【ショートストーリー】鍵の指輪
砂浜で指輪を拾った。結婚指輪のような、シンプルな銀色の指輪。
「何の皮肉かしら」
夏美は呟く。自分の薬指の白い跡を見ると、体の奥のどこかがズキンと痛む。
十年間の結婚生活だった。それが長いのか短いのか、夏美にも分からない。看護士として働いていた夏美の病院に、ケガをして入院してきたのが元夫だった。退院してから連絡があり、待ち合わせ場所に行ってみるとすぐ、
「結婚を前提に付き合ってください」
と告白された。その誠実そうな声と言葉に、誰よりも優しい人だと信じて一年付き合って結婚した元夫。けれど彼は、いざ夫婦になるとただの意気地なしだと分かった。
一人息子を奪われたと思ったのか、義母の度重なる理不尽な意地悪や嫌味。それらに夏美が傷付き疲弊していっても、
「上手くやってくれよ」
しか言えない人。それでも、両親もきょうだいもいない夏美は、心をすり減らしながら頑張ってきた。天職だと思っていた仕事も辞め、ただ元夫と義母のために生きてきたような十年。やはり長すぎた、と夏美は思う。
僅かばかりの慰謝料を手にしたとき、とにかく遠くへ行きたいと思った。閉じ込められていた十年を取り返すことは出来ないけれど、私が私に戻れる場所があるかも知れない、と。出来るだけ遠く、誰も私を知らない場所へ行こう。そう思ってたどり着いたのが、この海辺の街だった。
「この指輪も、捨てられちゃったのかな」
拾った指輪をはめてみようなんて、普段の夏美なら思わなかっただろう。けれどその時は違った。夏美を縛り付けていた呪いの跡が、白く悲しく虚しかった。
「少しだけなら……」
呟きながら、拾った指輪をつけてみる。するとその指輪は、まるであつらえたように夏美の薬指にきれいにおさまった。が、次の瞬間。
「あっ!熱い!痛い!」
指輪が急に熱を持ち、薬指が焼けるように痛くなった。慌てて外そうとしたが、何故か指輪はしっかりと薬指を掴んでいるかのように動かない。
「熱い……痛い……」
夏美の目から涙がこぼれる。すると、忘れてしまいたかった光景や言葉が、一気に夏美に襲いかかってきた。
「まったく、元看護士だって言うのに、気の利かないこと。親の顔が見たいわ」
「何で上手くやれないんだよ。俺の親なのに、大事にしてくれよ」
「もう結婚して5年も経つのに、子どもはまだなの?あなた、どこか悪いんじゃないの」
「俺に原因なんてあるはず無いだろう?でも俺、本当は子どもなんて欲しくないんだよね。お袋には言わないけどさ」
「あなたって、言われたことしかしないのね。まあ!前に私に叱られたからですって!まるで私が悪いみたいじゃないの!」
「だから何で上手くやれないんだよ。面倒なことを言わないでくれ」
「可愛げのない嫁ね。何を考えてるのか分からなくて不気味だわ」
「お前って、話してても楽しくないんだよ。自分の意見とか無いし、何でも俺の言いなりじゃん。お前といても俺が成長できる気がしないんだよな。刺激もないし」
言いたいことなら、たくさんあった。悪いことばかりじゃなくて、良いことも、楽しいことも。私の好きなもの、好きなこと、好きな言葉、好きな色。あなた達は、何ひとつ聞こうとも知ろうともしなかったくせに!
反論は許さず、自分たちの考えを押しつけて来たのはあなた達。なのに、どうして私が責められるの?
「彼女はさ、俺と議論が出来るんだよ。友達も多いし、趣味も広くて会話が楽しいんだ。不平不満ばっかりで退屈なお前とは、真逆だな」
私を家に閉じ込めて交友関係を絶ったのは誰。ささやかな趣味を「くだらない、時間の無駄」と切り捨てたのは誰。私をこんなに傷付けて、新しい女が出来たらゴミのように捨てて、まだ追い打ちをかけるように罵ったのはーー。
閉じ込めていた怒りや悲しみが押し寄せると、指輪はますます熱を持ち、体全体が燃えるように熱い。泣きながら夏美が倒れると、誰かが駆け寄ってくる気配がした。
「大丈夫ですか!しっかりして!」
その男性の声を最後に、夏美は意識を失った。
気が付くと、夏美は病院のベッドにいた。夏美が目を覚ましたことに気付き、点滴を交換していた看護士さんがホッとしたように微笑む。
「目が覚めましたか。今、先生を呼んできますからね」
やがてスリッパの足音と共に、白衣の医師が入ってきた。
「気分はどうですか」
夏美はハッとした。意識を失う前に聞いた声に似ている。
「はい……大丈夫です。あの、私を助けてくださったのは、もしかして……」
医師は少し笑った。
「ええ、偶然通りかかったもので」
「ご、ご迷惑をおかけして申し訳ありません!」
慌てて起き上がろうとしたが、医師と看護士にすぐに止められる。
「まだしばらくは、無理は禁物ですよ」
「そうですよ。怒りや悲しみを吐き出すと、一時的に体にダメージがありますからね」
「えっ……?」
夏美は驚いた。どうしてこの人たちは私のことを知っているのだろう。
訝しげな夏美に気が付いて、医師が説明する。
「その指輪ですよ」
夏美はハッとして左手を見る。薬指の指輪はヒンヤリと冷たく、ただの銀色の指輪に見えた。もう、熱くも痛くもない。
「それが外れなかったのでしょう?きっと今なら、簡単に外れますよ」
訳が分からないまま、夏美はそっと指輪に手をやった。すると、嘘のようにスルッと指輪が抜けた。
「あの、これって……」
「必要な人にしか見付からない指輪です。私たちは『鍵の指輪』と呼んでいますが」
「鍵の……指輪?」
今度は看護士が説明を始めた。
「心の中に怒りや悲しみを押し込めること、よくあるでしょう?大人になればなるほど、そういうことは増えていくわよね。でもね、押し込めてばかりだとパンクしちゃうのよ」
「パンク、ですか?」
「そう。一度パンクしちゃうと、自分にも止められなくなることもあるの。自分が壊れてしまうのね。特に、あまりにも酷い出来事があって本当は深く傷付いているのに、それを吐き出せなかったら、とても危ないわ」
「とても酷い出来事は……ありました」
看護士は深く頷くと、夏美の手に優しく触れた。
「ここの海の神さまは、そういう人を助けてくれるのよ。この指輪を拾った人は、神さまに救われたの。指輪を身に付けたとき、とても苦しかったでしょう?」
「はい、凄く熱くて、痛くて」
「それはね、あなたの心の熱と痛み。そんなものを閉じ込めていたら、いつまでも前を向けないでしょ。だから、一時的に苦しくても、心の鍵を開けて思い切り吐き出させてくれるのよ」
到底信じがたい話だと思うのに、何故か夏美は腑に落ちた。あの熱も痛みも、私自身のものだったのか。私はそんなにも傷付いて、同時に怒りを感じていたのだろう。それらを全て吐き出したせいか、重苦しかった心がずいぶん軽くなった気がする。
夏美はふと気になって尋ねた。
「でも、どうしてそんなに指輪について詳しいんですか」
看護士と医師は微笑んで言った。
「僕たちも、その指輪をつけたことがあるからだよ。僕たちだけじゃなく、ここで働く人たちはほとんどがそう。何かに深く傷付いて、ここの神さまに救われて」
「みんな人の痛みが分かるからか、ここの病院はとても評判がいいの。ワガママな人や、冷たい人はいないからね」
夏美は驚いた。自分のような思いをした人たちが、こんなにいるなんて。
「あ、でも、途中で辞めていく人もいるのよ。結婚が決まったので引っ越すとか、違う所で一からやり直す勇気が出たとか。でも、そうして辞めていく人がいると、不思議とまた入ってくる人もいるの」
夏美は思わず言った。
「あの、私もここで働けますか?看護士としてはだいぶブランクがあって、最初は足手まといになるかも知れませんが、一生懸命頑張りますので!あ、履歴書とか、住民票とか、免許証とか、出来るだけ早く揃えます。それから、ええと……」
前のめりになる夏美を見て、医師と看護士は笑った。
「ようこそ、私たちの病院へ!」
二日後、無事に退院した夏美は、砂浜へやって来た。指輪を海の神さまに返すためだ。
「ありがとうございました。おかげさまで、私はもう大丈夫です。また苦しむ誰かをお救いくださいますように」
指輪に向かって感謝の言葉を述べてから、海にそれを投げ入れた。銀色の指輪は太陽を反射してキラッと光ると、海の底に沈んでいく。
「本当にありがとうございました」
夏美はもう一度呟くと、海に一礼してから背を向ける。
1歩ずつ、砂を踏みしめて歩く。来週からは看護士として、病院勤務が始まるのだ。夏美は湧き上がるワクワクが抑えられず、フフッと声に出して笑った。
(完)
こんばんは。遅刻の常習犯で申し訳ありません。こちらに参加させていただきます💦
小牧さん、お手数かけますがよろしくお願いいたします。
読んでくださった方、ありがとうございました!
