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高橋葉介『ライヤー教授の午後(ヨウスケの奇妙な世界 PART Ⅲ)』:悪夢から悪夢へ

書評:高橋葉介ライヤー教授の午後』(1980年・朝日ソノラマ サンコミック)

本作は、全8話からなる連作短編である。

デビュー作短編「江帆波博士の診療室」以来の『マンガ少年』誌掲載初期作品を最初にまとめたのが、この「サンコミック」版「ヨウスケの奇妙な世界」シリーズ。このシリーズタイトルがついているのは最初の4冊までで、腹話術』『仮面少年』『ライヤー教授の午後』『宵闇通りのブンとなっており、その次に刊行された真琴・グッドバイは、掲載誌が違い、作品の方向性も違っていたためであろう、「ヨウスケの奇妙な世界」のシリーズタイトルはつけられていない。

なお、すでに私がレビューを書いているのは、『腹話術』と『宵闇通りのブン』の2冊である。

さて、「ヨウスケの奇妙な世界」シリーズの「PART Ⅲ」となる本書『ライヤー教授の午後』は、同シリーズ「PART Ⅳ」の『宵闇通りのブン』と同様の連作短編で、『宵闇通りのブン』が「少女ブン」を「語り手」とした奇妙なエピソード集だったのに対し、こちらは「少年ミリオン」を語り手としている。

したがって、本作は、『宵闇通りのブン』と比較してみることで、高橋葉介という作家の特性(の一面)が見えてくるのではないかと、私はそこに着目した。

しかし、そのことを論じる前に、本作『ライヤー教授の午後』の内容紹介をしておかなければならない。

本書収録の各話は、次のとおりである。

第1話 びん詰め心臓
第2話 ミリオンの首
第3話 ミリオンのおつかい
第4話 猫夫人
第5話 猫夫人の午後
第6話 広場の演説
第7話 酒場の演説
第8話 悪夢から悪夢へ

各話について、内容を紹介するので、未読の方はご注意を

第1話「びん詰め心臓」は、語り手となる少年ミリオンと謎の老人ライヤー教授との出会いを描いた作品。

ある日ミニオンは、見知らぬ屋敷の中の立っていた。そこには、白い蓬髪に立派な口髭、隻眼なのか右側のレンズだけを黒く塗りつぶしたメガネを掛けた、いかにも怪しげな老人、ライヤー教授がいた。ミリオンはそこで、教授の経験した不思議な話を聞かせてもらう。それは、海岸で拾った心臓のお話。
その心臓は、心臓だけで生きていたので、教授はそれを拾って帰り、ひとまず水を張った瓶の中へ浮かべておいた。すると、翌朝には、瓶の中の水が血液に変わっており、心臓は元気を取り戻していた。教授はその心臓をペットとして可愛がり、散歩にも瓶ごと連れて出たので、街でも心臓が「かわいい」と、すっかり人気者になった。ところが困ったことに、心臓はどんどんと成長するので、より大きな容器に入れ替えなければならず、それもとうとう限界に達したため、教授はやむなく、その巨大化した心臓を海に帰してやることにした。一一教授の話は、それで終わりだった。

気がつくとミリオンはいつの間にか家に帰っていた。両親に教授の話をすると「そんな変な人のところへは、二度と行ってはいけない」と叱られるが、ミリオンはその夜、ベッドの中で「心臓のその後」を夢想する。
心臓は海の中でどんどん大きくなり、いずれ海水をすべて血に変えてしまう。そしてそれが蒸発して天にのぼって雲となり、血の雨を降らせるようになる。この世界には「真水」というものが無くなって、人々は「血」を水のかわりに使って、血まみれの生活をするようになる。一一そんな第1話は、空から降る血の雨によって血まみれになりながら、嬉しげな笑みを浮かべるミニオンの姿で幕を閉じる。

つまり、この第1話は、いかにも高橋葉介らしい「血まみれ・グロテスク」しかし「奇妙に耽美」な世界を描いた作品だと言えるだろう。

第2話「ミリオンの首」は、人を騙してその首を切り落とし、首は首、胴体は胴体で売り飛ばすという悪徳商人が登場する。
首と胴体は、切り離されても、別個に生きており、首は、自力の移動手段を欠いて逃げだすことはできないが、考えることも話すことも、それまでどおりに可能なのだ。一方、首(頭)を切り落とされた胴体の方は、命じられるがままに動くだけの、ロボット的な存在となってしまう。
ある日ミリオンは、この悪徳商人に騙され首を切り落とされ、首は首、胴体は胴体と売り飛ばされてしまうのだが、その首の売却先でライヤー教授と再会し、教授に救出してもらうという、言うなればこれも「奇譚」なのだが、第1話よりも「コメディ」色が強まっている。

第3話「ミリオンのおつかい」は、すでにライヤー教授とすっかり仲良くなったミリオンが、教授の依頼でおつかいに出るというお話。
どういうおつかいかというと、教授が毎年恒例のこととして、自身の目と耳と口に、年に一度の休暇を与えたのだが、それが出て行ったまま帰って来ず困っているので、ミリオンに新しい目と耳と口を買ってきてくれと、そういうおつかいの依頼だ。
物語としては、そのおつかいのことを知った、教授の目と耳と口たちは、すぐには戻る気もないくせに、自分たちの「立場」が無くなると、ミリオンのお使いの妨害をするのだが、最後は教授のもとに戻って、めでたしめでたしという、これは完全に「奇妙なコメディ」である。
ちなみに、教授から解放された目と耳と口たちはどんな姿をしているのかといえば、服を着た普通の男性の頭部が、巨大な目や耳や口になっている、言うなれば擬人化された目や耳や口と考えれば良いだろう。

第4話「猫夫人」では、なぜかライヤー教授とミリオンが、気球での旅に出ており、その気球が猫夫人の領地内に不時着してしまう。二人は、珍しい外来者に興味を持った猫夫人から屋敷に招かれることになり、教授の脚の骨折が治るまで逗留させてもらうことになった。ちなみに、この屋敷にいるのは、主人である妖艶な美女の猫夫人と、フランケンシュタインの怪物のような不気味な大男の召使いデヴィッドの二人だけ。

しかし、この美しい猫夫人は、鳥の羽をむしって殺すのが趣味のようであり、また屋敷の壁にズラリと飾られた、黒いリボン付きの「男性の肖像写真」は、すべて「もと夫の遺影」ということらしい。
また、ミリオンが夫人とデヴィッドの話を盗み聞きしてみると、どうやら夫人は、隙をみて教授とミリオンを食べてしまおうと画策しているようだ。一一と、「美女版山姥」のようなお話なのだが、最後はその怖しい正体を表すのかと思いきや、その変身に失敗して、完全にギャグの「とほほ」オチとなり、「次回に続く」となる。

第5話「猫夫人の午後」では、猫夫人が、その地域の領主であり、重税を取り立てるために領民から憎まれているという事情が描かれる。しかもそんなところへ、正体不明の流れ者が現れて、領民たちに「悪徳領主を打倒せよ」と煽っているという。
一方、猫夫人の館の地下室の壺の中から、旅に出ていたはずの夫人の弟・ファーバーが登場する。このファーバーは、自称「芸術家」であり、「普通」や「常識」や「正論」が大嫌いで、その真逆をいくことにこそ意義があると主張する変人である。壺の中から登場したもの、猫夫人を驚かせようと、そのために1ヶ月も壺の中に隠れていたというのだ。

第6話「広場の演説」は、ファーバーが、都会から著名な評論家を招いた上で、自分の芸術作品を、村の広場でお披露目するというお話。タイトルの「広場の演説」とは、ファーバーが新作のお披露目にに先立って一席ぶった、「芸術論」であり「人生論」のこと。
ちなみに、お披露目されたファーバーの作品とは、メイド服をまとったカマキリ頭の巨大ロボット。これがいきなり暴れ出して、お披露目は無茶苦茶になってしまうというドタバタ喜劇で、「次回に続く」となる。

第7話「酒場の演説」は、領主である猫夫人への叛乱を扇動する、覆面姿の謎の流れ者による、酒場での「民主主義的かつ理想主義的」な革命扇動のアジ演説のことである。
いよいよ領民たちは、猫夫人の打倒に立ちあがろうとしており、猫夫人に危機が迫る。ミリオンはそれを心配して教授に相談するが、教授はそんなことには興味がなく、脚が治ったのだからさっさと気球を修理して、ここから出ていこうと言うだけ。
また当事者である猫夫人も、領民の様子を探らせようとデヴィッドをスパイとして村に放っておきながら、危機感を募らせて帰ってきたデヴィッドの報告には、てんで興味がなく、いたって呑気なもの。デヴィッドの報告よりも、彼が「変装」のためにしていた、まったく似合わない女装にツッコミを入れるといった具合で、この回ではすでに、猫夫人は「妖しい美女」ではなく、むしろ「カワイイおとぼけキャラ」になってしまっている。

そして最終回である第8話「悪夢から悪夢へ」は、ついに民衆が蜂起して猫夫人の館に迫るが、猫夫人は平然として「おまえたちは、私がいないと生きてはいけない。私が重税を課すのも、おまえたちを生かしておくためなのだ」という趣旨の説明をするが、領民たちは聞く耳を持たない。そこで、諦めた様子の猫夫人が自らの首飾りを引きちぎると、たちまち領民たちの体はドロドロに溶け出して白骨が残るのみとなってしまう。
そして、そんな様子を見ていたミリオンに猫夫人は、ここはもともと墓場で、自分は魔術で死者たちを蘇らせ、新しい命を与えてやっていた。しかし、この魔術の効力を持続させるのは何かと物入りであり、そのために重税を課す必要があったのだと、すべての種明かしをする。

そして、件の謎の流れ者が、叛乱の失敗を見て、こっそりと逃げ出そうとしていたのを捕まえ覆面を剥いでみると、その正体は、猫夫人の弟ファーバーであった。なぜ彼はこんなことをしたのか?
ファーバーは、子供の頃から二重人格の気があり、そのせいでイタズラばかりしては、そのたびに姉の猫夫人から折檻されていた。
だが、愛する姉からの折檻は、ファーバーにとってはむしろ愛情表現だと感じられたので、むしろ余計にイタズラを繰り返していたのだ。だが、大人になると、姉からかまってもらえなくなってしまった。それで寂しくなって、こんな「イタズラ」を仕掛けた、という次第だったのである。

こうして、猫夫人をめぐるトラブルに決着がついたところへ、ライヤー教授が修理した気球で現れて、ミリオンを拾い上げる。
猫夫人の領地から飛び去る気球の中で教授は「まったく悪夢のような村だったな。死人に囲まれて生活していたとは」と呆れた様子で言い、ミリオンに「さあ、まともな世界へ帰るぞ」と告げるのだが、しかしミリオンは第1話から第3話までのエピソードを思い出して「あれが、まともな世界?」と呆れ、結局は「悪夢から悪夢へ」の旅を続けるしかないんだと、そのように自分に言い聞かせているところで、この物語は幕を閉じるのである。

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そんなわけで、本作は当初、ライヤー博士がミリオンに語って聞かせる「奇妙な話」の連作集として始まったもののように思えるのだが、途中からは猫夫人のエピソードが主筋となってしまう。本作のタイトルな反して、ライヤー教授の出番が、あからかに減ってしまうのだ。

そして、語り手のミリオンの方も、当初は、何を考えているのかよくわからない「不思議少年」という感じで、言うなれば、「ミルクがネジを回す時」の主人公である少女ミルク『宵闇通りのブン』の主人公の少女ブンの「少年版」という感じだったのだが、回が追うごとに、どんどん当たり前の人間くさくなっていく。
だから、ミルクやブンのようにその奇妙な世界から一歩退いた位置に立っての「語り手」に徹するのではなく、事件に巻き込まれて「酷い目に遭う」、巻き込まれ方の語り手になってしまうのだが、一一この「違い」は、いったいどこから出たものなのであろうか?

(『腹話術』所収「ミルクがネジを回す時」より)

私が思うには、やはり作者・高橋葉介が「男性」であるため、女性キャラである、ミルクやブンや猫夫人らの「女性」キャラは、どこか「理解不能」なところの残る存在として描かれ、そこがまた「魅力」として描かれた一一と、おおよそそういうことなのではないだろうか。

一方で、「語り手」としての「少年」キャラは、ミリオンが「美少年」であるように、当初は作者のナルシシズムを満たす存在として描かれながら、しかしそれは、「憧れの対象」ではない。そのため、理解可能な存在としての「人間」の範疇に止まって、その「神秘性」を保つことができず、徐々に「謎めいた女性」に振り回される、「被害者」的な存在になってしまう。

つまり、高橋葉介の「理想の女性像」とは、時に妖艶で、時に可愛く、時に残酷な、しかしいずれにしろ「正体不明」なところの残る「謎めいた存在」ということになるのではないか。言い換えれば、すべて理解できてしまうような、わかりやすい女性には、あまり惹かれない。

しかし、理解不能な女性であるからこそ、それに惹かれる男性の方は、そんな女性に振り回されて痛い目を見、言うなれば「被害者的な立場」に立たされてしまう。

しかしまた、彼がそれを嫌がっているのかと言えばそうではない。
彼は、そうした「理解不能」なところの残る「謎めいた女性」に振り回されて痛い目を見ることにも、むしろ喜びを感じているのである。一一つまり、本書に登場する、猫夫人の弟ファーバーと同じことなのだ。

もちろん、だからと言って、私は高橋葉介が「マゾヒスト」だと言いたいのではない。そうではなく、高橋葉介は「わかりきった世界」や「わかりきった女性」には魅力を感じない、骨がらみの「ロマンティスト」なのである。
だからこそ、「よくわからない存在」に魅力を感じてそれに接近してゆき、そのよくわからなさの故に、痛い目を見せられることさえも、彼には喜びなのだ。絶対確実な「安心」だの「無難」などというものには何の魅力も感じない、高橋葉介は「冒険的なロマンティスト」なのである。

したがって、高橋葉介の描く「奇妙な世界」が、しばしば「グロテスク」なのは、たぶん彼が、現実の「小綺麗に型通りな世界」になど、魅力を感じないからであろう。
むしろ、その奥に隠された「一皮剥いた世界」の危険な実相の方にこそ、「魅力」を感じてしまう

本作がそうであるように、高橋葉介の作品は、最後に「世界の様相についての、どんでん返し」が仕掛けられているものが多いのだが、それも多分、高橋が「見たままの世界=ありのままの当たり前の世界」に止まっていたくはないからではないだろうか。

その意味で、本作のラストにおけるミリオンの、「悪夢から悪夢へ」の旅を続けるしかないという諦めめいた独白は、実のところ、その言葉とは裏腹に、「そうであって欲しい」という、作者の「願望の言葉」なのであろう。

高橋葉介は「まともな世界」になど帰りたくはなく、いつまでも「悪夢から悪夢へ」と彷徨っていたい、そんなロマンティストなのである。

(2025年3月25日)


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