昨日の明日
(あらすじ)
新年度、転校生がやって来た。
相沢昨日。
僕(渡辺俊)に彼女が話しかけてきた。なんと、彼女は今日という日をループしていると言う。僕はループを抜け出す協力をすることになった。
何周も今日を繰り返すうちに、二人は親しくなる。
ある周で、僕はループの抜け出し方を発見する。
ループを抜け出すのか、このまま今日を繰り返すのか。
僕の選んだ結末は……。
〜〜〜
今日、昨日がやって来た。
それだけを聞いた人は、そんなことありえるはずがない、といいたくなるだろうが、これは事実だった。
というのも、タネは単純で、「昨日」は人名というだけだ。
相沢昨日。
それが、転入生の名前だった。
「初めまして。相沢昨日といいます。よろしくお願いします」
黒板の前に立ち、彼女はそう言った。担任が書いた、相沢昨日の字は、ほどよく崩されていて、読みやすかった。彼女の発声も、はきはきとしていて綺麗だった。何がいいたいかというと、聞き間違い、読み間違いではないということ。
彼女は、まさしく、相沢昨日だった。
「前の学校では──」
僕は教室の隅の席で、自己紹介をする彼女を眺めていた。
彼女は、シンプルな見た目だった。なにか英語の文が書かれた白いロンTに、甘そうなブルーベリーの色をしたスキニージーンズ(この学校は私服制)。女子にしては背が高く、僕と同じくらいはありそうで、すらっとしてスタイルがいい。顔は大人しそうで、黒いショートヘアがよく似合う。雰囲気でいうと、緑茶のCMに出ていそうな感じだった。
始業式の今日、転入生がやって来ることは知らされていた。それが女子であることも。クラス替えのない学校なので、一人、クラスメイトが増えるのは一大事だった。男子たちの間では、美少女転入生が来るのではないかと期待する声が上がっていた。その期待に彼女は十分応えていた。
一通り、彼女は話し終えたようで、担任が、じゃあ、席はあそこ、渡辺の隣で、と言った。僕が渡辺だ。まあ、隣に空席が増えているのは朝からわかっていたことだが。
彼女は、こちらに歩いてきて、ぺこりと僕にお辞儀をしてから着席した。
「よろしくね、渡辺くん」彼女は小声で言った。
僕は目礼を返すだけだった。
それから、担任は事務連絡をして、各自、体育館に移動するように言った。
僕は体育館履きを用意しながら、隣の人だかりを見ていた。クラスメイトに囲まれて、団子状態だった。
「ねえねえ、昨日って名前、すごいね」ある女子が言った。
「それな。なんで、昨日なの?」男子が言う。
なかなか失礼な奴らだ。
でも、彼女は気を悪くした素振りを見せなかった。
「両親が、ビートルズが好きでね」彼女は明るく答えた。
「ああ、イエスタデイね」「えー、ビートルズぅ? 渋くね?」「え、なに、そんな曲あんの? 知らねえ」それぞれ勝手なことを言う。
昨日──イエスタデイ。
曲名は知っているが、メロディも歌詞も記憶にない。
自分の子供の名前にしたくなるくらい名曲なのか。でも、子供の名前は、子供のものだ。親のエゴで奇天烈な名前をつけるのは、かわいそうだと思う。彼女は自分の名前を気に入っているのだろうか。
くっちゃべっている彼らを尻目に僕は席を立った。
「おーい、早く動けよ、皆」担任が呼びかけるが、彼らは動きそうになかった。
僕は一人、体育館に向かって歩き出した。
始業式はなんてことなかった。校長先生の可もなく不可もない長話、新任の先生を紹介、その他諸々の話を聞き流していたら、いつの間にか終わっていた。こんな意味のない儀式をするために、春休みが一日短くなっているのかと思い、うんざりする。そんな手間をかけて、僕たちは高校二年生になった。
クラスごとに退場。
教室へと帰る間、僕は、また取り囲まれている彼女を見ていた。質問攻めのようだった。彼女の情報をできるだけ引き出すことが正しいマナーだと思っているに違いない。こんな目に遭うなら転校したくないなと改めて思った。まあ、転入したところで、僕にそこまで関心が集まるとも思えなかったが。
教室に着いて、ホームルームになった。
それも終わり、僕は自席で帰り支度を始めた。
相変わらず、横には、人の団子。彼女に対して、お疲れ様ですと思いながら、そのまま家に帰ろうとしたら、あ、と声が聞こえた。
彼女の声だった。
僕は振り向くと、彼女がいた。
「渡辺くん、ちょっと待っててくれる? 一緒に帰りたいんだけど」彼女は言った。
「はあ? なんで?」「渡辺、なんかした?」「俺と帰ろうよ」背後の団子から文句が飛び出す。
「ええと、どうして?」僕は訊いた。
「ちょっと話があるの」彼女は野次に耳を貸さず、答えた。
「話って?」
「うーんと、込み入ってるからすぐには話せないよ」
「ええと、うん、じゃあ、わかった」
僕も野次を言っている側と同じ気持ちだった。
なんで、僕?
何の用がある?
疑問はぷくぷく浮かんでくるが、僕は待つしかない。彼女は団子たちに、ごめんね、と言って回り、急いで支度を済まし、そこから出てきた。
「お待たせ」彼女はなんでもなさそうに言う。「じゃあ、帰ろっか」
「え、あ、うん」
僕たちは、ぶーぶーという非難と、ひゅーひゅーという冷やかしを受けて教室を出た。
なにがなんだかわからない。でも、そんなに悪い気もしなかった。
廊下を微妙な距離感で歩いて、下駄箱に到着。出席番号順に並んでいるので、あいうえお順最後の僕と転入生の彼女とは隣だった。僕が先に取り出し、どうぞ、と彼女に場所を譲った。
彼女は、靴もシンプルで、黒いスニーカーだった。
僕は先に昇降口を出た。
春の生温かい風が吹く。今年は、寒の戻りが長引いて、桜の開花が遅かった。その影響で桜が今も咲いていた。ほぼ満開である。天気は、くもり。白い花びらの塊は、まるで、降ってきた雲が枝に絡まったようだった。
彼女が出てきた。一緒に階段を降りる。
僕は口を開いた。
「相沢……さん? それで、話って何?」
「昨日でいいよ」
「き、昨日……さん」
「うん」
「話って?」
一番下まで降りた。最後の段を彼女は、よっとジャンプした。前に出て振り返る。僕と目を合わせた。いい目をしていると思った。
「うーんとね、私、実は」彼女は楽しそうに言う。「今日をループしてるの」
僕は立ち止まる。
口をぽかんと半開きにした。その口の形で、は、と発音した。
「だからね、渡辺くんには、このループの抜け出し方を一緒に考えてほしいんだ」
彼女はくるりと前を向いた。僕は小走りして横に並んで歩き出す。
「何、言ってんの?」
校門を抜ける。ここからは直線的な大通りを一キロほど歩いて最寄りのK駅に向かう。街路樹の桜並木が咲き誇っていた。あまり、桜は好きではない。皆がこぞって褒めそやすから。僕なら、ソメイヨシノなんておしゃれな名前は付けない。僕が名付けるとしたら、そうだな……、まあ、すぐには思いつかないが。
「何って、だから、ループ。タイムループだよ。知らない? ほら、よくフィクションに出てくる、同じ時間をぐるぐる繰り返すやつ」彼女は人差し指を立ててぐるぐる回した。
「それは知ってるけど」
「じゃあ、何がわからないの?」
「いや、いい。わかった」
「あ、絶対わかってない」
「ええ……」
何だ? 昨日さん、実は変な人?
「じゃあ、証拠みせるね」昨日さんは人差し指を立てる。「渡辺くんの誕生日は、十月三日」
「え、なんで?」
なんで知っている?
「好きな食べ物は、きな粉餅。嫌いな食べ物は、パプリカ。好きなアーティストは、セキマチ。好きな色は、深緑。血液型は、B型。趣味は、読書。それから……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って。なんで、知ってんのさ」
全部当たっている。恐怖を覚えた。まさか、ストーカー? いや、それにしても、意味不明だ。
彼女は、引いている僕を気にせず、ふふふ、と笑った。何だ? 気味が悪い。
「私は今日をループしてるって言ったでしょ」
「う、うん」
「それで、もうすでに何回か、私は渡辺くんと帰ってるの。そして毎回、最後に、一つだけ質問していい?って訊いて、渡辺くんの情報を仕入れてるってわけ」
「僕は毎回律儀に答えてるんだ?」
そうか、そういうことか。
……え? 本当に?
「うん、ありがたいことに。信じてくれた?」
にわかには信じられない。だが、そうでないと、辻褄が合わない。
本当に彼女はタイムループしているのか……?
「ええと……、じゃあ、今日やって来た昨日には明日がやって来ないってこと?」
「人の名前で遊んじゃいけませんって誰かに習わなかったの?」彼女がすかさず言った。
「ごめんごめん。つい思いついて」
そんなに怒られるとは思わなかった。
「もう、毎回、渡辺くんはそれを言うんだね」彼女はツンとして言う。
「え? 毎回? それは、ごめん」
「飽きた」
僕は、昨日さんの不思議なループ現象を受け入れることにした。まあ、僕が受け入れるかどうかなんて、どうでもいいことだろう。それでも、受け入れた。
「なんで、僕なの?」
「それも毎回訊かれる」
「え、ごめん」
「最近のループでは、クラスメイト全員、一人ずつ、話しかけてみるっていうのをやってたの。もう、何周もしてるからね。それくらいはしたよ。で、一番、相性がよさそうだなって思ったのが、意外にも、クラスで一番地味な渡辺くんだった」
「そう……」
それは喜んでいいのだろうか。
「ま、誰でもよかったし、次のループでは変えるかも」
そんな風に言われるとなんだか悔しい気もする。
「ちなみに、今日は何回目のループなの?」僕は気になったことを訊いた。
「よくぞ、訊いてくれました」
今どき、よくぞ構文はあまり聞かないが。
「ええとね、そう、七九四回。鳴くよウグイス平城京!」
「平安京だと思うけど」
「回数に驚いてよ」
「ええと、二年ちょっとか。それはそれは……」
「それはそれはって、もう、こっちは大変なんだからね」
「なんで、そんなことになったの?」
「私、実はね」彼女は、遠くを見る目になった。「こっちの学校に来たくなかった」
「へえ?」
まあ、喜んで転校する人は稀だろう。普通、人は環境の変化がストレスになるはずだ。
「それで、昨日、あ、私じゃなくて、日にちとしての昨日ね、まあ、ループに入る前日って意味だけど、その日に私は、明日が来ない方法みたいなのをググってたの。そしたら、知恵袋に書いてあった。あるワードを検索して、最初に出てきたページを開くと、明日が来なくなるって」
「え、そんな都市伝説みたいな」
「そう、私も信じてなかった。でも、藁にも縋る思いで、私はそれを実行したの」
「ん? それなら、転校しなくなったんじゃ?」
「あ、それはね、日付、跨いだだけ」
「だけって、大事じゃんか」
「細かいことは気にすんな」
彼女に言うべき言葉が見つけられなかった。でも、考えてみれば、いつもそうだった。誰かに対して言うべき言葉なんて、僕には、なにもなかった。今、彼女と話しているが、こんなにずっと続く会話は久しぶりのことだった。
うまく喋れているだろうか。自信がなくなってきた。
「それから、私は、今日を繰り返してる。毎日、朝、起きて、スマホを確認すると、四月八日。これまでにいろんなことを試してきた。フィクションの世界だったら、タイムループって、自分の葛藤を乗り越えたら、たいてい解決するじゃん。だから、私も、前の学校の友達に会ったりして、思いつく限りの未練を取り去ったけど、それでも、ダメ。なにをやってもダメ。毎日が今日。もう、わけわかんないよ」
そう言いつつ、彼女は割とあっさりとしていた。僕よりも精神年齢が二つくらい上であるせいかもしれない。
「ねえ、何回も訊くけどさ、あ、今日の渡辺くんには初めてか、どうしたらループを抜け出せると思う?」
「そう言われてもなあ」僕は腕を組む。「ひょっとしたら、昨日さんは、まだ、このループを抜け出したくないって心のどこかで思ってるんじゃないの?」
彼女は、むっとした。
「そんなことない。こっちに来たくなかったっていうのも、別にそこまで深刻な話じゃないし。まあ、普通に、面倒くさい、嫌だなくらいだったよ。こっちの子も皆、優しそうだし、今となっては、これからの生活を楽しみにしてるもん」
「そうなんだ」
「はあ……、今日の渡辺くんはなんだか冴えてないな」
心外である。
彼女は顔を上げて桜を見た。
「この桜並木はいいね。私、この学校は駅から二十分歩くって最初に聞いたとき、そんなに歩けるかって思ったけど、こうやって四季の移り変わりを観察しながら、友達と喋っていたら、大丈夫そうだね」
「ふうん、え、僕、友達なの?」
「うん」彼女は僕に顔を向けた。「渡辺くんにとっては初対面かもしれないけど、私にとっては、もう百回くらい顔を合わせた友達」
僕は、なにも言えなかった。意外と多かったからだ。そんなに僕と話しているのか。もう百くらい僕の情報を仕入れているわけか。プロフィール欄に百項目もあったら、読むのが面倒くさそうだ。その相手によほどの興味がない限り、読まないだろう。
ということは……?
「今日も作戦会議をしよう」彼女はそう宣言した。
もう駅が近づいてきたので、横に店が並び始めていた。カフェ、文房具屋、雑貨屋、本屋、ミスタードーナツ……。
「うん、やっぱりここ」彼女はミスタードーナツに入った。
僕も閉まりかけの自動ドアを抜けた。
「抹茶フェアなんだよ」彼女はトレーとトングを取り出した。「もうとっくに全種類制覇しちゃったけど」
僕も倣うようにそれらを取り出した。トレーを彼女のものの横に並べた。彼女は嬉しそうに、トングをカチャカチャ鳴らして、僕に見せびらかした。
これを昼食にしようと考えて、五個、ドーナツを選んで会計をした。結構な値段で驚いた。彼女は六個買っていた。ホットコーヒーも付けていたが、僕は頼まなかった。意外と食べるなあと思った。
彼女が二人席を見つけて、向かい合って座った。
「さて、どうする?」おしぼりで手を拭きながら彼女は言う。
「だから、どうする?って言われても、僕には、状況がよくわからないよ。もう、いろいろ試したんでしょ」僕もおしぼりで手を拭いた。
「そうだね」
「ぱあっとお金を使って遊ぶとかは?」
「あ、それ、やってないかも」
「じゃあ、それでもしてみたら」
「いいね、渡辺くん、冴え始めたよ」
「意外と試せてないんじゃない?」
「ええ、そうなのかなあ」
「具体的に何したの?」
「まず、前の学校の皆には会いに行った。お別れをちゃんとやった。次に、転入しなくていいように親に頼んだ。あ、自己紹介のときも言ったけど、私、親の仕事の都合でこっちに来たのね。だから、ここから頑張って前の学校に通うとか、一人暮らしをするとか言い張ったの。でも、許可は下りなかった。それから、ほしいものを全部買ってみたり、日帰り旅行に行ったり。寝ないで夜を明かそうとしたこともある。でも、零時になっても、時計の日付は変わらなかった。あ、万引きもやってみた。よかった。あの日でループが解けなくて」
「それで、七九四回いく?」
「もう面倒くさくなって、なにもしなかった日もたくさんあるよ。で、六百目くらいからは、クラスメイトに一人ずつ話しかけてたの。それで、渡辺くんに助手を頼むようになって、今回で百回くらいかな」
「へえ」僕は口を斜めにした。どういう顔をすればいいのかわからなかった。
「じゃあ、次回は、ぱあっと遊ぶか」
彼女がドーナツを食べ始めた。僕も食べる。頬張る彼女の幸せそうな顔に少し心惹かれた。
「あのさ」僕は言い出す。「さっき言ってた都市伝説の検索のやつ、あるワードって何?」
「ええと、何だっけ? それ訊いてどうするの?」
「僕もループに参加できるんじゃないかって」
「え?」彼女は目を丸くした。
「そしたら、いろいろやりやすいでしょ」
「え、でも、悪いよ」彼女は俯く。「私のことなのに、巻き込んだら」
「いいよ、もう結構、巻き込まれてるから」
「でも……」
「また次回も僕が相手するなら同じことじゃん」
「それは、そうかもしれないけど」
「ほら、教えて」僕はスマホを取り出した。「何?」
「ええ、もう、ほんとにいいんだね?」
「うん」僕は力強く頷く。
「ええと、確か、セイ、ビン、カイ、ヒン、タラ──正しいの正、便利の便、人に会うの会、品物の品、魚の鱈──の漢字五文字を空白入れて検索したら出てくる……」
「オッケー」僕は打ち込んだ。「……あ、なんかヒットした。これ?」
彼女に開いたページを見せる。
「そう、それ」
僕は画面を見る。
明日が来てほしくない方へ
簡単登録で明日は来なくなります
登録フォームはこちら
そんなことが簡素に書かれていた。
僕は「こちら」を押してみる。画面が変わった。名前、生年月日、住所、電話番号、メールアドレス、パスワード、確認用パスワードを入れればいいらしい。何に使うのだろうか。プライバシーポリシーに同意が必要だった。僕は入力して、「確認メール送信」を押した。やけに今どきのシステムだなと思った。
彼女は眉毛を下げて、作業する僕をじっと見つめていた。
届いたメールを確認し、そこから、「本登録」を押した。画面が変わり、登録完了の表示が出た。顔を上げる。
「できたよ」僕は言った。
「ありがとう……」彼女は呟くように返した。
こんな手続きで、ループが発生するなんて、信じられない。でも、彼女はこれをやって、ループして僕に何度も質問したから、僕についていろいろ知っていたのだ。やはり、受け入れるしかない。
そこからは無言でドーナツを食べる時間になった。どうも、気まずい。これからは一蓮托生の身になったのに。
彼女はドーナツを平らげて、それからコーヒーを啜った。上目遣いで僕を見た。僕は人と目を合わせるのが、あまり得意ではない。でも、合わせた。逸らしたらいけないと思った。なんだか、人間のふりをしているみたいでおかしかった。
「はあああ」彼女はカップを置いて、長く息を吐いた。「うん、ダメ、くよくよしたら。せっかく、渡辺くんが仲間になったんだ。時間を大事にしないと」
「もう時間はいっぱいあるけどね」
「そう、私たちには、時間が無限にある。渡辺くんもこれでループするようになったら、自分の葛藤なんてのは関係ないってわかる。よし、渡辺くん、一緒にループを抜け出そう」
「うん。で、どうするの? 明日っていうか、次回は」
「とにかく、所持金、全部持ってきて。八時半に立川駅北口集合で」
「立川で遊ぶの? 八時半だと、店、開いてないよ」
「学校に行くふりしないと」
「あ、そうか」
まあ、一回出て戻ることもできるだろうとは思ったが。
「もう、しっかりしてよ」
彼女はカップを口に当て、傾きを急にして飲み干した。
僕たちは皿を下げて、店を出た。
「さっきの漢字五文字はどういう意味なの?」僕は訊いた。
「知らない。でも、なんか意味があるんだろうね。あ、その意味がわかったら、ループが解けるとか?」
「ああ、それはあるかもしれない。じゃあ、それも考えよう」
「うん、いいね、冴えてる。渡辺くんは、冴えたり冴えなかったりするね」
「普通、そんなもんじゃない?」
「頼りにしてるからね」彼女は僕のリュックを叩いた。
僕たちは歩き出した。大通りを抜け、ロータリーを回り、K駅構内に入った。
定期をタッチして改札を通る。
「渡辺くんはあっち方面だよね。私、こっちだから」
「なんで……」知ってるの?と訊こうとしたが、過去のループで知ったのだと想像した。
彼女は、にやっとした。
「じゃあねえ」彼女は手を振って階段に向かった。「また今日ね」
僕たちには、明日が来ない。だから、「また明日」ではなく、「また今日」。
「また今日」僕も小さく手を振った。
すると、あ、と彼女は大きな声を出して、急いで僕のほうに走って来た。
「どうしたの?」
「あ、いや、今日の最後に、一つだけの質問、訊いてなかったから」
「ああ」そういえばそうだった。
「はい、質問」彼女はそっぽを向きながら言った。「渡辺くん、後悔してる?」
「え?」
「私と出会って、ループに付き合わされて、後悔してる?」
「ああ……」僕は首を横に振った。「いや、全然」
本当に?と、誰かが言った気がした。すれ違った人かもしれない。どきりとした。僕にはわからなかった。
けれど、その返事を聞いて彼女は安心したように、ふふっと笑った。
「そう、よかった。じゃあ、また今日ね」
彼女はこっちを見ずに、元気に走って、階段を上っていった。
ホームで線路を挟んでまた彼女と相対するのが、なんとなく気恥ずかしかったので、対角の位置にある階段を上ることにした。
それが、慎ましさであると、僕は信じたかった。
電車に揺られ、乗り換えて、また電車に揺られ、地元のH駅に到着。
まだ、明るい。日が延びたものだ。やがて、春も終わり、夏が来るのか。まあ、でも、ループを抜け出せたらの話か。今日は、気温もちょうどよく、天気も悪くなく、繰り返すのにはうってつけである。
明日は、次回は、何をして遊ぶのか。所持金を全て持って来いと言われたが、まあ、十万円くらいか。どうせ、今日を繰り返すなら、使っても問題ない。万が一、その豪遊のおかげでループを抜け出すことになってもいいだろう。というか、葛藤は原因ではない可能性が出てきたのだった。それなら、遊ぶ意味はないのではないか。
そんなことを考えていたら、家に着いた。
ごろごろと漫画を読んだりゲームをしたりしていたら、あっという間に、夜。
母が仕事から帰って来た。
「ごめん、遅くなった。今からごはん作るから、先、お風呂、入っちゃって」
母にそう言われ、浴室に行き、風呂に栓をして、自動ボタンを押した。リビングに戻った。
「ああ、お母さん」僕は思いついて言う。「タイムループを扱った作品、見たことある?」
「なぁに? そうだね、あんまりないかも。まあ、よくあるのは、大事な人が死ぬから、やり直すっていうパターンかな」
「そうじゃなくて、受動的っていうか、抜け出せないパターンのやつは?」
「ああ、そうね、そういうのもあるね。だいたいは、自分の未練を乗り越えればって感じか、そのタイムループを発生させた原因の敵を倒す、機械を壊すみたいな感じで抜け出すオチが多い印象。あんま知らないけどね」
「なるほど」
「小説のネタ?」
「う、うん、そう」
僕は文芸部に入っている。小説を書いていて、母の話はよく参考にしていた。
「頑張ってね。完成したら読ませて」
「わかった」
十五分ほどでお風呂が沸いたので浴室へ。先に、髪と身体を洗っておいてから、湯船に浸かる。しばらくして、母に、できたよー、と呼ばれたので上がった。パジャマを着て、リビングに行く。
夕飯は、キーマカレーだった。普通のカレーより煮込む時間が短縮されるから、キーマにしたらしい。
食べ終わって、歯を磨いてから、母に、おやすみ、と言って二階の自室に引き上げる。
ベッドに倒れ込んだ。
スマホを取り出し、「タイムループ」で検索する。
タイムループの定義やら、それを扱った映画などの作品例が出てきた。
いろいろ開いて読んでみたが、タイムループをどうやって抜け出せたかという核心は書かれていなかった。重大なネタバレになるから、それはしょうがない。
でも、一通り見たところ、やはり、先ほど、母が言った通りの展開が多いように思えた。
つまり、参考にならなかった。
僕はスマホを充電コードに挿し、電気をリモコンで消した。仰向けになって、広がっていきそうに錯覚する天井を眺めた。
今日会ったばかりのよく知らない女子に、いい格好を見せようと、とんでもないことを引き受けてしまった。今更ながら、これでよかったのだろうかと、鍵を閉め忘れたような不安が湧いてくる。
いつもそうだった。
あまり、コミュニケーションが得意ではなく、一人でいることが多かった。自分から話しかけることはせず、誰かに構ってもらえるのを待った。たまに、話しかけてくれる人はいた。すると、嬉しくなって、調子に乗ってしまう。自分が実は頼りになるできる男だと思われたくて、今日みたいに安請け合いをすることが多々あった。その度に、僕はいいように使われただけではないか、と、ますます自信をなくしていく。自分のせいなのに、だ。
情けない。
目を瞑った。
でも、昨日さんは、いい人みたいだ。口車に乗せられた感じはあまりしない。能動的に、積極的に、ループに交ざることを引き受けた。自分の意志であると思いたかった。
では、何故、能動的に、積極的になったのだろうか?
彼女のビジュアルに惹かれたから?
彼女のパートナーになれると思ったから?
結局、性欲だったのか。
恥ずかしい。
気持ち悪い。
自分の意志というよりか、本能ではないか。
寝返りをうつ。
今日はもう寝よう。
明日になれば──違う、また、今日になって、彼女と会えば、わかるかもしれない。
僕の気持ちというものが。
零時を跨ぐとき、どんな感じがするのか。
きっと、寝たまま、なにも感じないだろう。
目が覚める。
徐々に、アイデンティティがこねこねと固められる。そうか、僕は、僕だったのか。
窓からは、雲を通して、白々しい朝日。朝は、降ってくると感じる人と、湧いてくると感じる人がいるようだ。僕は前者だった。
はっと思いついて、スマホを確認。
4月8日 月曜日 6:14
うまくいった。
また今日が来た。
僕は、うんんん、と伸びをして、起き上がった。スマホをコードから抜いて、トイレに向かった。座って用を足しながら、昨日さんに成功したと伝えたかったが、クラスラインに彼女のアカウントはなかった。そうか、まだ、僕たちは出会っていないのか。なんか不思議な感覚だ。
トイレを流してから出て、一階に降りた。
「おはよう」僕はリビングに入り、言った。
「おはよう。あれ、なんだか嬉しそうね」母は微笑んだ。
「そう?」僕はそっけなく応えた。実は、ご機嫌だった。
行ってきます、と、父がリビングを覗いてから家を出て行った。母は、行ってらっしゃい、と言って、僕は、んん、と応えた。
菓子パンを持ってきて、テーブルについた。テレビを見る。昨日──前回、見た通りだった。菓子パンも同じ。
あ、でも、そうか。
夕飯のキーマカレーは、今からオーダーすれば違うものに変更できる。そのことに気づいた。朝の菓子パンは固定だろうが、夜は変えられる。まあ、昼も弁当はなくて自由なのだから、同じ食事が繰り返されて飽きたりはしないのだが。
「今日の夕飯は、パスタがいいな」僕は母に言った。
「お、いいねえ。何パスタにする?」
「和風かな。大葉とか使って」
「オッケー」
よし、なんか、順調だ。
菓子パンを食べ終わって、洗面所に行く。歯磨き、洗顔、髭剃り、寝癖直しを済ます。自室に戻って、着替えた。
支度は完了。財布には、今までこつこつ貯めてきたお小遣い、十万円を入れた。とても使いきれないだろうとは思った。
七時過ぎに家を出た。
「行ってきます」
朝はまだ若干肌寒い。道路の溝にスミレが咲いている。
僕は自転車に跨った。進級祝いに父が新しいのを買ってくれた。サドルが硬くて、尻に合わなかったが、格好いいから許す。走り出した。
気分はすこぶるいい。なんとなく、非日常だ。二回目の今日なのだから、それは当然か。でも、ループに慣れたら、そんな感覚はいずれなくなって、それがあったことも思い出さなくなるだろう。スマホのホームボタンのように。
H駅に着き、駐輪場に自転車を停めた。
改札を抜け、ホームで電車を待つ。
僕はスマホを取り出し、学校に電話をかけた。体調不良で休みます、と。いろいろ音が入ってしまったから、嘘だとバレたかもしれないが、担任はなにも言わなかった。
そのまま、スマホでSNSをチェックしていたら(昨日──前回と変わらない)、電車がやって来たので、乗り込んだ。ここはターミナルで全員降りるから、座れる。
終点B駅に着き、中央線に乗り換え。今回、遊ぶ予定の立川駅は、学校のあるK駅の向こう側なので、乗る電車の方向は一緒だ。
連絡改札を抜け、またしばらくホームで待つ。駅舎の隙間から見えるくもり空。雲はそれほど分厚くないようで、暗い感じはしない。混沌とした苦い世間に、白いふわふわしたものが覆い被さっている。僕は、カプチーノを連想した。
電車がやって来たので乗る。リュックを前に持って、吊り革に掴まった。
十分ほどで立川駅に到着して、僕は降りた。人の流れに合わせて、そのまま、改札を出る。時計を見ると、八時前。結構、早く着いてしまった。しょうがないから、待つか、と北口に行く。
すると、いた。
昨日さん。
デッキ中央の植え込みの壇に彼女は腰かけていた。
「おはよう」僕は近づいて声をかけた。
彼女は顔を上げた。
「やあやあ、渡辺くん」彼女は、にまーっと表情を明るくした。「早いね」
「昨日さんこそ」
彼女は立ち上がって、伸びをした。
僕はその立ち姿を見る。白いシャツを、緑色のぶかっとしたズボンにインしていた。
おしゃれしているのか?
褒めたりしたほうがいいのだろうか。
「よし、じゃあ、行こう」彼女は歩き出す。
褒めるタイミングを失った。
「どこに行くの?」僕は後ろを付いていく。
「まずは、映画」
「映画? 何見るの? てか、チケットは?」
「何見るかはあっちで決めよう。チケットは当日券、買えばいいでしょ」
「ふうん」
彼女なりに今日のプランを考えてくれたのだろう。僕は特にしたいこともないし、彼女に連れ回される分には問題なかった。
彼女は、ふらふら歩いた。見えない水たまりを避けるように、あっちに行ったりこっちに行ったりした。
「どうしたの?」僕は心配になって訊いた。
「え、何が?」彼女は振り向いた。
「なんかふらふらしてるから」
「ああ」彼女はふっと笑った。「つい癖でね、気分がいいとふらふらしちゃうんだ」
「へえ」
「デートみたいだね」
「したことないから、みたいって言われても、わからないけど」
「そうなんだ。私もしたことない」
意外だと思った。嘘をついているのかと疑うほどだった。
「そうなの? モテそうなのに」
「その発言はセクハラです」彼女は両手の人差し指を交差させた。
「え、あ、ごめん」
「じゃあ、これを二人の初デートってことにしよう」
「え?」
「嫌だった?」
「え……」僕は急に恥ずかしくなった。
「そうか、嫌だったか。ごめんね」
「別に嫌じゃ」慌てて否定する。でも、心の中では、ペンディング状態だった。嫌ではないが、それでいいのかと問う自分がいた。
「そ?」彼女は白い歯を見せた。「なら、よかった」
映画館に着いた。
「ろくなのやってないね」彼女は、外に貼ってある上映作品一覧を眺めて、そう呟いた。僕も同感だった。
「どれがいい?」彼女が訊いた。
「ええ、じゃあ、一番早く見られるやつ」僕はどうでもいいように答えた。
「調べるか」
彼女はスマホを取り出した。上映時間で調べているのだろう。
「最初のは、これか」彼女は画面を見せた。「このなんか変なやつ」
「うん、それでいいよ」
見ると、本当に、「なんか変なやつ」で、興味がこれっぽっちも湧かなかったが、どうせ使ったお金もリセットされるし、それでいいと思った。
「まだ、入れないみたいだね」彼女が立て看板を見ながら言った。
「そう、じゃあ、どっか座る?」
「そうしますか」
近くでベンチを見つけて、そこに座った。
ふうと息をついたが、僕たちは無言だった。僕としては、彼女に会って二日目。人見知りが発動していた。それにしては、あまりどもったりもせず、うまく受け答えできているのではないか、と自己評価した。
沈黙の間を春風が通り過ぎる。十分ほどそうしていた。
僕は、いたたまれなくなり、スマホでも見ようかとポケットに手を当てようとしたら、あのさ、と彼女が言った。
「ありがとう」彼女は恭しく頭を下げた。
「え、何が?」
「ループに一緒に入ってくれて。改めてお礼が言いたかったの」
「あ、それは……。僕も面白そうだと思ったし、別に感謝されるほどじゃ」
「それでも、ね。感謝しても、しきれない。私、正直、不安だったの。とんでもないことをしちゃった。もう私は大人になれない。自殺を考えたこともあった。誰に話しても信じてもらえなかった。今日これから起きることを予言みたいに伝えても、相手にしてもらえなかった。まあ、今日、重大な事件は起きなかったっていうのもあるけどさ。クラスメイトに一人ずつ、私、タイムループしてるんだって打ち明けるようになっても、変な子扱いされるだけだった。でも、渡辺くんは違った。渡辺くんも、最初に会ったとき、完全には信じてはくれなかった。けど、最後に、こう言ったの。僕に質問しな。その情報を次の僕に教えて。そしたら、僕は君を信じると思うよ。そう言ってくれたから、私は、渡辺くんに協力してもらうようにしたの。前に、誰でもよかったみたいに言ったけど、あれは嘘。渡辺くんは、私を救ってくれた。嬉しかった。だから、何度でも言いたい。ありがとう」
彼女は溢れるように、そう話した。
僕は反応に困った。そうか、前の僕はそんなこと言ったのか。キザだなと思った。なんだか、呑気でいた僕が馬鹿みたいだ。
でも、僕はそんな大層な人間ではない。きっと、それを言った僕も浮かれていただけだ。
慕ってくれているのが、ひどく申し訳なく感じた。
口を固く結んで、首を横に振った。彼女はきょとんとして首を傾げた。
腕時計を見る。
「そろそろ、入ろうか」僕はできるだけ優しい声音で言った。
やりきれない気持ちのまま、僕たちは映画館に向かった。
券売機で当日券をそれぞれ買った。
なんか買う?と訊いたら、じゃあ、折角だし、と彼女は言った。飲み物二つとポップコーンのセットがあったのでそれにした。トイレに寄ってから、劇場に入り、指定席に座る。ポップコーンは二人の間に置いたが、僕の隣の彼女でないほうの人が、僕側のホルダーを使っていたので、飲み物は置けなかった。
予告が流れ始め、照明が落とされ、映画が始まった。
映画がやっと終わった。
想像以上に面白くなかった。もう、エンドロールなんて見ないで席を立ちたかったが、彼女はそんな感じではなかったので、そのまま座っていた。
照明がついた。ぱあっと光が行き渡る。解放感の象徴みたいだった。僕たちは立ち上がって、退場する。
廊下でやっと彼女が口を開いた。
「酷かったね」
安心した。めちゃくちゃ面白かったなんて言われたらどうしようかと思っていたところだった。
つまらない映画は腐るほどあるけれど、見た意味のなかった映画は一つもない。
誰かがそんなことを言っていた。僕はそのスタンスに憧れていたのだけれど、それにしても、今見た映画は酷かった。
ミステリーっぽかったが、犯人は途中でわかってしまった。何故だかわからないが、恋愛要素が盛り込まれ、そっちに重きが置かれているように思えた。そのラブロマンスも月並みでつまらなかった。
僕たちは映画の悪口を言い合いながら、映画館を後にした。その会話のほうが、映画本編より何倍も面白かった。でも、僕には、自分がここにいるのが相応しくないというような寂しさが拭えなかった。
時刻は十一時過ぎ。もう、どの店も開いているだろう。
「この後はどうするの?」僕は彼女に訊いた。
「んー、昼ごはんにはちょっと早いね。本屋にでも行くか」
「わかった」
立川には本屋がたくさんあった。僕は映画館近くの商業施設に入っている本屋が気に入っていたので、それを彼女に伝えると、そこに行くことになった。
本屋に着いた。
「いいよね、本屋」彼女が目をキラキラさせて言った。
彼女はまっすぐ、文庫コーナーに向かった。僕は付いていく。
「本、好きなんだ?」僕は訊く。
「うん、結構、読むよ」
「どんなの?」
「そうだね、いろいろ読むけど、最近はミステリーにハマってるかな」
「最近って、ループの最近?」
「ん? ああ、そう。お金も無限に使えるし、記憶は持ち越せるからね」
「僕もミステリーは好きだよ」
「知ってる」彼女は笑った。
「え、訊いたの?」
「うん。だから、私も読んでみようと思ったの」
「へえ」
「あ、この作家」彼女は平積みの中の一冊を指さす。「渡辺くんが好きな人」
僕は口をもにょもにょさせた。なんだか、恥ずかしい。自分の日記を音読されている気分だった。
文庫コーナーを一巡りして、漫画コーナーも見ていたら、お昼時になった。
「お腹空いてきたね」彼女が腹部をさすった。
「どこ行こっか?」
「じゃあ、サイゼ。サイゼで爆食いするの」彼女は悪戯っぽく笑った。
商業施設を出て、モノレールの線路の下、デッキを歩き、サイゼリヤがあるビルに入った。エレベーターで五階に上がった。
サイゼリヤはそこそこ混んでいた。学生が並んでいた。どこの始業式ももう終わったのだろう。
僕は記名台に名前を書き、店の外で待つことになった。
このフロアにはサイゼリヤの他に、画材屋も入っていた。僕は、悠久の時間で、絵でも描いてみようかなと思ったが、一日で完成させるのは無理だし、作品が残らないのは面白くないと気づいて、やめにした。
「そういえば、渡辺くん、文芸部だよね」
「そうだけど」
「どんなの書いてるの?」
「どんなのって言われてもなあ」
「ジャンルは?」
「いろいろ。ミステリーっぽいのもあれば、SFっぽいのもあるし、思いついたネタ次第かな」
「どうやって書いてるの? 原稿用紙?」
「まさか。パソコンがメインで、出先ではスマホで書くこともあるけど」
「スマホにもデータがあるの?」
「うん」
「じゃあ」彼女は手を差し出した。「ん」
「え、何?」
「読ませてよ」
「ええ……」
「ダメ? 人には読ませないの?」
「そういうわけでも」
「じゃあ、読ませてよ。短いやつないの?」
「あるけど」
「お願い。一つだけでいいから」
「んー、しょうがないな」僕はスマホを取り出した。ワードを立ち上げて、その中の短編を開いた。「はい、これ」
「ありがと」彼女はそう言ってスマホを受け取った。「あ、変なとこ押した」
「もう、貸して」
なんやかんやで、彼女は読み始めた。ショートショートなので、十分もあれば読めるだろう。僕は画材屋を覗いて時間を潰していた。
絵の具も筆もいい値段するなあと思っていたら、肩を叩かれた。昨日さんだった。
「読んだよ」彼女はスマホを僕に返した。
「どうだった?」僕は訊いてみた。
「んー、なんか哲学的で抽象的で、よくわかんなかった」彼女は、はにかんだ。
「そう……」
「でも、なんとなく素敵だった。あの最後の文──そんな主観も、もうない。──、あれはおしゃれだと思った」
「そう?」
「賞とか応募しないの?」
「いや、僕のレベルじゃ」
「本屋さんに渡辺くんの本が並ぶの楽しみにしてるから」
「ええ……、そんなこと言われても」
「読ませてくれて、ありがとう」
僕たちはサイゼリヤに戻った。タイミングよく、僕の名前が呼ばれた。
耳の奥で、彼女の「ありがとう」が残響していた。
案内されたテーブルについた。彼女がメニューを広げる。
「よーし、いっぱい食べるぞ」彼女は腕まくりするジェスチャーをした。
「あのさ」僕は言う。「昨日さんは何部に入るつもりなの?」
「転入初日に部活は無理じゃない?」
「ループが抜け出せたら」
「ああ、そうだね」彼女は視線を上に向けた。「自己紹介のとき言わなかったっけ、私、前からバドミントン部に入ってたから、こっちでも続けようかなって」
「スポーツ、好きなんだ?」
「スポーツっていうより、単にバドミントンがやってて面白いからだけど。渡辺くんは、その言い方だと、スポーツが嫌いみたいだね」
「知らなかった?」
「え? うん。なんで嫌いなの?」
「暴力的だから」
「ボクシングとか?」
「そういう直接的な意味じゃなくて。だって、結局は争いだし、オリンピックとかが持て囃されるのも、プロパガンダみたいじゃない?」
「そう言われてみれば」
でも、彼女は納得しているようには見えなかった。まあ、いい。この話はやめよう。本当なら、スポーツのデメリットについて、少なくとも十分は話し続けられる。でも、これ以上議論すると、どちらか──たぶん、僕──が傷つくだろう。
「で、何頼む?」彼女は声を弾ませた。
「金額の心配より、お腹の容量の心配をしなきゃだね」僕は言った。
「そうなんだよ。あれ? ループ経験者?」
「今日が初めてです」
「それはそれは」彼女は、にやにや笑う。
サイゼリヤは注文票に客が注文番号を記入して、店員に提出するシステムをとっている。
僕たちは、食べ切れるように加減をしながら、好きなものの番号を書いていった。
「かたつむりは?」彼女が言った。
「エスカルゴでしょ。いいよ、頼んだら?」僕は食べたことなかったので、興味があった。
「私は無理」
「あ、そう」
結局、ピザ二種類、モッツアレラのサラダ、パスタ二種類、ハンバーグ、ラムのステーキ、プリン二つ、ティラミス二つ、フォカッチャ、それからドリンクバーを、店員を呼んで頼んだ。伝票を見ると、六千円弱だった。こんなに頼んで、一人三千円いかないのはすごい。
一人ずつ、ドリンクバーに行き飲み物を取ってきた。
彼女は嬉しさを隠し切れずに、うふ、うふ、と笑いを溢していた。
「そうだ、私も、文芸部、入ろっかな」彼女は唐突に言った。
「兼部するの?」僕はちょっと驚いた。
「そう。私にも書けるかな、小説」
「好きになんでも書いてみるといいよ」
「でも、ループを抜けなきゃ書き上げるのは難しいね」
「そうだね」
飲み物に口をつける。そうか、昨日さんも文芸部に入るのか。「やった」と最初は感じたが、じわじわと、「やめてくれ」が出てくる。
そんなに僕を慕わないでくれ、と言いたくなる。言ったほうがいいのかもしれない。心の底のほうに、彼女を突き放したい欲求が澱のように溜まっていく。
「はあ、じゃあ、ループの抜け出し方を考えよう。間違い探しなんてしてる場合じゃない」
「……え、あ、そうだね」僕は現実に戻った。「あの漢字五文字が鍵だと思うな」
「そう? 全然、意味なかったりして」
「いや、なにかあるはず」
「正、便、会、品、鱈だったっけ。なんか覚えちゃうよね」彼女は注文票を一枚取り出して裏面にその五文字を書いた。
「読み方は……、ただしい、セイ、……、ビン、ベン、たより……、カイ、あう……、ヒン、しな……鱈は?」彼女が顔を上げた。
「調べる」僕はスマホを取り出した。「……うーんと、あ、あった、セツって音読みもするみたい」
「雪がつくりだからか」
「正はさ、ショウとも読むね。会は、エとも。ちょっと全部調べるか」
検索した結果はこうなった。
正 ただしい、まさ、かみ、セイ、ショウ
便 たより、すなわち、ビン、ベン
会 あう、カイ、エ
品 しな、ヒン、ホン
鱈 たら、セツ
「うーん」彼女はボールペンでおでこを突いた。「なんかさ、二文字の読みが多いね」
「そんなもんじゃない?」
「正も『ただ』とか、便も『たよ』だけで読める」
「そうだとすると?」
「ええ、何だろう……。縦読みとか?」
「あ、なるほど」
「ええと、組み合わせは、5×3×1×3×2か」
「ん? 『あう』は?」
「入れてみる?」
「入れたら、ええと、180通りか」
「まあ、気長にやるか」
料理が届いて、パーティーが始まった。四人席でよかった。皿がたくさん並べられる。
「うわあ、夢みたい」彼女は目を輝かせた。
「まだ、やったことなかったの?」
「うん、盲点だった」
彼女はフォークを二本取って、一本を僕にくれた。いただきます、と彼女は呟いて、パスタを食べ始めた。
「シャツ、汚さないように気をつけてね」僕は言った。
「女の子が着るシャツみたいのは、ブラウスっていうんだよ」
「へえ、知らなかった」
「渡辺くん、ファッションに興味なさそうだもんね」
「それも訊いた?」
「いや、訊くまでもないっていうか」彼女の声は尻すぼみだった。
僕は視線を下げて自分の服装を見る。パーカーにチノパン。色はどっちも黒だった。
「おしゃれしたくないの?」彼女が訊く。
「いや、違う。おしゃれしないでいたいんだよ」
「え? 何が違うの?」
「能動的かどうか」そう答えたとき、僕は前回の夜のことを思い出した。
能動的……。
急激に熱されたように、割れんばかりに、恥ずかしさが込み上げた。下を向いた。顔を合わせられない。
「どうしたの?」彼女は心配そうに言った。
「いや……」僕は首をゆっくり振った。「なんでもない」
「なんか、ごめんね。気に障った?」
「大丈夫」僕は俯いたまま応えた。
空気を構成している物質の密度が上がった気がした。特に酸素が重くなった。息がしづらい。
黙々と料理を食べる。口に入れ、咀嚼して、飲み込む。その繰り返し。
そうやって、気まずい食事をしていたら、彼女が、あ、と叫んだ。
僕は顔を上げた。
「わかった」彼女はフォークを僕に向けた。「またあした、さようなら」
「え、何? あ、さっきの?」
「そう、漢字はそれぞれ、まさ、たよ、あう、しな、たらって読んで縦にすると」
「ま、た、あ、し、た、さ、よ、う、な、ら……。ほんとだ!」
「え、すごくない? 『また明日、さようなら』だって。えー、謎が解けた! やった! これで、ループ終わり?」
「どうかなあ、明日にならないとわからないね」
「よかった」
「ああ、謎が解けてよかったね」
「じゃなくて。渡辺くんが普通に喋ってくれて、よかった」
「あ……、ごめん」
「私が気に障ること言ったのが悪いの」
「そうじゃないんだ」
「え?」彼女はきょとんとした。
「僕が悪いんだ」
「え、どうして?」
「それは……」
何と言えばいい?
あなたの話を信じたのは、あなたが可愛かったから。
ループに交ざったのは、あなたによく思われたかったから。
そんなこと、言えない。
僕はここにいられない。
ここにいてはいけない。
リュックから財布を取り出し、千円札を三枚抜いてテーブルに置いた。
「ごめん」僕は立ち上がった。「もう、今日は帰る」
「え、ちょっと」
彼女は呼び止めたが、僕は振り返らなかった。サイゼリヤを出て、エレベーターのボタンを押した。早く来い、早く来い。
すると、腕を掴まれた。見ると、昨日さんだった。
「え、会計は?」僕は訊いた。
「多めに出してお釣りはいらないって言った。そんなことより」彼女は腕を強く掴み直した。「どういうこと? ちゃんと話して」
店員がお釣りを渡そうと出てきたが、僕たちのやりとりを見て、引っ込んだ。痴話喧嘩だと思われたに違いない。
「ごめん……」僕は目線を斜め下に向けた。「うまく話せない」
「それでも、話して」彼女は強い口調で言った。
「昨日さんを傷つけることになる」
「それでも、話して」彼女は繰り返した。
やっとエレベーターが来た。僕たちはそれに乗って、デッキのある二階のボタンを押す。乗っている間は無言だった。他にも乗ってきた人がいたからだ。やがて、二階に着き、ドアが開いて、僕たちは降りた。
「で、どういうことなの?」彼女は僕の手を離した。ずっと掴まれていたので、見たら、少し赤くなっていた。恋をした人の頬みたいに。
「……僕は、昨日さんの困ってる気持ちを利用して、仲良くなろうとしたんだ」言葉を選んでそう述べた。
「それで?」彼女は首を右に傾けた。
「え?」
「それだけ?」首を今度は左に傾けた。
「え、あ、うん」僕は伏し目がちに言った。
「なーんだ。そんなの全然いいよ」彼女は胸を撫で下ろした。「私も、渡辺くんの純情を利用して相棒にしたんだもん。お互い様だよ」
「でも、昨日さんの見た目で協力するか判断したんだ」僕は言い足した。そっちのほうが僕の悩みの核心だった。
「じゃあ、美人冥利に尽きるね」彼女は髪をかき上げて、にかっと笑った。
僕は彼女を誤解していた。彼女は思っているよりずっと強かった。自分の武器を把握して、その使い方に納得していた。僕は、そんな彼女が眩しかった。
「もう、いいよね」彼女が言う。「仲直りしたってことで」
なにも言えなかった。言うべき言葉が見つけられなかった。
口を固く結んだ僕の袖を、彼女が掴む。
「まだまだ遊び足りないよ。ゴーゴー!」彼女は僕を引っ張って駆け出した。
ああ、ループよ、解けないでくれ。
単純だが、僕はそう思った。
連れてこられたのは、ゲームセンターだった。デパートの一フロアがまるごと使われていた。
「よーし、UFOキャッチャーしよう」彼女は宣言した。
両替機に千円札を三枚入れるのが見えた。気合が入っている。
「どれにしようかな」きょろきょろ彼女は見渡す。
僕はまだ、というか、ずっと、後ろめたさを引きずっていた。一言も喋っていない。そんな僕にも愛想を尽かさず、彼女は健気に話しかけてくれた。
「あ、これ可愛い」彼女は、三十センチくらいの大きなぬいぐるみを指さした。最近流行りのキャラクターである。「これにしよう」
彼女は百円を投入した。
横方向のボタンを押す。アームが動く。縦方向のボタンを押す。アームが動く。
「よし!」
アームが開いて下降する。位置は悪くない。ぬいぐるみを掴んだ。アームが閉じて、持ち上がった。お、いけたのか、と期待すると、最後まで上がったとき、ぬいぐるみはぼとっと落ちた。失敗である。
「ああ、もう、取れたと思ったのに」彼女は悔しそうに言った。「はい、じゃあ、次、渡辺くん」
「……え?」僕は久しぶりに発声した。
「渡辺くんがやる番」
「え、僕はいいよ」
「ダメ、これは取れるまでやります」彼女は言い切った。
「でも、漢字五文字の謎も解けたし、ループが終わるのかもしれない」
「そんときはそんとき。じゃあ、私のお金でやる?」
「それは……。わかった、やるよ」
「お金いる?」
「大丈夫」僕は財布を出した。
「オッケー、任せたぜ」彼女は拳を突き出した。
僕は百円を入れた。
アームを動かした。下がって、掴んだ。でも、上がったとき落っことした。
ぬいぐるみは転がって、最初の位置より穴から遠のいた。
「ダメだった。ごめん」
「よーし、次は私。あ、でも、店員さんに場所直してもらお」
「え、そんなことできるの?」
「知らないの?」彼女は少し驚いたようだった。
「うん」
「じゃあ、一つ賢くなったね」彼女はそう言って、店員を呼びに行った。
店員の魔法の手を何度か使いながら、二人で十回ずつチャレンジしたが、ぬいぐるみは依然として透明な壁の向こうで微笑んでいた。
「んんー、ダメだなあ」彼女が壁をこつんと叩いた。
「もう、諦めようよ」僕は言う。
「いや、この子は連れて帰る」
「連れて帰っても、次回には持ち越せないよ」
「渡辺くんは、ループが続くと思ってるの? 終わると思ってるの?」
「う、そう言われると」
「大丈夫、予算はまだある」彼女はそう言って、また百円を投入した。
なんだか、これが金を吸い込む装置のように思えてきた。ぬいぐるみは疑似餌である。
彼女は、おりゃ、と言って、アームの位置を定めた。毎回、掴みはするので、その後どうすれば取れるのかわからない。もう、僕は、運次第だと思った。
アームが下がって、がしっとぬいぐるみを掴む。
そして、ゆっくりと上がる。
上がり切った。
それでも振り落とされない。
お?
アームはぬいぐるみを持ったまま、穴まで運んだ。
そして、ぬいぐるみは穴に落とされた。
僕たちは顔を見合わせた。
穴の下から、彼女はぬいぐるみを取り出す。それを抱えて、うおおお、と吠えた。
「やったじゃん」僕は言った。
「やったね。私たち」
彼女は、くしゃっと顔を綻ばせて、ぬいぐるみを抱きしめる。やったね、やったね、と小声で呟いていた。
なんて愛らしいのかと思った。ぬいぐるみが、ではない。
それから、ゲームセンターを一周して、各々、気になったのは数回チャレンジしたがゲットできなかった。それでも、満足感は果てしなかった。
勇者の証であるロゴ入りのビニール袋をもらって、ぬいぐるみを入れた。持つよ、と僕は提案したが、ダメ、と彼女は言った。別に取ったりしないのに。
ゲームセンターを後にした。
時刻は三時前。朝から遊んでいるので、少々疲れていた。
「喫茶店にでも行く?」彼女は言った。
「うん、そうしようか」
デッキを歩き、いい感じのカフェを見つけたので入る。
僕はアイスコーヒー、彼女は、アイスカフェオレを注文した。それを持って、カウンターの少し高い椅子に並んで座った。
「ふう」彼女は息をついた。
「満足した?」言ってから嫌味っぽいなと思った。
「うん、結構」彼女はストローに口を付けた。「楽しかったね、初デート」
「そうだね、僕も楽しかった」
「映画はクソだったけど」
しばらく、窓から外を眺め、無言でドリンクを飲んでいた。デッキを歩く人がまる見えである。ということは、歩く人もこちらがまる見えである。
「これで、最後になるのかな」彼女はぽつりと言った。
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど」彼女はストローで氷を突いた。「なんか、こうやって渡辺くんと今日をずっと繰り返すのも悪くないなあって」
僕は、毛布のように罪悪感を引きずっていたが、それと同じくらいに、彼女とループし続ける人生というのも素晴らしいのではないか、とも思っていた。でも、返事はしなかった。
ドリンクを飲み終わり、少しの間、ぼうっとしてから、彼女が、今日はもうおひらきにしよっか、と言った。僕は静かに頷いた。
立川駅に戻った。
「じゃあね」彼女は片手を広げた。「また今日?」
「うん、また今日」僕も片手を挙げた。「次回はどうする? 学校行く?」
「うん、そうだね、じゃあ、学校で。……あ、最後に質問」
「ああ、そうだった。いいよ、なんでも訊いて」
「んーとねえ、好きな女性のタイプは?」
「え?」
「好きなタイプ」
僕は悩んだ。
何?
勘違いしてしまうではないか。
勘違いではないのか?
わからない。
「んーと、そうだなあ」僕は顎をさする。「広瀬すずとか?」
無難な回答に逃げた。
「ああ、そういう感じね」
きっと、彼女にも逃げがバレただろう。でも、それ以上なにも言わなかった。彼女も逃げたのだ。
僕たちは、再度、「また今日」を言い合って別れた。方面は二人、逆である。叫びたくなるのを我慢して、僕は電車に乗った。たぶん、彼女も叫びたがっていることだろうと想像した。
家に着いた。
昼寝をして、起きてからは小説を読んでいた。母が前回と同じくらい遅れて帰ってきて、和風パスタを作ってくれたので、食べた。風呂に入り、歯を磨き、ベッドに倒れた。
さて、明日は来るのかな。
僕は今日の出来事を振り返った。結局、一万円くらいしか使わなかった。いろいろあったけれど、まあまあ、楽しかった。
でも、最後……。
枕に顔を押し付けて、吠えた。足をばたばたさせた。ここが水上だったら前に進むほどの勢いで。
しかし、興奮も、いつの間にか睡魔に勝てなくなり、眠りについた。
明日は来なかった。
その後もループはなにも変化なく、四月八日は繰り返された。
僕と昨日さんは、学校に行ったり、遊びに行ったり、ループを堪能していた。まあ、学校に行った日はわずかだったが。
二人の仲はだんだんと親密になっていった。でも、こんないい方はなんだが、プラトニックな関係のままではあった。
関係が深まっても、僕の心には、「僕は昨日さんに相応しくない」という落書きが残っていた。いくらペンキを塗り重ねても、それは消えない。ペンキも、ぽろぽろと、すぐに剥がれ落ちる。何度も塗り直すのに苦労した。
そういうわけで、僕は曖昧な態度で彼女と接していた。彼女もそれに気づかないふりをしてくれていた。
そんなループが続き、昨日さんは累計千回のループを経験した。僕は二百六回である。
その日の夜だった。僕たちはその日も遊んでいた。へとへとになってベッドに寝そべっていたとき、「正 便 会 品 鱈」とスマホで検索した。なにかページに変化があるかなと思ったからだ。
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僕は青ざめた。うわあ、と声が出た。急いで、電話アプリを開こうとする。もう彼女の電話番号は覚えた。
しかし、そこで手が止まった。
教えていいのか?
僕の頭の中には、天使と悪魔がいた。
隠し事はナシだよ。なんでも言い合うって約束したじゃん。
うるさい! それで今までの関係が保てないなら意味ないよ。
もはや、どっちが正義で、どっちが悪なのか、わからなくなっていた。
仮に教えたところで、彼女が登録解除をしてループを終わらせるかは定かではない。となると、教えたほうがいいのかもしれない。
いや、でも……。
僕は考えることを放棄した。とりあえず、教えないまま保留にしよう。いつか気持ちの整理ができたら……。
逃げてばかりだな。
自分が小さく縮まっていく錯覚を感じながら、僕は眠った。
今日も今日。また四月八日の朝が来た。今回はサンシャイン水族館に行くことになっている。僕は支度をして、いつも通り学校に行く時間に家を出た。
池袋駅で待ち合わせ。路線の関係で、途中で合流するのが難しかった。でも、そんなことを気にする間柄ではなかった。わざわざ混んでいる時間帯に電車に乗って、八時半過ぎには池袋に着いた。
東口の宝くじ売り場の横で、持ってきた文庫本を開いていたら、しばらくして、よっ、と声をかけられた。
昨日。
今日は黒いスカートだった。上はグレーで(名称はわからない)、きっとおしゃれなやつなのだろう。シンプルだが、おしゃれ。僕も見習いたい。
本を閉じて、おはよう、と言った。彼女も、おはよう、と返した。
「さて、行きますか」彼女は歩き出した。
ひらひら揺れるスカートに見惚れながら、後ろを付いていく。相変わらず、彼女は、ふらりふらりと酔っ払いのように歩いた。ぎりぎり人にぶつからない。十分ほどで、水族館のあるビルに到着した。
中に入り、エレベーターに乗って、屋上階へ。壁には、毒がありそうなカエルの写真がたくさん貼ってあった。
「毒のある生き物展やってるみたいだね」僕は調べてきていた。
「私、カエル、無理」彼女は目を閉じた。
「あ、そうなの」
屋上階に着き、エレベーターを降りた。
水槽に水が流れ落ちるフォトスポットが入り口にあった。ざーーー、という音がうるさかった。
「まだ入れないね」僕は腕時計を見た。九時少し前。開場は九時半だった。
僕たちはチケット売り場周辺をうろうろした。
「あ、週末からは、ペンギン展だって」彼女は電子ポスターを見て言った。
「僕たちに週末は来ないけど」
「そうだったね」彼女はしゅんとする。
僕の頭に「登録解除はこちらから」の文字が浮かんだ。ため息を吐きそうになったが、慌てて飲み込んだ。
なにやら自動販売機が二台ある。見ると、右は海の生き物の形のマカロン、左は、なんと、昆虫食だった。
「うげー、虫じゃん」彼女は露骨に嫌悪感を示す。
「へえ、こんなの売ってるんだ」
「買うなよ」彼女は目をきりっとさせた。
「え?」
そうやって、喋りながらいたら、他に客が来て、チケット売り場に並び出した。僕たちもその列に加わる。
九時半になり、営業が開始して、チケットを二枚買った。もぎってもらい、入場する。
まずは、屋内展示。自動ドアを抜けると、暗がりが広がった。明るくなるときよりも、暗くなるときのほうが、なにかが始まる感じがしてワクワクするのは、何故だろう。映画の習慣だけではない気がする。
青い光に包まれて、水槽の中を魚が泳いでいる。
「水族館、江の島以来だね」彼女は言う。
彼女は水槽に顔を近づけて、魚を目で追った。僕は思わず、スマホを取り出して、その光景を写真に撮った。
「あー、写真!」彼女はこっちを見た。
「あ、ごめん。昨日は撮らないの?」
そういえば、彼女はあまり写真をぱしゃぱしゃ撮らない。
「うん。写真、撮っても消えちゃうし。それに、思い出は、ものじゃなくて心に宿るって思ってるから」
「……なるほど」
彼女には頭が上がらない。
イワシの大群の渦や、ダイオウグソクムシなどが目を引いた。もちろん他にもいろいろいた。でかいタコやタツノオトシゴ、岩の間から顔をのぞかせるウツボ、サメみたいなやつ。表示は一応あるが、名前がわかるやつは少なかった。皆、名前なんてどうでもいいのだ。そういう意味では、印象に残る「昨日」は、いい名前かもしれない。
「昨日……」僕は呟いた。
「何?」彼女が振り向く。
「あ、いや」ただ、声が漏れただけだった。言い訳を探していたら、クラゲの文字が目に入った。「あっち、クラゲコーナーみたいだよ」
「そ。じゃあ、行こう」
僕たちはそちらに向かった。
入ると、パノラマみたいに円弧状の水槽が広がっていた。その中をたくさんのクラゲがぷかぷか浮遊していた。
「幻想的だね」僕は言った。
「幻想っていろんなタイプの幻想があるはずなのに、こういう、なんか綺麗な感じのとき、それに景色にしか使われないのは不思議っていってる本があったよ」彼女はそう言いながら、水槽に魅入っていた。
トンネルみたいな水槽もあった。
「下から見るクラゲもまた一興だねって思ったけど、クラゲってあんまり向きとかないし、横から見るのと一緒だね」彼女はそんなことも言った。基本、冷めている。
クラゲコーナーを出た。
タチウオなどがいて、次は、イカコーナーだった。
「昨日はイカに似てるね」僕は言った。
「は? イカ? なんで?」彼女は聞き捨てならないと言いたげだった。
「いや、別に悪口じゃないよ。なんか目が大きくてパッチリしてるし、それにイカは賢いって聞いたこともある。深い意味はないけど」
「ふうん」彼女は腕を組む。「じゃ、私も、俊みたいなやつ、見つけよ。間抜けなやつ」
「ええ……」
階段を上って、次のエリアへ。
淡水魚のコーナーだった。
僕は、なんとなく川魚は地味だなと思った。ちょっとだけ、速く歩いたら、もっとゆっくり、と彼女に言われた。
「あ、そこの小さいエイ」彼女は水槽の隅を指さした。「あれが、俊ね」
表示を見ると、アマゾンタンスイエイとあった。淡水にもエイがいるのか。
「なんで?」
「えー、隅っこに自分から行く陰キャだから」彼女は、にやっとした。
「イカは誉め言葉だったんだけどなあ」僕はうなじを掻いた。
淡水魚コーナーが終わると、彼女は、ひいっ、と声を上げた。見れば、両生類コーナーだった。
「行こ、早く行こ」彼女は僕の袖を引っ張った。
「もっとゆっくりって言ったじゃん」僕が茶化すと、ぎろりと睨まれた。
そこを抜けると、アザラシがいた。
「ほら、こういうのでいいんだよ」彼女は言った。
アザラシはスクリューみたいに回転しながら勢いよく水槽を行ったり来たりしていた。写真に収めようとしたら、速すぎてうまく撮れなかった。
次はまた魚。
「あ、ドリー!」彼女は青い魚を見て言った。
「こっちには、ニモがいるよ」僕は、まるで水族館の定型会話文だなと思った。
そんな感じで屋内展示は終わった。お土産ショップに入る。
スペースの半分くらいは、ぬいぐるみだった。カワウソやペンギンなど、かわいいと世間でちやほやされそうな生き物を、彼女は素通りして、飛びついたのは、ダイオウグソクムシだった。
「そんなのもあるんだ」僕は苦笑いした。
「これ買おっかなあ」彼女はそれと目を合わした。
「それは気持ち悪くないの?」
「え? そういうこと言わない。境界の向こう側に行っちゃうでしょ」
「そう……。サメとかのほうがいいんじゃない?」
「サメはイケアにいるじゃん」
結局、彼女はダイオウグソクムシを戻した。
「メンダコなんかいたっけ?」彼女はメンダコのキーホルダーを手に取って言った。
「ここにいないやつも、よく交ざってるよね」
「なんか、ずるい」
キーホルダーも戻した。
他になにか、これだ!というものがないかと思ったら、すごいのが見つかった。
「あ! すごい! グソクムシ入りカレーだって」彼女は、はしゃいで言った。
パッケージを見ると、粉末にしたグソクムシの殻を混ぜ込んだレトルトカレーのようだ。
「昨日は、グソクムシ好きなんだね」
「これ買うわ」
「じゃあ、僕も買おうかな」
僕たちは一つずつ購入した。
階段を降りて、屋外に出た。
外にはアシカとペンギンとカワウソとペリカンがいた。
「ペンギン、寒そうだね」彼女は、何匹かで身を寄せ合っているペンギンたちを見て、そう言った。
「ペンギンって南極とかにいるから平気じゃない?」
「ケープペンギンって書いてあるよ。ケープも寒いの?」
「え、知らない」
外の生き物はこれだけだった。つまり、一周したことになる。時刻は十時半くらい。
「どうする? カフェにでも行く?」僕は外に併設されたカフェを指さした。
「あっちにアシカショーっぽいのやるところがあるよ。時間はランダムって書いてあるけど」
そんな話をしていたら、スタッフが出てきた。タイミングよく、始まるみたいだ。
「お、行こ」彼女は、にっと笑った。
観客席に並んで座る。だいぶ人が集まってきたら、バックヤードからスタッフに連れられてアシカがステージに出てきた。アシカは、スタッフのハンドサインに合わせて、倒立したり、ぽあーーと吠えたり、片手を挙げて振ったりとパフォーマンスをした。その度にスタッフから魚をもらっていた。鼻先にボールを乗せる。首でフラフープを回す。僕たち観客は拍手をした。
十五分ほどでショーは終わった。アシカは退場し、観客は散っていった。
「よし、じゃあ、出る?」僕は言った。
「えー、どうしよう。あ、もっかいクラゲだけ見たいかな」
「わかった」
僕たちは屋内に戻った。
クラゲコーナーに入る。
「うん、やっぱり、クラゲはいいね」彼女は小声で言った。
二人でベンチに座って、クラゲのパノラマを眺める。静かだ。人の話し声もあるし、BGMもかかっているのに、だ。なんか空間が、静まり返っている気がした。
ぼうっと見ていたら、彼女が、ねえ、と言った。
「将来の夢は?」
「え?」僕は訊き返す。
「だから、将来の夢。今日の質問」
「ああ……。そうだなあ、特に考えてないかな」
「作家は?」
「なれると思えないし」
「まあ、私たちに将来なんかないのか」
僕の頭に、また「登録解除はこちらから」が浮かぶ。
「明日が来てほしい?」僕は勇気を出して訊いた。
「ええ、それは……」彼女は遠い目をした。「うん、そうだね、やっぱり来てほしいかな」
僕はその答えに少しだけがっかりして、がっかりした自分にうんざりした。昨日となら永遠を生きてもいい。そう思っているのは、僕だけだったのか。
「昨日の将来の夢は?」僕は話を戻した。
「私は、医者」
「そうなんだ。昨日、頭いいもんね」
「イカ並みにはね」
「ごめんってば」
そうか、彼女には夢があるのだ。「お医者さん」ではない。「医者」である。遠い存在だと見做していない言い方だ。僕は寂しくなった。先ほどのエイのように隅に逃げ出したい気分だ。
幼少期は僕にだって、将来の夢があった。水族館の飼育員になりたい時期もあった。でも、いつの日か、将来のことを考えないようになった。自分の未来を限定してしまったら、自分の能力の限界に気づかされるのではないか。そう思うようになった。さらに、このループのために、未来から目を背け、楽しいことだけをしている、ぬるま湯の心地よさを知ってしまった。ずっと僕は逃げてばかりだ。
「はあ……」彼女は僕の目を見た。深海のような色をしていた。「私は大人になりたいよ」
「そう……」
「今日を繰り返して遊んでばかりいたら、人はダメになる。俊はまだ二百回くらいのループだから、そう思わないかもしれないけど、やっぱり、よくない」
僕は口をつぐんだ。
言うべきか。言わないべきか。
あの、と言いかけたら、彼女は立ち上がった。
「もう、帰ろうっと。ん? なんか言った?」
「いや……」僕は首を振った。「なんでもないよ」
「そ? じゃあ、帰ろう」
僕たちは引き返して、外に出て、水族館を後にした。エレベーターに乗る。僕は、一か月放置されたコーラみたいに、気が抜けていた。デート終盤は、こうなることが多いので、彼女は、いつも通り、気にしないふりをしてくれた。僕も無口になりきらないように意識した。
「あ、毒展、忘れてた」彼女が言う。
「行きたかったの?」僕は覚えていたが、提案しなかった。「どうせ、毒ガエルだよ」
「そうじゃん。よかった、行かなくて」
「このビル、他にも遊ぶとこあるけど。UFOキャッチャーとか」
「寄ってみるか」
途中で三階のボタンを押して降りた。
ガチャガチャやUFOキャッチャーが大量に並んでいた。二人でぐるぐる見てみた。
「わあ、今どきのガチャガチャはすごいね」彼女は言う。「これなんか八百円もする」
特にほしいものはなく、なにもせずに、そこを出た。ビルも出ることにした。
首都高を潜り抜けて、池袋駅に向かう。
「あ、爆弾焼き」僕は呟いた。
「え、何?」
「爆弾焼きの店。知ってる?」
「知らない。食べ物?」
僕たちはそちらに歩いて行った。
「えー、大きいタコ焼きみたいなやつか」彼女はメニューを見た。
「タコは入ってなかったはずだけど。昔、よく行ったプールにあったんだよな。懐かしい」
「食べてみるか」
彼女はチーズミックス、僕はレギュラーを頼んだ。すぐ提供され、熱々を食べる。
「昼ごはん、どうする?」彼女は言った。
「え、これじゃないの?」
「これはおやつ」
食べ終わって、駅に向かいながら、昼ごはんの店を探した。ちょっと行ったところに、ナポリタン専門店なるものを見つけた。
「ここはどう?」彼女が言った。
「いいんじゃない?」僕は券売機を見る。「僕は小でいいや」
「よく見て」
「何?」
横に注意書きがあった。麺が、小で三百グラム、並で四百グラムとあった。大盛り無料らしい。
「え、多くない?」僕は驚いた。
「私、並いくわ」
「え、ちょ」
結局、その店になった。僕は小にした。カウンター席に並んで座った。
店員がいくつものフライパンを同時に使ってパスタを勢いよく炒めていた。なんか格好よかった。
しばらくして、ナポリタンが出てきた。
多い。爆弾焼きも食べたし、小でも無理かもしれない。
「いただきまーす」彼女はもりもり食べ始める。
僕も、いただきます、と言って食べ始めた。うん、味はかなりうまい。
「おいしいね」彼女は言った。彼女が嬉しいなら、僕も嬉しい。
彼女はぺろりと完食し、僕はちょっと無理したがなんとか全て胃袋に納めた。
ごちそうさまでした、と二人で言って、店を出た。
その後は並びにあったゲームセンターやブックオフなどを覗いてみて、駅前に着いた。
「どうする? カラオケにでも行く?」僕は言う。
「もうカラオケも飽きたね」彼女はふうと息を吐いた。「新曲も出ないし」
今日を繰り返すとは、そういうことである。
僕は深呼吸をした。
言おう。
言うべきだ。
「あのさ」
「ん? 何?」彼女はこちらを見た。相変わらず、いい目をしている。
「これ」僕はスマホを出し、あのページを表示して、下にスクロールした。「見て」
彼女は近寄って、画面を凝視した。
十秒後に顔をばっと上げた。
「え、登録解除? うそ、まじ?」彼女は早口で言った。
「そう、これで、ループは抜け出せるっぽい」
すると、彼女は、笑顔とはいいがたいような、めいっぱい感情を込めた顔を作った。それから、ふにゃふにゃと力が抜けたようにしゃがみこんだ。
「だ、大丈夫?」僕は寄り添う。
「あ、うん、大丈夫。そうか、そんな簡単なことだったんだ。そうか……」
彼女は、やおら立ち上がった。
「ありがとう、教えてくれて」彼女は吹っ切れたように笑顔になった。「そうか、だから、今日の俊は様子がちょっとおかしかったんだ」
「ごめん……」
「ううん、いいの。はあ、でも、本当にこんな単純なシステムだったなんて。もう、びっくり。笑っちゃうほどびっくり」
そう言って彼女は、腹を抱えて笑った。しばらく、その様を見ていた。やっと今日から解放されるのだ。いろいろと感じることがあるのだろう。涙も出ていて、それを手で拭いながら、三分ほど笑い続けていた。このまま笑い死ぬのではないかと心配になったほどだ。
ようやく、彼女は落ち着いてくる。
「やっぱり解除するの?」僕はおずおず訊いた。
「ええ……? そりゃもちろん。……あ、でも、今はダメ。次回、ちゃんと学校に行ってから、解除しなくちゃ」
「そう……」
僕は切に悲しくなった。泣いてしまいそうだった。涙を必死で堪える必要があった。泣いたらダメだ。泣いていいのは、先ほどの彼女のように笑いすぎたときだけ。そんな表情に気づいたのか、彼女は笑顔をやめ、僕の肩に手を置いた。
「大丈夫。私たちは変わらないよ。ただ、明日が来るだけ」
「昨日は……、偉いよ。でも、僕は……、僕は……、ただ……」
「未来に進もう。ね?」彼女は優しく微笑んだ。
僕たちは池袋駅で別れた。
「また今日」彼女は笑って手を振った。
「また今日」僕はぐしゃぐしゃの顔で、返した。この変な挨拶もこれで最後だ。
僕は、ゆりかごのような電車の振動に揺られながら、なんとかH駅まで着いた。
家に着いたら、リビングで寝てしまった。物音で起きたら、母がいて、夕飯になった。それから、風呂に入り、歯を磨き、自室に上がってまた寝た。グソクムシカレーのことを思い出したが、もう、遅かった。
目が覚めたら朝だった。最後の四月八日である。
僕はもう百回以上食べた菓子パンを食べた。それを食べずに違うものを朝食にしたこともあったが、流石に飽きたので、もう今後それを買うことはないだろう。
「行ってきます」
僕は家を出た。
自転車でH駅まで行く。電車に乗る。K駅に着く。大通りを歩く。学校に着く。教室に入る。
八時半になり、ホームルームが始まった。
「皆もう知ってるかもしれないが、今日からこの五組に転入生が来ます」担任がドアを開けて、一人の女子が入ってくる。
担任が黒板に彼女の名前を書いた。
「初めまして。相沢昨日といいます。よろしくお願いします」彼女は言った。
男子から歓声が上がる。
「前の学校では──」
僕は頬杖をついて窓から外を眺めた。もう二百回以上見た、くもり空。明日は晴れるということも朝のニュースで何度も見ていた。
彼女が話し終えたようで、担任が、じゃあ、席はあそこ、渡辺の隣で、と言った。彼女はつかつかと歩いてきた。
「よろしくね、渡辺くん」彼女は笑いが堪えきれないように言った。
「よろしく、相沢さん」僕は仰々しく言った。
始業式も終わり、その後のホームルームも終わった。また彼女はクラスメイトに囲まれている。帰る支度をしながら、今日はどうするのだろうと、ちらりと窺ったら、彼女と目が合った。
彼女は、にいっと笑った。
「ごめん、私、もう、帰るね」彼女はバッグを持った。
「え、俺と帰ろうよ」「皆でカラオケ行かね?」「相沢さんもどう?」
団子を置き去りにして彼女はこう言った。
「私、渡辺くんと帰るから」
皆、ぽかんとした。
「行こ、俊!」
「あ、待ってよ、昨日」
僕たちは走って、教室を出た。顔を見合わせて、二人で吹き出した。
学校を出て、大通りを行く。
「今日もミスド?」僕は訊いた。
「ううん、もうお金そんなに使えないから」
「じゃあ、マックにするか」
「オッケー」
僕たちは駅前のマックに入った。それぞれ注文して、受け取ってから、テーブルについた。
「よし、じゃあ、登録解除しよう」彼女はスマホを取り出した。
僕もスマホを取り出して、あのページを開く。
スクロールして「登録解除はこちらから」の文字を確認した。
「気持ちの整理はついた?」彼女が訊いた。
「……うん。もう大丈夫」
本当は全然ついていない。もやもやは残っているが、後には引けない。覚悟を決めていた。
「そ。じゃあ、いっせえのせで押そう。いっせえのせ」
僕たちは同時に画面をタップした。
すると、画面が切り替わった。
本当に登録解除しますか?
(※ごくまれにループ間の記憶が失われる場合があります。)
登録解除 戻る
「え?」彼女は顔を上げた。「何これ?」
「記憶が持ち越せないかもしれないってこと?」
「え、知ってた?」
「知らない」
「どうするの?」彼女は心配そうな顔になった。
「僕は……」
「私は、やる」彼女は強い口調で言った。「もう、私は未来に進みたい。でも、俊に強制はできない。俊は、俊で決めて」
「僕は……」覚悟が揺らぎそうになった。
彼女の目を見た。その目は、今日なんか見ていない。明日、いや、もっと未来を見つめているようだった。
ふと、いつかの日のことを思い出した。
桜の下で、踊る昨日。
僕は、止めようとして手を出しかけたが、やめた。
彼女は、ステップを踏んだ。
首を振って、手を伸ばした。
くるりと回った。
髪が乱れ、靴が飛んだ。
風が吹き、桜が舞った。
たまに通りがかる人の冷めた視線も彼女は気にしなかった。
楽しそうに見えたから、止めなかったのではない。
悲しそうに見えたのだ。
止めてしまったら、そのまま泣き崩れてしまうのではないか、という危うさがあった。
この光景は、もしかすると、夢かもしれない。
息を呑むほど、美しかった。
彼女は、未来を望んでいる。
では、僕は?
僕は何を望んでいるのだろう。
「僕も……」唾を飲み込む。「明日が来てほしい」
明日。
昨日と一緒に歩む明日。
僕が望んでいるのは、昨日の明日だった。
もやもやの中に紛れていた希望。
それだけは確かだった。
僕だけループを続けても、彼女には関係がない。きっと、四月八日の彼女がずっと僕の相手をしてくれるだろう。でも、それは正しいことではない。そんなの、まやかしに過ぎないことは僕にも理解できた。
「ん、わかった。じゃあ、やるよ?」彼女は言った。
「うん」僕は力強く頷いた。
僕たちは同時に「登録解除」をタップした。
しかし、その後、特になにも起きなかった。画面は、登録解除完了とだけ表示されただけ。正直、拍子抜けした。まあ、登録したときも、次の日が来るまで実感がなかったし、そんなものなのだろう。
「この後、どうする?」彼女はポテトを食べながら言った。
「帰ろっか」
「そう。じゃ、今日の質問」彼女は真剣な顔を作った。「今、幸せ?」
「何それ?」
「私は、幸せ。俊は?」
「うん、僕も幸せ」僕はしみじみと言った。「昨日のおかげだよ」
「なら、よかった」
食べ終わって、マックを出て、K駅で別れる。
「また明日」彼女は元気に手を振った。
「また明日」僕は小さく手を振った。
彼女の後ろ姿を目で追った。ふらふらの千鳥足。人は人と出会うために生きているのだなと思った。
僕は幸せだ。
本当に?と訊く声がまた聞こえた気がしたが、もちろん、と首肯した。
そして、家に着き、夜になって、布団に入った。ドキドキして眠れないのではないかと思ったが、案外、すっと眠りについた。
朝が来た。
窓を見ると、青空が広がっていた。約二百日ぶりの青。たっぷりと日が差している。なかなか、爽快だった。僕はスマホを見る。
4月9日 火曜日 6:32
僕は、ほっとした。
大丈夫。記憶もある。無事に成功した。
今日は入学式なので、お休み。部活勧誘する在校生は登校するみたいだが、文芸部はそういうことはしない。僕は昨日に電話をかけた。早朝だが気にしなかった。彼女も毎日、早起きしていると知っている。
電話が繋がった。はい、と声が聞こえた。
「もしもし、昨日? 僕だけど」
『えっと、どちら様ですか?』
僕は言葉を失った。
まさか、記憶が失われてしまったのか。
そんな……。
『──うっそー、びっくりした?』彼女は、けらけら笑った。『おはよう、俊』
「ああ、びっくりした。まじで、びっくりした」
『ふふふ、ごめんね』
「もう、質の悪い冗談はやめて」
『ごめんって。俊、明日になったね』
「うん。ほんとによかった」
『今日は何する?』
「なんでもいいよ」
『じゃあ、そうだなあ──』
気持ちの整理はまだついてはいない。昨日に対する気持ち、自分に対する気持ち、未来に対する気持ち、どれもが、あやふやだった。気持ちの整理なんて一生できないのだろうか。ループの登録解除も、ぶっちゃけると彼女の意見に流されただけだ。でも、なんとなく、逃げたくない、目を逸らしたくない、と思うようになった。彼女に相応しい人物になるための一歩を踏み出せたのかもしれない。
まあ、人は急には変わらない。ゆっくりでいい。僕たちには、明日がある。明後日もある。その次も、その次の次も、きっとある。
昨日となら歩いていける。
昨日やって来た昨日は今日から明日がある。
僕はそんな冗談を思いついたが、言わないことにした。
名前で遊んではいけないと習ったからだ。
どこからか、カラスの鳴き声が聞こえた。
きっと、「二度とない」といっているのだろうと思った。
