見出し画像

酒とは、自然への返礼である――仁井田本家・熊楠・カーソン・言行一致のエコロジー

福島の日本酒をめぐる話は、全国新酒鑑評会から始まった。

なぜ福島の酒は、何度も日本一になるのか。

その問いを追っていくうちに、福島の酒には、単なる「うまい地酒」を超えた複数の層があることが見えてきた。

福島全体には、蔵同士が学び合い、技術を開き、県全体で強くなっていく、横の共有知がある。

大七酒造には、生酛、熟成、時間、食文化、世界のテーブルへと向かう、縦の哲学知がある。

では、仁井田本家はどうなのか。

この蔵を見ていると、また別の軸が立ち上がってくる。

田んぼ。
水。
山。
菌。
木桶。
自然米。
生酛。
地域。
そして、黙々と続けること。

仁井田本家は、福島の酒の中でも、かなり特異な存在に見える。

ここで、もうひとつ避けて通れない言葉がある。

しぜんしゅ。

漢字で「自然酒」と書けば、意味はすぐに伝わる。
けれど、仁井田本家の「しぜんしゅ」は、ひらがなで読むと少し違って響く。

「し・ぜ・ん・しゅ」

強く主張しない。
角が立たない。
説明しすぎない。
少し息を含みながら、口の中でほどける。

これは、「自然派です」と肩書きを掲げる言葉ではなく、もっと身体に近い言葉に聞こえる。

米が育ち、水が流れ、菌が働き、人が待つ。
その循環の中から、ふっと立ち上がってくる言葉。

だから、仁井田本家の酒は「自然を売る酒」ではなく、自然の循環に参加する酒なのだと思う。

福島の酒には、共有する酒がある。
大七のように、哲学する酒がある。
そして仁井田本家には、循環する酒がある。

仁井田本家は、福島の酒の中でも、かなり特異な存在に見える。

ただ「自然派」を掲げているだけではない。
ただ「環境にやさしい」と言っているだけでもない。

1967年から、農薬・化学肥料を使わない自然米で「自然酒」を造り始めた。仁井田本家自身の説明でも、自然食を推奨する団体から自然栽培米で日本酒を造ってほしいという依頼があったことが発端とされている。しかも当時は、醸造用アルコールの添加や、防腐目的のサリチル酸の使用も認められていた時代だった。

つまり仁井田本家は、かなり早い時期から、近代的な農業や酒造りのあり方に、別の道を示していた蔵だと言える。

そのことを考えていたら、南方熊楠のことが浮かんだ。
そして、レイチェル・カーソンのことも浮かんだ。

酒蔵の話なのに、なぜ熊楠とカーソンなのか。

そんなことを考えながら、また呑蔵さんに聞いてみることにした。



呑蔵さん、今回は仁井田本家を、少し大きなエコロジー思想の流れから見てみたいんです。

呑蔵さん
おお、またずいぶん遠くへ行きそうだね。


南方熊楠と、レイチェル・カーソンです。

呑蔵さん
熊楠とカーソンと日本酒か。普通の酒席ではなかなか出ない組み合わせだねえ。


でも、仁井田本家を見ていると、単なる自然派の酒蔵ではなく、もっと深いエコロジー思想を、酒造りで体現しているように見えるんです。

呑蔵さん
なるほど。言葉としてのエコロジーではなく、営みとしてのエコロジーだね。


営みとしてのエコロジー。

この言葉が、今回の中心にある。

エコロジーという言葉は、今ではあちこちで使われている。

環境にやさしく。
サステナブルに。
自然派として。
地球の未来のために。

もちろん、それらの言葉は大切である。

けれど、言葉が増えすぎると、ときに行動よりも言葉が先に立つ。

エコロジーを語ることが、ひとつのポーズになる。
サステナブルを掲げることが、ひとつの商売になる。
自然派を名乗ることが、ひとつのブランド装飾になる。

そういうことは、たしかにある。

ところが、仁井田本家には、それとは少し違う佇まいがある。

語る前に、すでにやっている。
言葉より先に、田んぼがある。
水がある。
菌がある。
蔵がある。
自然米がある。
そして、それを続けてきた時間がある。

だから、この蔵は「言行一致の酒蔵」なのではないかと思う。



仁井田本家って、言行一致の酒蔵だと思うんです。

呑蔵さん
いい言葉だね。言っていることと、やっていることが一致している。


というより、やっていることが先にあるから、言葉は少なくなる。

呑蔵さん
うん。本当にやっている人ほど、大声で言いふらさないところがあるからね。


エコロジーって、本来そういうものかもしれないですよね。

呑蔵さん
老人に席を譲ったあとで、「私は席を譲りました」と自慢するようなものではない、ということだね。


そうなのだ。

自然を守ること。
田んぼを守ること。
水を守ること。
菌と共に酒を醸すこと。

それは本来、声高に誇るものではないのかもしれない。

日々の行いの中に、静かに溶け込んでいるもの。

仁井田本家の自然酒には、その静けさがある。

派手な思想ではない。
大きなスローガンでもない。
しかし、やっていることは深い。

仁井田本家は、自社田や契約栽培による農薬・化学肥料不使用の自然栽培米、天然水、水源保全、リユース瓶、排水処理、自給自足の蔵や町づくりまで掲げている。公式にも「日本の田んぼを守る酒蔵になる」という使命が示されている。

ここまで来ると、これは単なる商品づくりではない。

酒を媒介にして、田んぼと水と地域を守ろうとする営みである。



仁井田本家は、酒を造るために田んぼを守るというより、田んぼを守るために酒を造っているようにも見えます。

呑蔵さん
そこは大きいね。普通は、酒のために米を選ぶ。でも仁井田本家は、米のある田んぼの未来まで見ている。


酒蔵の目的が、商品だけに閉じていない。

呑蔵さん
そう。蔵が生態系の一部になっている感じがあるね。


蔵が生態系の一部になる。

この感覚は、南方熊楠の自然観と響き合う。

熊楠は、神社合祀反対運動で知られている。

明治政府が小さな神社を統廃合しようとしたとき、熊楠はそれに反対した。
神社が失われると、村の民俗が絶える。
そして、神社林に保たれていた自然の生態系も破壊される。
南方熊楠記念館の解説でも、熊楠は神社合祀によって民俗が絶え、神社林の生態系が破壊されることを恐れて反対運動を起こしたと説明されている。また、その運動の中で「エコロジー」または「エコロギー」という言葉を使ったことにも触れられている。

ここが面白い。

熊楠にとって、神社は宗教施設だけではなかった。

神社林は、森であり、菌類や植物や動物の棲み処であり、村の記憶であり、民俗の器であり、生態系の結節点だった。

つまり熊楠は、神社を「孤立した建物」として見ていなかった。

神社を取り巻く森、村、人、祭り、生物、記憶のつながりとして見ていた。



熊楠は、神社林を単なる森として見ていなかったんですよね。

呑蔵さん
そうだね。森でもあり、村の記憶でもあり、生態系でもある。


仁井田本家にとっての田んぼも、同じように見えてきます。

呑蔵さん
田んぼは、米の生産地だけではない。


水を受け止め、虫や鳥や微生物を抱え、地域の風景をつくり、酒蔵の未来を支えている。

呑蔵さん
つまり、田んぼのコモンズだね。


熊楠が守ろうとしたのは、森のコモンズだった。

仁井田本家が守ろうとしているのは、田んぼのコモンズなのかもしれない。

コモンズというのは、単なる所有物ではない。
人々が共有し、関わり、守り、受け継いでいく場である。

田んぼは、誰か一人のものではあるかもしれない。
けれど、その田んぼがつくる水の循環、風景、生物の棲み処、地域の食文化は、もっと広いものだ。

仁井田本家が「田んぼを守る」と言うとき、それは単に原料米を確保するという話ではない。

田んぼを、地域の生命の基盤として守るという話になっている。

そこに、熊楠的なエコロジーの感覚が重なる。



熊楠が神社林を守ろうとしたように、仁井田本家は田んぼを守ろうとしている。

呑蔵さん
いいねえ。森のコモンズと、田んぼのコモンズ。


しかも、それを論文や運動だけでなく、酒造りとして実践している。

呑蔵さん
そこが酒蔵らしいね。思想を瓶に詰めるわけだ。


思想を瓶に詰める。

ただし、ここで注意したい。

仁井田本家が、熊楠を直接参照していたという話ではない。
それを証明する資料を、私はまだ持っていない。

だから、これは直接影響ではなく、思想的な照応として読むべきだ。

熊楠が、森、民俗、生物のつながりを見た。
仁井田本家は、田んぼ、水、米、菌、酒、地域のつながりを実践している。

そこに、日本における深いエコロジーの系譜が見える。

そして、もうひとつの大きな参照点が、レイチェル・カーソンである。



カーソンの『沈黙の春』は、1962年ですよね。

呑蔵さん
そうだね。農薬、特にDDTのような合成化学物質が、生態系に与える影響を告発した本だね。


仁井田本家が自然米で自然酒を始めたのは1967年。

呑蔵さん
時代が近いね。


ただし、直接読んだかどうかは断定できない。

呑蔵さん
そこは大事だね。酒を飲んでいると、つい話を盛りたくなるけど、そこは慎重にしないと。


ここは、かなり慎重に扱いたい。

レイチェル・カーソンの『Silent Spring』は1962年に刊行された。農薬が鳥類などの生態系に与える悪影響を告発し、カーソンは農薬を「殺虫剤」ではなく、より広く生命を殺すものとして捉えるべきだと論じた。ブリタニカも、同書がDDTによる鳥類への害や、鳥の声が失われる未来の春への警告を示したと説明している。

そして仁井田本家の自然酒は1967年に始まる。

この時間の近さは、非常に気になる。

しかし、だからといって「先々代がカーソンを読んだから自然酒を始めた」とは言えない。

現時点で確かなのは、1960年代に世界的に農薬や化学物質への違和感が高まり、日本でも自然食や有機農業への動きが立ち上がっていたということ。
そして仁井田本家が、その時代の中で、自然食を推奨する団体からの依頼を受け、農薬・化学肥料を使わない自然米で自然酒を造り始めたということだ。

つまり、こう言うのが正確だと思う。

仁井田本家の自然酒は、カーソンの直接の影響と断定するより、『沈黙の春』以後の世界的なエコロジー意識と、日本の自然食運動が交差する時代に生まれた酒として見るべきである。



直接影響ではなく、同時代的な共鳴ですね。

呑蔵さん
うん。時代の空気というものがあるからね。


農薬や化学肥料によって便利になった一方で、何かが失われるのではないかという違和感。

呑蔵さん
その違和感が、田んぼや食や酒の現場にも届いていた。


仁井田本家は、その違和感を酒造りで受け止めた。

呑蔵さん
そうだね。そこが大事だね。


1960年代は、高度経済成長の時代だった。

便利になる。
効率化する。
生産量が増える。
化学肥料や農薬によって、農業も変わる。
食品産業も近代化する。
酒造りも、より効率的に、より安定的に進む。

その流れの中で、仁井田本家は別の道を選んだ。

農薬・化学肥料を使わない米で酒を造る。
天然水で仕込む。
無添加の酒として出す。

それは、当時としてはかなり勇気のいることだったはずだ。

なぜなら、便利さ、安定性、効率性からあえて距離を取ることになるからだ。

けれど、仁井田本家の選択は、田んぼや水の話だけにとどまらない。

酒蔵の中でもまた、同じ思想が貫かれている。

酒造りとは、米をアルコールに変える作業である。
そう言ってしまえば簡単だが、実際にはそこに、目に見えない多くの生命の働きがある。

米。
糀。
乳酸菌。
酵母。
水。
蔵の空気。

日本酒は、これらが複雑に関わり合って生まれる。

まず、米の中にあるデンプンは、そのままでは酒にならない。
そこに糀菌が働き、デンプンを糖へとほどいていく。
米の中に眠っていた甘みを、糀が開くのである。

次に、乳酸菌が場を整える。
乳酸によって雑菌が入りにくい環境をつくり、発酵の世界を守る。
そして、酵母が糖を受け取り、アルコールと香りへ変えていく。

つまり酒は、米だけでできるのではない。
菌だけでできるのでもない。
米と菌が出会い、時間をかけて関係を結ぶことで、ようやく酒になる。

仁井田本家が採用する生酛造りは、その関係を急がせない造り方である。

現代の醸造では、乳酸を加えたり、酵母を添加したりすることで、より早く、より安定的に酒母を造ることができる。
それはそれで、酒を多くの人に届けるための大切な技術であり、近代化の成果でもある。

けれど、生酛造りでは、蔵に棲む乳酸菌や酵母の働きを待つ。
米と糀と水を合わせ、摺り、温度を見ながら、菌たちが働き出す環境を整える。
人間がすべてを支配するのではなく、菌が働ける場を用意する。

ここにも、仁井田本家の「自然と共に造る」という姿勢がある。

それは、単に昔ながらの方法を守っているということではない。
効率化できるところを、あえて待つ。
管理できるところを、あえて委ねる。
そこに、酒の奥行きが生まれる。

たとえば、浅漬けとぬか漬けを思い浮かべるとわかりやすい。

浅漬けには、浅漬けのよさがある。
野菜のシャキッとした歯ざわり。
みずみずしさ。
軽やかさ。
すぐに食卓へ出せる気軽さ。

一方、ぬか漬けには、ぬか漬けのよさがある。
噛むほどに広がる酸味や旨み。
ぬか床に棲む菌と、毎日手を入れてきた時間がつくる、その家ならではの味。

どちらが上で、どちらが下という話ではない。
味わいの時間軸が違うのである。

酒も同じだ。

早く、安定して造られる酒には、飲みやすさ、軽やかさ、広く届く力がある。
一方で、時間をかけて醸される酒には、米と菌と蔵と土地が重なった、噛むように味わう奥行きがある。

浅漬けのような酒があっていい。
ぬか漬けのような酒があっていい。
大切なのは、どちらか一方だけになることではない。

もうひとつ、海で遊ぶことにも似ている。

浅瀬で遊ぶことには、浅瀬の楽しさがある。
足を水に入れ、波と戯れ、子どもから大人まで、多くの人が気軽に海を楽しめる。
そこには、開かれた楽しさがある。

一方で、浜辺から遠く離れた深い場所を泳ぐことは、まったく別の営みである。
水深も違う。
流れも違う。
戻ってくるための体力も、判断力もいる。
泳ぎこなす力量が問われ、リスクも大きくなる。

深い味わいの酒を造るということも、それに近い。

時間をかけて醸す酒は、ただゆっくり造ればよいというものではない。
菌の働きを待つ。
米の状態を読む。
温度を見る。
蔵の空気を感じる。
そこには、速く安定して造る酒とは別種の難しさがある。

深い場所を泳ぐように、造り手の経験と勘と覚悟が問われる。

けれど、だからといって浅瀬の楽しみが劣っているわけではない。
浅瀬には浅瀬の明るさがあり、気軽さがあり、多くの人に開かれた楽しさがある。

酒の世界にも、その両方があっていい。

高度経済成長期以降、日本酒もまた効率性と流通性の中で、工業製品としての性格を強めてきた。
それは、多くの人に安定して酒を届けるための、必要な進化でもあった。

しかし今、各地の酒蔵があらためて、その土地の米、その土地の水、その蔵に棲む菌と向き合いはじめている。

それは、昔に戻ることではない。
酒の世界に、もう一度、多様な時間を取り戻すことなのだ。

浅く楽しめる酒。
軽やかに飲める酒。
深く泳ぐように味わう酒。
その土地でしか生まれない酒。

そうした酒が各地に生まれていることこそ、日本酒の豊かさなのだと思う。

仁井田本家の酒造りは、その中でも、米と菌と水と蔵と人が、急がず、競わず、共に働くことで生まれる酒である。

それは、自然を外から眺めるエコロジーではない。
田んぼの中にも、蔵の中にも、酒の一滴の中にも、自然の働きを見ようとする営みである。

酒とは、自然への返礼である。

そう言いたくなるのは、仁井田本家の酒が、単に自然にやさしい酒だからではない。
米を育てるところから、菌を待つところまで、自然の働きを受け取り、それを人の悦びへと変えているからである。

田んぼでの選択と、蔵の中での選択が、同じ思想でつながっている。
ここに、言行一致の強さがある。

その酒造りは、芸能にも似ている。

生酛や自然と共に働く酒造りは、能や民謡や祭りに近い。
それらは、出演者だけで成立しているわけではない。
土地があり、季節があり、場があり、観客があり、身体の記憶があり、稽古の積み重ねがあり、声の響きや間がある。
そうしたものが重なって、その日、その場の芸能になる。

酒造りも同じである。

米があり、水があり、糀があり、乳酸菌があり、酵母があり、木桶があり、蔵の空気があり、そこに人の手が添えられる。
どれか一つだけが主役なのではない。
多くの要素が、ひとつの場で呼吸を合わせることで、酒は醸される。

一方で、近代的に管理された酒造りには、よく設計されたステージのような価値がある。
照明、音響、進行、台本が整い、誰が見ても一定以上に楽しめる。
安定していて、再現性があり、多くの人に届けることができる。

どちらが上で、どちらが下という話ではない。
ただ、価値の種類が違う。

仁井田本家の酒造りは、工場の工程というより、土地と菌と人が一緒に演じる、見えない芸能に近い。
その演目の最後に、酒というかたちが現れる。

仁井田本家の酒は、完成された製品である前に、土地と菌と人が共に過ごした時間の記録なのだと思う。



エコロジーって、言葉で言うのは簡単だけど、実際にやるのは面倒ですよね。

呑蔵さん
面倒だね。自然栽培の米を使うのも、手間がかかる。安定もしにくい。


木桶もそうです。生酛もそうです。天然の菌を待つのもそうです。

呑蔵さん
効率から見ると、遠回りだね。


でも、その遠回りをやっている。

呑蔵さん
言葉ではなく、工程でやっているんだね。


言葉ではなく、工程でやっている。

これは、仁井田本家を読むうえでとても大事だ。

多くの場合、エコロジーは広報の言葉になる。

環境に配慮しています。
サステナブルです。
自然派です。
未来のために。

もちろん、それが嘘とは限らない。

しかし、仁井田本家の場合は、思想がコピーではなく、工程に埋め込まれている。

米をどう育てるか。
水をどう守るか。
どんな酒母で仕込むか。
どんな菌を待つか。
どんな容器で醸すか。
どんな循環をつくるか。
どんな町を未来に残すか。

ここまで来ると、エコロジーは宣伝ではなく、作業の積み重ねになる。



現代で言えば、これはリジェネラティブ・オーガニックにもつながりますね。

呑蔵さん
再生型農業だね。持続するだけじゃなく、土や生態系を回復させる方向。


仁井田本家は、パタゴニアとの「やまもり」でも注目されています。

呑蔵さん
自然酒が、現代のエコロジーの言葉と接続し始めているわけだね。


現代のエコロジー思想で、仁井田本家に近い言葉を探すなら、リジェネラティブ・オーガニックがある。

Regenerative Organic Certifiedは、土壌の健康、動物福祉、農家や労働者の公正を柱にする認証制度である。
仁井田本家は、パタゴニア プロビジョンズとの「やまもり2025」で、日本で初めてリジェネラティブ・オーガニック認証を取得した自然酒として紹介されている。

1967年の自然酒から、2020年代のリジェネラティブ・オーガニックへ。

ここには、一本の線が見える。

農薬・化学肥料への違和感。
自然食運動。
自然米。
純米酒。
生酛。
木桶。
田んぼ。
水。
菌。
再生型農業。

仁井田本家は、時代ごとに現れるエコロジー思想を、酒蔵の営みとして受け止め、少しずつ更新してきたように見える。



仁井田本家は、時代ごとのエコロジー思想を、酒造りで受け止めてきた蔵なんですね。

呑蔵さん
そうだね。熊楠的なつながりの感覚。カーソン以後の農薬への違和感。現代の再生型農業。そういうものが、田んぼと蔵の中で重なっている。


しかも、それを大声で叫ばない。

呑蔵さん
そこがいいね。やっているから、叫ばなくていい。


やっているから、叫ばなくていい。

仁井田本家を見ていると、この言葉が浮かぶ。

エコロジーには、どこか「言わない美徳」がある。

もちろん、発信しなければ伝わらない。
だから、言葉は必要である。

しかし、やっていないことを言葉で飾るのは違う。

仁井田本家のように、やっていることが先にある蔵では、言葉は後からついてくる。

それは、席を譲ったあとで大声で自慢しないようなものだ。

田んぼを守る。
水を守る。
菌を待つ。
米を酒にする。
それを続ける。

その行為が先にある。

だからこそ、外から見る者が、その意味を言葉にする役割もあるのかもしれない。



呑蔵さん、こういう蔵って、本当はあまりこちらが騒がしく語りすぎない方がいいのかもしれませんね。

呑蔵さん
そうだねえ。黙々とやっている人のそばで、外野が大声を出すのは野暮なところもある。


でも、誉というものは、本来、他者から与えられるものでもありますよね。

呑蔵さん
うん。自分で「私は偉い」と言うのは、だいぶ酒がまずくなる。


だから、言行一致の蔵元自身が大きな声で自己宣伝しないなら、私や呑蔵さんのような言行不一致の輩が、少し騒がしく言葉を並べるくらいは許されるかもしれない。

呑蔵さん
いいじゃないか。酒飲みの役割は、うまい酒をうまいと言うことだからね。


ただし、敬意をもって。

呑蔵さん
そこは大事だね。騒ぐなら、ちゃんと頭を下げながら騒ぐ。


ここで、「穏」という銘柄名が、また立ち上がってくる。

穏。

おだやか。

以前、私はこの銘柄名について、音と味が重なっていると感じた。

「お・だ・や・か」という響きには、角が少ない。
強く主張しない。
ゆっくりほどける。

それは、酒質だけでなく、蔵の姿勢そのものにも重なっているように思える。

現社長の名前に「穏」が入っているから「穏」と名付けられた、という説明もある。
それはそうなのかもしれない。

けれど、名前というものは、由来だけで終わらない。

1967年から自然酒に取り組んできた先々代の系譜がある。
その系譜の上で、孫に「穏」という名前を付ける言語感覚がある。
そして、その名を冠した酒が生まれる。

そこには、自然酒的な感覚が流れているように思う。

名は体を表す。

仁井田本家の場合、それは銘柄名だけの話ではない。
「穏」という名は、酒質だけでなく、蔵の営み全体を表しているように見える。



「穏」という銘柄は、仁井田本家の思想そのものに見えてきます。

呑蔵さん
そうだね。穏やかというのは、弱いということではない。


むしろ、強い主張をしない強さですね。

呑蔵さん
田んぼも、水も、菌も、声は大きくないからね。


でも、そこに酒の根本がある。

呑蔵さん
うん。穏やかだけれど、深い。


穏やかだけれど、深い。

仁井田本家の酒造りは、その言葉に近い。

強いスローガンで迫ってくるのではない。
市場に向けて派手に打ち出すのでもない。
しかし、やっていることは深い。

農薬・化学肥料を使わない米。
天然水。
生酛。
木桶。
蔵付きの菌。
田んぼを守るという使命。
自然への返礼としての酒造り。

それは、表面的なエコロジーではない。

ディープ・エコロジーという言葉がある。

人間中心の環境保護ではなく、生命圏全体のつながりを考える思想である。
仁井田本家が自らその言葉を掲げているわけではない。

けれど、その実践は、かなりディープ・エコロジー的である。

人間が自然を使って酒を造るのではなく、自然の循環の中に酒蔵が入っていく。

そのように見えるからだ。



仁井田本家は、ディープ・エコロジーを酒造りの工程として実装している蔵、と言えるかもしれません。

呑蔵さん
また大きく出たねえ。


もちろん、蔵がそう名乗っているわけではありません。

呑蔵さん
そこは大事だね。


でも、田んぼ、水、菌、木桶、山、人、地域を切り離さずに酒を造る。その実践は、かなり深いエコロジーだと思います。

呑蔵さん
うん。言葉としてのエコロジーではなく、酒としてのエコロジーだね。


酒としてのエコロジー。

それは何だろう。

自然を素材として消費することではない。
自然を背景として飾ることでもない。
自然派というラベルを貼ることでもない。

米をもらう。
だから、田んぼを守る。

水をもらう。
だから、水源を守る。

菌の力を借りる。
だから、菌が棲める蔵を整える。

土地の名を借りる。
だから、その土地の未来を考える。

飲み手から対価を受け取る。
だから、次の田んぼへ返す。

この循環があるとき、酒は単なる商品ではなくなる。

それは、自然への返礼になる。



呑蔵さん、ここまで来ると、酒とは何か、という問いになりますね。

呑蔵さん
なるねえ。酒飲みが最後に行き着く、やっかいな問いだね。


大七を通して見えた酒は、時間と哲学を飲むものだった。

呑蔵さん
うん。


仁井田本家を通して見える酒は、生態系との関係を飲むものですね。

呑蔵さん
そうだね。田んぼ、水、菌、米、人の関係を飲んでいる。


では、酒とは何か。

呑蔵さん
自然への返礼、なんじゃないかな。


酒とは、自然への返礼である。

この言葉が、今回の結論になりそうだ。

人間は、自然から米をもらう。
水をもらう。
菌の力を借りる。
時間を借りる。

その恵みを、ただ消費するだけではなく、文化に変える。

米を酒にする。
水を酒にする。
発酵を待つ。
祝い、祈り、分かち合う。

酒は、自然を人間の文化へ変換するものだ。

しかし、その変換が、一方的な搾取であってはならない。

米をもらうなら、田んぼを守る。
水をもらうなら、山を守る。
菌の力を借りるなら、蔵の環境を守る。
土地の名を使うなら、土地の未来を守る。

その返礼の循環の中に、酒がある。

仁井田本家は、そのことを静かに、しかし徹底して示しているように思う。



酒は、自然を商品化するものではなく、自然との関係を結び直す文化装置なのかもしれません。

呑蔵さん
いいねえ。今日はずいぶん真面目な酒席だ。


でも、そう考えると、仁井田本家の酒は、ただ飲むだけではなく、田んぼを少しだけ引き受けることにもなる。

呑蔵さん
そうだね。盃の向こうに田んぼが見える。


盃の向こうに田んぼが見える。

呑蔵さん
それが自然酒の強さだね。


盃の向こうに田んぼが見える。

仁井田本家の酒は、そういう酒なのだと思う。

飲むとき、そこに自然米がある。
田んぼがある。
水がある。
菌がある。
木桶がある。
人がいる。
1967年から続いてきた時間がある。

そして、その背後には、日本のエコロジー思想の伏流が見える。

熊楠が守ろうとした、森と民俗と生態系のつながり。
カーソンが告発した、化学物質によって沈黙する生命の世界。
そして現代の再生型農業や、自然との互酬性を取り戻そうとする動き。

仁井田本家は、それらを言葉で大きく掲げるのではなく、酒造りの工程として引き受けている。

だから、この蔵は言行一致の酒蔵なのだと思う。

言葉より先に、田んぼがある。
理念より先に、米づくりがある。
スローガンより先に、仕込みがある。

そして、その静かな実践から、「穏」という酒が生まれる。



呑蔵さん、今回はなんだか、酒を飲む前に背筋が伸びる回になりました。

呑蔵さん
たまにはいいんじゃないかな。酒は酔うためだけにあるんじゃないからね。


自然への返礼として飲む。

呑蔵さん
そう考えると、一杯が少し重くなるね。


でも、嫌な重さではないですね。

呑蔵さん
うん。ありがたさの重さだね。


ありがたさの重さ。

酒は軽く飲んでもいい。
楽しく飲んでもいい。
笑いながら飲んでもいい。

でも、その一杯の向こうに、田んぼと水と菌と人がいることを、たまに思い出してもいい。

仁井田本家の酒は、そのことを教えてくれる。

エコロジーは、言葉ではない。
日々の行いである。

自然派は、ポーズではない。
田んぼに入ることである。

サステナブルは、看板ではない。
続けることである。

そして酒は、自然をいただき、自然へ返すための、ひとつの文化装置である。

福島の酒を辿ってきて、またひとつ深い場所に来てしまった。

福島の日本酒には、共有する酒がある。
哲学する酒がある。
そして、循環する酒がある。

仁井田本家は、その循環する酒を、静かに、穏やかに、しかし徹底して造り続けている。

だから、こちらが少し騒がしく言葉を並べるなら、最後はやはり頭を下げて終わりたい。

酒とは、自然への返礼である。

そのことを、仁井田本家の酒は、声高にではなく、盃の中から教えてくれる。

いいなと思ったら応援しよう!