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写真を撮っていた頃から、僕は「何を切り取るか」ばかり考えていた

数年前に撮った海の写真が、今もスマホの壁紙です。

由比ヶ浜で作品撮りをした日。

撮るはずだったのは、人でした。

白い服に絵の具をつけて、海を走ったり、砂浜に寝転がったりする2人。

なのに、撮影の途中で僕の手が止まったのは、夕陽が反射する誰もいない砂浜でした。


人を撮りに行ったのに、今も一番近くに残ってるのは、誰も写ってない1枚です。


由比ヶ浜。作品撮りの途中で、気づいたら撮っていた砂浜。


人を撮りに行ったのに、砂浜で手が止まった

正確な季節は、もう覚えてません。

少し寒くなり始めた頃だった気がする。

友達が一人。
その日初めて会った子が一人。
僕を入れて3人で、由比ヶ浜へ行きました。


白い服へ絵の具で落書きをして、海で走る。
砂浜へ寝転がる。
夕焼けの中に立つ。

海でそんな撮影をしてる人は他にいなかったので、たぶんかなり目立ってたと思います。

でも、撮影が始まったら、そんなの本当にどうでもよかった。


初めて会ったかどうかなんて関係なくて、撮る側も写る側も、全員が本気でした。


あのときの熱は、今でも覚えてます。

構図を見ながら「こういうのいいね」と話して、また動いてもらう。

波が来たら、その波ごと使う。
光が変わったら、立つ場所も変える。

何が正解かは分からない。

でも、3人とも「もっといい1枚が撮れそう」と思ってた。

今振り返ると、普通に青春だったなと思います。


自由に動いてもらって、その一瞬を待つ

僕は昔から、逆光の写真が好きでした。

顔がきれいに見える写真もいい。

でも、光で輪郭が少し消えて、写ってない部分を勝手に想像したくなる写真に惹かれてたんです。


夕陽へ手を伸ばした一瞬。絵の具のついた白い服も、その日の作品の一部でした。


この写真を見て、腕を伸ばす直前に何があったと思いますか?

写真に残ってるのは、その瞬間だけです。


この写真も、細かく動きを決めて撮ったものではありません。

僕の撮り方は、基本的に自由に動いてもらうスタイルでした。

もちろん「自由に」と言われる方が困る人もいます。

そのときは僕から動きを説明する。

ただ、決めすぎると、その人が本当に楽しそうな瞬間や、自分でも意識してない表情まで消えてしまう気がしてました。


一番楽しそうな一瞬。
一番きれいな一瞬。
一番儚く見えた一瞬。


ずっと同じ表情をしてるわけじゃない。

光も、波も、立ち方も、数秒後には変わる。

だから僕は、きれいに並べるというより、その瞬間が来るのを見てました。

来たと思ったら、押す。

たぶん、昔の僕は今よりずっと、自分の目を信じていたんだと思います。


写真は何も語らないのに、なぜか前後を考えてしまう

最初の砂浜の写真を見て、何があった日だと思いましたか?

作品撮りの途中だったことも、絵の具のついた服で2人が走っていたことも、写真の中にはありません。

波の音も聞こえない。
寒かったかどうかも分からない。
僕が何を考えてシャッターを押したのかも写ってない。

なのに、写真を見ると、その前後を少し想像したくなる。


写真は何も説明してないのに、心に残る写真には物語があります。


不思議ですよね。

全部を見せてないから、見る側が勝手に続きを考える。

撮った僕には僕の記憶がある。

見る人には、また別の物語が見えてるかもしれない。

写真を撮っていた頃、そこまで言葉にして考えていたわけではありません。

単純に「この光いいな」「今きれいだな」でシャッターを押してました。

でも今見ると、僕が撮っていたのは景色そのものより、僕の心が動いた場所だったのかもしれません。


家の窓から見えた夕焼けにも、カメラを向けていた

由比ヶ浜みたいな作品撮りの日だけではありません。

ある日、家の窓から見えた夕焼けが、なんかエモいなと思って撮りました。


家の窓から見えた夕焼け。色のバランスとグラデーションが好きな1枚。


何か大きな出来事があったわけではありません。

遠くへ撮影に行ったわけでもない。

窓の向こうに見えた色のバランスと、グラデーションがめちゃくちゃ好きだった。

それだけです。


でも、その「なんか好き」で手が動いたこと自体が、僕の切り取り方だったんだと思います。


同じ空を見ても、たぶん全員がカメラを向けるわけではない。

向けたとしても、残す場所は少しずつ違う。

雲を大きく入れる人もいる。
建物と一緒に撮る人もいる。
夕陽の明るい部分だけを撮る人もいる。

どれが正解という話ではなくて、何に目が止まったかに、その人が出る。

劇的な場所へ行かなくても、それは変わりません。


写真では残していたのに、文章では消していた

結婚した今は、カメラから離れました。

昔の写真を見返す機会も、そんなに多くありませんでした。


でも最近、自分の文章に人間味が足りないと感じて、昔の写真を見返したんです。

そこで少し変なことに気づきました。


写真では一瞬を切り取っていたのに、文章では前後を全部説明しようとしていた。


いま、自分の下書きを1本だけ思い出してみてください。

説明は揃ってるのに、自分が何を見て書き始めたのかだけが残ってない。そんな文章はありませんか?

僕にはありました。


誤解されないように説明する。

分かりやすい順番へ並べる。

読者が迷わないように、結論まできれいにつなぐ。

もちろん、それ自体が悪いわけではありません。

文章には説明が必要です。
写真と違って、手順や判断まで渡したい記事もある。


ただ、僕は整える途中で、自分が本当に引っかかった一瞬まで消してました。

最初に何を勘違いしたのか。
どこで「うーん、違うな」と止まったのか。
なぜ、その一文だけは書きたかったのか。

そこを消して完成した文章は正しい。

でも、僕が撮った写真でいうなら、光も波も全部ならして、説明しやすい景色へ変えてるようなものでした。


写真では余白が好きだったのに、文章では余白が怖かった。


読者へ伝わらなかったらどうしようと思って、説明を足す。

自分の感情だけを書いた人に見られたくなくて、正論へ戻す。

親切にしたかったのは本当です。

でも、その親切の中で、僕が何を見ていたのかまで薄くなっていた。

昔の写真を見返して、やっとそのズレが見えました。


文章も、何を残すかで物語が変わる

写真と文章は、もちろん同じではありません。

文章は言葉で伝えるものだし、写真より説明できることが多い。

それでも、似てるところはある。今はそう思います。


目の前にあるものを全部入れられないから、何を残すかを選ぶ。


次に書こうとしてる文章を、1本だけ思い浮かべてください。

その文章で、説明する前から頭に残っていた場面はどこでしょうか?

誰かの一言かもしれない。
画面に出た数字かもしれない。
うまく言えないまま残ってる違和感かもしれません。


写真なら、シャッターを押した一瞬だけが残る。

文章なら、何時間も考えた中から、残した一文だけが読者へ届く。

その選び方に、撮った人や書いた人が出る。

情報をたくさん入れたから、その人が見えるわけではありません。

むしろ、何を見つけて、どの瞬間を消さなかったか。そこに人が残るんだと思います。


僕もずっとできてたわけじゃないです。

写真ではできていたのに、文章では最近まで忘れてました。

今も、どこまで説明して、どこから読者の想像へ渡すかは迷います。

たぶん、毎回同じ正解はない。

でも次に文章を書くときは、足りない説明を探す前に、一度だけ考えたい。


この文章で、僕はどの一瞬だけは消したくないんだろう。


あの日の由比ヶ浜を、全部覚えてるわけではありません。

正確な季節も忘れました。

それでも、絵の具のついた白い服と、逆光と、夕陽が反射した砂浜と、3人で本気になった熱は残ってる。

記憶そのものも、たぶん切り取りです。


何を覚えてるか。

何を写真に残したか。

何を文章に残すのか。


その選び方の中に、僕がいるんだと思います。

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