『峰不二子という女』 : 「あの時代」を描くという挑戦とその困難
テレビアニメ評:山本沙代監督『LUPIN the Third -峰不二子という女-』(全13話/2012年)
放送当時から気になっていた作品だったが、当時は私も勤めをしており、しかもそれが「三部制」勤務ということで、曜日を問わず当直勤務があって、「連続もの」のテレビドラマやアニメは見づらいということがあった。無論、録画すればよかったのだが、退職するまでの私は、自由になる時間を可能なかぎり読書に当てようと考えていたため、テレビの録画はしないと決めていた。そのためおのずと、連続もののテレビ番組は見なかったのだ。
そんなわけで本作も、いつか機会があれば、例えば「DVDが発売されて、それが安くなったら見よう」などとと思っていたのだが、それが今日(こんにち)になったというわけである。一一それにしても、本放映からすでに「13年」も経っているとは思わなかった。今更だが「光陰矢の如し」である。

さて、私がこの『LUPIN the Third -峰不二子という女-』(以下『峰不二子という女』と記す)に注目したのは、アニメ雑誌などで紹介されていた、その「前衛的な絵作り」であった。
これは、本編を見て、それが主に「オープニング」に限られた話だとわかったのだが、たとえそれが「オープニング」だけだとしても、本作がそういう方向性を持った作品であったというのは確かなので、その点で「どこまで尖ったことをやれているか?」、そしてそれが「作品の出来を、どこまで押し上げているのか?」という点に興味があったのだ。

また、本作がアニメ『ルパン三世』の「放映40周年記念作品」であり、ひさびさの「テレビシリーズ」ということもあった。ひさびさにやるからには、当然、力も入っているだろうと期待したのである。
そのあたりのことを、「Wikipedia」は次のように紹介している。
『テレビアニメ『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』の放送開始40周年を記念した本作は、シリーズ初の深夜アニメとして制作された。スピンオフ作品では唯一の連続テレビアニメシリーズであり、タイトルは「LUPIN the Third」と表記。
本作では峰不二子に重点を置き、ルパン、次元、五ェ門、銭形警部ら5人の若いころ(時系列上はTV第1シリーズ・第1話以前が該当)の活躍を描いている。深夜アニメであるため、原作版をリスペクトした前衛的かつエロティシズムに溢れたアダルトテイストの作風となっており、従来の作品では少なかった乳首の露出も多い。ルパン達のキャラクターデザインも原作に近いリアルタッチの風貌で描かれている。ルパン三世のテレビシリーズでは初めて、原作漫画の「♂マークと♀マークを絡ませた濡れ場表現」が登場している。』
(Wikipedia「LUPIN the Third -峰不二子という女-」)
つまり、本作の特徴は、次のようになる。
(1)峰不二子に重点を置いたシリーズ。
(2)ルパン、次元、五ェ門、銭形警部ら5人の若いころ(時系列上はTV第1シリーズ・第1話以前が該当)の活躍を描いている。
(3)原作版をリスペクトした前衛的かつエロティシズムに溢れたアダルトテイストの作風。
以上の3点で、私が特に注目したのは(1)の「峰不二子に重点を置いた」という点である。
当然のことながら、それまでのテレビシリーズや劇場版、テレビスペシャル版などでは、ルパンの活躍が中心に描かれ、そこで描かれる峰不二子とは、「TV第1シリーズ」のオープニングで「謎の女・峰不二子」と紹介されるとおり、彼女がどうして「ああいう女」なのかが紹介されることはないし、峰不二子の魅力とは、その「謎」の部分にあったと言っても過言ではない。
だから、そんな「謎の女」峰不二子を、「女性監督」が描くという点に興味を持った。女性ならではの視点で、あの峰不二子をどう料理するのか、出来るのか、そこに興味を持ったのである
また、峰不二子の「謎」の魅力を損なわないかたちで、峰不二子を、どのように、どの程度、掘り下げることができるのか。男性監督にはできないことをやれるのか、といった点に興味を持ったのだ。

(2)について言えば、「アニメ放映40周年記念作品」の作品が、名作の誉高い「TV第1シリーズ」の「原点回帰」を目指すのは、いわば「当たり前」のことにすぎず、その点では「まあ、そうだろうな」くらいの感じしかなかった。
また、「原点回帰」すれば、それで作品が「良くなる」とも思わなかった。なぜなら、いくら「狙い」が正しくても、その「狙い」を実現するには、作り手の「力量」が必要であり、それがなければ、お話にはならないからだ。
そして、本作を監督するのが、私の知らない「山本沙代」という女性監督だったので、まずは「お手並み拝見」と考えたのである。
ちなみに、私は、故・モンキーパンチによる原作漫画を(絵柄が好みではないため)読んでいないので、あくまでも本シリーズを見るかぎりにおいて、『ルパン、次元、五ェ門、銭形警部ら5人の若いころ』が、具体的に、どのように描かれているかを、以下に紹介しておこう。
「ルパン」は、本作の段階では、まだ次元や五右衛門とトリオを組んでいない。つまり、一人で泥棒をやっていたのだが、そんなルパンが、なぜ犯行予告をし、わざわざ「困難な盗みにばかり挑むのか?」という理由を、本作中で峰不二子に語るには、要は「退屈極まりないこの世界で、その退屈を紛らわすため」なのである。つまり彼は「金や地位や名声」が欲しいのではなく、そんなものを求めるこの世の中があまりにも「退屈」なものだから、あえて危険と不可能に挑むために「泥棒」をやっているというのだ。
また、同じ意味で本作のルパンは、峰不二子に対して「峰不二子を盗む」という予告状を出す。それは、峰不二子という捉えどころのない女、必要とあれば誰とでも寝るけれど、決して一人の男の女にはならない女を、「自分のものにして見せる」という意味である。
つまり、この頃のルパンは、いかにも若者らしく、この世の中を「舐めていた」部分があるし「自信過剰」な部分もあったということだ。自分の自由にはならないものの存在など、想像もできなかった、ということなのだろう。

こうした「若いルパン」と正反対なのが、宮崎駿監督の『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)で描かれた「少々くたびれて肩の力が抜けた、おじさんルパン」であることは言うまでもない。
無論、「若くて気負ったルパン」と「人生の苦楽を舐めた後のルパン」の、どちらが魅力的だなどとは、一概には言えない。要は、どちらであれ、魅力的に描かれば魅力的になるだけなのだ。だから、本シリーズがあえて選んだ「若くて気負ったルパン」が「宮崎ルパン」より魅力的になるか否かは、すべて作り手の「力量」しだいなのである。
「次元」については、彼が「女ぎらい」になった理由を描くエピソードが紹介される。たぶん、原作漫画にあるものなのだろう。
ただ結果的に言えば、いかにも「次元らしい」ものではあれ、もともと女は苦手だった野暮天の次元が、つい「本気になった女に騙されていた」のがわかり、その傷の痛みによって、決定的に「女ぎらいになった」というのは、いささか分かりやすすぎて、物足りない印象は残る。



「五ヱ門」については、「剣の道を極める修行」のためには「殺しも引き受ける」という、若い頃の姿が描かれている。
つまり、彼にとっての「剣の道」とは、単なる「精神論」などではなく「人を斬る」という部分も含めての「剣の道」だったということだ。
だが、そういう「精神論」的な綺麗事の誤魔化しを嫌うその「純粋さ」において、若い五ヱ門も女性に対する「耐性」は無かったという、言うなれば「(剣の道オタク的な)童貞性」(=純情さ)が描かれる。だがまた、それでも彼には「本物を見極める目があった」ということも描かれている。峰不二子が、単なる「あばずれ」ではないことを、彼は直観的に理解していた、という描写がなされるのだ。


「銭形警部」については、若き日の「敏腕刑事」としての側面が強調されており、ずいぶん「男っぽくてかっこいい」。
彼は、ある時、上司から汚職への協力を求められ、それを拒絶して告発したために、結果としては「出世の道」を絶たれてしまったのだが、「警察官としての誇り」を守り抜いたことに微塵も悔いはないという、そんな男なのだ。
だが、その反面、「銭形平次の子孫」という自負に賭けて「ルパンを捕まえる」という執念においては、時に「手段を選ばない」ほどでもあるという、「ハードな一面」も描かれる。
峰不二子を逮捕した際に、不二子が銭形を肉体で籠絡して逃走しようとしたのに対し、その手に乗ったふりをして不二子を抱き、そして不二子を釈放するのだが、これは不二子の色仕掛けに籠絡されたのではなく、最初からルパンを追うための餌として不二子を逃したのである。つまり、銭形にとっては、不二子などという「ザコ」はどうでもよかった、ということなのだ。ちなみに、このベッドシーンで、「Wikipedia」で紹介されていた『原作漫画の「♂マークと♀マークを絡ませた濡れ場表現」』がなされており、銭形と不二子のベッドシーンが「リアル」に描かれたわけではない。


また、本作には、銭形に密かに想いをよせる「美少年」(正確には「美青年」)が登場する。彼は、銭形に命を救われた少年時代以来、信念に生きる男・銭形を愛してしまい、銭形のことを、自分が見つけた「黒い宝石」だと、心の中で評する。そして彼は、銭形の尽くすために警察官となり、銭形の片腕となっているのである。


で、この「美青年」の描き方は、今の人ならば「少年愛趣味」的に理解するだろうが、そうではない。
ここで意識されているのは「ホモセクシャル(男性同性愛)」における「美少年趣味」であり、例えば、美輪明宏(丸山明宏)の若い頃をイメージしたようなキャラクターなのだ。さすがに、絵ヅラ(キャラクターデザイン)的には「いま風」なのだが、その意図するところは「いま風のそれ」ではなく、あくまでも、プロデューサーの浄園祐がいうところの「1960年代後半から1970年代前半」(Wikipedia)を意識したものなのである。
(3)の『原作版をリスペクトした前衛的かつエロティシズムに溢れたアダルトテイストの作風』という点についていうと、たしかにその方向性を目指したというのは確かだが、それに成功しているとは言い難い。
例えば、ここで言う『前衛的』とは、せいぜいが、コラージュ作家「岡上淑子」を意識したのであろう「オープニング」における、「主題歌」ではなく「詩の朗読」といった冒険的なな手法と、すでに紹介した、銭形と不二子のベッドシーンにおける原作漫画を踏まえた「記号処理」くらいだったからで、それ以外は、特別「前衛的」というほどの「表現」は無かったし、『エロティシズムに溢れたアダルトテイストの作風』といっても、それは「やたらと不二子の裸が描かれる」のと、その際に『従来の作品では少なかった乳首の露出も多い。』(Wikipedia)と言うか、むしろ、ほとんど必ず描かれる、といった点にしかなかった。


しかし言うまでもないことだが、「乳首」がエロティックなのではない。乳首は「隠される」からこそ、エロティックなのである。だから、乳首が当たり前のように描かれれば「ああ、また乳首を描いているな」としか思えず、まったくエロティックでもなんでもないのだ。
そしてこのあたりが「女性監督」の鈍いところなのかもしれない。要は「男の感じるエロティシズム」というものが、わかっていないのだ。
それこそ、「1960年代後半から1970年代前半」というわけではないが、ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』を持ち出すまでもなく、エロティシズムの本質は「禁止とその侵犯」であって、ただ「解放」されてしまえば良いというものではない。それではかえって、「エロティシズム」は損なわれてしまうのである。
だから、「あの時代」を描くのであれば、その程度のことは弁えていてほしかったと、そう注文をつけないわけにはいかないのだ。

ちなみに、本作が「1960年代後半から1970年代前半」頃の「エロティシズム」を意識したというのは、例えば、ある女性の「過去」を描く回想シーンにおいて、その若い女性を蹂躙する「伯爵」が「梟(フクロウ)の仮面」をつけていることからもわかる。

これは、映画(1975年)にもなった、ポリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』(原書刊行1954年)を下敷きにしたものだというのは、ほぼ間違いない。

というのも、『O嬢の物語』を翻訳紹介したのも、バタイユの『エロティシズム』を翻訳紹介したのも、そして本作にも登場するエロティックな「球体関節人形」の始祖と呼んで良いであろうハンス・ベルメールを紹介したのも、「1960年代後半から1970年代前半」の時代を代表するフランス文学者・澁澤龍彦だったからである。若き澁澤龍彦が、そうした「前衛的なエロティシズム」を日本に紹介したのが、「あの時代」だったのであり、前述の岡上淑子もまた、澁澤龍彦と同時代の人(同年生まれ)なのだ。

つまり、本作における「前衛性とエロティシズム」というのは、「澁澤龍彦の時代(初期)」をイメージしたものであり、その点では、前記の「美青年」が、「いま風の少年愛趣味」ではなく、美輪明宏的な「ホモセクシャルな美少年趣味」だというのも、美輪と親しかった三島由紀夫が「澁澤サークル」の一人であったことからも、明らかなのだ。


だが、本作『峰不二子という女』の場合、そうした「澁澤龍彦の時代=フランス的なエロティシズム」というものに対する「理解」がほとんど無いようにしか見えず、あくまでも、そのイメージの「表面」を掻い撫でにして真似る程度に止まっているとしか思えない。
昔の「放送コード」に引っかかるような表現をすれば、それで「エロティック」でしょう「前衛的」でしょうという、浅薄さが透けて見えて、いかにも物足りなかったのである。
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そんなわけで、ここまでの紹介で、すでに本作(シリーズ)『峰不二子という女』に対する私の評価も明らかであろう。
山本沙代は「1977年」生まれであり、私より15歳下。「シリーズ構成」の岡田麿里は、山本のひとつ上ということで、澁澤龍彦の存在こそ知ってはいても、尖った「初期澁澤龍彦」の「思想」については、あまりよく知らないまま、澁澤龍彦が紹介した作家たちのイメージを(ミーハーファン的に)利用するだけに止まっており、それが「ぬるい」し、そんなことでは、あの時代の「尖った空気」は描けなかった、ということである。

私の気になっていた、「峰不二子という女の謎」をどのように描くのか、という問題については、シリーズの途中までは「峰不二子には、こういう悲しい過去があって、そのために、自傷的なまでに性に奔放で、無軌道な生き方をするようになったのだ」という、いささか「理に落ちすぎた」、安易に精神分析的な説明がなされる、ように見えた。
そしてその点では「このままだと、このシリーズは、峰不二子を貶めることになるぞ」と危ぶまれたのだが、結局のところ、これは「最後のどんでん返し」のための「ミスリード」であった。
つまり、「峰不二子という女」が、あんな女であるのは、「これこれこうした理由があったから」なのではなく、ただ単に彼女が「そういう女だった」というところに落ち着くのである。
「峰不二子という女」とは、見たまま、そのままが「峰不二子」なのだと、その生き方をそのまま肯定するという「無難なオチ」に落とし込まれるのだ。
したがって、「安易な解釈」をつけて峰不二子を貶める結果にはならなかった反面、結局のところ「峰不二子という女の謎」は、解かれないままで終わってしまう。
だから「大失敗はしなかった=無難に難問を回避した」とも評価はできようが、「積極的な冒険」のできなかったのが、本シリーズ『峰不二子という女』だとも言えるだろう。
「あの時代」の雰囲気を出したいと思ったところで、それは、あの時代らしい「道具立て」を揃えれば良いというものではない。それを「知っていれば良い」というものではないのである。
それでは、「懐古趣味」の爆発した『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001年・原恵一監督)にさえ、その熱意において及ばないであろう。
つまり、本作に必要だったのは、「時代に抗おう」とした、当時の「精神性」に負けない、「強靭な精神性(批評性)」だったのである。

(2025年4月15日)
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