笠井潔 『夜と霧の誘拐』 : 問われるべき思想的対決の徹底性
正直なところ、本作『夜と霧の誘拐』には、あまり期待していなかった。
期待していなかったと言えば、この「矢吹駆シリーズ」の第5作『オイディプス症候群』でかなり手ひどく幻滅させられて以来、あまり期待しないようにはしてきたのだが、それでもやはりこのシリーズは、私には特別なものではあったのだ。
いささか大袈裟な言い方に聞こえるだろうけれども、本シリーズの第1作『バイバイ、エンジェル』と第3作『サマー・アポカリプス』が、私の人生に多大な影響をあたえたという事実は否定し得ない。
だからこそこれまでは、刊行即買い即読みするということを続けてもきたのである。


しかし、前記の『オイディプス症候群』で幻滅し、その次の第6作『吸血鬼の精神分析』も、いまや内容を思い出せないという程度の作品。
2年前の第7作『煉獄の時』は、多少見直したものの、ただやたらと長い点には辟易させられ、同じようなものなら、もう読みたくはないという気にさせられてしまった。
だから、シリーズ第8作となる今回の『夜と霧の誘拐』が刊行されてみると、『煉獄の時』と同じくらいの分厚さだったので、それだけでもう、げんなりしてしまった。
しかも、ミステリのネタとしては「誘拐もの」で、サスペンスが中心になるのかも知れないと思うと、その点でも私の興味は削がれてしまった。
私は、サスペンスものには、もとからあまり興味がないのだ。
そんなわけで、刊行後しばらくしてから買うには買ったもの、読まないまま放置しており、気持ちとしても「もう死ぬまで読まないかもな」とまで思っていた。
ところが先日、友人の璃羅荘寺賢さんが、本書『夜と霧の誘拐』が、年末恒例の年間ベストミステリーアンケート誌『このミステリーがすごい!』と『本格ミステリ・ベスト10』で、共に「第2位」にランクインしていると知らせてくれ、その意想外の高順位に驚いた。
私としては、入賞しても、ベストテンの下の方がせいぜいだろう、くらいの印象だったのである。
私の記憶によれば、「矢吹駆シリーズ」で『このミス』の「第2位」というのは、これまでの最高位のはずだ。
もっとも、『このミス』が始まったのは、シリーズ第4作の『哲学者の密室』以降だからではあるのだが、それにしても年間ベストの「第2位」というのは、なかなか大したものである。単純に言って、面白くなければ取れない順位なのだ。
だから、この高評価の理由はよくわからないものの「何かが、うまく働いたのかも知れない」と考えた。
もしかすると、「誘拐もの」だったのが、かえって良かったのかも知れない。なにしろ「矢吹駆シリーズ」は「密室もの」に拘ってるところがあったからなあ一一と、そんなことを考えて、がぜん読む気になったのである。
で、結果としてどうだったかと言うと、前作の『煉獄の時』と同様、たしかによく考えられてはいる。複雑な作りがよく練り込まれていて、大変な労作であることは論を待たない。
たしかにそこは感心させられるのだが、では、「面白い」のかと問われれば、少なくとも私個人としては、いまひとつ面白くなかった。
ここで笠井潔のためにひとつ弁護しておけば、私は複雑すぎる「本格ミステリ」は、あまり好きではないのだが、『煉獄の時』も本作も、とにかく「複雑な作りの作品」なのだ。
そもそも、『哲学者の密室』以降は、こうした傾向が顕著になった。
『哲学者の密室』では、「三重密室」とか「時を隔てた二つの密室殺人」とかいった具合に、事件が複数化・複層化され、それが相互に絡み合うものだから、おのずと物語は複雑になるし、ページ数も増えてしまう。
(ちなみに『夜と霧の誘拐』は一段組みなので、二段組の『煉獄の時』と本の厚さはだいたい同じでも、枚数的には少ないはず)
では、なぜ「複雑」な事件ばかり描くようになったのかと言えば、要は、シンプルなアイデアで、読者を驚かせることが出来なくなったからであろう。
つまり、ユニークかつオリジナリティのあるアイデアが枯渇してしまったので、「謎の複雑化」によって、読者に真相を見透かされないようにするしかなくなったのではないだろうか。
「木の葉を隠すなら森の中」にという、チェスタトンの某短編で語られた手口である。
無論、鮎川哲也や山沢晴雄のように、もとから複雑な作品を得意とする本格ミステリ作家はいるし、公平に言って、複雑かつ優れた本格ミステリというのは、たくさん存在している。
私のような面倒くさがり屋は、彼らの書くような「犯人当てミステリ」などを読むと、提示される数多くの情報の検討が、途中で面倒になってしまう。「本格の鬼」と言われるような人たち(読者)の、集中力や記憶力が、私には無い。
だが、私のような凡庸なミステリ読者が読んでも、「傑作」と呼ばれるような作品ならば、一見いくら複雑であっても、メインのアイデア自体は意外にシンプルだからこそ、事件の真相を明かされれば「あっ、そうだったのか!」という、驚きと納得感のない交ぜになった、本格ミステリ特有のカタルシスを覚えることが出来るのだ。
つまり、それは「気づけそうで気づけない」ギリギリの線に謎が設定されているからこそ、読者の方も「やられた感」を覚えることが出来るのであろう。
ところが、近年の「矢吹駆シリーズ」は、とにかく複雑なだけなのだ。
解答を聞かされても「なるほど、そうなっていたのか」とは思っても、「あっ!」と言うような驚きは無いし、「やられた感」も無い。
つまりそのあたりが、本格ミステリとして弱いのである。
で、本作『夜と霧の誘拐』は、どうであったかというと、基本的には同じであった。

あえて言えば、「玉突き誘拐」というアイデアは面白かったが、しかしこれは、本作のメインアイデアではない。
メインアイデアである「意外な犯人」は、もっと複雑な事件の中に埋め込まれて、隠されているのである。
しかしながら、本作のミステリの部分で、最大の弱点は、事件の「実行犯=意外な犯人」が誰なのかを、比較的早い段階で、見抜けてしまう点なのだ。
前記のとおり、謎解きが決して得意ではない私でも、その点については、物語中盤で早々に「気づいて」しまった。
「矢吹駆シリーズ」の場合、事件の「黒幕」は、お約束の宿敵ニコライ・イリイチである。
だから、事件そのものの謎の核心に位置するのは、あくまでも「事件を実行した人物」ということになる。それがわかれば、事件の構造の大枠が見えてくるのだ。
ところが、その実行犯が「まあ、この人物だなろうな」と、かなり早い段階で検討がついてしまう。
なぜ見当がつくのかというと、他の人物が犯人では「意外性」が無く、ミステリとしては面白くないからだ。
つまり、作中の人物や警察は「その他の容疑者」を疑うだろうけれど、「意外性」が求められる本格ミステリを読んでいるという認識を持つ、つまり作中世界のメタレベルに立つ読者としては、「この人物くらいしか、意外性のある犯人にはなり得ない」と、そう裏読みできてしまうのだ。
無論これは、ミステリの読み方としては、「邪道」ではあろう。
本格ミステリの「正統派的な読み方」としては、作者によって提示された情報を適切に組み合わせていった結果として、事件の真相に至り、おのずと犯人を特定する、というのでなければならなかったはずなのだ。
言い換えれば、「本格ミステリ」は「当て物」ではなく、論理パズルなのだから、作中現実のレベルにおいて、そこに描かれた情報のみよって、作中の謎を論理的に解かれなければならないのである。
一一だが、実際のところ、本格ミステリの読者というのは、必ずしもそのように「帰納法」的に推理するわけではなく、今回の私と同様に、「演繹法」的に作品を読むものなのである。
つまり、ある程度読んだ段階で、その「全体状況」から「こいつが怪しい」と目星をつけ、その上で、さらに徐々に開示されていく「情報」を「これとこれとこれは目眩しで、こっちがポイントとなる情報だ」というように振り分けていき、自分が先に目星をつけた回答の成否を検討していく、ということをするのだ。
そしてこれは、前述のとおり、本格ミステリの読み方としては、本来は邪道なのだ。
喩えていうなら、証拠を積み重ねていった結果として犯人の特定に至るというのではなく、最初から「あいつが臭い」と目星をつけての「見込み捜査」みたいなものだからである。
そうした「経験的な直観」による先入主という認知の歪みのせいで、どれほどの多くの冤罪が生み出されたことか一一といった、「現実」の問題にも、それは通じるものなのだ。
そのため、本格ミステリにおいても、「演繹」推理というのは、一応のところ「邪道」だとされてきたのである。
一一しかしながら、皮肉なことに、「哲学」をテーマにした、この「矢吹駆シリーズ」では、この常識が疑われ、転倒させられることになる。
つまり、本作でも、矢吹駆が語るとおりで、
「名探偵が正しく真相に至り得るのは、最初に真相を知っているから」
なのである。
「刑事コロンボ」は、最初から犯人を「直観」した上で、証拠を集めていくのである。
つまり、名探偵は、一見したところ「帰納」推理をしているように見えるけれども、その本質は、じつは「演繹」推理なのだ。
まず、「事件の本質」を直観した後、それに従って数々の情報を取捨選択し、それを整理し再構築することで、事件の「真相」へと至る。
言い換えれば、名探偵が語る最後の推理(説明)は、名探偵が実際に行った思考経路をそのまま語るものではなく、結果から逆算して構築した推理を、時間軸に沿って並べ直したものでしかないのである。

ではなぜ、そのようなことをするのかと言えば、「名探偵は、まず最初に本質を直観していたから、真相に至れたのだ」というのでは、本格ミステリとしては「興醒め」だからである。
なぜなら、普通の者には無い「特殊能力」を、名探偵だけが「与えられていた」から、真相が見抜け、犯人を言い当てたというのでは、それは「論理的な推理」ではなく、直観という「超能力の一種」でしかなくなってしまうためである。
数式を解くように、正しく手順を踏んで正しく思考すれば、正答に至れると思うからこそ、読者はそれの難問に挑むのだし、また、正答に至れなかったとしても、「自分は、正しい手順と正しい思考が十分になし得なかったが故に、真相を見抜けなかったのだ」と、そう納得することもできる。
それに対し、名探偵は、読者と「同じだけの情報」を与えられながら、それら遺漏なく完璧に、正しく駆使したからこそ、真相に至れたのだ。一一というふうに見えるから、読者は、名探偵の「思考能力」に、感服できるのである。
ところが実際には、名探偵に対しては、読者の持たない「特殊能力」という「特権」が与えられていたからこそ、真相に至れたのだとしたから、それは一種の「ズル」だと感じられてしまう。
だから、本格ミステリの「建前」としては、そんなものであってはならないのだが、実際のところ、本格ミステリにおける「名探偵の名推理」というものは、実はそうしたものでしかなかったのである。
つまり、作者は「事件の本質部分(のアイデア)」を先に思いつき、それを読者に対していかに隠すか、いかに読者の推理を誤導するかを考えながら、作品を作っていくのであって、決して、リアルな不可能状況の先に真相を見つけて、それを書くというわけではないのだ。
だから、作者の操り人形である名探偵には、読者には与えられていない、「本質直観」能力が与えられていると、そう言えるのだ。
言い換えれば、すべての「名探偵」役に(だけ)「本質直観」能力が与えられているのである。
したがって、名探偵の推理とは、本質的にそういうものなのだと説明したあと、物語の最後に語られる矢吹駆の推理は、いささか興醒めなものとならざるを得ない。
矢吹駆が最後まで推理を語らないのは、真相がわかっていて語らないのではなく、文字どおりに、まだ真相に至っていないから、語らないだけなのだ。
矢吹駆の言葉で言えば「事件の本質を示す、支点となる事実」に、まだたどり着けていないから、情報を正しく組み立てることが出来ない、というだけの話なのである。
で、この矢吹駆の言葉は「本格ミステリの哲学」あるいは「名探偵の哲学」としては、まったく正しいのではあるが、「娯楽小説としての本格ミステリ」としては、野暮な「ネタバラシ」に近い行為だとも言えるだろう。
みんなが名探偵の「神のごとき(論理的な)推理」に感動しているというのに、それについて「いや、あれには裏があるんだよ」という説明をしているも同然だからである。
だから、「矢吹駆シリーズ」のこうしたところは、「メタミステリ」としてなら面白くはあろう。つまり「ミステリを語るミステリ」であり、「ミステリを分析批評するミステリ」だ。
だから、「批評小説」としては面白いと評価できるのだが、「本格ミステリ」本来の魅力という点では、いささか興醒めだということにもなってしまう。
またそれに、私の「裏読み」的な読み方こそが、まさに「名探偵」的な読み方だったと、正当化されてしまうのだ。
だが、それでは真面目に「謎解きパズル」に取り組んだ読者は、立つ瀬がないのである。
そんなわけで、本作は「よく作り込まれている」し、「ミステリを語るミステリ」という「批評趣味」であり「哲学趣味」においては、面白い。
だが、「あっ!」と言わせてほしいと期待している、あたり前のミステリ読者には、いささか野暮な作品だとも言えるのだ。
そんなわけで、以上が本作『夜と霧の誘拐』の「本格ミステリとしての側面」についての、私の評価である。
○ ○ ○
さてここからは、本作における「思想的対決」の部分について、論点を絞って論じておきたい。
個人的には、本作で最も面白かったのは、この部分であった。
Amazonカスタマーレビューで、レピュアー「不思議なピーチパイ」氏が「肝は「終章」にあり。」というレビューを書かれているが、そこで指摘されていることが、本作における「思想的対決の肝」だと、そう見て間違いはないだろう。
『(前略)結局、本作で笠井潔が書きたかったのは、終章「森屋敷の少女」における矢吹駆とハンナ・カウフマン(=ハンナ・アーレント)の対話に尽きるのだろう。ナチスによるホロコーストを絶対悪と規定することの政治的含意や、日本が「唯一の被爆国」と殊更揚言することの精神的欺瞞性。私は、極左闘争に出自を持つ笠井潔の思想にシンパシーを覚える者では全くないが、言いたいことは分かる。小説に仮託した形でなければ、寄ってたかって袋叩きになりかねない意見かも知れない。本作の価値は終章に凝縮されているとさえ思う。』
ここで、「不思議なピーチパイ」氏は、
『私は、極左闘争に出自を持つ笠井潔の思想にシンパシーを覚える者では全くないが、言いたいことは分かる。』
と書いているが、これはたぶん『日本が「唯一の被爆国」と殊更揚言すること』を、笠井潔が言うような『精神的欺瞞』だとは考えない、という同氏の立場表明であろう。
だが、笠井の『言いたいことは分かる。』と言いながら、しかし、笠井の意見に賛成できないとする「根拠」を示さないのは、いかにもアンフェアであろう。
これでは、笠井潔の出自が『極左闘争』にあるから同意できないのだと、「出自差別」をしているだけであって、著者である笠井潔との「思想対決」を避けている、としか言えないのである。
だが、それでは「矢吹駆シリーズ」を読んだことにはならないし、私は、「不思議なピーチパイ」氏のこの書き方を、「誤魔化し」だとしか評価し得ない。
要は、『日本が「唯一の被爆国」と殊更揚言すること』を、同じ日本人として「否定しづらいからしない」というだけの話、つまり「保身」でしかないのではないかと、そう疑うのだ。
つまり、批評として、腰が退けているのである。
だが、「不思議なピーチパイ」氏とは違って、私はここで、笠井潔への共感をハッキリと表明しておこう。
『日本が「唯一の被爆国」と殊更揚言すること』は、笠井潔が矢吹駆の口を借りて語っているとおり、所詮は『精神的欺瞞』以外の何ものでもない。
いや、むしろ本作での書き方は、まだ「ぬるい」くらいだ。
というのも、矢吹駆が語るのは、要約すれば、
「被爆者が、その被害者性において、平和の重要性を語る特権的な立場にあるというのは認められるが、しかし、その他の日本人までが、同じ被爆国の国民だということで、世界に向けて反核平和を語る特権的な立場にあると考えるのは、原爆を落とした加害国アメリカに対する同等報復を成し得ない、負け犬的な存在としての、心理的な倒錯(自己欺瞞的な反動)でしかない」
という趣旨の批判でしかなく、被爆者には、その直接被害者という立場を根拠に、「反核平和を語る特権者であるとの自負」を、そのまま無条件に認めてしまっているからだ。
つまり、私が言いたいのは、原爆の直接被害者である被爆者についても、私は「無条件な特権」など認めない、ということだ。
そしてその意味において、本作における矢吹駆=笠井潔の主張は「不徹底」だと、そう批判しているのである。
私のこの批判の根拠は、こうだ。
一一原爆の直接被害者も含めて、すべての日本人は「戦争加害者」としての責任を免責され得るものではない。
つまり、「純粋な(無垢な)被害者」の立場になど、立つ資格が基本的にはない。
(例外としては、戦前戦中に反戦運動をしていた被爆被害者、ということになろう)
無論、自らの体験を通して、戦争の悲惨さを訴え、平和を訴えていくことは大切なことであり、それは「誰が」やっても、平等に素晴らしい行いである。
にもかかわらず、自身が原爆の直接的被害者であるという理由で、戦争加害者としての加害責任という負債を、すべて免除されたかのように振る舞い、「純粋な被害者が、純粋な加害者を批判する」かのような威丈高な調子で、上から物をいうというのは、大いなる「勘違い」だと、私はそう批判したいのだ。
例えば、日本の被爆者団体が、ノーベル賞を受けた途端、まるで「有識者」という特権者にでもなったかのように思うのなら、それは、通俗的な「権威主義」の一種でしかない。
また「ノーベル賞を受賞して、少しは反核運動が進むかと思ったのに、核保有国には見向きもされず、日本政府にさえスルーされたことにガッカリした」などというのも、そうした「勘違い」のなせるわざだとしか思えない。
なぜなら、無名の頃の訴えも、有名になってからの訴えも、その「中身」においては、同等であり、そこに優劣などないからである。
つまり、そこに「差別」があってはならない。庶民の「小さな声」を軽んじてはならないのだ。
くり返すが、平和を願い平和を訴えることは重要である。
けれども、自分たちには、「一般人」には無い「特別な発言権」が与えられており、だから特別な「影響力」があるのだ、あって然るべきなのだ、などという感覚を持つ者がいるかぎり、戦争は無くなりはしないし、核兵器も無くならないだろう。
核兵器以上の兵器という「より巨大な力」が生まれないかぎり、核兵器がお払い箱になることはないと、私はそう見ている。
なぜなら、なぜ核兵器が無くならないのかと言えば、それは「最後は力だ」と考える人がいなくならないからなのだ。
そして、その同じ「力信仰」の上に、マスコミをあげた「ノーベル賞受賞者の特権化」というものもある。
「芥川賞作家すごい!」や「ジャニー喜多川さんすごい!」「北村紗衣教授すごい!」といった、中身を問わない、権威主義的な「肩書き主義」と、それはまったく同根のものなのである。
ノーベル賞受賞者の言葉は、特別扱いにされるべきだ、被害者の言葉は、そうでない人の言葉よりも重視すべきだ。一一そんな「力信仰」の傲慢さがそこにはある。
だが、どうして、平和への願いを次のように語れないのだろうか?
「私も加害者の一人であったし、これからもそうなってしまう恐れがある。だが、それは御免だ。だから私は戦争に反対し、核兵器に反対して、平和を求めるのだ」と。
「私」は「絶対的な善人としての被害者」であり、この「私」が批判を差し向ける先には、「私」とは「人種」の違う、極悪人としての「戦争遂行者であり加害者」がいる、などという認識は、あまりにも浅薄で傲慢だ。
そんなことを考えているからこそ、戦争も核兵器も無くならないのだと、私はそう言いたい。
だから、「不思議なピーチパイ」氏のご意見に反して、私は基本的には、矢吹駆=笠井潔の意見の方をこそ支持するし、それでもまだ「ぬるい(不十分な)」くらいだと注文をつける。
これが私の、本書との「思想的対決」の結果なのである。
(2026年1月2日)
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