【216日目】夢野久作「ドグラ・マグラ」を1日1ページずつ読んでいく
「……おまけに今も云う通り、君の頭の中で永い間昏睡状態に陥っている脳髄の機能の或る一部分が、ごく最近の事に関する記憶から初めて、少しずつ少しずつ甦らせながら見せている夢だと思われるから、事によると、まだなかなか醒めないかも知れない。……醒める時はいずれ、窓の外の君と、現在そこにいる君とが、互いにこれは自分だなと気が付いて来た時に、ハッと驚くか、又は気絶するかして覚醒するだろうと思うが、しかし、その時にはこの室も、吾輩も、現在の君自身も一ペンにどこかへ消え去って、飛んでもない処で、飛んでもない姿の君自身を発見するかも知れない……実は今しがた君が失神しかけた時に、サテは最早覚醒するのかと思っていたわけだがね……ハハハハハハ」
「……………」
いつの間にか又眼を閉じていた私は、唯、正木博士の声ばかりを聞いていた。その言葉が含む二重三重の不可思議な意味に、あとからあとから昏迷させられつつ、一所懸命に両足を踏み締めて立っていた。今にも眼を開いたら、何もかも消えてなくなりはしないかとビクビクしながら、口の中でソロソロと舌を動かしていた。
その時であった。殆ど無意識に頭を押えていた私の右手が、やはり無意識のまま前額部の生え際の処まで撫で卸して来ると、突然、背骨に滲み渡るほどの痛みを感じたのは……。
私は思わず「アッ」と声を立てた。閉じていた眼を一層強く閉じて、歯を喰い締めた。そうして、なおも念入りにそこを撫でまわしてみると、気のせいか少し膨んでいるようであるが、しかし腫れ物ではないようである。たしかに何かと強くぶつかるか、又は打たれるかした痕跡である……今の今まで、こんな痛みは感じなかったが……そうして又、今朝から今までの間に、そんなに非道く頭を打ったおぼえは一つもないのだが……。
夢に夢見る心地とは、こんな場合をいうのであろう。私はその痛みの上にソッと手を当てて、シッカリと眼を閉じたまま頭を強く左右に振った。……絶壁から飛び降りるような気持ちで、思い切って眼をパッチリと大きく見開いて、自分の上下左右を念入りに見まわしてみたが……眼を閉じた前と何一つ変ったところはなかった。ただ最前から解放治療場の附近を舞いまわっているらしい、一匹の大きな鳶の投影が、又も場内の砂地の上を、スーッと横切っただけであった。
それを見た時に私は、どうしても一切が現実としか思えない事を自覚せずにはおられなかった。たといそれがドンナに不思議な、又は、恐ろしい精神科学的現象の重なり合であるにせよ、私自身にとっては決して、夢でもなければうつつでもない。たしかに実在の姿をこの眼で見、実在の音をこの耳で聴いている事を確信しない訳に行かなかった。……その確信を爪の垢ほども疑う気になれなかった。私は、今一人の自分自身としか思えないほど私によく肖通っている窓の外の青年、呉一郎の立っている姿を、何等の恐怖も感じないままに、今一度冷然と睨み付ける事が出来た。それから徐ろに正木博士をふり返ると、博士は忽ち眼を細くして、義歯を奥の方までアングリと露わした。
「ハッハッハッハッ。これだけの暗示を与えても解らないかい。君自身を呉一郎とは思えないかい」
私は無言のまま、キッパリと首肯いた。
「ハッハッハッ。イヤ豪い豪い。実は今云ったのは……みんな嘘だよ……」
「エッ……嘘……」
と云いさして私は思わず頭を押えていた手を離した。その手を二本ともダラリとブラ下げたまま……口をポカンと開いたまま正木博士と向き合って、大きな眼を剥き出していたように思う、恐らく「呆《あっ》」という文字をそのままの恰好で……。
その私の眼の前で正木博士は、さも堪らなさそうに腹を抱えた。小さな身体から、あらん限りの大きな声をゆすり出して笑い痴け初めた。葉巻の煙に噎せて、ネクタイを引き弛めて、チョッキの釦を外して、鼻眼鏡をかけ直して、その一声毎に、室中の空気が消えたり現われたりするかと思う程徹底的に仰ぎつ伏しつ笑い続けた。
嘘だと!?
どこからが嘘だ?
うすうす感じてはいたが結局正木博士も主人公が呉一郎であることを信じさせようとしているのか?
主人公にとっては大問題なのに爆笑するとは正木博士人が悪すぎる…
