ノイズを手放す
模様替えと大断捨離をある程度進めた。
心身はヘロヘロになってしまったが、とても清々しい気分だ。
それと同時に、徐々に完成していく「理想の部屋」に、かつてない感動を覚えている。
数ヶ月前、机の上は散らかり、作業するスペースも確保出来なくなっていた。
いつ飲み終えたか不明のペットボトルからは、異臭が漂っていた。
何年も放置していたゴミ袋に、常に「今日こそ片付けよう」という思考に、常に頭が支配されていた。
それが原因で、毎日疲れていた。
ある日、ベッドから立ち上がった時に踏んだ、モンスターエナジーの空き缶を手にした。
それをゴミ袋に入れたその朝から、私の部屋の大掃除が始まった。
部屋にある全てのものを別室に運び出し、いらないものをとにかく袋に詰め込む。
そうして、あっと言う間に50Lのゴミ袋10個が完成した。
その時の清々しさは今でも忘れられない。
物理的にも精神的にも増えた部屋の余白は、気持ちのスイッチを入れる事が出来た。
同時に、「気持ちを切り替えやすい部屋」を作る事を決意した。
自分の理想の部屋は、いくつか案があった。
その中で「丁寧な暮らし」への憧れがあり、取り入れようと思っていた。
けれど、それには程遠い生活を送っている自分に、拭いきれない罪悪感を抱いていた。
大昔から抱えていたゴミと、躁状態の時に買った覚えのない物達。
それらをゴミ袋に入れ、口を縛った。
「なんでこれをずっと持っていたんだろう」。
捨てた瞬間に抱いたのは、恐怖に近い感覚だった。
昔、今よりも心も経済的にも貧しかった実家では、「捨てること」は「お金を捨てる」という事だと教育されてきた。
短く使えなくなった鉛筆も、くたびれた下着も「まだ使える」「もったいない」と処分を止められた。
処分したはずの物が、いつの間にか家族の部屋にあった事は数知れず。
いつの間にか、私にとって「捨てる」ということは「悪」になってしまった。
だが、それらゴミはいつしか私を攻撃する「視覚的ノイズ」へと変わっていった。
日に日に「片付けなきゃ」という念で頭がいっぱいになり、自分を責め立てる材料になっていった。
数年前から、私の日課にInstagramとPinterestを徘徊するというものがある。
流れてくるキラキラとした誰かの日常を見て「これになりたい」と思う様になった。
そして翌る日、ベッドから立ち上がった瞬間に転がったモンスターエナジーの空き缶を拾い、それをゴミ袋に捨てた。
それが皮切りとなり、私の大掃除が始まった。
モノを捨て、埃を払うたびに蓄積されたノイズが消えていく。
同時に、それを埋めるようにメンタルの余裕が生まれてきた。
感動だった。
ふと思う。
私が憧れた「丁寧な暮らし」とは、こういうことを言うのでは?
SNSに溢れる、毎日の完璧な掃除や豪華なご飯。
けれど、私にとってそれは正解ではなかった。
思うに、「丁寧な暮らし」とは秩序を保った部屋で落ち着いて作業に励む。
そんな自分をしっかり労うことこそ、私なりの「丁寧な暮らし」なのではなかろうか。
整理整頓は、まだまだ続く。
だが、今の自分に必要な「スペース」を一先ず確保する事に成功した。
断捨離は大変だ。
しかし、その本質は「全てを手放すこと」ではなく、「自分を責める材料を一つずつ手放す事」なのかもしれない。
それこそ、自分を大切にするための一つの手段なのかもしれない。
今夜は、断捨離中に発掘した『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んで、しっかり自分を労ってあげよう。
おやすみなさい。
