【203日目】夢野久作「ドグラ・マグラ」を1日1ページずつ読んでいく
「そうさ。しかも学界の珍とするに足る精神異状さ。大事の大事の結婚式の前の晩にカンジンカナメの花婿さんから、思いもかけぬ『変態性慾の心理遺伝』なぞいう途方トテツもない夢遊発作を見せられたために、吾れ知らずその夢遊発作の暗示作用に引っかけられて、その花婿さんと同じ系統の心理遺伝の発作を起して、とりあえず仮死の状態に陥ってしまった。ところが、若林の怪手腕によって、そこから息を吹き返して来ると、今度は千年も前に死んだ玄宗皇帝や楊貴妃を慕ったり、居もしない姉さんに済まないと云い出したり、又は赤ん坊を抱く真似をして、お前は日本人になるんだよと云ったりしていた……尤も今では、よほど正気付いてはいるがね……」
「……ソ……それじゃ……ア……あの娘の……名前は……何というので……」
「ナニ。名前……聞かなくたってわかっているだろう。音に聞えた姪の浜小町さ……呉モヨ子さ……」
「……エッ……ソ……それじゃ……僕は呉一郎……」
私が、こう云いかけた時、正木博士はその大きなへの字口をピッタリと噤んだ。葉巻の煙に顔をしかめたまま、黒い瞳の焦点をピッタリと私の顔に静止さした。
私は全身の血が見る見る心臓へ集中して、消え込んで行くように感じた。額から生汗がポタポタと滴り落ちて、唇がわなわなとふるえ出して、又もフラフラとなりかけたように思った。大卓子に両手を支えて立っている自分の身体が空気と一緒に散り薄れて、あとにはただ眼の球だけが消え残ってシッカリと正木博士を凝視しているような……そんな気持ちの中に私の魂は、無限の時間と空間の中を、死ぬほどの高速度で駈けめぐっていた……呉一郎としての自分の過去を、もしや思い出しはしまいかと恐れ戦きつつ……自分の肺臓と心臓が、どこかわからぬ遠い処から、大浪を打たせて責めかかって来る音に耳を澄ましつつ……ワナワナブルブルと戦きふるえていた。
けれども……その心臓と肺臓がイクラ騒ぎ立てて、喘ぎまわっても、私の魂はどうしても、呉一郎としての過去の思い出を喚び起し得なかった。そのあいだに何遍頭の中で繰り返したか知れない、「呉一郎」という名前に対して「これが自分の名前だ」というような懐かし味や親しみが微塵ほども感ぜられなかった。私の過去の記憶はイクラ考え直しても、今朝暗いうちに聞いた「ブーン」という音のところまで溯って来ると、ソレッキリ行き詰まりになって終うのであった。……私は他人が何と思おうとも……どんな証拠を見せつけられようとも、自分自身を呉一郎と認める事が出来ないのであった。
……私はホーッと深いため息を一つした。それと一緒に全身の意識が次第次第に私のまわりに立ち帰って来た。心臓と肺臓の波動が静まり初めた。やがてドタリと椅子の上に腰をかけるトタンに、両方の腋の下からタラタラと冷汗が滴たった。
すると、それと同時に私の鼻の先で、澄まし返った顔をしていた正木博士はプーッと一服、紫の煙を吹き出した。
「どうだい。自分の過去を思い出したかい」
呉一郎…ではないのか?
状況が同じだから断言はされていないが主人公=呉一郎と思っていたが…
そしてモヨ子の祖先はもともと中国にいたが日本に送られた設定なのか?
