灯火と剣 Ⅰ
第一章 陰雨の薄墨
Town誌でその名前を見つけた。さりげない紹介文に目が止まり、気がつけば予約を入れていた。案内されたのは三週間後だった。梅雨に入った頃順番が回ってきた。その日は朝から細い雨が降っていて、歩道橋から見えた古い雑居ビルの外壁を濡らしていた。
湿った梅雨の空気が、階段のコンクリートに染み込んで黒いシミを作っていた。傘を畳み、水滴を払い、廊下を進む。
「三階、突き当たり……」
スマートフォンの画面に表示された住所と、目の前のありふれたドアを見比べる。看板はなく、かろうじて、真鍮の小さなプレートに華奢な文字で「明月」とだけ書かれているのが読めた。ドアノブに手をかけると思いのほか軽く、音もなく内側へと開いた。
部屋の中は、外の薄暗さとは対照的に、柔らかな琥珀色の光が広がっていた。
白檀だろうか。お香の匂いがする。少し甘く、それでいて鼻の奥がスッと通るような乾いた香りだ。壁際には天井まで届く本棚があり、背表紙の文字がかすれた和装本や、分厚い革折の書物が隙間なく並べられている。
部屋の奥から声がした。
「お待たせしました。どうぞ、お入りください」
男が一人、低い机の前に座っていた。年のころは、三十前後だろうか。糊のきいた白いシャツの袖を肘の手前まで捲りあげ、古い万年筆を握っている。
明月、と呼ばれたその人は、こちらを見て、小さく微笑んだ。しかし、その瞬間、彼の瞳に何か小さな影が走ったようにも見えた。気のせいだったのかもしれない。その瞳は、濁りのないガラス玉のように静かで、それでいて、どこか遠いところを見ているようにも感じられた。
「雨の中、お越しいただきありがとうございます」
勧められた座布団に腰を下ろすと、低反発のクッションがゆっくり沈み込み、張りつめていた緊張が少しだけ解けた。机の上には、使い込まれた卦算(けさん)と、年季の入った硯、そして数枚の白紙が整然と並んで置かれていた。
「今日は、どのようなお話をお伺いしましょうか」
明月は万年筆を置き、両手を膝の上で組んだ。
一瞬言葉に詰まり、私の視線は宙を彷徨った。胸の中にあったのは、何となくの仕事の上での行き詰まり、都会の速度についていけない焦燥、そうした名前のつかない澱(おり)のようなものだった。具体的な悩みなどなかったのかもしれない。
「……自分の、これからのことが、少し知りたくて」
曖昧な返答に、明月は嫌な顔ひとつせず、ただ深く頷いた。
「では、あなたの生まれた年、月、日、そして分かれば時間をお教えください」
手渡された白い紙に、自分の生年月日を書き入れる。ボールペンの先が紙を擦る音だけが、雨音に混ざる。
明月はその紙を受け取ると、傍にあった分厚い冊子ーー『万年歴』と表紙にあるーーをめくり始めた。ページを繰る白い指先。爪の形は綺麗に整えられている。彼は、暦の数字を目で追いながら、手元の紙に幾つかの漢字を書き走らせていった。
甲、丙、子、午。
縦に四つの柱が並んでいく。それが四柱推命でいう私の「命式」らしい。彼は特に説明もせず、ただ静かに作業を続けた。
やがて、明月は顔を上げて、数秒間、私を見た。
「……なるほど」
彼は万年筆をコトリと置いた。万年筆の先からは微かにインクの匂いが漂う。
「私は、どうなっているのでしょうか」
「あなたは『庚(かのえ)』の生まれですね」
明月は紙の一点を指先で示した。
「それも、真冬の、冷たい雨の降る中に置かれた、一本の鋭い剣です。周囲には、あなたを温める火がなく、ただ冷たい水だけが広がっている」
紙から目を上げ、明月は一息ついた。
「例えば、これまで、周りの人との間に、どこか隔たりを感じたことはありませんでしたか」
「隔たり」という言葉が胸の奥にすとんと落ちた。
特に孤独だと感じていたわけではない。いつからか、他の人との間には薄い膜のようなものができていた。自分から近付こうとすることもないけれど、 気づけばいつも少し離れた場所に一人で立っている私がいた。
そんな私を、彼は「冷たい雨の中に置かれた剣」と言い表した。
「火が、足りないんですね」
「えぇ。ですが、ないわけではない。今はただ、巡っている季節が冬なだけです」
明月は、確かめるように私の目をまっすぐに見つめた。
「四柱推命は、宿命で縛るものではありません。あなたという器が、どんな天候のときにどう動けば傷つかないかを知るための、いわば天気予報のようなものです」
一瞬、何かを見るように遠い目をした。
彼の声は、低く、落ち着いていた。長い間読み継がれてきた物語を、静かに語るような自然さで、私の人生を紐解いていく。
私はいつの間にか、ぼんやりと明月を眺めていた。
「どうかされましたか」
明月の声に、私は我に返った。
「明月さんは……」
少し迷ってから、私は続けた。
「……ご自分のことも、そうやって予報されるんですか」
思わず、問いかけていた。
明月は、一瞬意外そうに目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「私の命式は、あまり面白くありませんよ。ただの『丁(ひのと)』ーー夜の灯火です。薪が尽きれば、すぐに消えてしまう」
彼はそう言って、机の端にある古い真鍮製のオイルランプに目をやった。中では小さな火が、頼りげなく揺れている。
「でも、暗闇を照らすことはできる……」
「どうでしょうね。自分の火で、自分を焼き尽くしてしまうことの方が多いかもしれません」
少し笑って言った言葉は、静かだったけれど、その静けさの奥にある諦めがずしりと重く胸に残った。私は返す言葉を見つけられなかった。
窓の外では、雨の勢いが一段と増し、窓ガラスを叩く音が激しくなっていた。
明月は手元の紙を裏返し、今度は別の図式を書き始めた。大運と呼ばれる十数年ごとの大きな運気の流れだという。
「来年から、あなたの運気は大きく変わります。待ち望んだ『木』と『火』の季節がやってくる。これまで滞っていたものが、嘘のように流れ始めますよ。特にこの『寅』の文字が巡る時期はーー」彼が解説を続けようとした、その時だった。
ビルの奧から、鈍い機械音が響き、同時に部屋の琥珀色の明かりがふっと消えた。
「あ……」
部屋は一瞬にして、梅雨時の薄暗い闇に包まれた。落雷による停電かもしれない。スマートフォンの画面を確かめようとしたが、バッグの中で見つからない。
「動かないでください。今、明かりを……」
暗がりの中で、マッチを擦る鋭い音が響く。ツンとした硫黄の匂いが鼻を突き、小さなオレンジ色の炎が立ち上がった。
明月は、先ほど彼が目をやっていたオイルランプの芯に火を移した。
ゆらゆらと揺れる小さな炎が、壁に大きく揺れる二人の影を映し出した。ランプの灯りに照らされた明月の顔は、先ほどよりもずっと陰影が深く、どこか現実味を欠いていた。
「すみません、古い建物だもので」
「いえ……」
私は、彼の指先を見ていた。ランプのホヤを戻すその手が、微かに震えているように見えた。いや、揺れる炎のせいかもしれなかった。
「不思議ですね」私はポツリと言った。
「暗くなると、雨の音が近くなりますね」
「五感がそちらに向くからでしょう」明月は静かに座り直した。
「光が強すぎると、見えなくなるものもありますから」
そう言って、彼は机の上の命式が書かれた紙を見つめた。その面差しはひどく綺麗で、同時にガラス細工のような危うさを含んでいた。
明月は静かに口を開いた。
「あなたの『庚』と、私の『丁』」
「鉄は、火に炙られて初めて、使い物になる道具へと姿を変えます。あなたにとって私は必要な火かもしれない」
「……明月さん?」
「ですが」彼は言葉を区切り、私から視線を外した。
「火は、鉄を溶かし切ってしまうこともある。そして、鉄を温めるために、火自身は燃え尽きなければならない」
その言葉は、占い師としての鑑定の結果なのか、それとも彼自身の独り言なのか、判別できなかった。ただ、彼の声に含まれた奇妙な寂しさが、私の胸の奥に小さな、しかし、消えない棘のように突き刺さった。
外の雨音は、いつしか遠い地鳴りのように響いている。狭い部屋の中、小さなオイルランプの光の輪の中で、私たちはしばらくの間、何も言わず、ただ雨の音を聴いていた。ランプの炎が微かに揺れた。
