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〈奪るもの〉と〈与えるもの〉ー闇金ウシジマくん論ー

 ※『闇金ウシジマくん』の最終話までのストーリーについての記載があります。未読の方は注意して下さい。 

  強い国は弱い国から奪い、
  資本家は労働者から奪い、
  政治家は国民から奪う。
  世の中は奪い合いだ。

  奪るか奪られるかなら、
  俺は奪る方を選ぶ!

闇金業者の丑嶋は、まさにこの台詞の通り、ありとあらゆる方法で、
金に困った債務者たちから金を奪って奪って奪い尽くす。
なぜなら、この弱肉強食の社会では、「奪るもの」にならなければ、逆に「奪られるもの」に転落してしまうからだ。

しかし、丑嶋は自身の言葉の通り最後まで「奪るもの」であり続けられたのだろうか。

『闇金ウシジマくん』は真鍋昌平の漫画で、テレビドラマや映画にもなった今更説明するまでもない人気作品である。
しかし、一般的な人気作品とは違い、内容は、とてつもなくリアルでダークだ。
本作の主人公は闇金カウカウファイナンスを経営する丑嶋と丑嶋に金を借りにくる債務者たちだ。

一つ一つのエピソードは単体でも成り立つようになっているが、その中でも、丑嶋に近しい人間(カウカウファイナンスの社員、丑嶋の同級生、取り巻きのヤクザ等)は、レギュラーとして作品に登場し、丑嶋自身の過去を描くストーリーもある。

丑嶋は、この作品において悪魔のような存在だ。
居留守を使う人間の家には消化器から消化剤を家の中に放出し、あらゆることを脅しの材料に使って金を巻き上げ、金が払えない債務者は容赦なく地獄に落とす。

債務者たちは、丑嶋から金や人生を「奪られるもの」であり、彼らは、時に、フリーターであり、主婦であり、会社員である。
そう、私たちと同じ普通の人々だ。

ちょっとした気の緩みや不運が招いた失敗によって、深い落とし穴に入り、戻ってこられなくなる。
彼らに感情移入することで、私たちは、この物語を他人事とは思えないのだ。

では、この物語の中で常に「奪るもの」であり続ける丑嶋はどうだったのだろうか。
一見、無慈悲で感情移入などできそうにない丑嶋。
たしかに彼は、落とし穴に入る債務者たちに基本的には厳しい。
約束を守れなければ、罰として、身体的にも精神的にもひどいことをする。
しかし、約束を守ろうと努力する人間や前向きになろうする人間に対しては、時折、優しさ(人間らしさ)を見せる。

例えば、フリーターくん編では、母親と父親が丑嶋からつくってしまった借金(50万円)を自らが返済するから、もう関わらないでほしいと言ったフリーターの宇津井に、丑嶋は、「毎月5万円を1年間事務所に持ってこい!そしたらそれで完済扱いにしてやる!」と言う。
普段の丑嶋であれば、有り得ないことだ。
カウカウファイナンスは金利を「10日で5割(トゴ)」や「1日で3割(ヒサン)」で貸す闇金だからだ。
丑嶋は、その優しさを社員の高田に指摘されて、
「やさしくしてりゃあ、向こうから来るだろ?脅すばっかじゃ、疲れちまうからな。」と言う。

また、出会いカフェくん編では、バイトを出会いカフェから時給780円のファミレスに変えた美來が借金を完済したとき、「また貸し付けます?」と高田に聞かれて、丑嶋は「いや……あいつはもう借りねーだろ!美來が今日返済する5万円は出会いカフェで稼いだ5万円と同じ金額だが…価値が全然違う。」と言い放つ。

人の心を持たない悪魔のように描かれる丑嶋が見せる人間らしさ。
その人間らしさが最も印象深く描かれていたのが、中盤の傑作ヤミ金くん編だ。
丑嶋の幼馴染、竹本が金を借りるためにカウカウファイナンスに現れる。
竹本は、丑嶋を下の名前である「カオルちゃん」と呼ぶ飄々とした美男子だ。

中学時代、丑嶋がクラス全員にリンチに会う際、竹本だけは、リンチに加わらなかった。
当然、その後、竹本はリンチの首謀者たち(現在カウカウファイナンスにいる柄崎や加納)にボコボコにされる。
また、竹本は丑嶋が大切にしているウサギを預かってくれていた。
ウサギは丑嶋の母親の形見で、丑嶋にとっては何よりも大切なものだ。

竹本は常に自分のためではなく、他者のために動く。
金を借りようとするのも、他者を助けるためだ。
竹本は「感情に流されて生きるのは安易だから僕は人を責めない。どうしようもない人でも許すコトを学ばないと人を愛せない。」と言う。
竹本は、作中、まるで、キリストや仏陀のような、聖人君子として描かれている。
しかし、当然のごとく、この世界でそのような優しさは利用されるだけである。
竹本は、結局、5000万円の借金を負い、廃人になる可能性の高い仕事(おそらく死体洗い)につくことになる。

丑嶋は、「竹本。俺は、お前を追い込みたくなかったよ。」と最も丑嶋らしくない台詞を言う。
そして、「竹本……お前は極端過ぎる。行き着く所に行くしかねェ。俺も極端だ。お互い生き方は変えられねェンだ。お前を地獄に送ったコトを後悔してねェ……」とモノローグで語り、1人、車の中で泣く。
丑嶋が泣くのは、作中この場面を含めて二度しかない。
二度目に泣くのはウサギが殺されたためである。

「奪う」ことがこの世界の全てであり、人の本質は変わらないと言う丑嶋と、
「与える」ことで人は救われると言う竹本は、真っ向から正反対だ。

丑嶋がこの社会の「悪」の全てを集めた存在であるならば、竹本は「善」を全て集めたような存在だ。
しかし、実はコインの裏表のように、彼らの本質が同じであったことが明かされるのが、本作のすごいところだ。

中学時代、竹本は、丑嶋がリンチの首謀者である柄崎と加納を助けようとしていることや、母親が大好きであることを聞いて、ショックを受ける。
なぜなら、自分自身は、人並みに愛されて育ってきて、人を好きになる感覚がわからないからだと言う。

竹本は「僕もキミみたいに人を好きになってみようかな。」と丑島に言う。

ここで、丑嶋は人間が好きだからこそ、「奪るもの」になったことが明かされるのだ。
そして、竹本は人間を好きになりたいから「与えるもの」になった。
やり方は真っ向から正反対に見えても、本質は「人間を好き(になりたい)」というところだ。

そして、最終章「ウシジマくん編」で、再び、竹本は現れる。
滑川という最悪のヤクザと丑嶋に兄を殺された恨みを持つ半グレの獅子谷。
この2人に、仕事、仲間、金、次々に大事なものを「奪われる」丑嶋。

追い込まれた丑嶋の前に現れた竹本は現実には存在しない(「ヤミ金くん編」以降、実際にどうなったのかは、作中では描かれない。)。
それは、丑嶋の中にいるイメージの中の竹本だ。
竹本は丑嶋に聞く。
「周りに敵ばっか作ってさ、丑嶋くんはなんのために生きてるの?」
丑嶋は、「少年院で読んだ本に書いてあったんだ。進化できた生き物がしたことはたった一つ。敵を倒す。それだけだってな。有利な立場に立たなきゃ食い物も住む場所も悪くなる。だから俺は、邪魔な奴は潰していく。自分の意見で戦えない奴は生き方を選べない。だらだらと無自覚にただ生きて、死の決断もできない」と、答える。
竹本は悲しそうに、「拠り所が狭くなるね。何処にもいられなくなるよ。」と言う。
迷いなく、自分の意思を信じ続けて「奪い」続けてきた丑嶋が、ついに心の葛藤を始めるのだ。

滑川に最愛のウサギまで殺され、完全に追い込まれた丑嶋は、どうせ殺されるならと、残ったウサギを自ら殺そうとする。
しかし、高田にそれを止められ、自分の決定を作中で初めて覆す。
今まで、そんなことはあり得ないことだった。
そして、作中初めてとでもいうべき弱音を信頼できる部下であり幼馴染の柄崎に吐く。

「柄崎。俺は間違ってるのか?」

柄崎は、その時は「さあ。」とはぐらかすも、負けを悟り、滑川の舎弟になって、生き延びようと提案する。
だが、丑嶋は、「いいか、柄崎。心が折れた時が本当の負けだ。(中略)自分の生き方は自分で決める。」と、最後まで戦うことを決意し、そして、ついに、宿敵、滑川すら倒してしまう。

丑嶋に平穏な日常が戻ってくる。

しかし、丑嶋はいつもと違っていた。
寝ているホームレスから千円をまきあげ、「借りた金は返せよ。毎度。」といつものように奪う丑嶋。
その千円は、ホームレスが「酒とおでん買おうと楽しみにしていた金」だった。
しかし、時間がたったあと、ホームレスが目を覚ますとおでんと酒が目の前にある。

そして、丑嶋は、借金を回収するために行った家で債務者の文香の弟である辰也が、文香をナイフで襲おうとした時に、文香をかばって助ける。
丑嶋は何でもないように、歩き始めるが、柄崎との通話が終わると路上で倒れる。
丑嶋から流れた血は、まるで羽のような形になる。

それが、悪魔のものなのか天使のものなのかは、わからない。
けれど、最後の最後、丑嶋は、「奪るもの」から「与えるもの」、つまり、丑嶋の最初に定義した「奪られるもの」へ変わってしまった。
おそらく、丑嶋は自らが様々な大切なものを「奪られる」苦しみを知ったことで、自らも他者の大切なものを「奪る」ことができなくなったのではないだろうか。
しかし、竹本のように生きれば、どのようになるかは自明だ。

だからこそ、丑嶋は死んだ。
丑嶋の言うように、「奪られるもの」は、自分の死の決断もできないからだ。
しかし、丑嶋は後悔などしていないように見える。
むしろ、これでやっと「奪わなくて済む」と安心しているかのように。

人間が好きだから、何もかもを奪い続けてきた丑嶋。
人間を好きになりたいから、何もかもを与え続けてきた竹本。
私たちは、きっと丑嶋のようにも竹本のようにも生きられない。
丑嶋が言うように、彼ら2人はあまりにも「極端」だから。
けれど、だからこそ、2人の生き方に強く心を動かされる。

丑嶋のように「奪われない」ために強く生きること、竹本のように「与える」勇気をもつこと。
教訓めいてしまうが、それこそが、私たちが彼ら2人から受け取る最大のメッセージなのかもしれない。