「ダサい」と決めつけるSNSの鋭い言葉に傷つく前に、洋服ダンスの奥底にある自分自身の物語を思い出してみませんか。スキニーやハーフパンツを巡る喧騒を離れ、流行という海流のなかで自分だけの呼吸を保ちながら歩くための、静かな問いかけ。
朝の海面をわたる風が、少しだけ冷たさを帯びて頬を撫でていく。波打ち際に立って遠くの水平線を眺めていると、寄せては返す波が、まるで誰かの心の揺らぎそのもののように思えてくるのです。あっちへ行ったり、こっちへ戻ったり。私たちはつい、その波の形ひとつひとつに名前をつけて、「これは正しい」「それは間違っている」と境界線を引きたがるけれど、海はずっとそこにあるだけなのですよね。誰がどんな服を着て、どんな歩幅で歩こうとも、海はただその姿を映し出し、次々と新しい波を運んでくる。そんなふうにぼんやりと景色を眺めていると、誰かが誰かを指さして「あれは痛い」と笑っている声も、どこか遠くの波音のように、どこか他人事のようで、けれど不思議な愛おしさを帯びて聞こえてくるのです。
ふと、自分の洋服ダンスの奥底に眠る、かつての自分の姿を思い出します。流行という見えない潮目のなかにうまく乗ろうと必死になり、身に合わないスキニーパンツを無理に引っ張り上げて街に出た日のこと。鏡に映る自分の輪郭がどこかぎこちなく、周囲の視線がすべて自分を値踏みしているように感じられて、すれ違う人の足元ばかりを気にしていたあの不器用な記憶が、潮風とともに蘇ってきます。あのとき私を縛っていたのは服そのものではなく、「正しくなくてはならない」という自分自身の中の硬い錨でした。
今回のニュースで取り上げられているのは、世間で「おじさんファッション」と総称される特定の装いに対する、SNS上の容赦ない視線ですね。記事の事実関係を紐解くと、メディアやオンラインの空間において、中年男性が好みがちなスキニーパンツ、ハーフパンツ、パーカーといったアイテムが、しばしば「痛い認定」や「ダサい」という主観的な評価のやり玉に挙げられているという現実があります。報道では、例えばビジネスシーンにおけるクールビズでのハーフパンツ着用に関しては、すね毛の露出に対する抵抗感や、オフィス環境におけるルーズな印象を抱く声が各種アンケートなどで示されていることが触れられています。また、身体のラインが強調されるスキニーパンツや、カジュアルすぎるパーカーなども同様に、年齢や体型とのミスマッチを理由として一方的な批判の標的にされやすい傾向にあることが丁寧に整理されています。
みんな、気づいているでしょうか?
私たちが「何を着るか」ということにこれほどまで敏感になってしまうのは、それが単なる布切れを纏うだけの行為ではなく、自分という不安定な存在を、世間という名の海にどう浮かべるかという、あまりにも繊細なバランス調整だからではないでしょうか。
ファッションという言葉には、時に「流行」という魔法のような、けれど少し残酷な呪文がかけられます。流行は、いわば海流の速さのようなもの。その速さに合わせることが、かつては集団に馴染むための確かな安全装置でした。でも今、その潮流はインターネットによって細分化され、至る所で複雑な渦を巻いています。ある場所では「スキニーは古い」と言われ、別の場所では「それこそが粋だ」とささやかれる。そのすべてが真実であり、そのすべてがただの通過点にすぎません。
「おじさんファッション」という言葉に潜むのは、対象を「おじさん」という大きな括りの中に無理やり押し込み、その人の個別の物語を消去しようとする無機質な力です。でも、その人はなぜその服を選んだのでしょう。若い頃に憧れたスタイルをただ真っ直ぐに守り続けているのかもしれないし、日々の暮らしの中で機能性や快適さを優先した結果かもしれない。あるいは、自分を少しでも軽やかに見せたいという、切で可愛らしい願いがあるのかもしれない。かつての私がそうであったように、誰しもが自分なりの理由と歴史をその装いに背負っています。その一瞬の姿だけを切り取って「痛い」と断罪することは、その人の背景にある人生の長い歴史を、波打ち際の水飛沫で消してしまう行為に似ています。
それに、誰かの服装を「ダサい」と決めつけることで、自分だけは潮流の正しい側に立っていると安心したい気持ちも、人間だから理解できないわけではありません。潮流から外れることは、海の中でひとりぼっちになるような心細さがありますからね。けれど、本当に自由な人は、他人の服のシワや、丈の長さをわざわざ気にしたりはしないものです。彼らはもっと広い空を見ていて、自分という小さな船をどう操るかに集中しています。
結局のところ、私たちが日々悩んでいるのは、流行という名の「他者のまなざし」という海に、どれだけ流されるか、あるいはどれだけ逆らって自分の岸辺を保つか、という静かな戦いなのだと思います。正解という岸はありません。あるのは、自分が今日選んだ服を纏って、どんな気分で街を歩くかという、その一瞬の心地よさだけ。
もし、何を着ればいいのかと迷うなら、それは誰かの承認を得るための服ではなく、自分自身が今日という日を波のように軽やかに泳ぐための服を選んでみてはどうでしょう。誰かに「痛い」と言われることを恐れて縮こまるよりも、自分の肌に一番馴染むものを丁寧に纏う。鏡の前で不器用ながらも自分を受け入れたあの日のように、自分の中に一本の静かな芯が通っていれば、外からどんな強い風が吹いてきても、服そのものがあなたを傷つけることは決してありません。
波はいつか静まり、潮流もまた形を変えてどこかへ流れていきます。誰かが決めた「痛い」という基準に怯える必要なんてどこにもありません。あなたは、あなたの呼吸の速度で、この世界という海をただ漂えばいい。今日という日をすり抜けたあと、いつか振り返ったとき、そのラベルさえも遠い波の泡となって消えていく。だからこそ、今はこの静かな水面を、あなた自身の足取りで、軽やかに渡っていきましょう。
参考情報:おじさんファッションって本当にダサい!?スキニー、ハーフパンツ、パーカー…SNSでの一方的な“痛い認定”に「一体何着れば」(LASISA編集部)
掲載:Yahoo!ニュース
