ラース・フォン・トリアー監督 『キングダム』 : トリアーの特質がよく出た作品
テレビドラマ評:ラース・フォン・トリアー監督『キングダム』(1stシーズン、2ndシーズン、エクソダス)
デンマークの著名な映画監督ラース・フォン・トリアーによるテレビドラマシリーズである。
概要は、次のとおり。
『キングダムことデンマーク国立病院(英語版)の脳神経外科病棟を舞台とした本作は、個性的な患者やスタッフが不気味な現象におびえ慌てふためく様子が描かれている。また、セピア色の色調や皮肉めいたユーモアも本作の特徴の一つである。
デンマーク本国で全8話のミニシリーズが2シーズンに分けて放送されたのち、日本で5時間弱の劇場用映画として2本(Ⅰ&Ⅱ合計約10時間)にまとめられた。
主要キャストのうち5人が亡くなったこともあり、本作を放送してきたデンマーク放送協会はシリーズの続行が不可能であると判断していたが、2022年に一部キャストが続投した第3シーズンが製作された。』
(Wikipedia「キングダム」)
1話80分・全8話のシリーズが、2シーズンに分けて1994年と1997年と放送されたが、上記のとおりで、主要キャスト5人が亡くなったこともあって、3rdシーズンの制作は断念された。
したがって、物語は中途半端なところで終わってしまったのだが、同作は「ヨーロッパ版『ツイン・ピークス』」とか「デンマーク版『ツイン・ピークス』」などと呼ばれて、一部にカルトな人気を誇ってきたようだ。

本作は、アメリカで1990年から翌年までテレビ放送された、デイヴィッド・リンチ監督による『ツイン・ピークス』を意識して作られた作品であり、その点についてはラース・フォン・トリアー監督自身も、しばしば言及している事実である。


しかしながら、すべての謎が解明されるわけではなくとも、少なくともリドル・ストーリーとしての完結性を見せていた『ツイン・ピークス』に比べると、『キングダム』の2シーズン8話は、単なる未完と呼ぶべき作品でしかない。
だからこそ一部ファンには、今で言う「考察」の対象にもなり得たのであろうが、ドラマ作品として普通に評価すれば、思わせぶりに引っ張ったあげく、完結させられなかった作品だと評価するのが至当であろう。
到底『ツイン・ピークス』の完成度と比較できるような作品ではなかったのである。
だが、それもあってか、2シーズンで結末のつけられなかった物語を補う3rdシーズンとしての『キングダム エクソダス<脱出>』(全5話)が制作され、2022年に放送された。
前回の放映から、実に25年後のことである。
当然、前回3rdシーズンが断念された段階で、主要キャストの5人が亡くなっていたのだから、その後にも多くの出演者が亡くなっており、存命の俳優も歳をとってしまっている。
したがって、主要キャストは刷新され、幾人かの俳優は齢を重ねた姿で出演している。
そんなわけで、25年後の3rdシーズンである『キングダム エクソダス<脱出>』(以下「エクソダス」と記す)は、「25年後の物語」として語りだされることになった。

さて、ここで話を、最初の2シーズンに戻して、そこから紹介をしよう。
本作は、簡単に言うと「幽霊のいる大病院でのドタバタ喜劇」である。ただし、完全に喜劇だけ、というわけではない。
また「幽霊の出る」ではなく「幽霊のいる」と書いたのは、その幽霊の存在を感知できるのは、霊能者のドルッセ夫人にほぼ限られるからだ。
したがって、先に引用したから「Wikipedia」の、
『個性的な患者やスタッフが不気味な現象におびえ慌てふためく様子が描かれている。』
という説明は、完全に間違いである。
たしかに、『ツイン・ピークス』の世界的な大ヒットを受けて作られた作品らしく、降霊術を趣味とする霊能者の老婆ドルッセ夫人が、病院にいる少女の霊を救ってやろうと大真面目に奮闘するドラマが、本作の背骨となってはいる。

しかしながら、分量的に言えば、奇人変人的な医師たちによる、病院経営をめぐる内紛劇だの、医師どおしのメロドラマだのの、ソープオペラ的な部分の方が多くて、『ツイン・ピークス』的なものを期待して見た人は、大いに失望させられること請け合いで、その意味では、本作は完全な失敗作なのだ。
もちろん、かく言う私は、そのように落胆させられた一人なのである。
特に問題は、ソープオペラの部分で、例えばこれが日本の『白い巨塔』(原作・山崎豊子)のような重厚な社会派ドラマになっているわけでもなければ、メロドラマの方も、メロドラマとして良くできているというわけでもない。

それらが不出来だというのではなく、本作は、それらの王道的な物語展開を、意識的におちょくった作品なのだ。言うなれば、悪意あるパロディドラマとして、喜劇的に作られているのである。
「大病院の政治劇」としても「病院メロドラマ」としても、ふざけているとしか評し得ないものになっているから、そちらは、ドラマとして当たり前に楽しむことが出来ないようになっている。

だが、かと言って、ドルッセ夫人による少女の幽霊の探索行の方は、比較的まじめではあるものの、型どおりのものでしかなく、サスペンス的な盛り上がりに欠けて、いささか平板なのだ。
なるほど、少女の幽霊の「謎」自体には、それなりに惹かれはするものの、ドラマとしての見せ方が単調で、真剣さに欠ける印象が強い。
幽霊の表現にしても、単純な二重露出の合成で、いつの時代の作品かと、そのいい加減さに呆れてしまう。
そもそも監督は、幽霊の神秘性を演出する気がないのではないかと感じてしまう態のものでしかない。

では、どうしてこのようなドラマになってしまったのかと言えば、それはひとえに、ラース・フォン・トリアー監督持ち前の「ひねくれた性格」に由来するものと考えていいだろう。それが、ストレートに表現されているだけなのだ。
ラース・フォン・トリアー監督のファンならご承知であろうが、この人の特徴は「自信過剰で冷笑癖のある、ひねくれ屋」とでも呼ぶべきところにある。
だから、とにかく「普通に撮る」ということはなくて、必ず「ひねくれた」撮り方をするのだ。
・ラース・フォン・トリアー監督のナチス発言が警察沙汰に「二度と公の場に出ない」(「MOVIE WALKER PRESS」)
例えば、一見したところ普通に、主人公の「悲劇」を描いているとしても、それは監督が主人公に肩入れしているとか、共感を持って、というのではない。

そのことに気づかない鈍感な観客は、主人公の不幸に当たり前に同情して、「感動作」だなどと評したりするのだが、トリアー監督の真意はそこにはない。
彼は、まともで善良な主人公をわざと不幸に落とす物語を描いて、世間の良識を、皮肉な笑みを浮かべながら、悪意を持って揶揄っているだけなのだ。
だからこそ、そんな作品を「感動作」だなどと評するのは、お門違いも甚だしいのである。
したがって、ラース・フォン・トリアー監督を高く評価したいのであれば、その皮肉な、世間を見下したような批評性をこそ、評価しなければならない。
真面目に「世間の良識に疑義を突きつける」というのではなく、「どうせお前らは、その程度なのだ」と言わんばかりの、悪意ある笑みを浮かべた、そんな嘲笑的な批評性を、あえて評価できるのでなければ、ラース・フォン・トリアーの個性であり特性を、正しく理解した上での評価にはならないのである。
当然、私は、トリアーのそうした個性が好きではないから、それを反映した作品も好きではない。
たしかに、極めてユニークな芸術家的個性ではあるし、面白い絵を撮る能力があるのも事実なのだが、しかし、その世間を舐めきった皮肉屋的な態度は、どうしたって好きにはなれない。またそれを、単なる精神疾患のせいには還元できないものがあるのだ。
ともあれ、そんなトリアー監督であればこそ、大病院の政治劇も、『白い巨塔』のような重厚な人間ドラマにはならず、みみっちいドタバタ喜劇にしかならない。
メロドラマにしても、一貫性を欠いて、見る者の共感を寄せつけない、奇妙な不全感に満ちた恋愛劇に止まっている。
そして何より、ドルッセ夫人を巡る「霊的なドラマ」の部分が、『ツイン・ピークス』とは比較にならない、薄っぺらなものなのも、それはそもそも、トリアー自身が、そうした「霊的なもの」には興味がなく、むしろ、そんなものを本気で信じるような「頭の悪い」人たちを、てんから馬鹿にしているためである。




だから、あくまでもドラマとして、幽霊話を描いてはいるものの、それにリアリティを持たせようとか、視聴者をドラマに引き込んで怖がらせようなどとは考えておらず、「こんな感じでいいんでしょう?」と言わんばかりの、気持ちの入っていない、型どおりの演出に止まっているのである。
当然、本作『キングダム』が参照した『ツイン・ピークス』の方は、良くも悪くも、監督のデイヴィッド・リンチが、ホンモノの「霊感の人」だったから、その大真面目なリアリズムが、作品にもそのまま反映されていたのだ。
したがって、本作『キングダム』を、「ヨーロッパ版『ツイン・ピークス』」だの「デンマーク版『ツイン・ピークス』」だのと呼ぶのは、あまりにも安易なのだ。
たしかに両者は「超常現象を扱ったドラマ」という点おいては共通しているものの、作り手(監督)の態度としては、ほとんど真逆と言っていいものなのである。
そんなわけで、『ツイン・ピークス』が2017年に続編シリーズ、日本では『ツイン・ピークス リターンズ』と命名された(Wikipediaでは「リミテッド・イベント・シリーズ」と呼ばれる)3rdシーズンが作られるのに先立って、『キングダム』の方は、2022年に3rdシーズンである「エクソダス」が作られた。
『ツイン・ピークス』の場合は、最初の2シーズンで完成した作品に、あえて続編を加えて深掘りしてみたという感じだったせいか、やはり、この3rdシリーズでも、すべての謎が解かれて完全に決着がつくというかたちにはならず、新たな闇の世界へと物語は沈み込んでいくこととなって、いかにも『ツイン・ピークス』らしい結末となっていた(ようだ)。
ところが、『キングダム』の方は、3rdシーズンの「エクソダス」で、完全に決着がついてしまう。つけられてしまう。
そこが、『ツイン・ピークス』との、最大の違いだとも言えるだろう。
しかし、それが可能だったのも、結局は、トリアー監督自身が「霊的なもの」を本気で信じてはいなかったが故であろう。だからこそ、それを理屈の型に嵌めて、決着をつけることもできたのだ。
そもそも、最初の2シーズンから25年の時を隔てて作られた「エクソダス」は、このシリーズの主人公である老女カレンが、テレビドラマ『キングダム』を見終えたところから物語が始まる。
つまり、2シーズンまでのドラマが「劇中劇」化された、メタフィクションの枠組みが採られているのだ。
しかも、カレンは「こんな終わり方など納得できない」「トリアーはクソだ」みたいなことまで言うのである。
一一こうしたところにも、トリアーの「皮肉屋的ななスタンス」が、よく現れていよう。
だが、そんなカレンは、ドラマをドラマとして理解しているのかというと、そうではない。
彼女は、結末のはっきりしない「ドルッセ夫人による幽霊少女の救済作戦」を引き継ぎ、決着をつけなければと、一人、ドラマの舞台になった病院へと向かい、ドルッセ夫人に倣っての詐病で、まんまとそこへ入院してしまう。

で、その病院には、ドラマ『キングダム』の舞台だったということで、そのファンたちの見学ツアーが訪れたりしている。
だがその一方で、カレンの虚実混乱した現実認識に沿うかたちで、2シーズンに登場した人物やその子供などが登場して、2シーズンまでのドラマが引き継がれることになるのだ。
そして、相変わらず「病院内政治のドタバタ喜劇」やメロドラマなども描かれはするが、しかし最後は、本作の背景をなしていた「霊的な善と悪との対決物語」が、「悪が勝つ」という、いかにもトリアー的な結末を迎えて、幕を下ろすのだ。
無論、悪が勝つのは構わない。
だが、その結末に深い意味などは無く、いかにもトリアーらしく、視聴者の期待を逆を行く、ひねくれがあるだけなのだ。

2シーズンまでのエンディングは、若いトリアーが登場して、「にこやかに」ではなく「人を小馬鹿にしたように、ニヤけながら」ドラマについての短いコメントを語るというパターンだったのだが、「エクソダス」では、「老いた姿を見せたくない」と言って、わざわざ赤いカーテンの背後に姿を隠してコメントするのだが、その「エクソダス」のラストシーンは、本シリーズで初めて登場した、トリアー映画の常連俳優ウィレム・デフォー演じるところの悪魔の手先が、征服した病院に降臨する魔王をうやうやしく出迎えるというもの。

その魔王が、なんとトリアー自身なのだ。ワンカットながら、魔王などという貫禄など、まったく無いのにである。
つまり、ここでもトリアーは、視聴者を揶揄って見せたのだ。
こうしたトリアーの姿勢を端的に表現しているのが、明らかにダウン症とわかる若い男女の俳優(?)が、キングダム病院の地下炊事場の職員として登場し、物語の展開を予示するような会話をするという、お約束のシーンだ。
2シーズンまで登場するこの二人の描き方が、明らかに、知的遅滞者的であり、フリークス的なのだ。

なにも私はここで、障害者を使っての、こうした描写がけしからんなどとは言いたいのではない。
『ツイン・ピークス』だって、小人俳優を使って「奇妙な世界」を描いてはいるのだが、デイヴィッド・リンチのそれとは違って、トリアーのそれは、単に「障害者の通俗的なイメージ」を、そのまま描いて「面白がっているだけ」にしか見えないのだ。
つまり、端的に「障害者差別」的なだけであり、トリアーはそれを承知で、あえて世間の良識を挑発するように、そうした描写を取り入れただけであって、ドラマ的な必然性からのものであったとは、とうてい感じられないのである。
その証拠に、25年後に作られた「エクソダス」では、そのダウン症の二人は登場せず、そのかわりに、見るからに畸形的な男性と、もう一方は、なんと作業用ロボットアームなのだ。
そのロボットアームが、まるで人格を持つロボットでもあるかのように、以前のダウン症の男女と同様の狂言回し的な会話を、相方の畸形の男性と、女性の声で交わすのである。そのロボットアームには、口もないのにだ。

そんなわけで、本作『キングダム』は、形式的には「幽霊話」のオカルトドラマではあれ、本質的には、そうとは呼びがたい作品である。むしろ、その真逆なのだ。
本作は、リンチ的に大真面目な異界ドラマとは真逆の、挑発的にふざけた、現実批評ドラマなのである。
したがって、トリアーのそうした捻くれた個性が好みだという人になら、楽しめるのかもしれない。
だが、まともに『ツイン・ピークス』的なドラマを期待する向きには、裏切られること間違いなしだし、それこそがトリアーの個性でもあれば、本作の狙いの一つでもあろう。
だから、見るのであれば、そのつもりで見なければならない。
そうでないと、「なんだよ、これ!」と言って、灰皿のひとつもぶつけたくなるような、そんな作品なのである。

(2025年12月17日)
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