夢野久作 『猟奇歌』 : 逃走と追跡の堂々めぐり
色の白い美しい子を
何となくイジメてみたさに
仲良しになる
(P6)
夢野久作の小説作品はほとんど読んでいるはずだが、評論・エッセイの類はほとんど読んでいない。
本書にまとめられている「猟奇歌」も、旧『夜想』誌の「夢野久作・竹中英太郎」特集か何かでいくらかは読んでいるが、まとめて読んだのはこれが初めてである。

これまでも「猟奇歌」をまとめた本は各種あったが、文庫になったのはこれが初めてだろうと思ったので、この機会に読んでおこうと考えた。
ちなみに、冒頭の猟奇歌は、今日は「端午の節句(子供の日)」なので、それに合わせてのものである。
ここで言うところの『色の白い美しい子』というのは、もちろん「男の子」だ。そう断じる理由は、それが私の趣味だというだけではなく、夢野久作にも明らかに「稚児趣味」があったからだ。
例えばそれは、夢野久作の代表長編のひとつ『犬神博士』にもわかりやすく表れている。主人公の少年、のちに「犬神博士」と呼ばれることになる、通称チイ(本名は大神二瓶)は、女装をする「美少年」であり、にもかかわらず、「男の子」らしい大活躍を見せるのだ。

したがって、上の歌に登場する「おとなしい男の子」とはタイプが違うものの、白い頬を持つ「美少年」であるという点では同じで、むしろ「チイ」の持っていた両性具有的な「トリックスター」としての「いたずらっ子」性が、上の歌では「(可愛いから)イジメ」てみたくなるという心性の方に反映されているとみて良いだろう。
可愛いからイジメてみたくなる、イジメたいからまず仲良しになるというのは、いかにも「性犯罪者」的であり、今の世の「タテマエ」においては、もうそれだけで忌避排除(キャンセル)の対象になりかねない。
だが、「文学」というものは、深く「人間」を描くことで、人間というものを探求するものであり、「人間におけるキレイゴト(上っ面)」だけを書くようなものではない。
言うまでもなく、人間の中には「キレイ」な部分もあれば「キタナイ」部分もあり、「グロテスク」な部分さえあるからこそ、夢野久作の「猟奇歌」は、と言うか、夢野久作の作品は、人の心の「暗い部分」に強く訴えてくるのである。
「ご立派なことを言っているあなただって、俺と同じような感情を隠し持っているんだよな。だって俺は、あなたなんだから。イヒヒヒヒ」
というわけである。
本書『猟奇歌』を通読して気づいたのは、じつのところ、夢野久作の中に存在した、上のような感情である。
どのような感情かといえば、それは「やましさ(うしろめたさ)」だ。

本書に「解説」として収録されている「『猟奇歌』からくり一一夢野久作という疑問符」(P301〜314)という夢野久作論で、寺山修司は、夢野久作の「二重性」ということを指摘している。
その「二重性」とは、寺山修司が引用している、
ニヤニヤと微笑しながら跟いて来る/もう一人の我を/振り返る夕暮れ
ばかりではなく、「猟奇歌」では、何度も繰り返されるモチーフである。
また寺山は、
泣き濡れた/その美しい未亡人が/便所の中でニコニコして居る
なども挙げて、その「つきまとう視線」が「覗き」的なものであるとも指摘している。
ここで普通ならば、作者である夢野久作の立場は、「もう一人の自分」に見られている、あるいは、覗かれたり、監視されたりしている方だということになるのだが、寺山修司は、そう単純な話ではないと言う。
例えば、夢野久作は、これらの「猟奇歌」に代表されるような、あるいは代表作『ドグラ・マグラ』に代表されるような、「変態心理」を描いた作家であったが、当人は、必ずしも、そのようなイメージ通りの人ではなかったようなのだ。
(※ ちなみに、ここで言う「変態心理」の「変態」とは、今で言う「ヘンタイ」のことではなく、「変わった(特殊な)態様」という意味である)
というのも、「杉山萌圓」名義で、関東大震災後の東京を描いたルポルタージュ『東京人の堕落時代』では、夢野久作は、西欧文化の拙速な吸収によって、日本人はその美しき伝統や節度を失ってしまったというような、いかにも右翼結社「玄洋社」の巨頭・杉山茂丸の息子らしいことを書いていたりもするからだ。

しかし、寺山も指摘するとおり、その理屈からすれば、「猟奇歌」などというものは、そうした「堕落退廃文化」の最先端たる「エログロナンセンス」に他ならないのである。
そんなわけで、夢野久作という人は、本名の「杉山泰道」(あるいはその筆名としての「杉山萌圓」)と分裂していた、ということなのだ。
そのため、基本的に「夢野久作」名義で書かれたものの語り手(私)は、杉山泰道が「見下していた堕落文化の権化のような人物」だということになる。
だからこそ「私」には常に、「杉山泰道」的な「批判的視線」が付きまとうことになって、夢野久作的な「私」に「やましさ」の感情を喚起させ、苦しめることにもなる。
しかしながら、そんな「ご立派な杉山泰道」的な視線が、どうして「覗き」的なのかと言えば、それは、ある種の「卑怯さ」を持っていたからなのではないだろうか。
つまり、堂々と「夢野久作」的な「堕落」を攻撃否定するのではなく、ただ「批判的な視線」を送ることしかしない。
しかし、それはたぶん、「杉山泰道」としても、実のところ心の底では「夢野久作」的なものに惹かれていたからではないだろうか。
言い換えれば「杉山泰道」は「偽善者」であり、そのことに半ば自覚的だから、まるで「トイレの中の美しい(が邪悪な)未亡人」を「覗く」ようにして、その未亡人である夢野久作が「ニヤニヤ」していることに対し「けしからん」という批判的な視線を送りながらも、激しくボッキしているような、「ヘンタイ」だということなのではないだろうか。
本書『猟奇歌』を読んで私が気づいたのは、『ドグラ・マグラ』のモチーフである「生まれ変わり」だとか「前世の記憶」だとかいったことも、結局のところは「もう一人の私」が、私を「コントロール」しようとしているという、ある種の「強迫観念」的なものの変形なのではないのか、ということであった。

あまり正確には記憶していないのだが、『ドグラ・マグラ』についての「脳髄が脳髄を追いかける探偵小説」というような夢野久作自身の言葉を、どこかで読んだ記憶があるのだが、それを読んだ当時は、それがどういう意味なのかが、さっぱりわからなかった。
だが、「杉山泰道vs夢野久作」という対立構図で見るならば、「杉山泰道が、夢野久作という犯罪者を、告発しようとしている探偵(刑事・警官)」だとも言えるし、逆に「夢野久作という探偵が、杉山泰道という偽善者を告発しようと追いかけている」とも言えるだろう。
つまり、両者、お互いに「やましい」ところのある「犯罪者」でありながら、お互いに相手を告発しようしている「探偵(刑事)」でもあるのだ。
そして、そうした「二重性」において、両者の攻守が、「追う者と追われる者」という立場が激しく入れ替わる、そんな「堂々めぐりの追跡劇(逃走劇)」こそが、一一『ドグラ・マグラ』だということなのではないだろうか。
だから、そんな「独り鬼ごっこ」に疲れた夢野久作は、いっそ「人殺し」にでもなれれば「落ち着けるのになあ」と憧れて、
頭の中で何かピチンと割れた音
イヒヽヽヽヽ
‥‥‥と‥‥‥俺が笑ふ声
(P31)
となったり、同じ「発狂」ではあっても、もっと平穏な、
毎日毎日
向家の屋根のペンペン草を
見てゐた男が狂人であつた
(P58)
ということにもなるのではないだろうか。
いずれにしろ、夢野久作にとっては、「発狂」こそが「救い」だったのであろう。

(2025年5月5日)
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