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たつき監督 『けものフレンズ』 : すごくはないなりに頑張る私たちを、信じて励ましてくれる、そんな作品。

テレビアニメ評:たつき監督『けものフレンズ』(2017年・全12話)

とうとう『けものフレンズ』(※ 1stシーズン)を再鑑賞した。本放映以来のことである。

衝撃的だった、続編からの「たつき降板」。そして、その後の歴史的な大騒動は、『けものフレンズ』のファンの胸に、今も消えない傷痕を残している。
あれほど「多幸感」に満ちた作品が、現実世界においては、どうしてあそこまで泥にまみれになければならなかったのか。

それにしてもなぜ、あのたつき監督降板騒動」が、ここまで私たちを傷つけたのであろう。

そのように考えた時、私はその理由を、コンセプトデザインとして本作アニメ版『けものフレンズ』にも深く関わった、漫画家の吉崎観音『消費されるだけで終わらないエバーグリーンな(※ 枯れることのない)作品』という言葉に見出したい。

設定・脚本
初期は、30分枠の中でどれくらいアニメにするのかも決定しておらず、半分アニメで半分バラエティの案もあった。PPP予告や動物紹介は、その名残である。また、ジャンルも確定しておらず、萌え系やバトル系の案もあった。吉崎や梶井(※ 〈当時〉株式会社KADOKAWA コミックス編集部編集長・梶井斉)の消費されるだけのアニメにしないという観点のもと、テンプレートにはまりやすい萌え系やバトル系ではなく、子どもが冒険する今のジャンルに決定した。吉崎から制作側の指示は、過剰なコメディにしないこと、時事ネタやパロディを使わないことだった。この指示も消費されるだけで終わらないエバーグリーンな作品を制作してほしいという意図があった。』

(Wikipedia「けものフレンズ(アニメ)」

つまり、『消費されるだけで終わらないエバーグリーンな作品』を目指し、それに成功した作品だからこそ、私たちは『けものフレンズ』が、ああもあっけなく消えてしまう(別物になり代わられてしまう)などとは想像もできなかった、ということなのではないだろうか。

ともあれ、そんなふうに深い愛着のある本作を論じるのに、ただ「楽しかった」「幸福な時間をもらった」ということだけで済ませられるのであれば、それはどれほど気楽なことあろうか。

だが、『けものフレンズ』という作品を真面目に論じようとすれば、それでは済まされないということを、今回の再鑑賞を通じて、私は嫌というほど思い知らされた。

正直に告白するなら、私は『けものフレンズ』の本放映を視聴した当時は、本作の「裏設定」みたいなものについては、ほとんど興味がなかったし、それを「クイズ」か何かのように推理して楽しむ「考察」なるものには、ほとんど嫌悪すら感じていた。

なぜなら、作品を鑑賞するというのは、その作品が「どのように作られているのか」ではなく、「どのようなものとして完成しているか」という次元において受けとることであり、作品批評においても、「考察」的な裏読みではなく、完成した作品が鑑賞者に向けて発してくる「魅力」の意味を論ずるものだと、そのように考えているからである。

無論、作品がそのようなものとして、つまり、結果としてそのような作品に仕上がっている、その理由を理解するために、その背景を探るというのは、当たり前になされていることで、私もそれを否定するものではない。
私が、不快に感じるのは、作品そのものを素直に受けとることよりも、むしろ作品をひとつの「パズル」ででもあるかのように扱う「考察」的な手つきが、不快だったのだ。

こうした「考察」においては、「正解を探り当てること」が目的化されてしまっており、作品(の語るところ)と、それを鑑賞する「私」との関係において発生する、個別独自の「理解」というものが、無視されがちだからだ。

作品鑑賞においても、そして批評においても、肝心なのはやはり「作品と私」の関係なのであって、作品が完成して提供された後では、その他の事情はすべて、特に知る必要もない「参考情報」でしかなく、要は、完成後には撤去される、仮設の「足場」のようなものにすぎないのだと、私は斯様に考える。
「足場」は、その作品が作られる過程を知るために考察の対象にはなっても、作品そのものでも、その一部でもないのだと、私はそのように考えるから、「足場」を過剰に重視し、それに拘泥する、一種の作品評価形式としての「考察」は、本末転倒したものとしか思えないのだ。

そして、本作におけるそうした最大の「足場」とは、間違いなく、本作のメインストーリーの背後に見え隠れする「ポスト・アポカリプス(人類絶滅後の終末世界)」的な、不吉な「世界設定」であろう。

本作を楽しむ分には、そこを特に意識する必要はない。
つまり、この物語を「自分探しの旅に出る子供(かばん)とその親友(サーバル)の、友情と成長の物語」として理解するのは、決して間違いではないし、不十分ですらないだろう。いや、これこそが『けものフレンズ』の肝であり本筋なのだ。

(中央は、かばんたちと旅を共にする、ラッキービーストの個体)

だが、本作『けものフレンズ』が、どうしてこれほどまでの「魅力」を発する作品になり得たのか、その理由を考えようとする時、この「ポスト・アポカリプス」的な設定は、どうしても無視できないものとなってしまう。

『けものフレンズ』の「愛すべき世界」を愛するファンだからこそ、できればそんな「不吉な背景」など見たくはないのに、本作の魅力の拠って立つところを闡明しようとするならば、そこを無視するわけにはいかなかったのだ。

『けものフレンズ』の非凡に「愛すべき世界」は、なぜ成立可能であったのか。

その最大の理由というとは、たぶん「周囲の闇の深さ」であろう。
「周囲の闇」が深いからこそ、スポットライトのあたっている「物語の舞台」は、際立って明るかった、ということなのではないだろうか。

本作中でも暗示されているとおり、人類(ヒト)は、本編の主人公となる「かばん」一人を残して、すでに絶滅していることが(ほぼ確定的に)暗示される。

本来、野生動物が「サンドスター」の不思議な力で「半人間化」したものが「フレンズ(アニマルガール)」たちであるはずなのだから、架空の生物であるツチノコが存在しているわけがない。それなのに、それでも現にツチノコがフレンズの一人として登場するというのは、フレンズが人間によって作られたものだということを、強く暗示していよう。

実際、物語の舞台となる「ジャパリパーク」は、どう見たって人間のために作られた「テーマパーク」なのだから、そこに、自然にサンドスターが生まれ、それによってフレンズが生まれたなどとは考えにくい。
つまり、「ジャパリパーク」という施設は無論、そこに住むフレンズやそれを生んだサンドスターなども、すべては人間が作ったものと考えざるを得ないし、だからこそ、ツチノコのようなイレギュラーなフレンズも存在すれば、絶滅種のフレンズも存在しているのである。

したがって「ジャパリパーク」とは、普通に動物たちと親しむための、拡大版「動物園」としての「サファリパーク」が、不思議な自然現象としてのサンドスターの影響で、たまたまフレンズたちの住む世界に変貌したというようなことではなく、最初から「人間とフレンズが、共に冒険を楽しむ娯楽施設」として、すべて人間の手によって作られたと、そう考えるべきなのである。

また、だからこそ、ツチノコのように、遺跡や貨幣のような「文化」の価値を理解するといった、特殊に人間的な(非動物的)知性を有し、かばんを「ヒト」だと見抜くことのできる存在も、ジャパリパークには存在し得たのであろう。
それは、意図的に「動物性を超える動物」として作られていたのだ。

(地下迷宮で「ジャパリコイン」を拾い、その説明するツチノコ(右))

無論これは、ツチノコだけではなく、過剰なまでに「人間的なもの」に接近している、アフリカオオコノハズクワシミミズクのフレンズ、「博士と助手」コンビも同じだろう。
「ミネルバのふくろう」が「叡智」の象徴とされたことを受けてこの2人は、人間の残した「図書館」に住まわり、文字を解してその知恵を生かすことができ、さらには人間の文化としての「料理」にも強い興味を示したのだが、しかし、フクロウやミミズクなどが「叡智の象徴」だというのは、人間の勝手な意味づけであって、その動物種の本来の特性とは、まったく無縁のものでしかない。
だから、「博士と助手」に限定されず、フレンズたちの「個性」には、とても恣意的に「人間的な(人間目線の)意味づけ」がなされており、インプットされていると、そう言えるのである。

(左が「助手」、右が「博士」。背後の建物が、二人の住む「図書館」)

したがって、そもそもフレンズが全員「女の子(少女)」だという無理のある設定も、「人間の恣意」によるものだと考えれば、あり得ない話ではない。

「フェミニズム」が取り沙汰される昨今においては、フレンズが全員女の子だという設定は、いかにも「男性中心主義」的な臭みがきつく、そこに「ミソジニー(女性恐怖)」を見ないわけにはいかないだろう。
要は、求められているのは「可愛くて優しい」存在としての「女の子」であって、それは、「大人の女性」や、ましては「男性」でなどあったなら、まったくの「興醒め」だと、そう考えられたための「設定」としか考えられないのだ。
『けものフレンズ』という作品の作られた現実世界は無論、ジャパリパークを作った人間がすでに滅んでいる作中世界にあっても、という意味である。

フレンズが全員「女の子」という「設定」であり得たのは、昨今の「(第四次)フェミニズム」ブーム以前だったからであろう。
アメリカでの「#MeToo運動」の最大の成果となった、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインによる「性的虐待」事件の発覚したのが2017年であり、要は『けものフレンズ』の放映と同じ年だったのである。

したがって、この2017年の段階では、日本の「漫画・アニメの世界」においては、まだ「フェミニズム」的な視点はほとんど意識されておらず、それまで当たり前に通有されていた「萌え」的な観点から、『けものフレンズ』の「フレンズは全員女の子」という設定がなされたと考えられるのである。
また、そうであるからこそ、『けものフレンズ』が論じる際、このいかにも「男性中心主義」的な設定の問題点が、ほとんど指摘されることもなかったのであろう。一一それを言っちゃあ「おしまい」だからなのだ。

しかしながら、言い換えればそうしたところに、『けものフレンズ』という作品の持つ「魅力」の本質があるとも言えよう。
一一どういうことか。

それは、さまざまな「現実問題」(例えば、性差別問題、娯楽のために動物を恣意的に改造するといった生命倫理の問題など)を排除したところに、娯楽施設としての「ジャパリパーク」が成立し、『けものフレンズ』というフィクションが成立している、ということである。

そもそも、なぜ「ジャパリパーク」は、自然の世界を模倣しながらも、あれだけ「のんびりした世界」であり得るのかと言えば、それはフレンズの世界には、人間も含めた現実世界には必須の「弱肉強食としての食物連鎖」が存在していないからである。

フレンズたちは、ジャパリパークの管理ロボットである「ラッキービースト」(フレンズたちからは「ボス」と呼ばれている)から、食料としての「ジャパリまん」の配給をうけており、それに満足しているから、食料を狩る必要がない。
サーバルキャットのフレンズである「サーバル」が、「狩りごっこ」を楽しみはしても、決して捕まえた相手を「食べない」でいられるのは、そのためなのだ。

(ラッキービースト。通称「ボス」)
(ファミリーマートで売り出された「ジャパリまん」)

つまり、フレンズたちは、動物園で飼われた動物のように、与えられる餌に満足して、日々ごろごろして遊んでいるだけの姿で、人間たちを楽しませれば、それで事足りるという、完全に「反自然的な存在」なのだ。だからこそ、彼らは基本的に「みんな仲良し」でいられるのである。

またそうした意味で、あまり考えたくはないことなのだが、かばんと出会い、共に旅をすることになるサーバルもまた、当人にその自覚はないにしろ、「来園者の人間と旅を共にする案内役」としての使命が、あらかじめインプットされた存在だと、そう考えるべきなのである。サーバルの感情もまた、決して「自然」ではないのだ。

作品の中で何度か断片的に語られるように、サーバルはかつて、ジャパリパークのガイドで、パークの研究者でもあった人間の「ミライ」さんと、旅を共にしているのだが、しかし、その記憶を完全に失っている

(かばんたちと旅を共にしていたラッキービーストの映写した、過去の記録映像。左が、ミライさん)

ラッキービーストが時折映し出す、かつてのミライさんの記録映像のなかに登場するサーバルが、現在のサーバルと同一個体だという証拠は、サーバルがそうした記憶に無い過去を見せられて、自分でも理解できないまま、ふいに涙を流してしまうという描写に明らかであろう。
記憶は消せても、体験に伴う感情は、どこかに残されていたということなのである。

(理由のわからない自らの涙に、戸惑うサーバル)

したがって、サーバルは「来園者の旅のお友達」として、毎回「新たな気持ち」で来園者と向き合えるように、記憶をリセットされていたと考えるべきなのだ。
だが、これはあまりに酷い話ではないだろうか。大切な思い出を、経済効率的に消されるのである。

そしてこれは、サーバルに限られた話ではない。
フレンズたちが皆、どこの馬の骨とも知れないかばんに対して親切なのは、フレンズが、お客様である「人間」に対してそのように接するようにプログラミングされていたからだと、嫌でもそう考えるべきなのだ。

一一このように見てくれば、私が本作『けものフレンズ』の設定を、個人的な感情としては、掘り下げたくないと書いた気持ちもご理解いただけるだろう。
あの「幸福な世界」は、しかし、どうしたってすべて「計算づく」のものだったということにしかならないのである。

サーバルの、あの無邪気な「すごーい!」が、彼女の「天然」のものなのではなく、来園者サービスのための「計算づく」のものであったと考えるのは、『けものフレンズ』という作品のファンとして、あまりにもつらい。

無論、サーバルら自身にその意識はなかったとしても、それが他人(人間)のよって方向づけられたものだったとしたら、あまりにも残念だし、悲しいことではないか。

R25の山中一生によればフレンズたちの会話(セリフ)を「相手を否定しない」「わかりやすいワンフレーズ」「オウム返し+感嘆」と分析したネットの声を紹介し、キャバ嬢の接客術と通じるものがあるという説を紹介した。』

(Wikipedia「けものフレンズ(アニメ)」

 ○ ○ ○

だが、だからといって、私は『けものフレンズ』という作品が、「嘘まみれの綺麗事」が見せた「幻想の物語」だった、とは考えない。一一なぜか?

それは、最終回で、かばんとサーバルが旅したのは、「ジャパリパーク」という島なのではなく、「ジャパリパーク」を構成する島のひとつ「きょうしゅう」だということが語られ、ジャパリパークには他にも「ごこく」と呼ばれる島などがあり、最終回でかばんらが、ヒトの生き残りを求めて海へと旅立っていく先には、この「ごこく」も登場するだろうことが暗示されていたからである。

『最終話では、舞台となった島がジャパリパークを構成するエリアの一つ「キョウシュウ」であること、他にも「ゴコク」という名のエリアがあることが語られている。海を隔てて他の島にもフレンズが存在する可能性が示唆される。』

(Wikipedia「けものフレンズ(アニメ)」

つまり、本作『けものフレンズ』の舞台のなった、ジャパリパークの一部である島「きょうしゅう」というのは、もちろん「郷愁」を意味するのであり、それはたぶん「今は失われた、無垢な子供時代」といったことを意味するのではないだろうか。
「きょうしゅう」とは、「子供時代」を思い起こさせて、人間を癒すためのテーマパークだったのである。

まただからこそ、そこからは「大人の知る現実(の負の面)」が排除されていたのではないだろうか。

「食う」ためには、働かなせればならない。子供のように遊んでばかりはいられない。
また「食う」ためには、しばしば他人と競い合い、ライバルを蹴落とし、他人を「食い物」にしなければならない。
一一それが「現実」なのだ。

だが、「子供の世界」からは、そうした現実が可能なかぎり排除され隠蔽され、さらには、この隙間を埋める以上の「理想」や「綺麗事」が充填されている。

思い出して欲しいのだが、幼い頃の私たちは、家で「お母さん」から食事を出してもらい、それを食べるのは「当然のこと(自然)」であって、働いて稼がなければ「食う」ことができないという現実を、よく理解していなかったはずだ。
電気や水道も、それは「勝手に出てくる」ものであって、対価が支払われているとか、支払わなければならないものだとは、よく理解してはいなかった。

(第1話で、かばんちゃんを相手に狩りごっこを仕掛けるサーバル)

また、「お父さん」が仕事をして給料を稼いでいるのだと、言葉では理解していても、それは自分たち子供が学校へ通わなくてはならないのと同じような、義務的な「自然」だと捉えていたのではないだろうか。
お父さんの仕事は「食う」ために必要なことであり、義務ではなく、必要に駆られて自分から求めてやっていることなのだが、普通の子供たちは、「お父さん」とは「外に働きに出る人」として理解されていたのだ。

自分たちが嫌々通っている学校だって、本質的には同じことだ。
それは子供たちが感じているような「強制された義務」なのではなく、じつは「国民の権利」だった。だから、行きたくなければ、行かないでも済むものだったのである。
親に、子供に教育を受けさせる義務はあっても、子供には教育を強いられる義務など無かったのだ。

だが、子供の頃の私たちは、そんな「人工的な空間」のなかで、守られて生きているのだということを、ちっとも知らなかった。それを「当たり前の世界=自然」だと信じて生きていた。
当たり前の「子供の世界」や、その一部としての「学校の世界」を、一種の「自然」だと感じながら生きていたのだ。

その世界は、大人たちによって守られており、そんな「子供の世界」からは、可能なかぎり「好ましくない現実」が排除され、そのかわりに「思いやり」や「優しさ」といった美徳が、当たり前のこととして推奨されていた。

当然のことながら、子供たちは、そうした大人たち期待どおりには行動できなかったのだが、それは自分が「いたらない」からであって、もともと人間とは「理想」どおりには生きられない「現実的な存在」だとは思わなかったのである。

だが、そんな「囲われた楽園」が、嘘っぱちなのかと言えば、そうとまでは言えないだろう。

私たちが、「子供の世界」という小宇宙の中で、それはそれなりの「現実」として生きていたという事実は、否定できないのではないだろうか。

ある時ふと、いつも一緒に遊んでいる親友のことが愛おしくてならない、というような衝動にとらわれて、頬に頬を押しつけるかたちできつく抱きしめた。一一その時の感情は、けっして嘘ではなかったはずだ。

(最終回:一人で旅立つこと決意したかばんは、サーバルに感謝を込めて抱きつく)

だが、大人になってしまうと、もうそんな衝動、そんな強い感情は持てなくなってしまった。

もちろん、友達は大切だが、それは、まず「家族」と「生活」を優先した上での話、といった具合になってしまう。

いっさいの損得抜きで、その友達のことが大好きであり、その友達のためなら何でもできるといったような強い感情は、いつも間にか失われてしまい、そこでも大人の打算が取って代わってしまう。

もう、今の親友は、昔の親友とは違う「何か」なのだ。
無論、いまでも大切な友達ではあるけれども、もはや「無条件」に大切な存在ではなくなっている。

大人になると、あれやこれやと配慮しなければならないことが増えてしまい、子供の頃のように、ただ純粋に「好き」というだけでは済まされなくなってしまったのである。

(歌手になりたいトキと喫茶店経営を成功させたいアルパカは仲良しになる)

だが、そうした「現実」は、あまりにも寂しい。
私たちはこんな、あれこれつまらない世界を誤魔化し誤魔化ししながら生きていかねばならないということなのであろうか?

無論、子供の世界が、良いことばかりだったわけではない。むしろ、大人になってから体験することよりも、もっともっとつらいことがたくさんあった。

だがそれは、良いことも悪いことも、すべてが純粋であり、私たち自身ももっと純粋かつ感受性が鋭かったからであろう。
大人のように、いちいち反応しなくても済ませられるような、面の皮の厚さを備えていなかった、ということなのであろう。

私たちは、大人になって「現実」というものを知り、それに耐え抜くために、面の皮も厚くなり、必要な鈍感さを備えるようになった。感情を鈍麻させることが、常態化してしまったのだ。
だが、だからこそ、子供の頃に感じていたような、世界の鮮烈さが感じられなくなってしまったのだろう。

一日中、何をするというわけでもなく、親友とだらだらと遊んだ、そんなつまらない時間でさえ、今となっては、何物にも代え難い「光」を放っていたように、感じられはしないだろうか。

(暴走気味のアライさんとそれを見守るフェネックの名コンビ)

つまり、『けものフレンズ』という作品が、私たちに見せてくれたのは、そうした「子供時代の特権的な輝き」なのである。
友達と、仲良く遊んだり冒険したり、時に喧嘩をして、もう二度と仲直りできないんだと絶望したりしたような、あの「黄金時代」の輝きを見せてくれたのが、『けものフレンズ』という作品だったのではないだろうか。

だから、『けものフレンズ』の世界から、「現実の闇」が排除されていたこと自体は、決して欠点などではないのだ。

現実の子供時代における「輝き」が、大人たちによる「保護」の上に成立していたものだとしても、それでも私たちは、それを「欺瞞」だとか「偽物」だとは呼ばないでろう。それと同じことなのである。

(妹気質で甘え上手のキタキツネと、姉気質で世話焼きのギンギツネ)

言い換えれば、本物の「特権的な空間」とその「輝き」を描くためには、その外に排除された「現実の闇」を、完全に無視するわけには、たぶんいかなかったのだ。
「楽園」の輪郭を描くためには、その外部としての「現実」を、暗示的にではあれ、描く必要があったということなのであろう。

それが本作における「きょうしゅう」の外の世界、人類の死滅した後の世界の現実ということなのであろう。

「ポスト・アポカリプス」の世界とは、「ジャパリパーク」のような、あり得ないほどの「子供の世界」を作り出せるようになった人間の「力」が、その同じ巨大な力を「逆方向=人間的な貪欲としての闇」へと働かせてしまった結果なのではないだろうか。
光が眩ければ眩い程、闇も深くならざるをえなかったのである。

 ○ ○ ○

だから、『けものフレンズ』という傑作が、最終的には「大人の論理=経済原理」において潰されてしまったというのも、ある意味では、筋の通ったことだと言えるのかも知れない。

「大人の論理」を可能なかぎり排除したところに作られた、虚構の「子供の楽園」

それが力を持ちすぎて、「経済原理」に逆らうようになってくれば、「大人の論理」が、それを「力」でねじ伏せることを望んだとしても、何の不思議もないのではないだろう。

本作『けものフレンズ』は、経済原理を超え出たところの「思い」に支えられて、稀有な作品となり得たのだが、しかし、本作が作られたのも、その前段の「けものフレンズプロジェクト」(KFP)も、基本的には「金儲け」のための企画であったことは、誰にも否定できない現実である。
だが、そうであるにもかかわらず、大半の関係者は「金儲け」だということは、決して口にはしない。

「金儲け」という「大人の現実」は、彼らの掲げる「虚構としての綺麗事(建前)」の外部へと隠蔽されてしまうからであり、また、それをするからこそ、この世には「綺麗事」が、そのまま存在するかのように見えもするのだろう。

(ペンギンのアイドルグループPPP(ペパプ)。この設定は、明らかにイベント展開を考慮したもの。その為に、スケジュールに余裕のある新人声優を起用した。こうした裏事情は、下の『SHIROBAKO』でも描かれていた)

コンセプト・デザインの吉崎観音が、インタビューに答えて、自身の動物好きを語り、この「けものフレンズプロジェクト」が動物たちのためにもなるような事業であってほしいと語ったのは、『けものフレンズ』ファンの、よく知るところだろう。

だが、このインタビューでの、吉崎の次のような発言は、『けものフレンズ』という作品の限界(輪郭)を示すものとして、注目に値しよう。

『 実際僕は、そんなにいうほど動物愛の人というわけじゃないです。お肉も食べるし、動物園の動物がかわいそうとはあんまり思わないけど、いたずらに欲で殺すのは動物の一人としてダメだろう、そのくらいです。
 自分の子供が小さいとき、生き物を殺すのは良くないこと、という考えが強すぎて幼稚園で一日中アリの巣を守って友達とケンカしてたことがあって(笑)。そのときに「アリを大事にすることはすごくいいことだけど、時々知らないうちにふんづけちゃってることもあるんだよ。アリは小さいからそういうこともある生き物だから、仕方がないこともある」と話して。僕自身の考え方としては、そのくらいです。
 細かいことはさておいて「動物ファースト」。ここから全てが決まるIP(※ 知的財産)が一つくらいこの世にあってもいいかな、「けものフレンズ」はそういう思いで創りました。』

『けものフレンズ』BD付きオフィシャルブック第6巻P24)

ここで私が引っかかったのは『動物園の動物がかわいそうとはあんまり思わない』という部分だ。

もちろん、私も子供の頃には、動物園の動物が可哀想だとも思わなければ、動物の肉を食うことも気にしてはなかった。ペットだって飼ったことはある。

だが、ペットを死なせた経験から、私はペットを飼うということをやめてしまった。
結局のところ、ペットを飼うというのは、いくら理屈をつけたところで、人間の手前勝手な「気慰み」にすぎないと、そう考えるようななったからだ。

では、食肉についてはどう考えるのか?
それは、人間が動物の一種である以上、避け難い現実として、認めざるを得ないことだと考える。
つまり、食べるのは仕方ない。野菜を食えばいいとか、知能の低い動物なら食べてもいいとかいうのは、そうした「食物連鎖の中に生きる動物の一種としての人間」という事実(宿命)から目を逸らすための誤魔化しでしかないと、私はそのように考えるのだ。
その現実から、目を逸らしてはならないと。

しかし、食肉を認めるのならば、動物園や動物のペット化を認めるのかと言えば、そこまでは認めない。
なぜなら、それは「是非とも必要なもの」ではないからだ。

だから、猟師が猟犬を飼うのなら、そこまでは認めよう。それは食うため、つまり生きるために必要なことだからだ。
だが、ペットや動物園は、所詮「贅沢」でしかないと考えるから、それは可能なかぎり我慢すべきものだと、そう考えるのである。

したがって、上のインタビューでの吉崎観音のコメントは、所詮は「誤魔化し」でしかないと考える。

つまり、アリを故意に踏み殺すこと(人間的な娯楽)と、誤って踏みつぶすこと(過失・自然)とは、同列には論じられないというのは、当たり前な話だからだ。
だからこそ、同様の意味で、「肉食」の必然性と、「動物園」や「ペット」の趣味性とは、同列には論じられないのである。

したがって、『けものフレンズ』において、「動物愛」や「動物愛護」が、しきりに語られたのも、半分は間違いなく「欺瞞」である。

「動物園」の一種と考えていいジャパリパークという設定は、そもそも「動物虐待」的なものであるし、現実の動物園よりも、数段酷いものだ。
例えば、サーバルに「人間の案内役」をやらせるために、殊更な「キャバ嬢」口をインプットしたり、新たな客に最高の対応をさせるためにその記憶を消したりといったことが、虐待でなくて何だというのだろうか?

無論、フレンズたちには、その自覚はないし、その意味でも、彼女たちには何の罪もない。
まただからこそ、ジャパリパークというのは、ある意味では、「外部の闇」によって作られた「明るいディストピアだとも言えるのであり、フレンズが全員「女の子」という設定も、無論、人間の男の身勝手に他ならないのである。

したがって、人間たちが自滅して、フレンズたちが、人間に利用されることもなくなった後の、本作で描かれたジャパリパークの姿は、せめてもの「救い」だったとは言えるのであろう。

かばんは、そんな今や「人間のため」に存在するわけではないジャパリパークに生まれた「ヒトのフレンズ」として、ジャパリパークという、人間の「郷愁」が生んだ「懐かしい世界=子供の世界」を、視聴者に体験させるためのガイド役だったのであろう。

(旅立つかばんを見送るために、海辺の廃遊園地に集ったフレンズたち)
(かばんとサーバルの、最後の二人だけの語らい)

ただ、かばんもまたフレンズであるからこそ、フレンズを利用した人間の一人なのではなく、フレンズと共に生き得た同族なのだと、ギリギリそうは言えるのではないだろうか。

 ○ ○ ○

このように考えてくると、『けものフレンズ』という作品が、経済原理をめぐる騒動に巻き込まれてしまったというのも、やはり必然だったのであろう。
たつき監督が続編から外された理由も、たぶんこのそのあたりにあると見て、まず間違いない。

たつき監督が続編から降板させられた理由は「続編の方向性」の問題だと指摘されているのだが、なるほど、せっかく大ヒットした「楽しい作品」の、その外側にある「現実」を、たつき監督によって「続編」で描かれる(暴かれる)ようなことを、オリンピックで賄賂まで使って金儲けをしようとしたKADOKAWAをはじめとしたスポンサーグループ、「けものフレンズプロジェクト」を構成した営利企業が歓迎したとは、考えにくい。

(この後、サーバル、アライさん、フェネックが追いかけていって、かばんと合流する)

『(※ 2017年)10月、岡田斗司夫がFacebookを通じて事情を知る複数の関係者から「名前を出さない」「内容を明かさない」ことを条件に聞き出した情報を大まかにまとめた動画を自身のYouTubeチャンネルで公開した。それによると今後の展開をどうするのかについて意見の対立があり、その結果としての降板であったと述べている。』

(Wikipedia「けものフレンズ(アニメ)」

たぶん、スポンサー企業にとって不都合な「方向性」とは、ジャパリパークとて(オリンピックと同様)「金儲け」のために作った、そんな人間の貪欲が招いた「人類の滅亡」への警鐘、ということだったのではないだろうか。

(最終2話に登場する忌まわしき巨大セルリアン。経済原理が産んだ怪物であり、別名「KADOKAWA」とも言う〔私見〕)

かばんの悪意なき誕生のゆえに、「調理」や「火の使用」といった「人間文化」を学んだフレンズたちは、その方向性において、果たして幸福になれるのだろうか? それとも、人間の二の舞となって、滅びの道を歩むのであろうか。

私たちは、アフリカオオコナハズクの「博士」の言った「美味しいものを食べてこその人生なのです」という言葉を、ナイーブに肯定して良いのだろうか?
それは人間の「過剰な欲望」の、悪影響だとは言えないだろうか?
私たちは、美味しいものを食べ、楽しい思いをするために、他の動物に犠牲を強いているのだが、「博士」はそのことを、きっと理解してはいないのだ。

(かばんに作らせたカレーライスを、文句を言いながらも必死で食べる、博士と挙手コンビ)

だから、かばんがサーバルらと共に向かった先には、人間はおらずとも、人間の都合で生み出された、不幸な生き物たちが生き残っているのではないだろうか。

その際に気になるのが、かばんたちの向かった先にあるだろう、「ごこく」という島だ。

アニメの設定としては、ジャパリパークの所在地は「不特定」とされているが、日本がモデルとなっているというのは間違いない。

ジャパリパーク
正式名称は、超巨大動物園ジャパリパーク。海底噴火によって誕生した島に作られた、世界中の野生動物が集まる巨大な動物園。現生種だけでなく復元された絶滅種や伝説上の生物、未確認動物も存在している。一般の来場者が立ち入れる遊園地形式の公開エリアの他、研究や飼育のための管理エリア「ジャパリパーク・サファリ」に分けられている。
フライによる漫画版・ぱびりおん等といった一部のゲームでは通常運営状態で多くの客が訪れ、ネクソンによるゲーム版ではセルリアンの襲来により実質的な休園状態、アニメ版と舞台版では多くの設備が放置状態(それによる施設の劣化・破損が存在)である等、メディアごとでパークの状態が異なっている。
超巨大と称しているように単純な島(諸島)を超えているようなほどにパークは広く広大で、パーク内の区画別に、アプリ版では「チホー」、アニメ版1期では「ちほー」が用いられている。諸島の地形に関しては日本列島を下側に曲げたような形となっている(本州が大部分の北側。九州地方と北海道地方がそれぞれ西南、東南。屋久島、沖縄が南側)。巨大諸島ではあるが、各区画の気候環境の差がはっきりしているなど特異な点も存在する。ネクソンアプリ版においては玄関口となる多彩な自然環境及び施設が設置されている「パーク・セントラル」の区域や、ゴコクチホーやキョウシュウチホーなど、実在の地名と似たような名称の場所が存在する。アニメ版2期においては「○○エン」といった名称の記載が存在する。』

(Wikipedia「けものフレンズ」

また、アニメ版1期の舞台であるジャパリパーク(正確には「きょうしゅう」)の所在地として、「小笠原諸島」の島が参考にされたのは、よく知られるところである。
そしてその小笠原諸島には、第二次世界大戦末期において、日本の敵国アメリカの軍隊が初めて上陸作戦を行った、激戦地であり玉砕の島「硫黄島」がある。

日本の最南端とは、そんな硫黄島の先にある無人の小島なのだから、そうした島に「ごこく」という名前がつけられていたら、私たちはごく自然に、それを「護国」と読んでしまうだろう。
そしてだとすれば、その島「ごこく」には、どのようなアトラクションが作られていたのであろうか?

こんなふうに考えれば、『けものフレンズ』が「ポスト・アポカリプス」の作品、つまり、人類最終戦争後の、人類が死滅した後の世界を描いた作品だということの意味は、とてつもなく重い。

しかし、そんなことを「におわせる」ような「暗い」、ほとんど「自己言及的」ですらあるような作品を、「金儲け」のためなら賄賂も辞さないような営利企業が、はたして歓迎するものだろうか。一一そういうことなのである。

しかしながら今となっては、あの騒動があったからこそ、主題歌に歌われた「獣はいても除け者はいない」の理想が、理想であったことをこそ、切実に訴えることにもなっているのではないだろうか。

(最終回、かばんたちの危機に駆けつけたフレンズたち)

現実には、「除け者」は、どこの世界にも存在しているし、まして金儲けの世界では、多くの人が当たり前のように「利益の独占」を目指して他者を排除することに、なんら躊躇も疑いも持たない。

だがそれでも「獣はいても除け者はいない」という理想は、子供たちに対して語られなければならないことだったのであろう。
そうでなければ、この世界はあまりにも薄汚く、生きるに値しないものだと言うほかないではないか。

あの無垢なフレンズたちを生んだのは、無垢ではあり得ない、現実の大人たちだった

だから、本作『けものフレンズ』に隠された欺瞞を批判することを躊躇う気はないけれど、それでも、そんな薄汚れた「現実」の中で生きているからこそ、『けものフレンズ』という「夢と理想と希望」の込められた作品が生まれたのではないかと、私はそのように、肯定的に考えたい。

たとえ、現実の作り手が、いかに薄汚れていようと、それでもサーバルに代表されるような無垢な「幼心」を、切実に求めた人間が大勢いたという事実は否定できないのだ。

だから、大人の私が思うことは、私は十分に薄汚れているけれども、それでもサーバルたちを裏切ることのない、かばんのような人間でありたいということなのである。

『けものフレンズ』という作品は、現実に対して妥協に妥協を重ねて生きている私たちに、それでも肯定的な声を、声援を送ってくれた「サーバルのような作品」だったのではないかと、私はそんなふうに考えたい。

私にとって『けものフレンズ』という作品は、同番組のエンディングで紹介された「失われた遊園地」のような、懐かしくも切ない郷愁を誘う、稀有な場所なのである。


(2025年10月5日)

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