【156日目】夢野久作「ドグラ・マグラ」を1日1ページずつ読んでいく
――ついこの頃になっても別にかわった事はありませんでした。ただ、去年の夏でしたか、母が刺繍材料の包み紙になって来た亜米利加の新聞を持って来て「これは何という人か」と尋ねますので、そこの処の記事を読んで見ましたら、ロンチェニーという活動俳優が扮した道化役だとわかりましたので、母はつまらなさそうに「フン。そうかい」と云って降りて行きました。その時に僕の父は、あんな顔をした人間で外国に居るのだなと思いましたから、その写真は細かい処までよく記憶えています。チョット見ると大きなお蚕様みたような顔でしたから、私はソッと下へ降りて、六畳に置いてある母の鏡台の前に行って、自分の顔を覗いて見ましたが、ちっとも似ていませんでした(赤面)。
――あの晩も別に変った事はありませんでした。僕はいつもの通り九時頃に寝てしまいましたが、母がやすんだのは何時頃だったかおぼえません。いつもの通りなら十一時頃に寝たのでしょう。
――それから、これは警察では云いませんでしたが、あの晩僕は夜中に目を醒しました。こんな事は今まで滅多になかったのですから、話して疑われると詰らないと思いましたから……何だかわかりませんけれども、ゴトーンと大きな音がしたように思いましたから、フイと目を醒しましたが、真暗でわかりませんので、寝しなに枕許に近づけておきましたこの電気を捻って、読みさしたままの書物の下になっている腕時計を見ますと、一時に五分過ていました。……それからお小用に行こうと思って起上りがけに、こっちを向いてスヤスヤ眠っている母の顔を何の気もなく見ますと、口を少し開いて、頬が真赤で、額が瀬戸物のように真白く透きとおっていて、不思議なくらい若く見えました。恰度、家に来る大きい生徒位にしか見えませんでした。それから下に降りて用を足して、六畳と八畳の電燈をつけて見ましたが、何も変った事はありません。最前、ゴトーンといったのは何だったのか知らんと考えて見ましたが、もしかしたら僕の思違いかも知れないと思いましたから又、二階に上って来て母の顔を見ますと、もう向うを向いて布団に潜っていて、櫛巻きの頭だけしか見えませんでした。僕はそれから、すぐに電燈を消して寝ましたが、母の顔はそれっきり見ません。
――それから警察署で先生(W氏)にお話しましたように変な夢ばかり見ていたのです。僕は夢なんか滅多に見た事はないのに、あの晩はホントに不思議でした。イイエ。人を殺すような夢は見なかったようですけど、汽車が線路から外れてウンウン唸りながら僕を追っかけて来たり、巨大な黒い牛が紫色の長い長い舌を出してギョロギョロと僕を睨んだり、青い青い空のまん中で太陽が真黒な煤煙をドンドン噴き出して転げまわったり、富士山の絶頂が二つに裂けて、真赤な血が洪水のように流れ出して僕の方へ大浪を打って来たりして、とても恐しくて恐しくてたまりませんけど、何故だか足が動かなくなって、いくら逃げようとしても逃げられないのです。その中に家主さんの養鶏所から鶏の啼き声が二三度きこえたように思いましたが、それでも、そんな恐しい夢が、あとからあとからハッキリと見えて来ますので、どうしても醒める事ができません。ですから一所懸命になって苦しがって藻掻いておりますと、そのうちにやっとの思いで眼を開ける事が出来ました。
――その時にはもう、この窓の格子が明るくなっておりましたから、僕はホッと安心しまして、起上ろうとしますと、頭が急にズキンズキンと痛みました。それと一緒に口の中が変に臭いようで、胸がムカムカして来ましたので、これはきっと病気になったんだと思って又寝てしまいました。その時はちょっとのつもりでしたが、今度は夢も何も見ずに、汗をビッショリ掻いて、グーグー睡っていたようでした。
悪夢を見ている間に母親を殺してしまったのか…?
寝ている母親が生徒ぐらいの年に見えたというのは、妹を殺すという心理遺伝が母親に誤って発動してしまったのを示唆しているのだろうか…
心理遺伝のきっかけは…ゴトーンという音が怪しいが、主人公に意識されていないので違うだろうか。
