【123日目】夢野久作「ドグラ・マグラ」を1日1ページずつ読んでいく
然るに、それが幾歳の時で御座いましたか、やはり天守の御屋根の絶頂に登って、殿様の遠眼鏡の中で働らいておりまする中に、ウッカリ殿様の方へお尻を向けました。すると、それを下から見上げておりました係りの役人が、止せばいいのに大音を揚げまして「心せいや――い。御本丸から御上覧ぞ――う」と余計な注意を致しましたために、思わず固くなったもので御座いましょう。忽ち足を踏み辷らしまして、数丈の石垣から転がり落ちつつ、粉微塵となって相果てました。それ以来、その家の左官の職は絶えたので御座いますが、サテその祖父の血が、その娘を通じて、このモーニングの小男に伝わりますと、恐ろしいもので御座います。この男は中学時代までも時々、夜中に寝呆けて跳ね起きまして「助けてくれ」とか何とか云って叫び出す癖がありました。その都度に家族の者が驚かされて「どうしたのか」と落ち付かせて聞いてみますと「何だか高い屋根か、雲の上みたような処から、真逆様に落ちて行くような気がした」と申しましたそうですが……ナント奇妙では御座いませんか。斯様に普通人の眼から見れば何でもない、軽い、夢中遊行の発作にまでも、何代か前の先祖が幾度となく「ハッ」とした刹那の、徹底した恐怖の記憶が再現しているところなぞは、何という不思議な心理遺伝の実例で御座いましょう。……否、豈、独りこの演説男のみに限らんやであります。一般に吾々が睡眠中に、どこか高い処から落ちたような気がして、ハッと眼を醒ますことがありますのもこの例に照してみますと、格別、不思議では御座いませぬ。吾々の両親でも祖父母でも、誰でも一度や二度は経験しているであろう「シマッタ」とか「俺は死ぬんだッ」とか思う瞬間の、悽愴、悲痛を極めた観念の記憶が、一つの心理遺伝となって、吾々子孫に伝わったものの再現であろう事は、誰しも疑い得なくなるで御座いましょう。
御質問は御座いませんか……。
序に今一つ御紹介致しますると、あのボール紙の王冠を頭に戴いて、行きつ戻りつしている年増女で御座います。これはあの衣紋のクリコミ加減でもお解りになります通り、或る町家の娘で、芸妓に売られておった者で御座いますが、なかなかの手取りと見えて、間もなく或る若い銀行家に落籍される事になりました。ところがその銀行家の両親が昔気質の頑固者揃いで「身分違い」という理由の下に、彼女を正妻に迎える事を許しませんでしたので、彼女はそればかりを無念がりました結果、或る宴会の席上で、初めてのお客に向って「アンタが何ナ……妾に盃指すなんて生意気バイ」と啖呵を切りますと、イキナリその盃を相手にタタキ付けて、三味線を踏み折ってしまった……そのまま当病室へ連れて来られたという痛快なローマンスの持ち主で御座います。しかし、思案の外とは申しながら、昔と違いました新思想の今日で、ことに浮気稼業の身の上で御座いますから、それくらいの事で取り乱すのはチト気が狭過ぎるように思われるかも知れませぬが、そこが「心理遺伝」の恐ろしいところで、「身分違い」という言葉が、彼女のプライドを傷つける以上に深い打撃を与えたであろう事が、彼女の発病後の態度を御覧になるとわかります。あの通りトテモ見識ばったお上品ずくめで、腰附きから眼づかい、足どりまでも上つ方のお上﨟ソックリで御座います。すなわち彼女の家筋が、御維新前までは京都の鍋取公卿……貧乏華族の成り損ねであった事を、彼女はその精神異状によって証明致しておりますので、本籍の名前も町人らしくない清河原という苗字で御座います。つまり彼女は、発病致しませぬ前までは、環境の風俗にカブレて町家の娘らしく振舞っていたで御座いましょうが、一旦、精神に異状を呈してしまいますと、最近、一二代の間に出来た町家風の習性をケロリと忘れて、先祖代々の堂上方の気風を、そのままにあらわしているので御座います。
……ハイ……御質問ですか。サアどうぞ……。
……ナナ……ナル……ナルホド……如何にも御尤も千万……よくわかりました。つまり「心理遺伝」というものはタッタそれだけのものか……タッタそれんばかりの研究のために、正木博士は生命がけの騒ぎをやっているのか……と仰言るのですね。
心理遺伝の例の数々…
確かに、心理遺伝がこれだけのものな訳がないよな?
逆に強制的に遺伝させて何代にも渡って生き続けるヤツとか出てきてもおかしくない。
