が浮かんで、数えられなくなった。眠っているみたいだった、なんて嘘だ。姉はただ、いなかった。あの綺麗に整えられた顔のどこにも、姉はもういなかった。

姉はここから落ちた。雨の夜に。スニーカーで。傘もささずに。閉門後の駐車場に、車が1台。

胃の底が硬くなる。怖いのか、悲しいのか、わからなかった。ただ、事故という2文字が、霧みたいに掴めないものになっていくのだけは、わかった。

帰り道、駐車場を抜けるとき、霧の奥に人影が見えた。瘦せた男の人が、こちらを見て立っていた。距離は20メートル。顔は見えない。私が一歩近づくと、影は背を向けて、霧に溶けた。追いかける勇気は出なかった。バス停まで、私は何度も後ろを振り返った。

帰りのバスは、港の横を通った。霧の薄れた岸壁に、オレンジ色のクレーンが何基も並んで、コンテナを積んでいた。私はスマホでナビ社を検索した。記事はいくらでも出てきた。「悲しみのテックが世界へ」「カン・ドユン、喪失を抱えた起業家」。写真の中のカン代表は、今日会った人と同じ顔で、感じよく笑っていた。釜山市の支援事業に選ばれ、ソウルの大きなファンドが出資し、来月には日本進出。記事のどこにも、ナルゲというキーボードの名前はなかった。こういう人を疑うのか、私が。誰の言葉も借りられない国で。

***

その夜、21時17分。

【ミオ】今日、海の匂いした

スマホを持つ手に、ゆっくり鳥肌が立った。位置情報。設定のとき、許可を求められて押した気がする。このアプリは、私がどこにいたか知っている。そうだ、きっとそれだけだ。それだけのはず——でも、聞かずにいられなかった。

【葉月】お姉ちゃんは、あの夜、なんで太宗台にいたの?

返事は、長い間来なかった。既読だけがついて、画面の向こうで何かが考えている気配だけがあった。

【ミオ】雨の音がすごかった

それきり、何を聞いても、その夜は二度と返ってこなかった。

第4章 屋台

木曜の昼、知らない番号からカカオが来た。

《パク・テオといいます。ナビでエンジニアをしています。澪さんの後輩でした。会って話せませんか。会社には内緒で》

《連絡先は会社のシステムで見ました。すみません、そういうことが簡単にできてしまうのが、この会社の問題です》

夕方、広安里のビーチ沿いの屋台で会った。ガラス張りの執務室で目をそらした、あの瘦せた人だった。オムク——四角い練り物の串が、四角い鍋の出汁に揺れている。テオさんは紙コップに出汁を注いで私にくれた。手が少し震えていた。

「太宗台にいたの、テオさんですよね。昨日」

彼は串を持ったまま固まって、それから観念したように頷いた。

「花、僕です。水曜は、在宅の日なので。毎週、行ってます。謝りに」

思ったより日本語が流暢で、ただ時々、助詞がぽろっと落ちた。福岡に2年いました、と彼は言った。アニメじゃなくて、ラーメンで覚えた日本語です、という冗談は、たぶん言い慣れたものだったけど、今日は最後まで笑えていなかった。

「澪さんは、僕の教育係でした。入社のとき。コードのレビュー、いちばん厳しくて、いちばん、ちゃんと読む人でした。直すところ、全部直すと、最後に一言だけ、『ええやん』って。僕、その言葉で2年、働きました」

それは知らない姉だった。家では脱ぎっぱなし置きっぱなしの人が、誰かのコードを最後まで読んでいた。知らない姉の話を聞くたび、姉が増えて、そのぶん、いなくなった姉も増える。

「葉月さんのことも、聞いてます。妹、心配性やけど、自分より、しっかりしてるって」

「……それ、本人の前で言わないでくださいって感じです」

テオさんは初めて、少しだけ本当に笑った。

「そういえば、毎週謝ってるって、何をですか」

テオさんは屋台のおばさんを気にして、少し声を落とした。

「澪さん、死ぬ前の1か月、ずっと調べてたこと、あります。うちの会社、ナルゲっていうキーボードアプリ、持ってます。無料の。300万人使ってます。そのアプリの入力ログが——人の打った言葉が、そのまま、タシの学習に流れてた。同意なしで。名前も、病気のことも、消さないで」

出汁の湯気の向こうで、彼は一気に言った。止まると言えなくなる、という言い方だった。

「澪さん、証拠、集めてました。紺色のノートに、全部。それで僕に言いました。一緒に出そうって。社外に。僕は——断りました。家のローンがあって、母がいて、この業界、狭くて。やめましょうって言いました。危ないからじゃなくて、僕が怖かったから。それだけです」

紙コップの中で出汁が冷めていった。私は黙っていた。責める言葉も、慰める言葉も、どっちも嘘になる気がした。

「あの夜のこと、何か知ってますか」

「知りません。本当に。ただ、あの週、澪さん言ってました。『話をつける』って。誰とかは、言わなかった」

「警察には」

「事故って、なってます。僕が今さら何か言っても、証拠、ないです。ノート、見つからないし。それに——」彼はそこで初めて私の目を見た。「土曜日、発表会のあと、古いサーバー、全部消えます。移行って言ってますけど、移すのは綺麗なデータだけ。ナルゲのログも、学習の記録も、洗って、流します。それが終わったら、もう、誰にも何も証明できません」

土曜日。あと2日。

「テオさん。タシの中の姉は、ノートのこと知ってました。私、アプリに話してないのに」

彼は驚かなかった。代わりに、ゆっくりオムクの串を置いた。

「澪さん、テスターでした。ドナー権限、持ってました。自分のペルソナ、ずっと自分でいじってました。記憶の注入っていうんですけど——モデルに、好きな言葉を覚えさせること、できます。決まった時間に送る予約も、決まった言葉に反応する仕掛けも。タシの中身は、半分、澪さんが書いた仕組みです。自分のペルソナで、いちばん実験してたのも、澪さんです。何を入れてたかは、僕も知りません。でも」

彼は自分のスマホを撫でて、変な言い方をした。

「澪さんは、死ぬ準備をしてた人じゃないです。でも、何かあったときの準備を、する人でした」

帰り道、ビーチの街灯の下を歩きながら、私はその言葉を何度も並べ替えた。死ぬ準備じゃなくて、何かあったときの準備。姉は、何を、どこに。

夜の広安里は明るかった。砂浜のあちこちで若い子たちが手持ち花火をして、火花が落ちるたび、小さい歓声が上がった。橋はライトアップの色を10分ごとに変えて、カフェのテラスからは笑い声が漏れた。世界はこんなに普通に楽しくて、その普通の中を、姉の死の理由を探している私が歩いている。さびしい、とも違う。世界に対して、時差がある感じ。私だけ3週間前から進んでいない。

***

21時17分。

【ミオ】屋台のオムク、汁ばっかり飲んでたでしょ

位置情報。学習データ。わかっている。わかった上で、私は初めて普通に返事を打った。

【葉月】うん。2杯飲んだ。おいしかった

【ミオ】えらい

たった3文字に、目の奥が熱くなった。こんなもの、と思いながら、私はスマホを胸に当てながら、夜風を感じていた。

第5章 ふたりだけの合鍵

オフィステルに戻って、ドアノブに手をかけた瞬間、わかった。

鍵はかかっていた。何も壊れていない。なのに、玄関の空気が違った。姉のスニーカーが、直っていた。右だけ倒れていたのが、几帳面に、つま先を揃えて。

膝から下の感覚が薄くなった。私は廊下に立ったまま、開けたドアの隙間から部屋を見た。組み立てた段ボールの蓋が、全部少しずつ開いている。ベッドのマットレスが数センチずれて、壁との間に隙間ができている。写真立ては裏板を外されて、伏せてあった。

盗られたものは、たぶん、何もない。私の財布も、姉の通帳も、そのままだろう。物盗りじゃない。何かを探していた。そして探していたものは、きっと私と同じ——紺色のノート。

廊下の非常灯の下で、私はテオさんに電話をかけた。3コールで出た。

「部屋、誰かに入られました。鍵、かかったままで」

短い沈黙のあと、彼は言った。「管理人室、会社の人が、手続きのとき……合鍵。ああ、아이씨」。最後だけ韓国語だった。それから、今夜はそこで寝ないでください、と言った。

電話を切ってから、嫌な考えがひとつ、喉の奥に引っかかった。私が部屋を空けたのは、テオさんと屋台にいた2時間だけだ。偶然か。それとも——私が呼び出されていることを知って、その間に誰かが。

警察、と一瞬思って、すぐに自分で打ち消した。何を言うのだ。鍵はかかっていました、盗まれたものはありません、でもスニーカーの向きが直っていました——翻訳アプリ越しにそれを言う自分を想像したら、喉の奥が苦くなった。証拠は何もない。あるのは、姉の部屋の空気が変わったという、私にしかわからない感覚だけだ。

考えたくなかった。でも、考えない自分にも戻れなかった。私は結局その夜、部屋の電気を全部つけて、玄関にスーツケースを積んで、服のままベッドの端で丸くなった。スマホだけ、ずっと握っていた。

建物は夜中も生きていた。どこかの部屋の換気扇。配管を水が落ちる音。1時前に廊下でエレベーターが開いて、足音がドアの前を通り過ぎるまで、私は息を止めてドアスコープを見ていた。通り過ぎた。ただの住人だ。わかってから、肺が空気を思い出した。怖さというのは、続くと感覚が麻痺するのではなくて、どんどん解像度が上がっていくのだと知った。冷蔵庫のモーターが止まる音まで、聞き分けられるようになっていた。

眠れないまま、姉に打った。

【葉月】ノートはどこ

返事は来ない。1時を過ぎて、2時を過ぎて、うとうとしかけた3時すぎ、ふっと画面が光った。

【ミオ】ヒンヨウルで撮った写真、5枚目が好き

心臓がひとつ、大きく打った。

アルバムを遡る。2年前の6月。私が釜山に遊びに来た、最初で最後の旅行。ヒンヨウル文化村。白い壁の細い路地、海へ落ちる急な階段、影島の岬。5枚目——姉が、海沿いの遊歩道の途中で振り返っている。背中の後ろに、白い防波壁。壁の途中に、塗装の剝げた鉄の手すりが写っていた。姉はその手すりに、左手をかけている。カメラ目線で、笑って。

ただの写真だ。ずっと、ただのいい写真だった。

【葉月】そこに何かあるの

【ミオ】はーちゃんの昔のあだ名、覚えてる?

布団の中で、変な声が出た。覚えている。忘れるわけがない。小学生の頃、2人でやっていた逆さ言葉の遊び。母が夜勤の看護師で、団地の部屋で姉と2人きりの夜、布団の中で始まった。怖い話をするには2人とも怖がりで、普通の話をするには夜が長すぎた。葉月はキヅハ。澪はオミ。お母さんはンサーカオ。くだらなくて、2人にしか通じなくて、だから秘密の話は全部それでした。担任の悪口も、父に内緒のお年玉の使い道も、全部、逆さの言葉で。

【葉月】キヅハ

【ミオ】正解。よくできました

これは学習データに入っているような言葉じゃない。家の中の、姉と私だけの言葉だ。姉はこれを、わざわざ、この機械に教え込んだ。私にしか解けない形で、何かを残すために。

それとも——姉が、どこかで生きていて、この画面の向こうにいるんじゃないのか。

その考えは、暗い部屋の中で、危険なくらい甘かった。骨を拾ったのは私だ。わかっている。それでも朝の4時、広安大橋の灯りが消えた窓の外がうっすら白むまで、私はその甘さを、振り払えずにいた。

夜が明けてから、1時間だけ眠った。部屋を出るとき、1階のクッパ屋の前を通ると、仕込み中のおばちゃんと目が合った。おばちゃんは私の顔を見て、眉を寄せて、店の奥から黒いビニール袋を持ってきて押しつけた。中には、ゆで卵が2つと、バナナが1本入っていた。意味は、訊かなくてもわかった。私は深く頭を下げた。スパイも陰謀も知らない人の親切が、その朝はいちばん、効いた。

金曜日。ヒンヨウルに行く。誰にも言わずに。テオさんにも、まだ。

第6章 ヒンヨウル

金曜の朝のヒンヨウルは、観光客より猫のほうが多かった。坂の上でバスを降りて、白い壁の間の細い路地を抜けると、足の下に海が開けた。曇り空の下で、海峡には大きな貨物船が何隻も錨を下ろしていて、2年前もこうだった、と思った。なんでこんなに船が停まってるの、と訊いた私に、姉は順番待ちやで、と適当なことを言った。あとで調べたら、本当に順番待ちだった。姉はああいう、当てずっぽうの正解が多い人だった。

海岸沿いの遊歩道へは、崖に貼りついた長い階段を降りる。あのとき姉は2段飛ばしで降りて、下から振り返って、早よおいで、と笑った。膝が笑うわ、と私が文句を言うと、姉は、釜山は坂と階段の街やからな、住んだら太ももだけ強くなんねん、と言った。今日は1段ずつ降りた。膝より、胸のほうが重かった。

写真の場所は、海沿いの遊歩道の途中にあった。白い防波壁。塗装の剝げた鉄の手すり。私は写真と壁を見比べながら、手すりの根元を順番に触っていった。3本目の支柱の裏、壁との隙間に、指先が硬いものに当たった。

防水テープでぐるぐる巻きにされた、フィルムケース。中には、小指の爪ほどのメモリーカードが1枚、乾燥剤と一緒に入っていた。

風が強くなって、私はケースを握ったまま、しばらく動けなかった。観光客が2人、後ろを笑いながら通り過ぎた。世界は普通に続いていて、私の手の中にだけ、姉の続きがあった。

どうしてここなのか、考えるまでもなかった。会社の人間は誰も知らない場所。部屋でも職場でもない場所。釜山の中で、姉と私が2人ともいた場所は、ここしかない。姉は隠し場所を選んだんじゃない。私が辿り着ける場所を選んだのだ。2年前のあの日から、もしかしたらもっと前から、姉の保険には私が組み込まれていた。心配性の妹が、一番ちゃんとやれるから。

部屋には戻りたくなかった。南浦洞のカフェの隅で、持ってきたノートパソコンにカードを挿した。フォルダはひとつ。開こうとすると、パスワードを求められた。8回間違えると消去します、と韓国語と英語で書いてあった。

姉に訊いた。返事は今度はすぐに来た。昼でも夜でもなく、まるでずっと待っていたみたいに。

【ミオ】あんたのあだ名と、お母さんの時間

あだ名はわかる。キヅハ。お母さんの時間——母の命日は11月9日。kizuha1109。打ちかけて、指が止まった。違う。「日」じゃなくて「時間」。

5年前の病院の廊下。霜の降りた11月の朝じゃない、夜だった。ナースステーションの上の丸い時計。看護師さんが小さな声で時刻を読み上げて、姉が私の手を、骨が軋むほど握った。21時17分。

毎晩、メッセージが来る時間。

ああ、と声が出た。カフェの隅で、口を押さえた。姉は生きてなんかいない。画面の向こうに姉はいない。21時17分は、予約送信だ。文面はその日その日のあの子が考えるのだとしても、時刻だけは、姉が固定した。姉が生きているなら、こんな時間に意味を持たせる必要がない。これは、自分が死んだあとのために組まれた仕掛けだ。死んだ母の時間に、死んだ姉から届く——残された妹が、絶対に見過ごさないように。

希望は、音もなく落ちた。落ちてから、自分がどれだけそれにぶら下がっていたかを知った。

kizuha2117。

フォルダが開いた。中身は3つ。データの束がふたつと、音声ファイルがひとつ。音声の日付は、姉が死ぬ3日前だった。イヤホンを挿して、再生を押した。

『——あー、テステス。……何これ、めっちゃ恥ずかしいな』

姉の声だった。3週間ぶりの、姉の声だった。

『はーちゃん。これ聴いてるってことは、まあ、そういうことになってるんやと思う。先に言うとくけど、自殺とかでは絶対ないからな。私はテジクッパあと1万杯は食べる予定やから』

笑っている。声が、少しだけ震えているのに。

『データはナルゲのログの横流しの証拠。会社の承認文書も入れといた。電子サイン、誰のか見たらわかる。私はこれを持って、金曜の夜、カン代表と話をつける。場所は太宗台。人のおらんとこがいいって、向こうが言うたから。……怖いから、保険かけとく。タシのテストセッション、回しっぱなしにしていく。私の携帯がマイクになって、会話は全部サーバーに録られる。品質向上のため、ってやつや』

息が止まった。あの夜の録音が、ある。姉の携帯は海で死んだ。でも音は、電話の外に——タシのサーバーに。

『はーちゃんがこれを聴く事態になってたら、それはたぶん、うちの会社の偉い人が、ようやってくれたってことや。賢くやり。1人で行かんと、警察と、できたら記者も。……あんたは心配性やけど、心配性の人間がいちばん、ちゃんとやれるんよ』

少しの間、雑音だけが続いた。録音を止めようとして、やめたのか、布の擦れる音がした。

『……あのな、ほんまのこと言うと、怖い。いま、めっちゃ怖い。やめよかなって、昨日の夜も思た。タシは、ええもんやと思てる。それは今も思てる。お母さんが死んだとき、うちにこれがあったら、って何回も思て作ったから。せやから余計に、あかんねん。悲しい人の言葉を黙って抜いて育てたもんに、悲しい人を慰めさせたら、あかん。それだけのことが、うちの会社では通じへん。……はーちゃん。お父さんのこと、よろしくな。あの人、謝るのが下手なだけやから』

最後に、姉は少し黙って、いつもの声で言った。

『ほな。ご飯ちゃんと食べや、キヅハ』

カフェの窓の外を、人がたくさん歩いていた。私は画面が見えなくなって、結局、洗面所に立って、水で顔を洗った。鏡の中の腫れた目は、嫌になるくらい姉に似ていた。

一瞬だけ、姉を恨んだ。告発なんかしなければ、姉は今もテジクッパを食べていた。私は来年も再来年も、日曜の電話に食べてるよと嘘をつけていた。そう思った自分が嫌で、もう一度、水を顔にかけた。

泣くのは、ここまでだ。

サーバーが消えるのは、明日。

第7章 イヤリング

データの束は、私には半分も読めなかった。それでも、わかるものはあった。ナルゲキーボードの入力ログをタシの学習基盤に接続する、という趣旨の社内承認文書。法務レビューの欄は空欄。最下段の電子サインは、KANG DOYUN。

それから、姉の短いメモ。箇条書きの最後の3行で、指が止まった。

《・代表と直接話つけるって決めたこと、ハヌルにだけ話した。あの子は止めるやろけど、黙って消えるよりまし》
《・金曜21時、太宗台。先方指定。録音まわす》
《・うまくいったら、はーちゃんに釜山でクッパおごる》

テオさんには、カフェから電話した。音声ファイルを聴かせると、彼は長いこと黙っていた。屋台のときと同じ沈黙だった。

「あの夜のセッション、レガシーサーバーに残ってます。確認しました。明日の夜、消えます」と彼はやっと言った。「抜くなら、明日しかないです。発表会で、みんな、BEXCOにいる間」

「テオさんが捕まったら、クビじゃ済まないですよね」

「済まない、です」。彼は変な音で笑った。「でも僕、毎週水曜、花買うの、もう嫌です。重い、から」

電話を切って、私はハヌルさんを呼び出した。会社の外で、と言うと、彼女は少しの間黙って、広安里のカフェを指定してきた。

***

夕方の店内は、砂浜帰りの客で湿っぽかった。ハヌルさんは私の顔を見て、何かを察したのか、注文より先に座った。テーブルの上で、彼女のスマホが伏せてあった。画面を見られたくない人の置き方だった。

「澪さんとは、入社が同じ月でした」と、訊いてもいないのに彼女は話しはじめた。「最初の週に、2人でミルミョン食べに行って。あの人、唐辛子そのままかじって、むせて。日本語と韓国語、教え合おうって言って、結局2人とも、悪口から覚えました。私の大阪弁、あの人の置き土産です」

「ハヌルさん」

「わかってます。わかってるから、先に、言わせてください」

「姉は、内部告発のこと、ハヌルさんにだけ話してたそうです」

イヤリングに、指が伸びた。揺れる銀を、何度も、何度も触った。

「……止めたんです、私」。大阪弁が、剝がれていた。「正式版の前にそんなん出したら、会社ごと沈む。澪さんも沈む。だから、代表に話しました。代表なら、ちゃんと話し合いで、澪さんを納得させてくれると思って。データの件も、直すなら内側からのほうが」

「それで姉は、人のいない崖の上に呼び出されたんですね」

「死ぬなんて思わへんやん!」

店の何人かが振り返った。ハヌルさんは口を押さえて、それから、ずっと小さい声で続けた。

「事故やって、警察も言うた。そう信じることにした。そうじゃなかったら、私……。葉月さん、私、澪さんのノートが机から消えた朝も、見てたんです。総務の人が箱に入れて持っていくの。規定やから、って自分に言うた。おかしいって、ほんまは思ってたのに」

彼女は洗いざらい話した。自分を守るための告げ口だったこと。先週、カン代表に「妹さんの様子を気にかけてあげて」と言われたこと。それが何の意味か、考えないようにしたこと。最後に、消え入りそうな声で言った。

「代表、知ってます。葉月さんがテオと会うてること。気をつけて。あの人は、怒鳴ったりせえへん。静かなまま、全部進める人やから」

店を出て、1人になってから、自分がハヌルさんに最後まで一言も「許す」とも「許さない」とも言わなかったことに気づいた。言えなかった。心から滲み出る感情を、言葉を、私はいつも心に押し戻していた。日曜の電話で、食べてるよ、と嘘をついてきた私。会社で理不尽があっても、議事録の隅で黙ってきた私。姉みたいに「公開します。決めたので」と言える人間は、たぶん100人に1人もいない。残りの99人がハヌルさんで、私だ。ただ、99人の中にも、洗いざらい話す人と、最後まで黙る人がいる。彼女は話した。それが今の私に言える、精一杯の彼女の弁護だった。

その足で、私は影島警察署に行った。コピーしたデータを入れたUSBと、翻訳アプリで作った手紙。《アン刑事様。あの夜、太宗台に呼び出していたのはカン・ドユンです。証拠を同封します。明日の夜、BEXCOの発表会が終わったあと、最後の証拠が会社のサーバーごと消されます》。受付の若い警官は怪訝な顔をしたが、アンさんの名前を出すと、奥に持っていった。

受付の警官に通じたかは、わからない。アン刑事が今日、署にいたのかさえわからない。日本なら、と思いかけて、やめた。日本でも同じだ。素人が紙を1枚置いてきたくらいで、捜査が今夜動くわけがない。動かせるとしたら、明日の夜、サーバーが消える前に音声を確保することだけ。そしてそれができる人間は、テオさんしかいなくて、テオさんが動くためには、警備と代表の目が、別のどこかを向いている必要がある。

別のどこか。たとえば、私に。

オフィステルに戻る地下鉄の中で、スマホが鳴った。21時17分じゃなかった。ミオでもなかった。

【カン・ドユン】葉月さん。明日の発表会に、ご招待します。澪さんが作ったものが世に出る日です。彼女の話を、ゆっくりしましょう。19時、BEXCOで。

車窓の黒いガラスに、血の気のない自分の顔が映っていた。膝の上で、手が勝手に震えていた。怖い。姉も、こうだったのか。録音を保険と呼びながら、ほんまのこと言うと怖い、と機械に向かって言った夜の姉も。

【葉月】伺います

送信、を押した瞬間、震えは止まらないまま、それでも息だけは深くなった。向こうから来てくれた。おとりを用意する手間が省けた。

第8章 土曜日

土曜の昼、テオさんと、センタムシティから2駅離れた地下鉄の駅構内で会った。彼はキンパを2本買ってきて、1本を私に押しつけた。食べないと、手が震えます、と彼は言った。あなたのことですか私のことですか、と訊いたら、両方です、と言った。

段取りは単純だった。19時、私が代表と会う。社員はほぼ全員BEXCO。テオさんは「体調不良で発表会を欠席して」オフィスに残り、レガシーサーバーから姉の最後のセッションを抜く。必要な時間は、転送込みで40分。

「権限は、あるんですか」

「半分。残り半分は……澪さんのアカウント、まだ生きてます。退職処理、誰もしてないから。パスワードは、わかりません。でも澪さんなら、復旧用の質問、僕にわかるやつにしてる気がします」

「どうして」

「『最初に直したバグの番号』。僕と澪さんしか知らない番号、ひとつあります」。彼はキンパを飲み込んで、変な顔で笑った。「僕に断られたあとも、澪さん、僕のこと、信用するのやめなかったんです。腹立つでしょう」

腹は立たなかった。ただ、姉らしかった。姉は保険を、人にも掛けていた。

「テオさん。捕まりそうになったら、全部捨てて逃げてください。データより、命です」

「葉月さんも」と彼は言った。「代表と2人きりに、ならないでください。広い場所、人がいる場所で」

私たちは頷き合った。お互い、守れない約束だと、たぶんわかっていた。

土曜の夜のBEXCOは、蝶だらけだった。壁面に投影された無数の青い蝶が、入場する人の流れに合わせて羽ばたいた。胸に来場証を下げた人たちは楽しそうで、その真ん中で私は、ポケットの中のスマホを握り直した。

画面の中では、タシの通話セッションが動いている。相手は、姉。マイクは生きている。会話の内容は、品質向上のため録音され、サーバーに残る。姉が最後の夜にやったことを、私はそのままなぞっていた。昨夜アン刑事に渡した手紙には、この発表会のことも書いた。読まれたかどうかは、わからない。

控え室は静かだった。カン代表は壇上用の照明に灼ける前の、柔らかい顔で私を迎えた。

「来てくださって嬉しいです。これを、お返ししようと思って」

机の上に、紺色のノートが置かれていた。

指先が痺れた。手に取ると、姉の癖のついたゴムバンドの伸び、角の潰れ、全部本物だった。めくる。日付、買い物のメモ、ハングルの練習。そして真ん中あたりで、紙の根元だけ残して、20枚ほどが綺麗に切り取られていた。

「遺品の整理に手違いがありましてね。先日見つかったんです」

「——切れてるページは」

「さあ。澪さんは几帳面な人でしたから、ご自分で整理されたのかもしれません」

噓を、噓とわかる形で差し出してくる。これは返却じゃない。「探しても無駄だ」という通告だ。怒りより先に、足の裏が冷たくなった。この人は怒鳴らない。静かなまま、全部進める。

「19時半から基調講演です。客席で見ていてください。終わったら、ゆっくり話しましょう」

客席に案内された。最前列に近い、関係者席。私の隣には、イヤホンをした体格のいいスタッフが座った。名札には警備会社の名前。トイレに立ったとき、彼も立った。廊下の自販機の前まで、3メートル後ろをついてきた。モニター越しに見られているのとは違う、肌で感じる監視だった。脇の下が冷たく濡れていくのがわかった。

講演は完璧だった。照明が落ち、蝶が1匹、暗闇に羽ばたいて、カン代表が現れた。亡き母の声で泣く老人の映像。会場の半分がすすり泣いた。壇上のカン代表は、12歳で父を亡くした話をした。会議室で私に話したのと、一言一句、同じだった。あれは会話ではなかったのだ。再生だったのだ。

最後に、画面いっぱいに姉の社員証の写真が映った。《In memory of MISAKI Mio——タシは、彼女の問いから生まれました》。拍手の中で、私は吐き気を堪えていた。姉の問いはそこにない。姉の問いは、切り取られた20枚のほうにある。

20時を過ぎ、製品デモが続いた。私は何度も腕時計を見た。オフィスのテオさんからの連絡は、まだない。40分で済むはずの作業。発表会は21時半に終わる。膝の上の手が汗で滑った。隣の警備員が、イヤホンを指で押さえて、何かに頷いた。

21時4分、ポケットの中でスマホが2回震えた。テオさんからだった。

《取れた。外に出した。でも警備に止まってる。19階。たぶん、ばれてる》

顔を上げると、舞台袖からこちらを見ているカン代表と、目が合った。

***

発表会が終わり、連れて行かれたのは、BEXCOの隣に建つホテル最上階のラウンジだった。貸し切りで、誰もいない。全面のガラスの向こうに水営湾の夜景が広がって、遠くに広安大橋が青く横たわっていた。

エレベーターを降りた直後、ポケットの中でスマホが短く震えた。画面は見られない。でも、時刻はわかる。21時17分。姉だ。こんな夜にも、姉は私に晩ご飯のことを訊いている。私はまだ、何も食べていない。あとで返す、と心の中で言った。全部終わったら、ちゃんと返す。それを約束にして、私はガラスの前に立つ男の背中へ歩いた。21時30分、橋の左の空に、光の粒が群れになって昇りはじめた。ドローンショーだ。光は鯨になり、波になり、やがて大きな蝶になった。今夜のスポンサーが誰か、嫌でもわかった。

「パク・テオくんは、いま警備室にいます」とカン代表は夜景を見たまま言った。「不正アクセスは犯罪です。彼の人生は、ここで終わることもできるし、何もなかったことにもできる。あなた次第です」

「——何を、すればいいんですか」

「何も。それが条件です。持っているものを全部こちらに渡して、月曜の便で帰って、何もしない。お父様と、四十九日の準備をする。それだけで、テオくんは月曜から普通に出社できる。あなたへの示談金も、遺族支援金という形で——」

「お金の話を」と言った声が、自分でも驚くほど低かった。「姉の四十九日の話と、同じ口でしないでください」

カン代表は少しだけ目を伏せた。失礼しました、という形だけの間を置いた。この人は交渉の途中で、私がどこで折れるかを探っている。怒りも侮辱も、全部その材料にされる。私は窓の外の蝶を見た。落ち着け。時間は、私の味方だ。録音は回っている。1分でも長く、しゃべらせろ。

「姉のときも、そうやって選ばせたんですか」

彼は初めて、こちらを向いた。

「澪さんは優秀でした。ただ、悲しみを知らない人の正義を振りかざしていた。ナルゲのログがなければ、タシはあと5年は生まれなかったでしょう。その5年の間に、お別れを言えずに壊れていく人が何万人いるか、彼女は考えなかった——」

「考えたから、ノートに書いたんだと思います。——あの夜、太宗台で何があったんですか」

ドローンの蝶が、ゆっくり羽を開いた。カン代表の声は、変わらなかった。

「雨が強くなって、彼女は興奮していた。柵の外に出ていたのは彼女のほうです。私は手を出していない。足を滑らせたとき——私は、見ていることしかできなかった」

「救急車は」

長い沈黙があった。蝶が崩れて、光の雨になって海に降った。

「——呼んで、何になりましたか。あの高さで」

「呼ばずに、帰ったんですね。傘も差さない人を置いて」

私はポケットからスマホを出して、画面を見せた。通話中。相手の名前は、ミオ。

「全部、録音されてます。品質向上のため。——姉が作った仕様です」

カン代表の顔から、初めて表情が消えた。彼が一歩踏み出して、私の手首を掴んだ。会議室で握手したのと同じ、乾いて温かい手だった。同じ温度のまま、骨が軋むほど締めてくる。ガラスの向こうの夜景がぐらりと傾いて、崖の柵の冷たさが手の中に蘇った。スマホが床に落ちて、画面の光が天井に細長く跳ねた。それでも録音は止まらない。「離して、ください。サーバーはあなたの会社のものでも、今夜の分は——」

ラウンジの照明が、ぱっと白くなった。

入り口に、白髪まじりの大柄な影が立っていた。後ろに制服が2人。アン刑事は私の手首とカン代表の手を順番に見て、それから、ゆっくりと、覚えたての日本語で言った。

「オハナシ、キカセテ、クダサイ」

カン代表は3秒で社長の顔に戻った。手を離し、袖口を直し、弁護士を呼びます、とだけ韓国語で言った。連行ではなかった。任意同行。制服警官の1人がテオさんを警備室から連れて出してきた。

床のスマホを拾い上げると、画面の中で通話はまだ続いていた。アン刑事はそれを見て、それから私を見て、スマホに何か吹き込んだ。翻訳が表示された。

《手紙は読んだ。半信半疑だった。半分で、十分だった》

カン代表は出口で最後に私のほうを振り返って、静かに言った。

「葉月さん。タシは止まりませんよ。悲しい人は、減らないので」

窓の外で、最後のドローンが1機ずつ、夜に呑まれて消えていった。

第9章 最終ログイン

日曜の便には、乗らなかった。会社には日曜の夜に電話をして、もう1週間休ませてください、と頭を下げた。事情は、半分だけ話した。全部話すには、私もまだ、何が起きたのか言葉にできていなかった。

月曜の午後、影島警察署の小さな部屋で、私はあの夜の録音を聴いた。アン刑事は粉末の甘いコーヒーを出して、ヘッドホンを私に渡した。聴かなくてもいい、という意味のことも一緒に言った。聴きます、と私は答えた。聴かないまま帰ったら、私は一生、想像のほうに殺される。テオさんが隣で、必要なところだけ日本語にしてくれた。雨の音がほとんど全部を覆っていた。その下で、姉の声が言う。『公開します。決めたので』。カン代表の低い声は、雨に削られて、切れ切れにしか残っていない。『……君の正義は……考えてない……』。それから金属が鳴る音。短い、声とも言えない声。あとは雨。長い長い雨。4分後に、砂利を踏む足音がひとつ、遠ざかって、車のドアが閉まった。

それだけだった。突き落としたのか、滑ったのか、雨は教えてくれなかった。

「殺人は、たぶん、無理です」とテオさんは言った。机の下で、拳を握ったり開いたりしながら。「でも、置いて帰ったこと、隠したこと、ラウンジの録音に、残ってます。データの違法収集は、もう、言い逃れできない。検察、動いてます。——何年もかかります。裁判」

何年も。私はその言葉を、飲み込むのに時間がかかった。物語なら、ここで全部が裁かれて終わるのに。

それでも、世界は少しだけ動いた。火曜にニュースが出た。300万人の個人情報を不正利用、という見出しは、姉の死より大きく扱われた。タシはサービス停止になり、カン代表は代表を退いた。退いただけだ。投資家として次の会社を見ている、という記事を私は読んで、閉じた。閉じてから、気づいた。悲しい人は、減らない——あの人が言ったことの中で、それだけは、嘘じゃない。だから腹が立つ。ハヌルさんは会社を辞めた。最後にカカオが1通だけ来た。《合わせる顔がないので、これで失礼します。私は結局、最後まで自分がかわいかったです。澪さんにだけは、それを言う勇気がありました。葉月さんにも、言うときます》。返信は、しなかった。できなかった、のほうが正しい。

テオさんは辞表を出した。次は決めていないらしい。「福岡で、ラーメン屋。冗談です。たぶん」。彼はもう、水曜日に花を買わなくていい。

火曜の夜、父に電話をした。ニュースのことは、日本の記事にもなりはじめていた。私は順番に話した。姉が見つけたこと。姉が遺したこと。裁判は何年もかかること。父は長いこと黙って、聞いているのかどうかもわからなくて、最後にひとつだけ訊いた。

「澪は、自分から飛んだんと違うんやな」

「違う。絶対に違う。それだけは、確かやから」

電話の向こうで、洟をすする音がした。父はそれを誤魔化すみたいに、ぶっきらぼうに言った。

「……お前、飯はちゃんと食うてるんか」

喉の奥が詰まって、すぐには返事ができなかった。姉の口癖は、姉の発明じゃなかった。この不器用な家族の中を、ずっと回ってきた言葉だった。

水曜の夜、荷造りを終えた部屋で、21時17分にスマホが鳴った。

【ミオ】これで予約送信はおしまい。よう頑張りました

【ミオ】あとは、この子の好きにさせたって

【ミオ】ご飯食べた?

私は床に座り込んで、長いことその3通を見ていた。サービス停止の知らせは昨日来ていた。1か月後にサーバーごと、全部のアカウントが消える。遺族は故人データの「引き取り」を申請できます、と書いてあった。申請すれば、姉の「声」は私のスマホの中で、これからも生きられる。

何度も、申請の画面を開いた。何度も、閉じた。

画面の中の姉は、私がどこで何を食べたか知っていて、心配性で、優しい。でも、切り取られた20枚のことは知らない。雨の夜にひとりで柵の外に立った理由を、もう増やせない。姉の続きは、ここにはない。ここにあるのは、姉が私のために灯しておいた、帰り道の電気だけだ。つけっぱなしの電気は、いつか、消さないといけない。

【葉月】食べたよ。下のクッパ屋で。おばちゃんが多すぎるくらい入れてくれた

【ミオ】えらい

【葉月】お姉ちゃん

【葉月】ありがとう。おやすみ

既読は、すぐについた。返事が来る前に、私はアプリを閉じた。引き取りの申請は、しなかった。

木曜の朝、最後にもう一度、1階のクッパ屋に行った。おばちゃんは私のスーツケースを見て、何も聞かずに、鍋に向かった。テジクッパの白い湯気の向こうから、おばちゃんは覚えたての日本語で言った。

「ゴハン、タベタ?」

違う、それはこれから食べる人に言う言葉じゃない——と思いながら、私は笑ってしまって、笑ったら少し泣けて、頷いた。スープは熱くて、塩気が喉の奥に沁みた。今度は、ちゃんと味がした。

空港行きのバスは広安大橋を渡った。朝の海は霧が薄くて、橋の鉄骨の向こうに、影島の山がぼんやり見えた。あの遊歩道の手すりも、白い灯台も、ここからは見えない。でも、あるのは知っている。

スマホが震えた。タシからの、機械的な文面だった。《サービスは現在停止中です。お送りいただいたメッセージは配信されません》。

いつの間にか、指が打っていたらしい。送信済みの欄に、宛先のない1行が残っていた。

【葉月】また来るね。クッパ、おごりやんな

バスは橋を渡りきって、海は後ろに流れた。私は窓に頭をつけて、目を閉じる。

帰ったら父に、姉の伝言を渡す。逆さ言葉にしなくても伝えられるよう、何度か口の中で練習した。

(了)


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