鳥海永行監督 『雲のように風のように』 : まずまずの作品。
作品評:鳥海永行監督『雲のように風のように』(1990年)
「日本ファンタジーノベル大賞」の第1回大賞受賞作品である酒見賢一のデビュー作『後宮小説』のアニメ化作品。尺としては映画と同じ90分で、1話完結の長編。
テレビスペシャルとして放映された本作は、「Wikipedia」にもあるとおり、
『三井不動産販売(現:三井不動産リアルティ)の創立20周年記念事業の一環として制作され、同社の一社提供によるスペシャルアニメとして1990年3月21日(春分の日) 16:00 - 17:30 (日本標準時)に日本テレビ系列局で放送された。本編中は全編にわたりノーカット・ノーCMという地上波としては異例の形式で放送された。』
これが何を意味するのかといえば、要は、日本がまだ「バブル景気」の只中にいた、ということだ。
「日本ファンタジーノベル大賞」は、設立時「賞金1000万円、映像化付き」ということになっていたので、このアニメ化は後者の条件によるものである。無論、三井不動産販売は、「日本ファンタジーノベル大賞」のスポンサーでもあったわけだが、住宅販売会社が公募小説賞のスポンサーに名を連ねているところが、今とあの頃の違いであるとも言えよう。当時、「金余り」だった大手企業は、単に金儲けをするだけではなく「文化に貢献する」ということで、このような方面にも資本提供していたのである。

それは、以前にレビューを書いた作品、今川泰宏監督の『ジャイアントロボ THE ANIMATION −地球が静止する日』(全7話、1992年〜98年)と『真(チェンジ!!)ゲッターロボ 地球最後の日』(1998年・全13話)との「落差」に、わかりやすいだろう。
つまり、『ジャイアントロボ』はバブル景気の最中から余波の時期に「時間と金をかけて作られた」作品であるのに対し、『ゲッターロボ』の方は、バブルの破綻が否定できないものとして企業を圧迫し、スポンサー企業が金を出し渋るようになった時期の作品だということである。
したがって、「日本ファンタジーノベル大賞」や、本作『雲のように風のように』も、「金余り日本」の時代のものであり、だからこそ「一社提供」だって可能だった。
言い換えれば、今のテレビアニメやアニメ映画が、ほとんど「製作委員会」方式なのも、制作に金のかかるアニメの一社提供はしにくくなった。資本の回収の見込みが難しく、一社提供ではリスクが大きすぎると判断されるようになった、ということである。
そもそも「バブル景気」の頃のスポンサー企業は、資本提供を「宣伝費」と考えていたから、元を取ろうなどとは考えていなかった。
そんなわけで、「日本ファンタジーノベル大賞」も、のちには「賞金」が500万円へ、さらに300万円へと減額され、「映像化」の保証も、すでになくなったはずだ。
さて、本作『雲のように風のように』だが、本稿のタイトルにも書いたとおり、結論としては『まずまずの作品。』である。悪くはないが、特に良いわけでもない。
原作と比較しなければ、それなりに楽しめる作品には仕上がっている。

言い換えれば、原作ファンには、いかにも物足りない作品だとも言えよう。かく言う私は、原作『後宮小説』を刊行直後に読んで、大感激した人間だから、最初から「アニメ化」には期待していなかった。
優秀なスタッフを結集しての「シリーズもの」として作るのならばともかく、あの原作を1話完結の90分ほどに収めるのは、どうしたって無理のあることなのは、初手からわかりきったことだと考えたからだ。
もちろん、私はもともとアニメファンだから、「原作至上主義者」などでは、決してない。
原作小説や漫画をアニメ化する際は、原作の改変はむしろ「当然のこと」だと考えているのだ。なにしろ「小説(活字)」であれ「漫画(静止画)」であれ、「アニメ(動画)」とは、表現形式がまったく違うのだから、同じように見せられるわけないのは当然だし、それならば表現形式に合った変更を加えるのも当然で、あとは、その変更が上手いか下手かの問題なのである。
ところが本作『雲のように風のように』の場合は、もともとが「受賞作に対するご祝儀的な映像化」だから、「原作」を大きく改変するという方向性は、ほとんど考えられないだろう。つまり、可能なかぎり「原作に忠実」な映像化が目指されるだろうから、キャラクターは「流行りの絵柄」でいくとしても、物語の基本線は「全体をバランスよく編集する」というかたちになるだろうと、容易に予想できたのである。
だが、原作小説『後宮小説』の魅力は、そうした「筋」にあるわけではなかったから、「筋」をまとめることに尽力するような作り方では、「短くともエッジの効いた作品」にはなりようがないと、そう考えたのである。

だから私は、本作の本放映を見ていないし、録画もしなかった。その後も、特に見たいとは思わなかった。
当時の若い私には、読みたい本が山ほどあってそちらを優先したために、「テレビアニメ」を含む、時間を取られる「連続もの」は、すべて自粛していたのだから、単発とは言え、興味のない作品まで見ている暇などなかったのである。
昨年末、原作者・酒見賢一の訃報に接して、私はここ「note」に追悼文を書いたのだが、そこでも、このアニメ『雲のように風のように』に触れて、次のように書いていた。
『その後、アニメ化もされたけれど、そちらは視ていない。
私は、古いアニメファンだから、アニメには目が肥えているという自負があったし、タイトルをテレビ向けに変更したのは仕方ないとしても、なによりあの原作『後宮小説』の魅力を、映像化なんかできるわけがないと思ったから視なかったのだ。そして、その気持ちは今だって変わってはいない。』
では、今回はどうしてそのアニメ化作品『雲のように風のように』を見る気になったのかといえば、ひとつには、上の「追悼文」を読んだフォロワーの方が、「YouTube」で本作が無料配信がされるという情報を、わざわざお知らせくださったことが大きい。
つまり「せっかくご親切に教えてくださったのだから」という気持ちがあり、「無料なら、この機会に見てもいいか」という気持ちになったのだ。
「この機会に」ということのうちには、ひとつには、先の「追悼文」にも書いたことだが、今では酒見賢一の作品はほとんど読んでおり、コンプリートも間近なので、酒見賢一自身の作品ではないが、まあ、周辺作品として押さえておいても良いか、という気持ちが、『後宮小説』を読んだ頃とは違って出てきていた、というのがある。
また、それだけではなく、寸暇を惜しんで読書しなければならなかった若い頃とは違い、退職して隠居になった今は、時間的な余裕が大幅に増えたということも大きかったのだ。
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さて、そんなわけだから、本作『雲のように風のように』について語りたいことは、特にない。無理に語れば、ここがあそこが「物足りない」という注文ばかりになるだろうから、ここでは、「まずまずだった」とした理由を、簡単に記しておくだけにしよう。
まず言えることは、「絵面」が単調で、全体にメリハリに欠ける。
この物語(原作)は、もともと「大状況の中の小状況をテンポよく描いたもの」なのだから、もう少し「絵面」にもメリハリをつけて、物語に緩急をつけるべきであったと思う。
実際「戦さ」のシーンがあるにも関わらず、ほとんど緊迫感というものがないから、主人公・銀河の夫となる若き皇帝コリューンの死が、あまりにもあっけない。
また、その結果、ラストの「亡国の悲劇」というものも「軽く」なってしまっているから、「銀河のその後についてのナレーション紹介」も、まるでつけ足しのようにしか感じられず、いささか締まりのない結末になってしまっていると思う。
一一そしてこれは多分、鳥海永行監督の力量的な限界なのであろう。

鳥海永行監督は、長らく「タツノコプロ」で、シリアスからコメディまで、いかにもタツノコらしい作品を、手堅くこなしてきたベテラン演出家なのだが、言い換えれば、「個性」に薄く、「代表作」と呼ばれる作品の思い浮かばない演出家だとも言えよう。
たしかに、多くの「ヒット作」には関わっているが、それは安定的な「タツノコ印の作品(の内容)」に対する人気であって、「鳥海節」の人気ではなかった。そもそも「鳥海節」というほどのものが無く、なんでも卒なくこなせるのが、演出家・鳥海永行だったのではないか。
また、だからこそ私は、そういう演出術では、この原作小説の魅力を映像化することはできないと考えた。
『後宮小説』を映像化し、アニメ作品として傑作に仕上げるためには、鳥海のような人が「無難に映像化」するのではなく、もっとハッキリした個性を持つ演出家が、原作とのぶつかり合いの中で、両者の個性が止揚される必要がある。それで、成功するか、あるいは大失敗するか、といった葛藤の中で作られるべき作品だったと、そう考えるのだ。
なお、声優については、たぶん、アイドルとして起用されたのであろう、銀河役の佐野量子は悪くなかった。いや、かなり良かった。また渾沌役の小林昭二も、アニメには縁が薄くても、洋画の吹き替えでジョン・ウェインをやったベテランだけあって、ごく自然で味のある演技が素晴らしかった。一方、皇帝コリューン役の市川笑也 (2代目)は、いかにもアニメのアテレコに慣れていない、無理にキャラクターの絵ヅラに声を合わせにいったような、迫力に欠ける演技であったと注文をつけておこう。




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さて、このレビューは、2024年最後の記事となるわけだが、この機会に、今後の予定を、少しだけ書いておこう。
昨年末の「酒見賢一追悼文」では、
『そんなわけで、できれば早々に(※ 未読の)『中国雑話 中国的思想』を入手して読み、レビューを書こう。その後に、おもむろに最後の未読大作として『泣き虫弱虫諸葛孔明』に取り掛かって、読了後にレビューを書こう。』
という予定を書いたわけだが、実は、ここで言及されている酒見賢一のエッセイ本『中国雑話 中国的思想』を、1ヶ月ほど前に入手している。

だが、この4ヶ月ほどは、行きがかり上とは言え「武蔵大学教授である北村紗衣」批判に集中してきた。
またそのため、これまで縁のなかった「フェミニズム」や「キャンセルカルチャー」「LGBT問題」といったことの勉強をしようと、そちらの本を買い込んで、集中的に読んでいたため、おのずと『中国雑話 中国的思想』を後回しにしていたのだが、一一この『雲のように風のように』を見たのを契機に、来年早々には読もうと決めた。
『泣き虫弱虫諸葛孔明』の方は、分厚い文庫本(各巻が『陋巷に在り』の倍以上のぶ厚さ)で全5巻もの大作だから、こちらにはなかなか手をつけにくいのだが、ひとまず『中国雑話 中国的思想』を読んで、「残るは『泣き虫弱虫諸葛孔明』のみ」という状況に、自分を追い込みたいと思っている。
でも、『泣き虫弱虫諸葛孔明』の方は、来年中に読めるかなあ…。
(2024年12月31日)
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