【195日目】夢野久作「ドグラ・マグラ」を1日1ページずつ読んでいく
「大塚警部……鈴木予審判事……いずれもこの事件に最初から関係しておられる方々で……」
正木博士は立ち上って二人の名刺を受取ると、如何にも気軽そうにペコペコと頭を下げた。
「私が、お召しに依って罷出でました正木で……生憎名刺を持ちませんが……」
警部と予審判事は一層威儀を正して礼を返した。
ところへ紺飛白の袷一枚を、素肌に纏うた呉一郎が、二人の廷丁に腰縄を引かれて這入って来ると、三人の紳士は左右に道を開いて正木博士に侍立した形になった。
呉一郎はその前に立ち止まったまま、黒ずんだ憂鬱な眼付きで室の中をマジリマジリと見まわした。その白い腕や首の周囲には大暴れに暴れながら無理に取押えられた時の擦り傷や、痣が幾個となく残っていて、世にも稀な端麗な姿を一際異様に引っ立てているかのように見える。その背後から二人の廷丁が揃って挙手の礼をした。
正木博士は目礼を返しつつ、葉巻の煙を長々と吹かし終ると、手錠のかかった呉一郎の両手を無雑作に取って引き寄せながら、顔と顔を一尺位に近寄せて瞳と瞳とをピッタリと合わせた。その瞳の底を覗き込みつつ何事かを暗示するかのように……又は呉一郎の眼の光りを、自分の眼の光りで押し返して、その瞳孔の底に押し込むかのように……。こうして二人は眼と眼を合わせたまま暫くの間動かなかった。
そのうちに正木博士の表情が、どことなく緊張して来た。……立ち会っている紳士たちの表情も、それにつれて緊張して来た。
しかしその中で若林博士だけは眉一つ動かさずに、青白い瞳を冷やかに伏せて、正木博士の横顔を凝視していた。正木博士の表情の中から、人知れず何ものかを探し求めるかのように……。
けれども呉一郎は平気であった。正気を失った人間特有の澄み切った眼付きで、何の苦労もなげに正木博士の顔から視線を外らすと、すぐ横に突立っている若林博士の長大なフロック姿を下から上の方へソロソロと見上げて行った。
正木博士の表情が、みるみる柔らいで行った。呉一郎の横頬を見ながらニッコリとして、消えかかった葉巻を吸立てつつ、気軽い調子で口を開いた。
「そのオジサンを知っているかね君は……」
呉一郎は、若林博士の蒼い、長い顔を見上げたまま、こころもちうなずいた。夢を見るような眼つきになりつつ……。それを見ると正木博士の微笑が一層深くなった。その時に呉一郎の唇がムズムズと動いた。
「……知っています。僕のお父さんです」
……と……。けれどもこの言葉が終るか終らぬかに変った若林博士の表情の物凄さ……只さえ青い顔が見る間に血の気を喪って白堊のように光りを失った額のまん中に青筋が二本モリモリと這い出した。憤怒とも驚愕とも形容の出来ない形相になったと思うとヒクヒクと顳顬を震わしつつ正木博士を振り返った。今にも噛み付きそうな凄まじい眼色をして……。
併し正木博士はそんな事には気が附かぬかのように、四方構わぬ大声をあげて笑い出した。
「ハッハッハッハッ。お父さんはよかったね。……それじゃこのオジサンは誰だか知っているかね」
と云い云い自分の鼻を指した。
若林博士がお父さんだと!?!?
しかし何か様子がおかしい。
お父さんに会った時の反応ではないように見えるし、正木先生が自分を知ってるかと聞くのもおかしい。
まるで洗脳しているかのようだ。
そして正木先生の横顔をみる若林博士も何か様子がおかしい…
