第三十一話 「毛がなくても、温度がある」
語り手:ムーン(スフィンクス・♂・10歳)
わたしには毛がない。
スフィンクスという種類は、毛がない。全身がむきだしで、皮膚が見えている。寒いと思われるが、体温が高いので意外と暖かい。抱かれた人は「思ったより温かい」と言う。
見た目と、中身は、違う。
この家の人たちも、そういう部分がある。
せんせいの名前は、はまだこうへい(浜田晃平)という。
六十三歳で、元政治家だ。衆議院議員を三期務めた。議会の最中にたまたま熱を出して、自宅で休んでいたためパンデミックを免れた。
おくさんの名前は、はまださつき(浜田五月)という。
五十五歳で、ずっとせんせいの妻として生きてきた。政治家の妻というのは、それだけで仕事だったと、さつきさんが言っていた。
むすめさんの名前は、はまだあい(浜田愛)という。
二十八歳で、今はAI政策の研究をしている。
そして、むすこさんがいた。
はまだこうすけ(濱田晃助)という、三十五歳の男だ。後継者として、父であるせんせいから政治を学んでいた。パンデミックのとき、事務所にいた。猫はいなかった。だから、帰ってこなかった。
わたしはその話を、少しずつ知った。
*
せんせいは今、やることがない。
政治家もAI統治により、役割が変わった。議会は残っているが、大きな決定はAIが行う。人間の政治家は、承認と説明の役割になった。せんせいは「それは政治家じゃない」と言って、引退した。
引退したせんせいは、毎日書斎にいる。本を読んでいるときもあるが、ただ座っているときもある。
わたしは書斎に行くことが多い。せんせいがそこにいるから。
「ムーン」と、せんせいが言う。
はい、と、わたしは思う。
「お前、触るとあったかいな」せんせいが言う。
体温が高いから、わたしは思う。
「毛がないのに」
毛があるなしと温かさは別の話です、と、わたしは思う。
今日、あいさんがせんせいの書斎に来た。
「お父さん、少しいい?」
「ああ」
あいさんが椅子に座った。わたしはせんせいの膝の上にいた。
「AI政策の研究で、ちょっと気になることがあって」あいさんが言った。「お父さんの意見が聞きたい」
せんせいの顔色が変わった。
「AIの統治って、効率はいいんだけど、人間が決定に関われないことへの不満が出てきてて。どう思う?」
せんせいはしばらく考えた。
「民主主義というのは、効率より過程が大事だ」せんせいが言った。「結果が正しくても、人間が関わっていないなら、それは民主主義じゃない」
「でも、人間が関わると間違いも増えるって意見もあって」
「間違える権利が、民主主義の本質だ」せんせいが言った。「間違えて、学んで、変えていく。それが人間の政治だ」
あいさんがメモを取り始めた。
「それ、文言で使っていい?」
「使え」と、せんせいが言った。
わたしはせんせいを見た。
久しぶりに、せんせいの声が仕事の声になっていた。議会にいたときの声ではないが、考えている人間の声だった。
*
夜、さつきさんとせんせいが縁側に座っていた。
わたしは二人の間に座った。
「こうすけのことを、最近また考える」と、せんせいが言った。
「わたしも」と、さつきさんが言った。
「あいつが政治家になっていたら、どうなっていたかと思う」
「なっていたでしょうね」さつきさんが言った。「あなた以上になっていたかもしれない」
せんせいが黙った。
「でも」と、さつきさんが続けた。「愛が頑張ってる」
「そうだな」と、せんせいが言った。
「今日、あなたと愛が、話せてよかった」と、さつきさんが言った。書斎でのことを聞いていたらしい。
「俺の話が役に立つか、わからんが」
「役に立ってた。愛の目が、話すうちに変わってたから」
せんせいがわたしを見た。
「ムーン聞いたか」
聞いてた、と、わたしは思った。
「娘に、政治の話を聞かせることになるとは思わなかった」
わたしの名づけ親は、こうすけさんだ。
ツルツルした中のボツボツした肌の質感がお月様みたいだ、と言っていた。
月は、太陽と対をなす。
こうすけさんは、こうへいさんを影でしっかりささえていた。
今は、わたしが、こうすけさんのかわりに、せんせいの言葉を全部受け取る。
「お前、触るとあったかいな」と、せんせいがまた言った。
そうです、と、わたしは思った。
毛がなくても、温度がある。
見た目と中身は、違う。
この家のせんせいも、引退したけれど、まだ中身がある。
それを今日、あいさんが引き出した。わたしはそれを、膝の上から見ていた。
第三十一話 終
→ 第三十二話 トビ
