渋谷駅前の雑踏の中、満は考えていた。とんでもなくユーモラスな、それでいてシリアスな、そんなアイディアがないかということを。
スクランブル交差点の歩行者用の信号機が赤から青に変わり、雑踏は荒波のように動き出した。十月に入ってもまだ日中は暑い、そんな秋の入口のこと。満は薄手のシャツとチノパンという装いで、荒波に揉まれながら反対の歩道にあるTSUTAYAの方へと歩いて行く。
満は渋谷に用事があるわけではなかった。ただ、いつか住んでいた街をもう一度、今の自分で眺めてみたかっただけだ。満はいつか、渋谷に住んでいた。ほんの数年前のことだけれど、もう随分と昔のことのように思える。
(あの頃、自分は、どんな気持ちで暮らしていただろう)
宇宙には今しかない、というのが満が長い間、抱えている信条ではあったが、今まさに、そのことを驚くほどに痛感する。自分が渋谷で暮らしていただなんて。記憶にはある。けれど実感が湧かない。
(あの喫煙所でよく煙草を吸ったな)
そんなことを思いながら満は交差点を横切る。満は今にいながら過去にいる。そんな不思議なことが心には起こる。
(とんでもなくユーモラスな、それでいてシリアスな)
満はそんな言葉を頭に浮かべながらセンター街の方へと歩いていく。昔、友人らと飲み食いした店がそこかしこに見える。満は懐かしいなと思う。もうその友人たちとも疎遠になってしまった。
物事には始まりがあれば終わりがある。満はそのことを痛切に感じていた。悲しいような、寂しいような。
そこで満はふっと思う。
(それでも今、俺は幸せだな)
それならそれでよかった。世界は幸せのためにできている。そう信じられたならどれだけ幸せなことか。
満は道の真ん中で立ち止まる。そして空を見上げる。そうか、今日はこんなに晴れていたんだな。
とんでもなくユーモラスな、それでいてシリアスなアイディアは思いつかない。それでもよかった。満は満足していた。今日という日が今日という日でよかった。何が起きたわけでもないけれど、そう思えた。
満はまたゆっくりと歩を進め、分かれ道の前に立つ。どちらに進もうか。気持ち次第さ。心の赴くままに。
(2024.10.13)
