安彦良和・斉藤光政 『原点 THE ORIGIN 戦争を描く、人間を描く』 : 思想家としての安彦良和は「三流」
書評:安彦良和・斉藤光政『原点 THE ORIGIN 戦争を描く、人間を描く』(岩波書店)
「原点」とは、アニメ『機動戦士ガンダム』の作画監督として名を挙げ、その後、漫画家に転じて、数々の傑作歴史漫画をものにした安彦良和の、作家としての「原点」が、奈辺にあるのかというのを語った本、というほどの意味である。

共著者の斉藤光政は、『東奥日報』という青森県にある地方新聞社の記者だが、骨のある社会派のジャーナリストで、戦争、軍隊、考古学といったテーマを中心に扱って単著も複数あり、「新聞労連ジャーナリスト賞」や「石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞」のなども受賞している。
安彦良和との接点は、青森に縁の深い著名人についての連載記事で、安彦にインタビューをしたのがきっかけだが、それ以前に斉藤は、安彦良和の漫画『ナムジ』の熱心な読者であり、安彦漫画のファンだったので、記事のインタビューという口実で、いそいそと安彦のもとへ出かけたのがファーストコンタクトであったようだ。
斉藤は、考古学に造詣の深い人だから、日本神話の世界を描いた『ナムジ』に、深く魅了されたのである。

したがって、斉藤の場合は、アニメファンでもなければ『機動戦士ガンダム』のファンではない。
だから、斉藤の担当した本文パートの力点は、漫画家・安彦良和に偏りがちだが、そこはまあ仕方がない。一流のジャーナリストというのは、一流の作家と同じで、ハッキリと好悪もあれば、それが文章にも出るものなのだ。八方美人にフラットな文章の書けるジャーナリストなど、碌なものではないのだ。
そんなわけで、立場としては、斎藤が安彦良和のファンということになるのだが、本書に関しては、安彦の方から斎藤に企画を持ち込み、最初は『東奥日報』の連載記事として始まったものである。
では、安彦良和が斉藤に持ち込んだ企画とは、いかなるものであったのか?
それは、安彦良和が学生時代にコミットした「左翼学生運動」の記憶を語る、というものだった。
話が「アニメ」に関するものなら、縁のある徳間書店やKADOKAWAなんかも乗ってくれただろう。
だが、いくら人気のアニメ作家で漫画家だと言っても、安彦良和の学生運動体験を語った本まで読みたいという者は、そう多くはないはずだ。
安彦のアニメや漫画のファンではあっても、そこまで知りたいという者はごく限られているであろうに、ましてや安彦良和の名を知らぬ一般読者が、そんなものを読んでくれようはずもない。
また、徳間書店やKADOKAWAというのは、そういう思想・運動関係の本など、ほとんど守備範囲外だろうから、そうと具体的には書かれていなかったが、きっと安彦が企画を持ち込んで、断った出版社のうちだったのではなかろうか。
では、安彦良和は、どうしてそのような企画の、持ち込みなんてことを始めたのだろうか?
それは、長らく「挫折体験」として自分の中で封印してきた記憶を、今こそ語らなければならないキナくさい時代になったと感じ、語るのであればもう残された時間は限られていると、そう感じ始めたからである。
私は、『機動戦士ガンダム』以来の安彦良和のファンだから、安彦が「全共闘」運動の活動家であったことくらいは知っていた。
しかし、時に安彦良和自身が語った(描いた)、かつての自画像とは、当時の左翼学生のトレードマークとも言える、ドカヘル(土方ヘルメット)にタオルでの覆面、そして手には角材というようなスタイルは「自分には似合わないから」しなかった。みんなの後についていくだけの、パッとしない活動家だった、一一というような感じのものだった。
安彦良和の描く当時の自分の自画像は、頭が大きすぎてヘルメットが合わず、なんだかなあと腐っているような様子を描いたものだったのである。

そして、アニメファンとして、学生運動には興味のなかった私は、安彦のこの自己申告を丸ごと真に受けていたのだが、しかし、本書によれば、学生時代の安彦良和の活動は、決してそんなに柔なものではなかったようだ。
結果として敗れた闘いだったからこそ、学生運動をしていた事実は認めても、「大したことはできなかった」と、言葉少なに自嘲していた安彦だったが、じつは安彦は、青森県に所在する国立弘前大学の、同大「全共闘(準備委員会)」の委員長を務め、逮捕歴さえあったのだ。

ただし、弘前大学全共闘と言っても、すべてのセクト(党派)を集めて、最大時でせいぜい50人程度の弱小グループであり、東京の有名大学の「全共闘」とは、比べるべくもなかった。
しかしまたそのぶん、東京では仲の悪いセクトに所属する者同士が、弘前ではみんなひとつになって活動していたという。
大学の中でさえ、その存在感を示すに貧弱な人数だったからこそ、セクトを超えて仲良く活動できていたのだそうだ。
で、そんな弘前全共闘の中で、どうして安彦良和が委員長になれたのかというと、これも地方らしい話なのだが、安彦は、当時の全共闘の左翼学生らしい「アジ演説」が好きではなかったからだと言う。
いわゆる「諸君、我々はー、(…)断固粉砕する!」という、例のあれである。
高校時代に、社会科の先生による、いわゆる日教組的な歴史教育の影響を強く受けた安彦は、その頃から、日本がアメリカの行うベトナム戦争の後方基地となっている事実を、恥ずべきこと許すまじきことだと憤慨していた。
そして、高校生なりに、文化祭では「ベトナム戦争」に関する研究発表をするなどの活動を熱心にしていたのだ。
で、そんな安彦が、大学生になって、やっと本格的に運動ができると喜び勇んで、最初に飛び込んだのが、共産党系の学生団体「日本民主青年同盟」、いわゆる「民青」だったのだが、入ってみると、ろくに反戦運動もせず、しかも上命下達の、自由のない封建的な組織であることに失望した結果、安彦は民青を離れ、その後は友人と共に学生新聞を発行して、地道な反戦運動を行なっていたようである。
で、そうこうしているうちに、いろんな考えの持ち主の寄り合い世帯である全共闘の中で活動するようになっていったのだ。
だが、前述のとおり、左翼学生による「アジ演説」が、安彦は好きではなかった。
なぜならば、それが多分に、自己陶酔的でもあれば自己満足に過ぎないと感じられたからだ。
自分たちの、つまり左翼学生たちの好んで使うジャーゴン(専門用語)を振り回して、いくら力説したところで、その言葉は身内以外には届かず、理解者を増やすことはできない。安彦はそうブラグマティックに考えたから、自身の演説の際には、普通の言葉で普通に語りかけるように語った。
その結果「安彦さんの話はわかりやすい」と評判になり、一般学生からも信頼を得ることにもなったので、安彦が弘前大学全共闘の「顔」を務めることになったのである。
だが、弘前大学全共闘は、安彦が「準備委員会」だと名乗ったほどの、所詮は弱小組織だったし、安彦らによる学生新聞の取材出張で、たまたま東京大学へ派遣されていた弘前大学全共闘の友人2人が、東大全共闘による「東大安田講堂事件」に巻き込まれて逮捕されるなど色々とあり、安彦も弘前全共闘のボスとして官憲から睨まれていたので、暴力行為など行ってはいなかったのに、主犯格として逮捕されることにもなった。
こうしたことから、弘前全共闘もまた解体されて、敗北を喫することになったのである。

そして、そんな挫折経験を抱えて、安彦良和は東京に出てきた。
逮捕されて新聞に顔写真が載り、大学を除籍になった身で、おめおめと北海道の実家に帰ることなどできない。
かと言って、青森では就職もままならないので東京へ出てきて、そこで妻と二人での生活を始めるのだが、植字工やマッチ箱のデザイナーなどを経た後、昔とった杵柄で、アニメーター見習いを募集していた「虫プロ」に入社することになる。
子供の頃には、漫画家になりたいという夢を持っていた安彦だが、一度の投稿経験からその展望の無さの前に挫折し、また政治に目覚めたことで「漫画は男子一生の仕事ではない」と考えるようになっていた。
だから、虫プロへの入社も、単に食わんがためで、絵の描ける喜びというものは特に無かったと、安彦本人は言う。
しかし、安彦が虫プロの面接に持参したのは、中学生時代に、大学ノートに描いた直筆漫画2冊だったと言うのだから、やはり、絵を描くことへの捨てがたい執着はあったのであろう。

ともあれ、当人の弁では、絵を描ける喜びよりと、とにかく「早く一人前になって、飯が食えるようになりたい」との一心で、安月給にもめげず頑張ったと言う。
アニメファンとして、憧れて虫プロに入社した同期生たちが、アニメーターの仕事の現実に幻滅して、次々と職場を去っていく中、もともと仕事に希望など持っていなかったからこそ頑張れたのだと、安彦自身は言うのだ。
しかしながら、他人の評価によれば、安彦良和は、入社当時から、すでにピカイチの描き手であった。
だから、後に『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーとしてその名を轟かせることになる西崎義展にも可愛がられて、『宇宙戦艦ヤマト』に関わることにもなったのだ。

ちなみに、後の『機動戦士ガンダム』で、原作と監督を務めることになる富野喜幸(富野由悠季)とは、虫プロで仕事を共にし、西崎義展の下でも仕事をした仲間であった。
『機動戦士ガンダム』を作った「日本サンライズ」(現在は、サンライズ)は、虫プロから独立した人たちの作った制作会社で、そこへ誘われたのである。
一一以上が、安彦良和の「学生運動」時代から『機動戦士ガンダム』に至るまでの大略である。
本書には、その前の故郷北海道での子供時代の話も語られていて、本書は、安彦良和の自伝的な著作と言っても良いだろう。
だが、すでに書いたとおり、安彦良和が書き残したかったのは、あくまでも「学生運動時代の記憶」である。
権力との闘いに敗れたとは言え、あの時代の「われわれ」は、何を望み、何を思って、あの闘いの渦中にあったのか、それをいま語っておかなければ、その機会は永遠に失われてしまうし、それは失われて良いものではないと、安彦良和はそう考えるようになったのだ。
そして、本書の元もなった新聞連載以前から、安彦は、かつての学生運動の友人たちを訪ね歩いては、その証言の聞き取りを、個人的に続けていたのである。
そしてその中には、かの「山岳ベース事件」に連座して逮捕された、総括殺人に加わった人物もいる。
つまり、自分一人の証言ではなく、あの時代のことを語らないでいる仲間たちの口からも証言を引き出して、それを後世に伝える仕事をしなければと考えて、安彦は方々に話を持ち込み、最後はダメ元で斉藤光政に話を持ち込んだところ、斉藤が「面白い」と言って引き受けてくれたのである。
一一きっと、斉藤が『機動戦士ガンダム』のファンではなかったからこそ、本書が実現したのであろう。
本書は、斉藤光政の書いたパートと、安彦良和のパートが交互に並べられた構成となっている。
斉藤のパートは、安彦良和の伝記的事実とその時代背景などの紹介が中心である。これは、安彦のパートが基本的には個人的な記憶による、その思いを語るものなので、斉藤のパートは、それを日本の歴史の中に、客観的に位置づける記述だと言って良いだろう。
その意味では、本書は、ジャーナリスティックに社会史的な記述と、個人の手記的な記述がうまく組み合わされた、痒いところに手の届く作りの本となっている。
ただ、安彦良和自身、しばしば自己中心的な問題性格者として語られることの多い西崎義展との『宇宙戦艦ヤマト』での協働を通し、アニメを「子供向け」のものとしてではなく、大人の鑑賞に耐え得るものにしようという西崎のその「本気」に触れてアニメを見直すまでは、前述のとおり「アニメなんか、男子一生の仕事ではない」と、アニメに対して醒めていた。
そして『ヤマト』でアニメの仕事の魅力(何かを伝えることはできる)に目覚めたものの、『ヤマト』の仕事は、最初のテレビシリーズでは終わらず、その映画版や続編シリーズにも関わらざるを得なかった安彦良和にしてみれば、制作年こそ『宇宙戦艦ヤマト』の5年後である『機動戦士ガンダム』も、ほとんど『ヤマト』と同時進行の同時期作品という感覚であったらしい。
また、『ヤマト』でそうした「続編地獄」を味わった安彦良和は、『機動戦士ガンダム』でも精一杯頑張り、ヒットさせた結果には満足していたものの、『ガンダム』でもまた「続編地獄」を見るのはごめんだと、さっさとそこからは逃れて、自分の問題意識をそのまま反映できる、漫画の方に活路を見出していくことになる。
だから、劇場版『機動戦士ガンダム』三部作や、ずっと後の劇場用アニメ『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』を除けば、安彦が主体的に制作に加わった作品は意外な少なく、本書での記述も、『機動戦士ガンダム』以外については、ほとんどないと言っても過言ではない。
アニメ界に対するさほどこだわりがない分、貴重な本音の語られる興味深い証言もあるにはあるが、それは全体の中ではごく一部であって、やはり本書は、アニメファンを喜ばせるような本にはなっていないと断じても良いだろう。
そもそも、安彦良和自身の狙いがそこには無かったのだし、ましてや斉藤光政の方はアニメに関心のない人だったからである。
そんなわけで、本書の趣旨としての、安彦良和が語りたかったことについて言えば、私としては、わからないこともないが、納得できないところも多々ある。

例えば、安彦良和は「歴史と神話と宗教」といったことについて、次のように書いているが、ここなどは、安彦良和の思想や思考の特性が、よく現れているといえよう。
『 『ナムジ』に始まる古代史シリーズを描くようになってから、取材を兼ねてあちこちの神社へ行った。そうして思うようになったのだが、神社と寺というふたつの宗教施設の並列共存の関係は、日本的で、他国に類例があるのかどうかは知らないが、実にいいのではないか。
もともと仏教は異国から人為的に持ち込まれたもので、それには天皇家とあまりにも深いつながりを持つ物部氏の勢力を削ごうという、蘇我氏をはじめとする新興氏族の政略が関与していた。
だから、神社と寺の関係は最初からキナ臭い。神仏習合とか廃仏毀釈とか、くっついたり離れたりの落差も激しい。
しかし、現代は、靖国神社の問題などを除けば慨ね関係はうまくいっている、と思える。人は、死ねば寺でお坊さんに経をあげてもらい、正月には神社に出かけて願をかけ、お祓いを受ける。普段行ったこともない数会で結婚式をあげ、十字をきるというケースもあるが、これはまあ、さておく。
寺には過去帳がある。すこし御縁の深い寺なら、それで三、四代前くらいまでの先人が判る。僕の家系ですら曽祖父の代までのことがおおよそ判ったように、だ。
しかし、それ以上に旧いことは、庶民レベルでは、まあ、判らない。判らないから、寺に行っても、とても旧い、判らないほど旧い先祖の霊魂までは弔ってもらえない。
だから人は、寺へ行く一方で神社へも行くのではないか、僕は最近、そう思うようになった。
僕の姓の正しい読みは「あびこ」だということを第Ⅱ章で書いた。「あびこ」は「我孫子」とも書くし「吾彦」とも書く。
いきなり話が古くなるが、「古事記」をひもとくと第九代開化天皇の頃、というから皇紀で言えばはるかに紀元前、僕が古代史シリーズで採っている年代推定でも三世紀末か四世紀の初め頃、天皇の系譜の未端に「依網之阿毗古(※ よさみのあびこ)」という名が見えている。「依網(※ よさみ)」というのは現代にも残る地名で、大阪河内に江戸時代まで在った大きな人造池の名でもある。
亡くなられた歴史家、森浩一さんは河内の人だからこの辺の古伝にも地史にも詳しい。依網池と同時代、言い伝えでは第十六代仁徳天皇の頃に造られたと伝わり、現在も一大親水公園として残る狭山池を実地調査し、古伝とは若干異なるがおおよそその頃、五世紀初め頃の事業の産物なのではないかと述べられている。
ちなみに、狭山というのは僕の住む埼玉、所沢の隣町で、現在では大阪河内の地名や公園の名としてよりも、関東の茶の産地としての認知度の方が高い。
おそらく、武蔵国狭山の地ははるか昔、河内の狭山池近辺の者達が移住して来て拓いたのだろう。
その習いで言えば、僕の本来の名前「あびこ」は依網の阿毗古族のであることを意味するのかもしれない。
何年か以前、大阪での講演の時に「僕の先祖は古代、河内のおっさんであったかもしれない」と話したことがあったが、大阪への媚が見え見えのこのカミングアウトはあまり受けなかった。
なにも、開化天皇に関係がありそうだから自分も皇族のはしくれだ、なぞと言いたいのではない。
だいたい古代の人は我も我もと自分の血脈を誇り、でっちあげた。天孫族だったとか渡来人だったとかいう類だ。だから記紀にある血脈なぞ信じる必要もないが、古伝にそれらしい名が在るというのは、なんだかそれだけで楽しい。
「あびこ」と読む姓の人は全国にいるから(藤子不二雄さんの片方、ドラえもんの生みの親の安孫子素雄さんも富山の「あびこ」さんだ)、たぶん古代の阿毗古族が全国に散って移り住んだ名残りなのだろう。元来は依網池の土木事業を請け負ったり、その一帯を管理したりしていた土豪だったのだと思う。
ちなみに、と図に乗って言えば、「よさみのあびこ」の名は古代史にもう一ヶ所出て来る。今度は『日本書紀』である。
僕が近作『天の血脈』で描いた「神功皇后三韓征伐」の出発のくだりで、出陣の「祭りの神主」の名が「依網吾彦男垂見(※ よさみの あびこお たるみ)」とある。
「阿毗古」は「吾彦」になっている。「依網の」と在るから同族なのだろう。「河内のおっさん」の子孫が九州へ来て神職なぞになっていたのだろう。御先祖様も、いろいろ頑張っていたのかもしれない。
こんな具合で、ずうっと古い先祖というのは古史や古伝、つまり神社の領域になる。
もちろん、神社はおおかた、祭神として人名や神名を挙げている。新しいところでは東郷神社や乃木神社がそうだ。
「神社の祭神は元来、山とか川、巨石なぞのアニミズム的なものであって、神話上の神や古代の人名が来るのは後世の操作による。人格神が登場するのは時代が下ってからだ」というのが一般的な考えだが、僕はそう思わない。
山や巨石や暴れ河を拝んでいた時代に、人はもう具体的な偉人や、王や、特に秀でた者をも「神」に仕立てていたのではないかと思う。そしてそれに、彼の一族や、彼に率いられた一団等も加わった。要するに「族」が祀られ、右代表として神名だけが後世に残るようになった。そう考えている。
出雲系とか日向系とか、物部系とかいう神社の色分けがそうして出来あがっていく。更に、具体的に系列でも一族でもない者も、時代が降れば心を寄せていく。出雲大社がいい、お伊勢さんがありがたい、というふうにである。
それはもう、江戸時代あたりでは完全にそうであったのだと思う。
幕府と朝廷は上手に棲み分けている。ならば庶民も何の神だ誰の神だと遠慮することはない。そういう考えで彼等は「お伊勢参り」という名目の観光旅行を楽しんだり、史跡であるべき古墳の墳丘を耕して芋をつくったりしていたのだろう。
神道が尖って尊皇攘夷となり、王政復古が成って廃仏毀釈となり、国家神道が皇国日本の思いあがりを生んだ。そう考えれば何かしら神社は危険で不気味な存在にも見えるが、もともとすべては人間がしたことだ。神社そのものに罪があるわけではない。
思えば、神社仏閣を、とりわけ神社を胡散臭いものとして最も敬遠したのは僕等の世代だろう。今の若者達はむしろその傾向を持たない。とりわけ、若い女のコ達は「パワースポット」などと言って気軽に神社を愛するし、神像や狛犬も「カワイイ」対象にしてしまう。
それでいいのだと思う。
それで、願わくばそれに加えて、神社の背景にある先人達の遠い過去の営みや、そこから現代に至る、人、人、人の連なりに思いをいたすなら、祭神達は、石や山であれ、人であれ、祀られることを悦ぶのではないか。
そのように思う。
歴史とは「人の営み」だと思う。
そこに「科学」を見ようとすることは自由だが、「科学」が人を支配しては本と末が転倒する。それは或る数の対象者から得たアンケート結果で「だからあなたはこうすべきだ」と個人に指図するようなものだ。
こんな簡単なことに、長い間多くの人が気付かなかった。そのことで、いったいどれほどの悲劇が生じ、どれほどの人が死んだことだろう。
なにもマルクス・レーニン主義だけを問題にしているのではない。天皇制国家の下での軍国主義も、キリスト教世界での宗教戦争や魔女狩りもそうだ。多くの殉教死や殉教死の強要もそうだし、一番身近なところではイスラム原理主義の自爆テロもそうだ。
イスラム国の信奉者達は「歴史」を目の仇にしている。
バーミヤンの石仏を爆破したタリバーンの戦士達はひたすら偶像崇拝を憎んでいるように見えたが、それだけではなかったことがISの乱暴な史跡破壊で判った。
彼等は「歴史」を敵視しているのだ。』(P297〜301)
安彦良和が「歴史」に執着している、というのは明らかだ。
しかし、その「歴史」とは、当然のことながら「自分好みの歴史」でしかない。
なぜなら、歴史とは「ひとつであるべきでありながら、実際にはひとつではあり得ない」ものであり、その点で、多数の「フィクションとしての歴史」の彼方に揺影する幻のようなものだからである。
そして歴史家は、彼方に見える歴史というものの存在を信じて、それに迫ろうと、終わりのない努力を続ける人のことであり、そうした志のない人間を歴史家とは呼べない。
安彦良和はここで「歴史」を憎んではいけない、歴史を愛するべきであると、尤もらしいことを言っているが、ここで安彦の言う「歴史」とは、所詮「自分好みの歴史」でしかない。
安彦良和の語り方は、
『神社と寺というふたつの宗教施設の並列共存の関係は、日本的で、他国に類例があるのかどうかは知らないが、実にいいのではないか。』
といった具合で、いかにも物分かりの良さそうな「寛容」な語り方をしている。

だが、こうした物分かりの良さというのは、所詮、「自分好みの歴史」が肯定される範囲内においての話であって、他人の奉じる「歴史」は認めない、独善的な立場に立脚したものでしかない。
つまり『並列共存』を認めない。
キリスト教だのタリバーン(イスラム教徒)だのIS(イスラム国)だのが、偏狭な独善主義で、「人間の歴史」というものを憎悪し否定しているとそう語っているが、それは仏教だって神道だって同じことであり、神仏が習合ものだって、同じ宗教であればこそ、社会状況が変われば、簡単に偏狭なものにもなってしまうだろう。今が大丈夫だから、この先もたぶん大丈夫だというほど、「宗教」は甘いものではない。
安彦は、「科学的社会主義」を僭称した「マルクス・レーニン主義」を捉えて、「科学」によって「人」を裁断することの浅はかさを指摘しているが、そもそも、「マルクス・レーニン主義」を「科学的」だと考えること自体が「信仰」でしかなく、「マルクス・レーニン主義」もまた「宗教」の一種でしかないのだ。
また、「科学」が「宗教」とならないための大原則とは、「科学理論は、すべて仮説である」という理念にあり、自己を相対化して過信しないその自己批評性にある。この理念を決して忘れない、という一点に賭っているのだ。
つまり、発見された(と思った)、ある「科学的真理」と見えるものを「真理」だと思い込んだ時点で、それは「科学」ではなく、「科学信仰」にすぎない。
もともと、「科学」と「真理」は、直結するものではなく、「科学」にとっての「真理」とは「永遠の目標(到達不能の夢)」なのである。
もちろん「実用レベルでの科学的発見物としての真理」ならあるだろう。
しかしながらそれは、科学が求める「究極のものとしての真理」とは別物の、便宜的な代替物にすぎないのである。
つまり、安彦良和の議論は、こうした厳密な思考を避けて、自身の趣味的な「歴史信仰」を肯定せんがために、自身の「歴史信仰」の許す範囲で、さも物分かりの良さそうなことを言っている、勧誘口にすぎない。
そもそも、安彦良和が「信仰」者タイプの人であり、思い込みの激しいタイプだというのは、本書にも語られ、自身も語っているその経歴(自分史)にも明らかだろう。
「ベトナム反戦運動」にのめり込んだのも、「学生運動」にのめり込んだのも、自ら語るとおりで「挫折体験に酔った」のも、「漫画やアニメなど、男子一生の仕事ではない」も信じ込んだり、後では「それは間違っていた」と転向したりと、考え方が「極端から極端へと振れる」という経験を繰り返しながら、それでも「今の自分は正しい」と信じられるその鈍感さは、「信仰者」特有のものなのである。
なぜ安彦良和は、自身の思い込みの激しさを認めて、現在惹かれている「神話と現在を貫く人の歴史」なんていう、ドラマ趣味とでも言うべき「趣味的な歴史観」を相対化できないのか?
そんなものは所詮、安彦自身が嫌いな、オタク的に「趣味に淫したフィクション」でしかないと、そう考えられないのか?
それはたぶん、安彦良和という人が、結局のところ、根っからの信仰者だからなのであろう。
自分は「信仰者」ではないと考え、「信仰」をも現実的にコントロールできると思っているからこそ、
『神社と寺というふたつの宗教施設の並列共存の関係は、日本的で、他国に類例があるのかどうかは知らないが、実にいいのではないか。』
とか、
『 思えば、神社仏閣を、とりわけ神社を胡散臭いものとして最も敬遠したのは僕等の世代だろう。今の若者達はむしろその傾向を持たない。とりわけ、若い女のコ達は「パワースポット」などと言って気軽に神社を愛するし、神像や狛犬も「カワイイ」対象にしてしまう。
それでいいのだと思う。』
などと簡単にいうのだが、これは、自身の「信仰」に気づいていない者の、信仰者を軽く見た言い草でしかない。
自分だけは「信仰」から距離を取れているという慢心による、上から目線の「寛容」。
これが、本物の「寛容」ではない証拠は、自分の「信仰」の範囲内のものにだけ寛容であるという事実に明らかだ。
しかしながら、「寛容」とは元来、立場を異にする者に対する寛容なのだ。
だが、安彦良和の場合は、そうした意味での寛容は、これまで一度も持てなかったからこそ、決めつけも激しかったのであろう。
もちろん、悪い人ではないとは思う。
だが、明晰ではないというのも、もはや明らかであろう。
『 歴史とは「人の営み」だと思う。
そこに「科学」を見ようとすることは自由だが、「科学」が人を支配しては本と末が転倒する。それは或る数の対象者から得たアンケート結果で「だからあなたはこうすべきだ」と個人に指図するようなものだ。
こんな簡単なことに、長い間多くの人が気付かなかった。そのことで、いったいどれほどの悲劇が生じ、どれほどの人が死んだことだろう。』
『こんな簡単なこと』と思えることに『長い間多くの人が気付かなかった。』のは、なぜか?
むしろなぜ、安彦良和は、自分だけがその「真理」に気づいたつもりでいられるのか?
一一それは、安彦良和が『こんな簡単なこと』だと思っていることが、実は「簡単なこと」ではなかった、というだけのことである。
つまり、「容易には理解しにくいこと(人間とは何か・社会とは何か)」だから、人々は長らく悩んできたし、間違えてもきた。それだけのことなのだ。
そしてそれを、安彦良和が「わかった」と思えるのは、いつもの慢心に由来する思い込みにすぎないのである。
そうでなければ、「人の(愚かな)歴史」を無視して「私には簡単にわかったのに」なんて顔など、出来るわけがない。
つまり、安彦良和にとっての「わかった」は、信仰的な「わかった」でしかない。
信仰者ほど、すぐに「わかった」つもりになれるというのが、「宗教」の歴史が物語っているところなのだ。
歴史を愛せと言うのであれば、自分好みの歴史だけではなく、多種多様な歴史の存在を直視すべきであろう。
そうした上で、その決定不可能性を引き受けた上での、やむを得ない選択というものを自覚するならば、
『神社と寺というふたつの宗教施設の並列共存の関係は、日本的で、他国に類例があるのかどうかは知らないが、実にいいのではないか。』
などと、曖昧さを安易に肯定するような、雑な物の言い方はできないはずなのだ。
無論、私は絵描きとしての安彦良和のファンではあるけれど、だからといって、安彦良和に関してなら、何でも誉めるというわけではない。
現に、安彦良和が監督したアニメには、「佳作」(『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』)はあっても、「傑作」は無いと評価してきた。
歳をとってデッサンに狂いが出てきたとも指摘した。
「凡作も、また良いじゃないか」とか「デッサンの狂いも、味ではないか」などと「寛容」ぶるつもりは、私にはない。
ましてや、「思想家としての安彦良和」など、まったく評価できない。

そりゃあ、ある種のスターとなった安彦良和であれば、なんでも褒めてくれる人が、大勢いるだろう。
だが、思想の世界には、いくらでももっと優れた「絵を描いてみせる」天才が大勢いたし、そのあたりと比べれば、安彦良和は「凡手」にすぎないのである。
これは、決して「酷評」ではないはずだ。
私は、絵描きとしての安彦良和の才能を高く評価すればこそ、それに比べるべくもない安彦良和の「思想家」としての才能を、お世辞にも誉めるわけにはいかないのである。
私は以前、安彦良和を、けっこう「狷介な人」だと肯定的に評価したが、その評価は間違ってはいなかったと思う。
「人の歴史」教の教祖として語る際の安彦良和は、異様なまでに「寛容」だ。
だが、その「寛容さ」は、異教に対しては適用されない。
だが、まただからこそ、人は争いを繰り返すのではないのか。
安彦良和は、他者の信仰を批判しながら、自らの信仰には気づいていない。その点で、自分に甘い人である。
当然、その歴史観も、自己の変化に応じて、右にでも左にでも、いくらでも変わっていく体のものでしかなく、そんな自身を顧みて、恥じることを知らない、自身の「人の歴史」に学ばない、ものなのである。
いずれにしろ私は、安彦良和を「神」格化したり、それを妄信したりするつもりなど、 これっぽっちもない、筋金入りの「無神論者」である。
そして、念のために断っておけば、「無神論」とは、「科学」はなく、これもまたひとつの「信仰」に他ならない。
したがって、「無神論」という別の「信仰」との『並列共存』を拒絶しているのは、私ではなく、安彦良和の方なのである。
(2025年11月19日)
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