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寺田寅彦 『柿の種』 : 力への反意志

書評:寺田寅彦柿の種』(岩波文庫)

寺田寅彦を読むのは、これが初めてである。

寺田について知っていることと言えば、

(1)高名な科学者
(2)随筆の名手
(3)夏目漱石の弟子

といった程度のことだ。

ただ、寺田寅彦になんとなく親近感があるのは、若い頃に見た映画『帝都物語』(1988年・実相寺昭雄監督)に登場していたからである。
演者は寺泉憲で、渋沢栄一勝新太郎)の主催する、関東大震災にまつわる「帝都防衛のための有識者会議」の相談役、といった役どころだったと記憶する。

そんなわけで、前々から寺田寅彦も一冊くらいは読んでおかないとと思っていたのだが、なぜ今、本書なのかというと、先日レビューを書いた、古本屋漫画 『本なら売るほど』(児島青)第1巻の第2話「コーヒーにこんぺいとう」で、本書が触れられていたと、思い違いしたからである(言及されていたのは「金米糖」という随筆…)。

本書収録の随筆は、半ページから2ページほどのものが大半で、稀に長いものとして4ページほどのものがいくらかあるばかりだ。

また、掲載時の連載タイトルはあっても、個々のタイトルは無いものが多い。
句誌「渋柿」の連載随筆については、岩波文庫では、各篇の文末に掲載号の記載があるが、本稿への引用にあたっては省略した。

『日常のなかの不思議を研究した物理学者で,随筆の名手としても知られる寺田寅彦の短文集。大正9年に始まる句誌「渋柿」への連載から病床での口授筆記までを含む176篇。「なるべく心の忙(せわ)しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたい」という著者の願いがこめられている。』

(本書カバー返しより)

と、このように書かれているが、読まなければならない本が常に立て込んでいる私は、著者の期待には添えず、いつものようにずんずん読んでいったことを、まずお断りしておきたい。
そしてその上での感想なのだが、寺田の随筆は、どこか「硬い」印象があって、それが悪いとは言わないが、必ずしも私の好みではなかった。

本書を通読して感じたのは、寺田の「思想」であるよりも、寺田寅彦という人の「人柄」である。

どういう人柄かというと、水晶あるいはガラスのように、不純物が少なく硬質で真面目。けれども、どこか「寂しさ」のようなものを抱えており、子供が好きな一方、「俗悪な穢れ」には堪え難いといった潔癖症的なところがある。
総じて言うなら、神経が細かく、「強弱」で言えば、自身が「弱い」人間だと自覚していた人
だ、というような感じだろうか。

以下では、寺田の文章を引きつつ、上の印象の根拠を示そうと思う。
寺田の原文引用の方が多くなるので、むしろ原文の方を味わってもらえればと思う。つまり、私の「解説」は、おまけである。

なお、本書については、すでに著作権切れで、丸ごと「青空文庫」に入っている。
したがって、本稿で寺田寅彦に興味を持たれた方は、ここで「全文引用」しなかった随筆も含めて、そちらをお読みいただければと思う。

 ○ ○ ○

本書を読んで知ったのは、寺田寅彦が「俳句」、特に「連句」というものを愛好した、俳諧だという事実である。
だから、句誌「渋柿」への連載もあったのだが、寺田の俳諧趣味と潔癖症は、わかりやすく通じていると、私は理解した。寺田は、ゴテゴテべたべたしたものが嫌いなのだ。すっきりと本質を語るというのが好みで、それでいて、ズバリと本質を言い当てるというのではなく、比喩的に本質を突くという「控えめさ」も、俳諧趣味と通ずるものなのではないかと思う。

そんなわけで、寺田寅彦の「潔癖症」を窺わせる部分から紹介していこう。

『 親類のTが八つになる男の子を連れて年始に来た。
 古い昔の教導団出身の彼は、中学校の体操教師で、男の子ばかり九人養っている。
 宅へ行って見ると、畳も建具も、実に手のつけ所のないほどに破れ損じているのである。
 挨拶がすんで、屠蘇が出て、しばらく話しているうちに、その子はつかつかと縁側へ立って行った、と思うといきなりそこの柱へ抱きついて、見る間に頂上までよじ上ってしまった。
 Tがあわててしかると、するするとすべり落ちて、Tの横の座蒲団の上にきちんとすわって、袴のひざを合わせた上へ、だいぶひびの切れた両手を正しくついて、そうして知らん顔をしているのであった。
 しきりに言い訳をするTを気の毒とは思いながらも、私は愉快な、心からの笑い声が咽喉からせり上げて来るのを防ぎかねた。
 貧しくてもにぎやかな家庭で、八人の兄弟の間に自由にほがらかに活溌に育って来たこの子の身の上を、これとは反対に実に静かでさびしかった自分の幼時の生活に思い比べて、少しうらやましいような気もするのであった。』(P22〜23・全)

『自分の幼時の生活』は、この男の子が窺わせたような『自由にほがらかに活溌』なものではなかったということであり、それへの憧れがある、ということだ。
したがって、「子供らしい子供」は、そうした憧れの象徴であり、「子供らしい子供」とは、おとなの社会への配慮に縛られない「純粋さ=無垢」の象徴なのであろう。

『 アルバート・ケンプという男が、百十時間ぶっ通しにピアノを弾き続けて、それで世界のレコードを取ったという記事が新聞に出ていた。
 驚くべき非音楽的な耳もあるものだと思う』(P27・部分)

「世界記録達成」みたいなものの「非本質性」や、その「俗っぽさ=俗塵性」が嫌いなのである。

『 眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。
 しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。
 なぜだろう。』(P28・全)

聞きたくないことまで聞こえてしまうことの、不都合に対する嫌悪のようなものか。
「耳が汚れる」という感覚ではないだろうか。

『「ダンテはいつまでも大詩人として尊敬されるだろう。……だれも読む人がないから」
と、意地の悪いヴォルテーアが言った。
 ゴーホゴーガンもいつまでも崇拝されるだろう。……
 だれにも彼らの絵がわかるはずはないからである。』(P32・全)

そう簡単にはわかるはずのないものが、簡単な紹介文なり解説文なりを読んだだけで、わかったつもりになっている人があまりにも多い。だが、世の中「その程度のもの」であるという、諦観を伴った批判である。

『思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要だという場合もあるかもしれない。』(P35)

寺田寅彦は、ズバリと面罵するようなタイプでは全然なく、俳句的に間接的な象徴性が好みだったのであろう。
しかし、このやり方は、『ゴーホやゴーガン』を崇拝する大衆には通用しないのだが、寺田としては、そのあたりにまで伝えることを、すでに諦めているのかもしれない。

『 昔、ロンドン塔でライオンを飼っていた。
 十四世紀ごろの記録によると、ライオンの一日の食料その他の費用が六ペンスであった。
 そうして囚人一人前の費用はというと、その六分の一の一ペニーであったそうである。
 今の上野動物園のライオンと、深川の細民との比較がどうなっているか知りたいものである。』(P44・全)

昨日、中国に返還されるパンダに関するテレビニュースをやっていた。
最後のお別れに来たパンダファンたちが、例によって、カメラやスマホでパンダの姿を撮っていたのだが、真っ黒な服装の人がやたらに多い。その理由とは、撮影の際、檻のガラス壁に、自分の姿が映り込むのを避けるためだそうだ。
私もパンダは可愛いと思うが、こうしたパンダファンは、端的に馬鹿っぽいとしか思えない。他に考えることがないわけでもなかろうから、これも現実逃避のひとつなのかと考えれば、まあ諦めもつく。

『 大学の構内を歩いていた。
 病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。
 近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄ぶどうぐらいの大きさの疣が一面に簇生していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。
 背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。
 そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。
 そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした。』(P60・全)

前半の、ゾッとする描写があって、後半の女の子の無邪気さが生きてくる名随筆である
だが、それと同時に、前半は、寺田寅彦の強迫的な潔癖さが、よく表れている部分でもあろう。私も、ぶつぶつが苦手なので、とてもよくわかる。
手塚治虫『ブラック・ジャック』にも、この種の皮膚病を描いたものがあったはずだが、昔の人は、こんな重篤な病でさえ、ろくに治療を受けられないまま、社会生活を営まざるを得なかった場合もあったのだ。
しかし、それで差別を受けながらも、生きんがために生きた人の「強さ」を賞賛したい。
また、そんな現実にあって、女の子の無邪気さは、何よりの救いである。

『「二階の欄干で、雪の降るのを見ていると、自分のからだが、二階といっしょに、だんだん空中へ上がって行くような気がする」
と、今年十二になる女の子がいう。
 こういう子供の頭の中には、きっとおとなの知らない詩の世界があるだろうと思う。
 しかしまた、こういう種類の子供には、どこか病弱なところがあるのではないかという気がする。』(P84・全)

寺田寅彦は、子供のこうした「繊細さ」に共感しつつ、薄汚れた「おとな」の世を渡っていくのに必要な「強さ」があるだろうかと、そう心配しているのだ。決して、そんな「強さ」を賛嘆しているわけではない。

『 一日忙しく東京じゅうを駆け回って夜ふけて帰って来る。
 寝静まった細長い小路を通って、右へ曲がって、わが家の板塀にたどりつき、闇夜の空に朧な多角形を劃するわが家の屋根を見上げる時に、ふと妙な事を考えることがある。
 この広い日本の、この広い東京の、この片すみの、きまった位置に、自分の家という、ちゃんときまった住み家があり、そこには、自分と特別な関係にある人々が住んでいて、そこへ、今自分は、さも当然のことらしく帰って来るのである。
 しかし、これはなんという偶然なことであろう。
 この家、この家族が、はたしていつまでここに在るのだろう。
 ある日、一日留守にして、夜おそく帰って見ると、もうそこには自分の家と家族はなくなっていて、全く見知らぬ家に、見知らぬ人が、何十年も前からいるような様子で住んでいる、というような現象は起こり得ないものだろうか、起こってもちっとも不思議はないような気がする。
 そんな事を考えながら、門をくぐって内へはいると、もうわが家の存在の必然性に関する疑いは消滅するのである。』(P116〜117・全)

こうした「空想」こそが、前に紹介した随筆における『今年十二になる女の子』の『詩の世界』の、寺田寅彦における残像なのであろう。

『 こんな平凡な光景でも、時として私の心に張りつめた堅い厚い氷の上に、一掬の温湯を注ぐような効果があるように思われる。
 それほどに一般科学者の生活というものが、人の心をひからびさせるものなのか、それともこれはただ自分だけの現象であるのか。』(P123・部分)

たぶん、寺田寅彦は、自身の「硬さ」というものを、あまり好ましいものとは思っていなかったのだろう。
好みとしての「硬さ」ではあっても、そうではない、子供のような「柔らかさ」「弱さ」もまた、人間らしさとして希求していたのである。

『 新劇レ・ミゼラブル」は、見ないけれども、おそらくたった一口で言えるようなスローガンを頑強にべたべたと打ち出したものかと思う。
 少なくとも、これにはおそらくどこにも「俳諧」は見いだす事ができないだろう、と想像される。』
(P141〜142・「曙町より(一)」部分)

寺田には、『べたべた』した「強い」世俗性というのが、嫌悪の対象だった。
だから、イデオロギー的なものも好きではなかった。

『 君の、空中飛行、水中潜行の夢の話は、その中にむせっぽいほどに濃艶なる雰囲気を包有している。
 これに対する、僕のさびしいミゼラブルな夢の一つを御紹介する。
 それは「さまよえるユダヤ人」にもふさわしかるべき種類の夢である。
 大学構内、耐震家屋のそばを通っていると、枯れ樹の枝に妙な花が咲いていて散りかかる。
 見ると、その花弁の一つ一つが羽蟻のような虫である。
 そうして、それが人にふりかかると、それがみんな虱になって取り付くのである。
 そこへT工学士が来た。彼は今この虱のことについて学位論文を書いているというのである。
 そのうちにも、この「虱の花」はパッパッと飛んで来て、僕のからだに付くのである。
 あとで考えてみると、その二、三日前に地震研究所である人とこのT工学士についての話をしたことがある。
 またやはり二、三日前の新聞で、見合いの時に頭から虱が出たので縁談の破れた女の話を読んだことがあった。
 しかし枯れ木の花が虱に変わる、ということがどこから来たかなかなか思いつかれない。
 それはとにかく、この夢の雰囲気と、君の夢の雰囲気との対照がおもしろいと思うのでお知らせすることにする。』
(P145・「曙町より(三)」全)

「羽蟻のような虫が虱に変わって」降りかかることへの嫌悪は、すでに紹介した『葡萄ぶどうぐらいの大きさの疣が一面に簇生』した皮膚病の男を見た時の、恐怖を伴う嫌悪に通ずるものだ。
寺田寅彦は「皮膚感覚」が繊細でもあれば、神経質だったのだとも言えよう。

『 それがニチャニチャと止みなしにチューインガムを噛んでいる。』
(P148・「曙町より(四)」部分)

『ニチャニチャ』という「粘着質」が不快なのだ。

『 僕はこのごろ、ガラス枚を、鋼鉄の球で衝撃して、割れ目をこしらえて、その割れ方を調べている。
 はなはだばかげたことのようであるが、やってみるとなかなかおもしろいものである』
(P149「曙町より(五)」部分)

「粘着質=粘液質」とは真逆の「透明な硬質性」を象徴するのが、ガラスである。
寺田寅彦がガラスに惹かれるのは、科学的な興味からだけではない。

『 このごろは毎朝床の中で近所のラジオ体操を聞く。一、二、三、四、五、六の掛け声のうちで「ゴー」だけが特別に高く、長く飛びぬけて聞こえる。この「ゴー」の掛け声が妙に気になる。妙に気恥ずかしくて背中がくすぐったくなるような声である。「ゴッ」と短く打ち切ってもらいたい。』
(P168・「曙町より(十五)」部分)

「ゴー」と「強く」引き延ばすテンポの悪さと同時に、引き延ばす、伸びる粘質性が、生理的に好きではないのだろう。

『 映画「カンチェンジュンガ」を見た。芝居気の交じらないきまじめな実写の編輯は気持ちのいいものである。』(P176・「曙町より(十九)」部分)

『芝居気の交じらないきまじめ』さへの好感とは、不純なるものへの嫌悪の裏返しでもあろう。寺田は、余分なものが嫌いであり、そこが俳諧趣味にも通じている

『 有名なエノケンをはじめて映画で見た。これまで写真を見ただけで、どうしても実物の芝居を見る気がしなかったが、映画で見ると予想したほどに不愉快ではなく、やはりときどきは笑わされてしまった。
 彼にはやはりどこかに「強い」ところがあると見える。それが少なくも彼としての「成効」の原因であろう。とにかく見物が大丈夫笑ってくれるという自信をもっているらしい。
 自信のないことを自覚している演芸ほど見ていて苦しいものはない。しかし、そうかと言って、自信するだけの客観的内容のないただ主観的なだけの自信をふり回す芸も困ることはもちろんである。
 至芸となると、演技者の自信が演技者を抜け出して観客の中へ乗り移ってしまう。エノケンもそれまでにはだいぶ距離がある。
 二村(※ 出演者の二村定一)は(※ エノケンと)両立する存在ではなくて従属し補充するだけの役目をしているようである。』(P178〜179・「曙町より(二十)」全)

「笑い」の俗悪な暑苦しさが嫌いで、人気のエノケンを避けていたが、見てみるとさすがに笑いをとる「力」を持っていたし、それは認めざるを得ない。
ただし、その「強さ」を『至芸』だとは認めたくない。至芸は、俳諧的な「弱さ=押しつけの無さ」にあると考えているのだ。
言い換えれば、寺田寅彦の思想は「反ニーチェ的」である。「力への意志」に反発を覚えるのだ。人を従属させるような「力」を、とうてい好ましいものとは思えない。

『 夏目先生のお弟子と見られている人がかなりおおぜいいるようである。この「お弟子」の意味がずいぶん漠然としていて自分にはよくわからない。少し厳密に分類するとこの「お弟子」の種類が相当たくさんにありそうである。』(P212・部分)

先日読んだ、夏目漱石の末弟子の一人であった内田百閒の文章に、寺田寅彦は、漱石の弟子たちが集まる「木曜会」を避けて、別の日に漱石と面会し、両者共にさほど話もせず、黙って対座していた、というようなことが書かれていたが、いかにもさもありなん。
寺田は、漱石の「則天去私」的な脱俗性に、自身とあい通ずるものを感じていたのではないだろうか。
だからこそ、贅言は無用だったし、弟子たちの、師への甘えのような騒々しさが好きではなかったのであろう。

『 学校を卒業したばかりの秀才が先生になって講義をするととかく講義がむつかしくなりやすい。これにはいろいろの理由があるが、一つには自分の歩いて来た遠い道の遠かったことを忘れるというせいもあるらしい。
 若い学者が研究論文を書くと、とかくひとり合点で説明を省略し過ぎて、人がよむとわかりにくいものにしてしまう場合が多い。これもいろいろの理由があるが、一つには自分がはじめてはいった社会の先進者の頭の水準を高く見積もり過ぎるためもあるらしい。』(P217・全)

衒学的(ペダンティック)であるということは、寺田寅彦にとっては「不明晰」な愚かさの証しに見えていたのだろう。それは明らかに、俳句的な透徹とは真逆なものだからだ。

『 省線電車渋谷駅の人気者であった「忠犬」の八公が死んだ。生前から駅前に建立されていたこの犬の銅像は手向の花環に埋もれていた。
 たかが犬一匹にこのお祭り騒ぎはにがにがしい事だと言ってむきになって腹を立てる人もあった。
 しかし、これがにがにがしければすべての「宗教」はやはりにがにがしく腹立たしいものでなければならない。』(P231・部分)

寺田はここで「宗教」的なものを擁護しているのである。
「宗教」を全否定するような、イデオロギー的な徹底性が、実はしばしば不徹底である点を、ここで逆捩じ的に皮肉っているのであって、間違っても徹底の「強さ」を要求しているわけではないし、ましてや好感など持ってはいない。

『 いろいろの学会にはいっている。すすんで入会したのもあり、いつのまにか入れられていたのもあり、また強いてはいらされたのもある。数にしたら二十近い会の会員になっている。
 学会にはそれぞれ例会や総会がある。それに一々出席していたらきりがないからたいてい出ないことにしている。
 どうも日本人はいろいろな会をこしらえることの好きな国民ではないかという気がする。』(P237・「学会」全)

各種「学会」というものは、建前としては「研究」のためということになっているが、その実質は「人脈づくり」のためだろう。
もちろん、その人脈が研究に役立つことも多々あるのだが、そのためだけではない、というのも明らかだ。
人脈は、何より業界政治に必要なものなのである。

『 ラジオなどで聞くえらい官吏などの講演の口調は一般に妙に親しみのないしかつめらしい切り口上が多くてその内容も一応は立派であるがどうも聴衆の胸にいきなり飛び込んで来るようなものが少ない。
 ある会議の席上である長官がある報告をするのを聞いていたとき、ふと前述の講演のタイプを想い出した。
 長官はその属僚の調べ上げてこしらえた報告書を自分のものにして報告しなければならない。それで文句はわかってもその内容は実はあんまり身にしみていないらしいので、それでああいう口調と態度とが自然に生まれるのではないかという気がした。
 これに反して、文士でも芸術家ないし芸人でも何か一つ腹に覚えのある人の講演には訥弁雄弁の別なしに聞いていて何かしら親しみを感じ、底のほうに何かしら生きて動いているものを感じるから妙なものである。
 学者の講演でもやっぱり同じようなことがあるようである。
 空腹はなかなか隠せないものらしい。』(P243〜244・「講演の口調」全)

本物は「自分の言葉」で語り、偽物は「借り物たる権威の言葉」で自身を装う、という批判である。
当然、先の衒学的贅言に対する嫌悪と通じた感性だ。

『 (※ 来日した)アインシュタインが大学内を歩いているときにはいつでも、その後ろに学界の長老たちが影のように附き添って歩いていた。集会の席でも護衛兵のように引き添って立ったりすわったりしていた。珍客を遇する礼として当然のことと思われた。自分(※ 寺田自身)らのような弱輩のものがこの碩学に近づいて何か話でもしようと思うと、その護衛のかたがたの中には急に眼を見張りあるいは眉を顰めてその近よるものが何を言い出すかといったような緊張と不安の表情を正直に露出する人もあった。それでたいていの気の弱いものは近寄りたくても近寄れないで遠方からながめるだけであった。なるほど弱輩なものが突拍子もないまずい質問をしたりしては失礼にもなるしまた日本の学界の恥辱になるという心配もあることであろうと思われたことであった。』(P248・「学会警察」部分)

日本人らしい「権威主義」と「劣等感」の、わかりやすい「滑稽さ」に対する嫌悪である。

『しかしもっと特殊な例としては、芋虫を見るとからだがすくんでしまう人や、蜘蛛がはい出すと顔色を変えるようなのもある。中学時代の同窓で少し強い風の吹く日にはこわくて一歩も外へ出られないのがあったが、その男はまもなく病死してしまった。やはりどこか「弱い」ところがあったのかもしれない。』(P264・無題の部分)

「繊細」であることは、しばしば、生きる上での「弱さ」であるとの、自覚である。

『 友人の科学者で陶器を作るのを道楽にしている男がある。自分の邸内に窯を造って専門の職人を雇い込んで本式にやっている。御当人はもちろんであるが、その細君もまたおかあさんもそれぞれ熱心なアマチュア芸術家である。このあいだその友人が大きなふろしき包みをかかえて飛び込んで来た。新聞紙で包んだものを取り出すのを見ると、この家庭芸術家三人の作品のたぶん代表的なものであろう、分厚で長方形のシガレットケース――これは科学者の作、それから半月形の灰皿――これは美しい令夫人の作、それから手どくで白釉に碧緑の色を流した花瓶――これは母堂の作である。
 今病床の脇の小卓の上にこの三つの陶器がのせてあるのをつくづくながめていると、この三つの作品のそれぞれの個性がだんだんにはっきり眼についてくる。角箱には鼻っ張りの強い負けぎらいの気性とオリジナルで鋭いしかもデリケートな才能の動きが地味な褐色の釉薬の底から浮き出しているといったようなところがある。
 灰皿のほうは肉の薄味、線の丸さ、波形の縁へりのうねり、その他どう見ても優しいそうして濃まやかな感じの持ち主の手になったものとしか思われない。
 花瓶のほうをよく見ていると手づくねの筒形の胴の表面の彎曲、釉薬の自然な斑模様、そういったもののきわめて複雑な変化の中に、いかにも世の中の苦労という苦労を舐め尽くして来たかのような、しかもいかにも女らしい一種の心ばえのようなものがありありと読みとられるようである。
 これではうっかり団子も丸められない。』(P265〜266・無題の全)

「自分の内面を、不用意に曝け出したくない」という怖れにも似た感情であり、ここにも寺田の俳諧趣味が窺われる。

次は、物理学者で文筆家の池内了による、本書「解説」から。

『 実際には、寺田はそのようなこと(※ 池内が解説したようなこと)を直截には書いていない。また、自分自身や家族の素顔や、ふつうの人々とのふつうの会話もほとんど書いていない。そのようなことを書かないのが科学者と思っていたのかもしれないし、明治生まれとしてそのような風がなかったのかもしれない。また、父利正の性格を受け継いだ可能性もある。(利正は二十五歳のとき、実弟喜久馬のが介錯役として首を切り落とす役目を果たさざるを得なかった。そのためか内向的であり、家族的な甘さを拒否した人のようであった。『寺田寅彦の生涯小林惟司著、東京図書による。)』
(P306・池内了「解説」)

寺田寅彦の、純粋さや透徹性への希求は、同時に、自身の内なる不純な生の力の露出を怖れるものでもあったのだろう。
自分の血の中にも、必要とあらば、実弟の首を斬ることのできる、おぞましい「力」を感じていたのかもしれない。

ところで、寺田寅彦に「地震の脅威」についての研究が多いというのも、もしかすると「秘められた強き力」に対する、嫌悪と抵抗心の発露だったのかもしれない。


(2025年6月28日)


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