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ルネ・クレール監督 『巴里祭』 : 代表作ではなかったようだ。

映画評:ルネ・クレール監督『巴里祭』1933年/フランス映画)

ルネ・クレールというと、

ジャック・フェデージャン・ルノワールジュリアン・デュヴィヴィエマルセル・カルネと並んで、古典フランス映画における「ビッグ5」(「詩的リアリズム」)の一人として知られる。』

(Wikipedia「ルネ・クレール」

ということになっている。
平たく言うと、「戦前からの」代表的な映画作家だということなので、この5人については、ひととおりは見ておきたいと考えた。

で、現在のところ、ジャン・ルノワールジュリアン・デュヴィヴィエマルセル・カルネの3人については最低1本は見ているのだが、ルネ・クレールはこれが初めて。
本作『巴里祭』は、タイトルをよく耳にする気がしていたので、なんとなく「代表作のひとつ」だろうと思って、真っ先見てみたのだが、正直なところ今ひとつの作品だった。

(巴里祭の夜は、老若男女を問わず街に繰り出して、カップルで踊るようだ)

公開当時、日本ではヒットしたが、本国では不発だったそうなので、私の耳に入った評判は、公開当時を知る日本人映画ファンの評価であり、そのあたりでの「ルネ・クレールの代表作のひとつ」という評価だったのかも知れない。
傑作ではなくてもヒット作であれば、それはそれで「代表作」と呼ぶのも、あながち間違いではないからである。

(このぼんぼりのようなものが、巴里祭の目印らしい)

なお、「Wikipedia」には、本作『巴里祭』について、

フランソワ・トリュフォーは『巴里の屋根の下』『ル・ミリオン』を「パリ三部作」と呼び、「幸福な映画作家だったと言っていい」という』

『1924年、監督処女作となる『眠る巴里』 (Paris qui dort) 、次いでアバンギャルドの短編映画『幕間』を発表した。ロシア領ポーランド生まれの舞台装置家ラザール・メールソンなどと知り合う。以後、『巴里の屋根の下』(1930年)で「詩的レアリスム」の監督として評価されることになる。『自由を我等に』(1931年)など、詩情と諧謔と風刺に溢れる多くの映画を発表した。』

といった記述もあるから、少なくとも、本作『巴里祭』を含む『巴里の屋根の下』などの初期作品においては「詩的リアリズム」の作家と評されることが多いようだ。
しかしまた、それは何もルネ・クレールに限った話ではないのだから、「詩的リアリズム」というのが、具体的にどのようなものを指すのかは、かなり曖昧なようである。

『(※ 詩的リアリズムとは)映画批評家のジョルジュ・サドゥール(Georges Sadoul)によって提唱された一部のフランス映画の定義。表現手法としては、大型セットにおけるスタジオ撮影を基本とし、遠近などに関して誇張を行なう場合が多く、そのため画面上におけるパースペクティブに歪みを生じさせることが多い。主にジャック・プレヴェールによって書かれた作品に多いのも特徴的であると言える。
(中略)
なお、特定のジャンルといえるほど明確ではないが、「たいていはパリを舞台にし、厭世的な都市のドラマを描く。設定は労働者階級であり、しばしば犯罪性に伴われた不幸に終わるロマンティックな物語が伴う」という見解もある。』

(Wikipedia「詩的リアリズム」

(この手前にアンナとジャンの向かい合うアパートの路地があるのだが、非常に巨大なセットである。確かに若干、奥のあたりの遠近感に無理があるようだ。階段の途中あたりからは、絵か模型ではないだろうか)
(ダンスホールの奥から、ずーっとカメラが退いて、この表のドアが閉まるところまでをワンショットで撮っているが、これも大変奥行きのあるセットである)

なお、ここで紹介されているジャック・プレヴェールは、詩人・児童文学者・作詞家などとしても活躍した人で、映画脚本家としての代表作は、マルセル・カルネ監督の『天井桟敷の人々』ということになるだろう。
だが、作詞家としては、あまりにも有名なシャンソン「枯葉」があり、日本とのからみで言うと、アニメ監督の高畑勲宮崎駿に影響を与えたことで有名な、ポール・グリモー監督の『やぶにらみの暴君』(1951年・1980年の改作後の現行タイトルは『王と鳥』)の脚本も担当している。

一一ともあれ、ジャック・プレヴェールは、

『1936年から1945年にわたって、約20の映画のシナリオ、台詞を書き、マルセル・カルネジャン・ルノワールジャン・グレミヨンらの監督、ジャン・ギャバン、アルレティ、ミシェル・モルガンらの俳優と仕事をした。』

(Wikipedia「ジャック・プレヴェール」

とのことだから、このあたりでルネ・クレール「詩的リアリズム」の作家と呼ばれることになったのかもしれない。

本作『巴里祭』の「あらすじ」は、次のとおりである。

フランス革命記念日「巴里祭」の前日に織り成される男女のすれ違いの恋の行方を情緒豊かに描いたラブストーリー。アパルトマンの向かいどうしに住むタクシー運転手のジャンと花売り娘のアンナは、密かにひかれ合っていた。巴里祭の前日である7月13日、にわか雨をきっかけに心を通わせた2人は、翌日に踊りにいく約束をする。しかし、思いがけない出来事によって彼らの仲は引き裂かれ……。』

(映画.com『巴里祭』

(巴里祭の前夜、アンナとジャンは一緒に踊るが、しばしば楽団が演奏を中断するので、ジャンがやる気を失ってしまう。そこで、ジャンのタクシー仲間が、代わりにアンナと踊ってジャンに見せつけるが、雨が降ってくる。同じ軒下に逃げ込んだ二人はやがてキッスをし、翌日の巴里祭の夜の約束もする)

本作のストーリーを大雑把に説明すると、まずは上で紹介している若い二人、アンナジャンの出会いと別れが描かれる。
ここでの「出会い」とは、下町のご近所さんという平凡なものだ。あらすじにあるとおり、住んでいるアパートが路地を挟んで向かい合わせに建っており、窓を開くと相手方の窓がほぼ正面に見えて、お互いに挨拶を交わすといったところから、年頃の若者どおしとして惹かれ合うようになるのである。

では、二人の別れはと言うと、アンナと知り合う前のジャンが、同じ部屋で同棲していた女が不意に帰ってきたことによる誤解だ。
そもそもこの女は、ジャンに理由を告げることなく勝手に出ていったので、ジャンは未練を残しながら、腹も立てていた。だからアンナと知り合ってからは忘れるつもりになっていたのだが、そんなところへ、不意に女が帰ってきたのだ。

当然ジャンは、女に出ていってくれと迫るが、女が「せめて今夜だけは泊めて。行くところがないの」とジャンの同情を惹き、ジャンは仕方なく、「今夜だけだぞ」と女を残して仕事用のタクシーに乗って出掛けていく。
そして翌朝、アンナがジャンの部屋の窓に女の姿を見て、当然の誤解をしてしまう。
巴里祭のその日、前夜に続いてジャンと踊りに行く約束をしていたアンナだったが、母がインフルエンザで寝込んだということもあって、ジャンを振ってしまう。ジャンの方も、それで腹を立てて部屋に戻ったものだから、つい前の女とヨリを戻してしまい、女との同棲を再開してしまうのである。
そして、そういうすれ違いの後のある日、ジャンは女と共に、何処へともなく引っ越してしまうのだ。

この後、アンナはパブの店員として雇われ、レジを任されるようになる。前よりは安定した仕事に就けたということだ。
一方のジャンは、性悪女の影響を受けて、犯罪の道に入っており、窃盗グループの一員になっていた。

(悪党たち)

そんなある日、その窃盗グループが目をつけたのが、アンナの勤める店だった。女一人で店番をしている小さな店なので、簡単に金を奪えそうだということで、ジャンを含む3人が、閉店間際の客の途絶えた店に赴き、古株の2人が店に入って、強盗のタイミングを窺い、ジャンは店の外に残って見張り役を務めた。
つまり、店の外にいるジャンからは、アンナの顔がぎりぎり見えなかったのだが、いよいよアンナが店にいる2人に「閉店しますよ」と告げて、店の外のブラインドを下ろしに出てきた時、ジャンはその店員がアンナだと気づいて声をかける。そして「私に会いにきてくれたの?」と問うアンナに「そうじゃないが…」と答えたので、失望したアンナが店の中に戻ってしまうと、中の2人がついに本性を表してアンナを縛ろうと襲いかかったところに、ジャンが入ってきてその邪魔をし、2人は逃げ出してしまう。
店の2階から「何の騒ぎだ?」と起き出してきた経営者にジャンの姿を見られては誤解されると、アンナは奥の部屋の窓からジャンを逃すも、結局は誰かを窓から逃したのだと店主に察せられて、アンナは店をクビになってしまう。

そして、ある日の午後、花売り娘に戻ったアンナが花を積んだ台車を押していると、転んだ歩行者を避けたタクシーが、アンナの台車に突っ込んできて接触してしまう。
アンナは無事だったが、台車が破損したのでカンカンになったアンナが、タクシーの運転手に「どこを見て走っているのよ!」と食ってかかり、運転手も「おまえこそ、こんなところを通ってるんじゃねえ!」とやり返し、それに野次馬たちが寄ってきて、双方に肩入れしての大騒ぎとなる。

しかし、その時にはすでに、当事者の二人は相手が、アンナでありジャンであることに気づいて、野次馬たちの喧騒から離れて、二人きりになる。そして、かつて巴里祭の前夜、二人で雨宿りした時のように見つめ合い、キスを交わすのである。
めでたしめでたし。一一と、そんなハッピーエンドだ。

つまり、一応のところ、典型的な「起承転結」の形式は踏まえているものの、「偶然」に頼った部分が大きく、物語として説得力に欠ける
そのため、見終えた時には「何だかなあ…」という印象になってしまったのだ。

確かにこの物語は、先に紹介した「詩的リアリズム」の、

『たいていはパリを舞台にし、厭世的な都市のドラマを描く。設定は労働者階級であり、しばしば犯罪性に伴われた不幸に終わるロマンティックな物語が伴う』

の定義に、大筋では当てはまるが、若干の「不運」には見舞わられるものの、「嫌世的」というほどの話ではないし、まして「不幸に終わるロマンティックな物語」でもない。
そこで、本作の脚本は誰かと見てみると、かのジャック・プレヴェールではなく、ルネ・クレール監督本人であった。

つまり、本作は、ジャック・プレヴェール流の、いささか「感傷的な感動」作品ではなく、ルネ・クレール本人による、ストレートなロマンティック・ストーリーだったわけだが、いささかその「作りが甘かった」ということなのではないだろうか。

ルネ・クレールについては、ジャック・プレヴェールの脚本作品を含めて、もう何作か見て見たいと思っている。
なにしろ『古典フランス映画における「ビッグ5」』と言われる人なのだから、本作程度に止まる人ではないはずだからだ。


(2025年3月8日)


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