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尾張と三河でどうする!【歩いて目指せ日本橋6日目】

この記事は、江戸時代の旅人みたいな放浪の旅に出たいと思い立った人生どん詰まりの京都在住OLが、京都三条大橋から東京日本橋までを徒歩で旅しようと試みた18日間の記録です。

東京遠すぎない???

【ルール】

①東海道上に設けられた53の宿場町を通り、京都三条大橋から東京日本橋を徒歩で旅する。
②通行止めなど余程の理由がない限り、「東海道」以外の道を歩くことは禁止。道を間違えた場合は、間違えた地点まで戻って歩き直す。
③移動手段は基本徒歩。徒歩で渡れない三重〜愛知間の移動のみ電車OK。
④各宿場町では、歌川広重の浮世絵集「東海道五十三次」と同じ構図で写真を撮る。

【前回の記事】

尾張国・宮宿

伊勢湾上の海路・七里の渡しです

おはようございます。現在地点は、愛知県名古屋市は宮宿です。
今回から愛知県編です。実は人生初の愛知なのですが、まさか歩いて旅することになるとは思いませんでした。
今回は、尾張国・宮宿に始まり、鳴海宿を経て三河国に入り、知立宿まで歩きます。尾張と三河という、どうする家康が放送されている今、最もアツい2国の旅です🔥

前回の記事の通り、桑名宿と宮宿は、伊勢湾上の海路「七里の渡し」を控えた場所にあることから、東海道の中でも大規模な宿場町でした。特に宮宿は旅籠(ホテル)が248軒もあったとのことで、かなり賑わっていた宿場町であることが分かります。船の最終便が16時と早めなので、最終便を逃したり悪天候で船が欠航になったりした人たちが多く泊まっていたのでしょうね。
こうした旅人たちの往来以外にも、宮宿は三種の神器の一つを祀る「熱田神宮」の門前町でもありました。東海道からは若干道が外れますが、まだ朝で時間も体力も余裕があるので、熱田神宮にお参りしにいきます。

熱田神宮

熱田神宮


熱田神宮は三種の神器の1つ・草薙剣を祀る神社です。大和朝廷の全国統一にむけて東国平定を果たした日本武尊が、この熱田に住む奥さんに剣を預けて故郷・倭国(奈良県)に戻る途中に命を落としたことから、剣はここ熱田神宮に祀られています。三種の神器の1つを祀っているだけでも大分インパクトが強いですが、源頼朝の母方の家系が熱田神宮の神職者(頼朝さんって名古屋人なんですね)だったり、織田信長が桶狭間の戦いの前に先勝祈願をしたりと、各時代のビッグネームゆかりの神社です。

織田信長が桶狭間の戦いに勝利できたお礼に建てた土塀。日本三大土塀の一つだそうです
桶狭間の戦いに勝たせてくれた熱田神宮なら令和の旅人の安全祈願くらいは容易いと思うので、しっかり手を合わせてきました。


宮宿にきたとたんに信長の名前が多く見かけるようになり、尾張まで来たという実感が湧いてきました。


名古屋の市街地をぬけて、次は6.5キロ先の「鳴海宿」へと進みます。

笠寺観音


可愛らしい子供2人の間に「人質交換之地」とあるのがなんとも物騒です。左側の子供は織田信長の兄・信広で、右側の子は竹千代こと後の徳川家康です。
家康は元々今川の人質であった話は有名ですが、一時は織田のもとでも人質生活を送っていました。しかもその経緯は、「今川のもとへ人質として向かう途中、織田に捕まり幽閉された」と中々強引です。その後、織田と今川間の抗争で織田信広が今川に捕らえられた際、信広を織田に返す代わりに、家康を今川に渡すことになり、この笠寺観音で人質交換が行われました。1560年の桶狭間の戦いで今川義元が亡くなるまでの11年間、家康は今川のもとで暮らします。

尾張国・鳴海宿

歌川広重の絵と同じ構図で撮りたい


鳴海宿につきました。歌川広重の浮世絵と同じ構図で1枚。あまり当時の面影は残っていません。
宿場町としての鳴海のネタがあまり拾えなかったので、戦国時代の話をします。
戦国時代の鳴海は、西は織田氏、東は今川氏の両勢力の板挟みになっていた土地でした。この一帯を治めていた山口教継は、織田から今川に寝返り、織田の城2つを調略する功績を上げましたが、その直後、なぜか今川義元に切腹に追い込まれています。教継亡き後の鳴海には、今川の譜代・岡部元信が送られたので、織田を睨む重要な拠点である鳴海は、易々と裏切る者には任せられないという意図もあったのかと、素人ながらに推察しています(信長の謀略とも言われていますが)。この翌年、1560年の桶狭間の戦いでは、今川義元が絶命した後も、岡部元信は、最前線である鳴海を拠点に、最後まで抗戦し続けました。義元最期の地である桶狭間は、この後紹介します。

賽銭準備!


戦国時代は軍事的な要衝であった鳴海ですが、一方でお寺が多い地域でもあります。東海道から微妙にズレているので今回はお参りしませんでしたが、地図上で見ると多くのお寺が確認出来ることに加えて、「東海道の鳴海宿 寺銭用意しなされや」という歌い出しのお寺覚え歌があるほどなので、お寺が多い街だった事が分かります。

くたびれたやつが見つける一里塚(東海道あるある川柳)

間の宿(あいのしゅく)有松

間の宿・有松


鳴海宿を出てからしばらく歩いていると、突然江戸の街並みが現れて驚きました。連子格子の町屋や蔵が連なるこの区域は、有松という間の宿(あいのしゅく)です。
間の宿とはその名の通り「宿場町の間にある宿場町」のことです。江戸時代、東海道を旅する人たちは、定められた53の宿場町でのみ宿泊が許されていましたが、宿場町の間には、一部「間(あい)の宿」というミニ宿場町が設けられていました。有松はその一つで、旅人の安全のために(鳴海宿〜知立宿間は治安の悪さで有名)免税の特権をつけて居住者を募ってつくられた宿場町でした。
ただ、前後の宿場町までそこまで距離がなく、飲食店だけではやっていけないので、代わりに始めた絞り染めが主産業となりました。今でも有松染は名産品として売られています。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では、絞り染めのお店の店主を散々冷やかした挙句、一番安い絞り染めの手拭いを買うという弥次喜多さんのクソ客っぷりが書かれています。

絞屋を営んでいた岡谷住宅です。土日祝日であれば無料で中を見学出来ます。
有松染めの暖簾がかわいいです。

桶狭間古戦場伝説地


有松を出てほどなくして、桶狭間の戦いの古戦場に着きました。桶狭間の戦いの経過を超ざっくりふんわり説明すると、前述の山口氏の裏切りで今川直轄領となった鳴海の周辺に、織田側が砦をを築いたことに挑発された今川義元が、尾張目掛けて進軍したところ、織田信長に討ち取られた・・という感じです。今川義元の死により、今川の勢力は尾張から一掃され、先ほどの「笠寺観音」で今川の人質となった徳川家康(当時は松平元康)も、今川から独立し、織田と同盟を結びます。
義元最期の地は諸説あるとのことですが、ここは国の史跡に指定されており、石碑や合戦で亡くなった武将の墓が立ち並んでいます。
気温が高い中歩き続けて割とバテてきたので、一旦ここで休憩しました。今川義元はここで休憩中に襲われたという説がありますが、令和の旅人が昼間に休む分には問題ないはずです。


休憩中の奇襲も無事回避して、古戦場を後にします。国道沿いを進みます。時々国道から旧道にずれる(東海道は国道1号線とその脇の旧道を行ったり来たりします)ので油断ができません。
短い尾張国の旅もそろそろ終わりです。

境橋

うち渡す尾張の国の境橋
これやにかわの継目なるらん
三河に入るぞ!

尾張国と三河国の国境である境川まできました。今でも豊明市、刈谷市の境目になっています。
私自身は愛知にゆかりが全くないので何とも言えないのですが、愛知出身の方と話をすると、尾張、三河と昔の国の括りに対するこだわりが強いなと思うことがしばしばあります。聞けば食文化や方言などの違いが今でも強く残っているおり、一緒にされるのを好ましく思っていないとのことですが、三河、尾張と昔の国名が、この地域のアイデンティティとして残っているのは、側から見ていると面白いです。
愛知内の文化圏を二分する境川を越えて、いよいよ5カ国目・三河国へ入ります。

総持寺

三河といえば徳川家康が初めに治めた国ですが、三河に入った途端、家康関連のお寺が道沿いにありました。徳川家康の側室・お万の方の誕生地です。お万は知立神社の神官の娘で、元々知立神社の社領だったこの辺りで生まれたとされています。
家康の正室・築山殿の侍女だったお万は、家康のお手付きとなり身籠りますが、正室の承認なく出来た子供ゆえに、お腹の子は当初は家康の実子と認められませんでした。家康の次男にあたる男の子は、11歳で羽柴秀吉の養子・羽柴秀康となり、その後結城氏に婿入りして結城秀康と改名し、最後は家康の旧姓・松平を名乗り、越前福井藩の初代藩主となりました。出自ゆえに将軍にはなれなかったものの、家康からは「将軍に従わず好き勝手できる権利」と、徳川御三家以上の特権を与えられ、越前松平家は明治維新以降も華族として存続しました。

三河国・知立宿

池鯉鮒と書いてちりゅう

三河に入って初めの宿場町・知立につきました!日本橋から数えて39番目、距離にして330キロの場所に位置しています(つまりは残り38の宿場町を経て330キロも歩かないといけないということですね・・・・・・)。
今は知るに立つと書いてちりゅうと読みますが、昔は「池鯉鮒(ちりふ)」表記だったそうです。知立神社の池にいた鯉や鮒から名前を取ったとかなんとか・・・。
知立は馬の売買を行う馬市や、三河名産の木綿の市で栄えた宿場町だそうです。歌川広重も馬市の様子を浮世絵に残しているのですが、馬市が行われていたのは宿場町の東の外れなので、明日の朝イチで見に行きます。
足の疲労はさほどないのですが、この日はとかく日差しが強く、暑さで大分体力を奪われた気がします。。。こんなコンディションの中、調子に乗って晩酌した私は、翌日地獄を見ることになります。

東海道の旅をしていたのはどうする家康が放送される前だったので、史跡を訪れても特別ピンとはこなかったのですが、ドラマを見ていると、ドラマゆかりの場所が多く、新鮮な気持ちで旅を振り返ることができました。歩いて分かった距離感や位置関係を頭に入れてからドラマを見ると、また違った楽しみ方が出来るので楽しいです。偶然ではあるものの、いい時期にnoteを始められたなと思っています。

さて、次回は家康の出身地・岡崎に向かいます。前述の通り、酒を過ごしたせいで、次回は東海道の旅の中でも一二を争う地獄を見ます(難所も何もないのに・・・)。次回も読んでくださると嬉しいです。

寧々

残り330キロと聞いて震えが止まりません

おまけ・歌川広重の浮世絵と同じ構図で各宿場町の写真を撮るチャレンジ

宮宿
鳴海宿
知立宿 馬市

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