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母の入院(2)~先生の説明とこちらの気持ち


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◆先生の説明


母が骨折で入院した話の続きだ。

先生が、どんな話をしたのか、どんな気持ちがしたのか。

画像を見せてもらった。大腿骨骨折。前に書いたように、かなりな壊れ方をしていた。

膝の付け根で、骨盤と繋がる丸い関節部分——ベアリングのような形状のところが、前後の部分が割れていた。

生々しくて、気持ちが悪かったら申し訳ない。

ここを骨折すると、かなりの内出血があって、たいていの人は貧血になるのだが、お母さんは、あまり貧血になっていないとのことだった。

それで、肝心なこと。これから、どうするかということだった。

手術するのか、しないのか。

高齢だとリスクが高い。入院中に別の病気を発症する可能性も高いし、手術をしても——たぶん、金属製の人工骨に置き換えるような感じだと思うが——筋力が落ちすぎて、結局歩けないままということもありうる。車いすか、寝たきりか。

そのくらいなら、手術をしないでいいという人もいるそうだ。

先生に会う前に、母と会ってきていたが、「母は頑張りたい。歩けなくなるのは嫌だ」ということだったので、私も、本人にその気があるなら、できるだけのことはしてあげたいと思った。

その旨を伝えたら、先生は、

「専門の先生(執刀医だと思う)は、数日後に来るから、その先生とも本当に手術できるか相談しなければいけないけれど、そういう方向で考えてみましょう」

ということで、先生との話し合いは終わった。

高齢での大腿骨の骨折。これは、うまくいったとしても、相当長くかかるに違いないとも思っていた。


◆相談員との出会い

そのあと、病院に常駐している専門の相談員さんを看護師さんが呼んできて話をした。

前にも書いたが、医療と福祉は、あまり連携ができていなかった。

連携というか、自分で動くしかないような所があった。

いろいろ問題を抱えても、自分で切り開く形で、いろんなことを調べて、いろんな部署に直接出向いて、資料やら書類やらをもらって、なんとか、書いて、それでも不備があって、書き直して……

というような形になる。そんな形になることが多い。

でも、公的な所から、「相談員さんに相談してください、今、呼んできますから」なんて、親切なことを言われたのは、初めてなので、少し感動してしまった。

喜びのハードルが低すぎるだろうか。

まあ、相談員さんが言ってくれたのは、「自宅」か「施設」かということだった。


◆制度と現実

病院は、治療をする所である。そして、高齢化が進んだ世の中では、ベッドを少しでも早く開けたい事情がある(実際、昔よりも、入院患者に対する報酬は少なくなっている。入院を長引かせると、露骨な言い方をすれば、病院側に損が生じる。昔は、やたら長く入院している人がいたが、病院としてダメージがあるような法律ではなかった)。

手術が終わって、体が落ち着き、リハビリがある程度までできたら、次を探さなくてはいけないことが多い。

確かに、これだけのケガだと、自宅で介護は難しいことが多いだろう。

そうすると、リハビリができる施設で、自宅での自立生活ができる状況を目指すということになる。

そのためには……

私は、不勉強なことに在宅のケースしか知らなかった。入院してしまっている人の場合は、どうなるのか。

病院や自治体にもよるのだろうけど、病院の福祉士が市役所と連絡を取り合いながら、病院に市から派遣される専門の担当者が判定に来てくれて、介護認定をしてくれるのだそうだ。

ご家族もお仕事などもあると思うので、必ずしも家族の立ち合いは必要ないという。

その介護認定により、どういうサービスが、いくらくらいの負担で受けられるのかが決まる。ここは私にもわかる。

でも、これは、たぶん、どこでもこんなふうになっているわけではなくて、病院に福祉の専門家を置いた院長が、いろいろ進んだ考え方の持ち主なような気がする。

私は、医療や福祉から離れて、物凄く長い期間が経つから、想像でしかないのだけれど。


◆自分自身のこと

もう一つ肝心なのは、私自身のことである。

私は、自分のことを他人事のように言ったり書いたりすると、そう言われる。

まるで、医者が患者の診断を言うみたいだと言われたという。

よく言えば、冷静で客観的ということなのかもしれない。

失感情症か? と思ったこともあるが、なんか、説明を読んでいても一致しないし、専門家でもないので、よくわからない。

ちゃんと表現するようにはしているけれど、でも、自分で感じていることと、蓄積しているダメージに開きがあるのは感じる。

表面だけを感じていて、実は相当なダメージというか、疲労というか、それを感じていることが多いのだ。

父が亡くなったときも、全然悲しくなかったのだが、しばらくたって、ひどいうつ状態になった。

だから、経験上、そういう傾向があるのは自覚している。

まあ、こういうことを誰かと話をする機会自体が、持てないような環境だったのもあるかもしれない。

この辺は、書き出すとややこしくなるので、機会があったら、改めて話す。


◆感情と身体の距離

だから、今回は、同じ轍を踏んではいけないと思って、静かな時間を持つようにしている。

持病で病院に通っているという話をしたが、私は、線維筋痛症という病気を患っている。

痛みのラスボスみたいな病気で、一時は寝たきりになったが、いろんなことをやって、まあ、日常生活はできるくらいにはなった。

いろいろ、具合が悪かったり、不調が出るが、まあ、それはしょうがない。

ここで問題になるのが、常に体が痛いと、何が起こるかというと、感覚や感情が切り離されがちだということだ。

精神的に耐えきれなくなるから、感覚や感情が離れてしまう。

だから、眠っているとき以外は、何かを絶えずやって、耐えるという形になる。

安心して、泣き言を言える、自分の体のゆとりと相手がいないと、感情を感じるのは難しいのだ。

この形は、よくない。

感情は、感じる必要がある。

それで、瞑想を挫折しては、再開し、挫折しては再開していた。

さらさらと書いてきたが、きちんと感情を感じないことの、まずさ、そして、それをできるだけの訓練? 修行? が絶対に必要なのを認識できたのは、つい最近のことである。


これは、絶対にやるべきだ。

正直、体がめちゃめちゃ痛いのに、痛みの感覚と、つらいことも含めて感情を丁寧に感じるのはしんどい。

ただ、ちゃんとできたときは、すごく心身がリラックスする。

だから、これは、自分にとって必要なことだ。


◆次回に向けて

次回は、入院生活で持ってきてほしいと言われたことや、自分の生活改善でやってみてることなんかを書きたい。

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