リドリー・スコット監督 『テルマ&ルイーズ』 : フェミニズム・家父長制・北村紗衣
映画評:リドリー・スコット監督『テルマ&ルイーズ』(1991年/アメリカ映画)
傑作である。未見の方には、男女を問わず是非にとお奨めしたい。

本作がとても評判の良い作品であることは、以前から伝え聞いてはいた。しかし、女性二人の「犯罪がらみのロードムービー」らしいという点で、あまり触手が動かなかった。
「女性の犯罪もの」というのが、何となく物足りなく感じると言うか、痛快な犯罪ものの主人公は「男だろう」という感じが、私にはあったのだ。
無論「偏見」である。
私は警察を40年間勤め上げた人間だから、女性犯罪者が大勢いるのも、凶悪犯が少なくないのも知っている。
しかしながら、女性犯罪者というものは、男より力がない無い分なのだろう、「粗暴犯」というのは確実に少ない。
小説などのフィクションだけではなく、歴史上の事件においても、女性犯罪者というのは、男に力で及ばない分、毒薬を使ったり、相手を罠に嵌めたり、あるいは権力を行使することによって、人を殺すことならよくあっても、粗暴犯的に「殴り殺す」といったことは滅多にない。
力の弱い女性同士であっても、相手を殴り殺すこというようなことは聞いたことがなく、あるのは集団リンチで殺すといったもので、男性的な粗暴犯とは、性質の違っているように思えるのだ。
このような印象があるからこそ、フィクションにおける「粗暴犯」においても、それが「痛快」なものになり得るのは、男性が主人公である場合だろうと、そんな印象(偏見)が、抜きがたく私の中に醸成されたのであろう。
昔、ミステリー小説をよく読んでいた頃、当時、桐野夏生の出世作『OUT』がたいへん評判になった。
その際も私は、女性作家が「女性たちの犯罪」を描く「犯罪小説」だと聞いて、まったく惹かれるものを感じはしなかった。
しかしながら、その評判がきわめて高かったため、読んだことのない作家だし「ひとつ味見してみるか」と読んでみたのだが、やっぱり私の好みには合わなかった。
「女性たちの連帯」が描かれていたとはいえ、やはり陰惨な印象の強い「女性的な犯罪」を描いた作品だったからで、ミステリー小説に「知的ゲーム」性を求める私の趣味からしても、「情念」的なものの濃厚な作品は、作者の男女を問わず、あまり好きにはなれなかったのだ。
で、そうした観点からすると、本作『テルマ&ルイーズ』は、変に湿っぽくはならずにカラッとしており、ましてや日本的な「情念」に流れることもない、「痛快な犯罪アクション」と呼んでいい作品であった。
そもそも、本作の監督は、『エイリアン』『ブレード・ランナー』『ブラック・レイン』などで知られる、男性映画監督リドリー・スコットなのである。
しかしまた、リドリー・スコットは、早くから「女性に理解のある」映画監督だということも知られている。
なにしろ『エイリアン』では、男性に遅れをとらない女性エレン・リプリー(シガニー・ウィーバー)を、『ブレードランナー』では、男まさりのレプリカント(人造人間)プリシラ・”プリス”・ストラットン(ダリル・ハンナ)を生んだ人である。ましてや、
『女性であるがゆえに他の訓練生たちからも酷く蔑視された。そこで彼女は髪を刈って坊主頭に変え、男たちと寝起きをともにし(※ て、軍隊の)訓練に励むようになる。そうした「女」を捨て過酷な訓練に励む』
ジョーダン・オニール(デミ・ムーア)を描いた『G.I.ジェーン』は、言うまでもないであろう。(Wikipedia「G.I.ジェーン」)
本作『テルマ&ルイーズ』は、『デュエリスト/決闘者』で映画監督デビューして以来、『エイリアン』『ブレードランナー』『レジェンド/光と闇の伝説』『ブラック・レイン』と続いたあとに制作された作品で、本作の次に来るのが『G.I.ジェーン』という流れである。
だから、本作を昨今流行りの「シスターフッド映画」だと思い込むのも、ましてや「フェミニズム映画」だと考えるのも、それは一種の「偏見(臆見)」でしかない。
たしかに本作には、「女の友情」が描かれているし、「女性の置かれた社会的に不利な立場」に対する、理解と同情が込められ、主人公の二人に対する、惜しみのない共感が示されている、そんな作品だと言えるだろう。
だがそれを、流行りの「シスターフッド」だの「フェミニズム」だのといった言葉で、殊更に「言い換えたがる」のは、「商業主義」的な過剰宣伝に毒された、悪しき「軽薄さ」でしかあるまい。
言うなればそれは、「フェミニズム」というレッテルを貼って、商品化しようとする態度であり、また、そうした「商業主義」にすっかり感化されて疑問も抱けなくなった、愚昧さの現れだとも言えるだろう。
そもそも、安易に「流行り言葉(流行語)」を使いたがる人間というのは、「無教養」なのである。「言葉」を知らないから、通りの良い「流行り言葉」に飛びつくのだ。
映画史的にいえば、本作は、『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン監督/1967年)、『明日に向かって撃て!』(ジョージ・ロイ・ヒル監督/1969年)、『バニシング・ポイント』 (リチャード・C・サラフィアン監督/1971年)などの「アメリカン・ニューシネマ」直系の「犯罪者映画(フィルム・ノワール)」であり、中でも『明日に向かって撃て!』の「女性主人公版」と呼んでも良いような作品である。
まただからこそ、「映画.com」では、本作を次のように紹介している。
『「ブレードランナー」「ブラック・レイン」のリドリー・スコット監督が女性2人の友情と逃避行を描き、「1990年代の女性版アメリカン・ニューシネマ」と評されたロードムービー。』
ただし、本作『テルマ&ルイーズ』と、「アメリカン・ニューシネマ」には、共通点と同時に、明らかな違いもある。
まず「共通点」はというと、主人公たちが「社会から阻害された犯罪者である」という点であり、その点において主人公たちは、観客からの「共感」を得ることができた。
一方「違い」はと言うと、「アメリカン・ニューシネマ」の主人公たちというのは、自分が「犯罪者(アウトロー)」であることに疑問を感じてはいない、という点だ。彼らはむしろ、「欺瞞的な社会に対する(正当な)反逆者」なのである。
彼ら自身にその「自覚」は無くても、彼らの存在自体が、「社会への異議申し立て」なのだ。
「アメリカン・ニューシネマ」の、こうした「反社会的」な気分とは、当時、泥沼化していた「ベトナム戦争」に対する、アメリカ国民の、「アメリカの大義(正義)」という言葉に、まんま騙されて利用されていた、という反国家的な感情に由来するものであった。
ところが、1990年代の本作『テルマ&ルイーズ』になると、すでに「アメリカの大義」などというものは、誰にも信じられなくなっている。
したがって、テルマ(ジーナ・デイヴィス)とルイーズ(スーザン・サランドン)の犯罪は、反国家的なものではなく、もっと「日常生活の中にあるもの」に対する「抵抗」として描かれている。一一それは何か?
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【※ 論評の必要上、物語のラストや、登場人物の秘められた過去などに言及しますので、未見の方はご注意ください】
「家父長制」というと、日本人の多くは「家の中で、父親(家長)が権力を持つ慣習的身分制度」くらいの印象なのではないだろうか。
だが、フェミニズムで言うところの「家父長制」というのは、そんな限定的なものではない。「社会全般」の話なのだ。
つまり、「家父長制」とは、社会全般において「男性・年長者」が権力を握る「社会制度」を意味している。
それが、「家庭」内にも及んでいるということであって、「家庭」限定の話などではない。
では、本作『テルマ&ルイーズ』における「家父長制」の問題とは、具体的にどのように描かれているのかというと一一、テルマの場合は「妻に屈従を強いる横暴な夫」であり、ルイーズの場合は「レイプ被害の過去」ということになる。
彼女たちには、そうした「家父長制」下にあって起こる多発する事どもの「被害」があって、初めて、本作に描かれる「犯罪」を引き起こすことにもなるのである。


つまり、「アメリカン・ニューシネマ」の主人公たちは、「犯罪者=アウトロー」であっても、そうであることによって「反逆のヒーロー」たり得たのだが、テルマとルイーズの場合は「犯罪に至らざるを得なかった、同情すべき犯罪者」でしかない。
つまり、彼女らの「犯罪」自体は、決して「肯定的」なものとしては描かれていないのだ。
彼女らの犯罪は、「生き残るために必要な、やむを得ないもの」として描かれており、特に最初の「殺人」は、テルマをレイプしようとした男をルイーズが射殺する、というものであり、だからこそ、ここで問題になるのが、「正当防衛」か否かなのだ。
結論から言えば、この射殺は、「正当防衛」にも「過剰防衛」にもならず、単なる「殺人罪」が適用されるであろう、「殺人」である。
というのも、テルマがレイプされそうになっていたのを、ルイーズは男に拳銃を突きつけることで制止して、すでにテルマは救出されていたのだ。
ところが、男に対して、怒りを込めて反省をうながすルイーズに対し、男は両手を上げながらも、舐めた態度で反省を口にしようとはしなかったため、ルイーズは「つい、カッとなって」男を射殺してしまったためである。
だからこそ、「逃げるしかない」となったのである。
このシーンを見た当初、私は「それは無理があるだろう。物語としては、ここで射殺してしまわないと、逃亡劇に発展しないからなのだろうが、この状況で射殺してしまうというのは、安直に映画的であり、現実的な説得力がない」と、そう感じた。
しかし、ルイーズの、この「過剰さ」であり「逸脱行動」は、物語後半において、彼女自身の「過去に受けた心の傷」によるものだったと明らかにされる。つまり、しっかりと根拠づけがなされていたのだ。
傑作と言われるだけはあって、さすがによく練り込まれた脚本になっていたのである。


ともあれ、テルマがレイプされそうになったというのは、要は、日頃から夫に暴君的に振る舞われ、萎縮して「女らしく」生活させられていた彼女が、気のおけない女友達との旅に出て、その解放されていた気分が災いし、男に騙されて招いた危機だった。
また、それを救ったルイーズの「殺人」も、過去に男性から与えられた「心の傷」に由来するものだったのだ。

つまり、彼女たちはいずれも、「男性優位社会=家父長制社会」の「被害者」なのであり、そのために、心ならずも「罪」を犯してしまった、「同情すべき犯罪者」なのである。
しかし、こう書くと、「テルマは、夫が家父長的であり、その意味で彼女が男社会ゆえの被害者だというのはわかるが、レイプ犯というのは、その犯罪者個人の資質の問題であって、男社会の問題ではないだろう」と、そう言いたくなる男性も少なくないだろう。だが、そうではない。
たしかに「レイプ」というものは、「男性優位社会」ではなくても発生するものではあろう。つまり「動物的な本能だけで」、何も考えずにそれを行なってしまう者が、一定数いる、というのは事実である。
しかしながら、そうした「レイプ」という犯罪を「起こりやすくしている」大きな要因として「男性優位社会=家父長制」が機能しているというのも、たしかな事実なのだ。
だから、「レイプ」犯罪と「家父長制」とは、決して無縁ではないのである。
具体的にどういうことかと言えば、レイプ犯罪というのは、女性の「人格」を軽視、または無視するところから生まれるものだからである。
つまり、女性を「自分と同じ人間」だと見ることのできない「愚かな男」によって引き起こされる犯罪なのだ。
女性を「自分と同じ人間だ」と思えれば、いかに性欲が高まっておろうと、無理やり女性をレイプしようとは考えないだろう。
具体的に言えば、女性を口説いて、双方合意の上でセックスをしようとするか、それが無理なら買春するか、その金が無いのならマスターベーションで済ませるということも可能なのだ。
それなのに、なぜ「レイプ」ということになるのかと言えば、それはレイプ犯の男性には、女性が「同じ人間」には見えておらず、単なる「性欲の対象」としか見えていないからである。
そうした、男性にとっては、女性は「冷蔵庫の中の食品」と同じで、欲しくなったら「食べれば良い」というだけの、「物」でしかないのである。
その時にあるのは、「自分の性欲」だけであって、「冷蔵庫の中の食品」に対した時と同じで、そこには、女性の「内面=心」は存在していないから、「無理やりセックスされたら嫌だろうな」といった程度の、当たり前の「想像力」さえ働かない。
ケーキは食われても、決して「嫌だとは思わない」というのと、同程度の認識なのである。
では、なぜ女性を「同じ人間」として見るという「想像力」が働かないのかと言えば、それは「家父長制」が、そうした男性に大きな影響を与えているからである。
「女は、男より下の存在であり、男に仕えて然るべきである」という「価値観」が刷り込まれているために、その「常識」を疑うだけの「知性」を持たない男性は、女性を「生きている(心を持たない)物」としか見られない。自分が「女性を人間として見ていない」という自覚すら持ててはいないのだ。
だから、女性に対する「暴力的な犯罪」というのは、単なる「動物的な本能」だけによるものではなく、「家父長制」という「価値観」が大きな影響を与えているということになるのであり、それは「家庭」内での「亭主関白」といったことでも、まったく同じことなのだ。
「家父長制」とは、社会の隅々にまで浸透して、不可視化された「男性・年長者優位主義」という、「イデオロギー」なのである。
こうしたことを、本作『テルマ&ルイーズ』でわかりやすく象徴しているのだが、本作に三度登場して、三度目にテルマとルイーズから痛い目に遭わされることになる、「トレーラー運転手の壮年男性」である。


テルマとルイーズが、ブルーメタリックのフォード・サンダーバードで逃亡の旅を続けていると、ガソリンを積んでいると思しき(同じ)トレーラーが三度、前方に現れる。
その度に二人は、このトレーラーを追い越すことになるのだが、その追い越しの際、トレーラー運転手の男は、その高い位置にある運転席の窓から顔を見せて、二人に対して、うれしそうに身振りを交えて、卑猥な言葉を投げかけてくるのである。

こうした男性が、現在どの程度実在するのかはわからないが、かつては少なくなかっただろうことは、容易に推察できる。
例えば私が若い頃なら、若い女性が歩いていると、道端にたむろしていた若い男たちが、女性に冷やかし半分の声をかけて「からかう」「ナンパする」といったことは、ままあったからだ。
つまり、ましてやこうした行為が、「車」に乗っての「行きずりで」となれば、さらに酷いことになるというのは、容易に想像できよう。
ただでさえ、車に乗ると「人格が変わる」と言われるほどなのだから、車という鎧に守られて気の大きくなった男性が、いつも以上に、女性に対して強く出やすいというのは、わかりやすい心理だ。
ましてや、巨大なトレーラーを運転していれば、運転している自分までが「大きくなった」ような気になるというのも、わかりやすい心理である。
さらに言えば、トレーラーの運転席は、高い位置にあるのだから、「あたりを睥睨する」的な目線(マンスプレイニング)にもなりやすいはずなのだ。
要は、本作に登場する「トレーラーのセクハラおやじ」は、巨大なトレーラーの大きさにまで自我を肥大せていたから、なおさら「家父長的」な「悪しき男性性」に陥っていたと言えるだろう。
彼にとって女性ドライバーは、「同じ人間」ではなかったのだ。
つまり、「トレーラーのセクハラおやじ」的な心性の極まったものが、「レイプ犯」の心理だと言えるのである。
彼らは、「家父長制」的な価値観において、女性を「同じ人間」と見ることができなくなっており、だからこそ、女性の「気持ち」を思いやることのない行動をとってしまうのだ。
だが、この問題は、「レイプ犯」や「トレーラーのセクハラおやじ」といった、わかりやすく「極端な例」に限るものではなく、広く社会に浸透したものである。それは、男性には見えにくくとも、否定できない事実なのだ。
だが、男性である私などであっても、インターネット上の「荒らし(トロール)」や「ネット右翼(ネトウヨ)」などと長らく対峙してきた経験から、彼らには明らかに「男性が多い」という特徴的な事実によって、社会における「家父長制」の問題を、実感として知り得ている。
インターネット上の「匿名」であれば、通常は「性別」も特定不能なのだから、「同じ人間」であれば、「荒らし(トロール)」や「ネット右翼(ネトウヨ)」も、男女半々であってもおかしくない。だが、現実にはそうではない。
これは、「荒らし(トロール)」や「ネット右翼(ネトウヨ)」について、ある程度の知識を持っている人なら、実感としてもわかることで、彼らには、明らかに男性の方が多い。しかも、圧倒的の多いのである。
これは、彼らが「強さを誇示する」その態度からも窺われることであり、比較的「性別を隠さない」ネット右翼においては、明らかな事実なのだ。
つまり、どうして「荒らし(トロール)」や「ネット右翼(ネトウヨ)」もまた、「男女半々」にならないのかと言えば、彼らの行動もまた「家父長制=男性優位主義」に毒されており、男性の方が「強いんだぞアピール」をしたがる(表に出たがる)からなのである。
「荒らし(トロール)」というのは、端的に「示威行為」であり、自分が「強い=力がある(強者である)」ということを誇示するためになされるものだ。そのため、「強さの呪い=家父長制」に囚われた「男性」が多くなるのも、理の当然。
そしてこれは、「ネット右翼(ネトウヨ)」でも同じで、右翼的な心性を持つ女性というのは、男性ほどではないとしても大勢存在するのだが、しかしそういう女性は、信念としてそれを持っていたとしても、それをネット上などで、殊更にアピールしたがる者は多くないから、結果としては「ネトウヨは、男が多い」ということになるのである。
言い換えれば、男性は「誇示」したがるが、女性は「実質」を重んじる傾向がある、と言えよう。
この違いは、男性が「強さの呪い」たる「家父長制」に毒されているためなのである。「強さ」を認めてもらえない男は「男とは認められない」という強迫観念を抱えているからこそ、実力も無いのに(無いからこそ)、殊更に「強がり」たがるのだ。
一一これが「荒らし(トロール)」や「ネット右翼(ネトウヨ)」に「男性が多い」ということの意味なのである。
例えば、私の「note」を「荒らし」にきた、ハンドルネーム「糞リプマン」なる人は、私の徹底的な逆襲に抵抗する中で、自身を「優秀な会社員」だとしきりにアピールすることになった。
これは、私が「生涯一巡査(平警官)」だったことに対する「マウンティング」として出てきたもので、具体的には、彼は自身が「プロジェクト・リーダー」であり、自分がいないと仕事が回らないなどと、豪語したのである。
しかし、それに対して私は、「平日の朝の9時過ぎや昼の14時過ぎに、毎日1時間近くも(私への反論として)ネットに書き込みしているような社員が、会社で評価されているわけないだろう。自分の年齢すら隠している、明らかに昭和生まれの小心者である君が、有能な社員だなんて、自己申告だとは言え、厚かましい嘘にも程がある」と挑発したりした。
そしてさらに、同氏の、
・年間読書人は北村紗衣氏の本を切り刻めない(年間読書人のエア読書シリーズ①)
という記事のリード部分、
『今日二回目の(※ 記事投稿となる)糞リプマンです。
明日から長期出張みたいなもんで今日中にUPしなければなりません』
という文章を捉えて、
「『長期出張みたいなもん』って何だよ? 本当に「長期出張」なら『みたいなもん』とは書かないはずだから、出張ではないんだな。要は、ネットへの書き込みがしにくくなることの言い訳であり、誤魔化しとして『長期出張みたいなもん』だなんて書いたんだろう? さては、勤務時間中に仕事をサボってネットばかりしているのがとうとうバレて、上司から叱責され、ネットができないように配置転換にでもなったんじゃないか? プロジェクトリーダーとか自慢してたけど、実態は窓際のロートル社員?」
などと挑発したところ、「糞リプマン」氏はこれに激しく反応して「自分がいなければ会社は回らない。上司なんてぜんぜん怖くはない」と、次のように、書いたのでした。
糞リプマン
2025年7月8日 02:43
俺が好きに勤務形態選んでんだよ
糞リプマン
2025年7月11日 05:51
ああ、俺は勤め人には向いてないよ。
たとえ無能な上司でもその意向に従うなんて絶対無理。
従わない事で結果を出して益々嫌われる🤣
糞リプマン
2025年7月12日 15:19
まあ、向いてるも向いてないも会社によるな。
依怙人事がまかり通る馬鹿な会社はダメだ
糞リプマン
2025年7月12日 15:27
馬鹿な上司は意向は出すがいざとなったら逃げる。絶対に責任取らない、
だからアホな意向は無視するに限る
糞リプマン
2025年7月12日 15:28
そういうのを高く買う経営者もいるけど、あまりいない。お前はビジネス書「も」読まないからわからないだろうけどな🤣
糞リプマン
2025年7月12日 16:15
(※ 上司には)負けてねえよ。上司(※ の方が)が辞めた🤣
そいつに影響与えた老害ジジイは俺が圧迫かけて辞めさせた。
ああいうの一人出ると数十年影響が出る
糞リプマン
2025年7月12日 16:16
昔は3年で非正規を採用するルールがあって、そのジジイもそのルートで入ったらしいけどあれも良し悪しだな。
糞リプマン
2025年7月12日 16:17
学歴だけでキャリアが決まる警察が羨ましいよ
糞リプマン
2025年7月12日 16:18
尤も、大卒でなくてもデキる奴もいれば院卒で使えない奴もいる。
責任感のない奴はどれだけ学歴があってもダメだ
等と、「匿名」だから裏の取れないのを良いことに、こんな調子で、いかにも職場での「負け犬」ぶりを自己暴露し、そのうえ「学歴コンプレックス」まで丸出しにしてしまったのである。
つまり、「糞リプマン」氏の、こうした「強がり」や「学歴コンプレックス」というのも、言うなれば「家父長制の呪い=男は強く優秀であらねばならぬという呪い」から出たものであり、この人が「荒らし」をして、人を馬鹿にしたようなコメントを書き込むのも、要は、実生活では認められることのない、自身の「強さ」を誇示したいという、「家父長制」的な強迫心理から出たものなのである。
また、だからこそ、その言葉は、他人を馬鹿にし嘲笑して「見下した」ようなものになりがちなのだ。
例えば、こんな具合である。
糞リプマン
2025年2月9日 13:26
暴漢がチ◯ポ拭きながら説教してるようなもんだな🤣
これが、先に紹介した、『テルマ&ルイーズ』に登場した「トレーラーのセクハラおやじ」の物言いと似ているのは、決して偶然ではない。
なぜなら、彼らが「性的な下ネタ」を使いたがるのは、「自分が、男として強い」ということを誇示するのには、「セックスが強い」ということを誇示するのが一番であるという「男性性の呪い」を掛けられているからなのだ。
こうした人には、「性的に淡白」であるというのは「男らしくない」と感じられている。
だからこそ殊更に、「性」にこだわりを見せるのである。
したがって、繰り返して言うが、「家父長制」とは「男(と年長者)は強い」というイデオロギーであると同時に、男性に対しては「男は強くあらねばならない」という「呪い」を課すものでもあるのだ。
言い換えるならば、「強さを誇示する」者は、男女を問わず「家父長制の呪い」に囚われている、とも言えるのである。
そんなわけで、その代表的な「女性」の一人が、「武蔵大学の教授」で自称フェミニストの、北村紗衣だ。
北村紗衣の数々の「上から目線」丸出しの言葉は、北村が「家父長制」に抵抗しているフェミニストだからではなく、本来なら敵であるはずの「家父長制」を内面化してしまい、「家父長制」に取り込まれて、「男性化」してしまっているからなのだ。




北村紗衣にあって、「上から目線=強さの誇示」ばかりが目立ち、「優しさ」や「思いやり」や「配慮」といったものが極めて希薄なのは、ご当人がわざわざ自己申告している「発達障害」のせいばかりではなく、「発達障害」としての弱点である「無神経・無配慮」を、「家父長制」が、「強さ」の一種として、正当化していたからなのである。
「他人に配慮などする必要はない。それは女性的な弱さでしかないのだから、お前はただ、強くなればいい。他人に勝ちさえすれば、それでいいのだ。(虎だ、虎だ、お前は虎になるのだ!)」
というのが、北村紗衣自身における、「家父長制の呪い」なのである。
そんなわけで、「家父長制の呪い」とは、男女を問わず、広く浸透しているものなのだが、その表れ方は、従来のような「男は強くあれ」「女は男に従え」というものに止まらず、今や「女も男のように強くなって、男になれ」というものにもなってきている。それは上野千鶴子も指摘していたとおり、資本が女性の労働力までを「生産」の用に供し始めたためであろう。
だからこそ、本来なら「弱者擁護のための思想」だったはずの「フェミニズム」までもが、「実力主義」的な「新自由主義資本主義」に取り込まれてしまった。
北村紗衣がその典型であるように、「フェミニズム」は、フェミニストですら、自分だけが現行の資本主義社会での「勝者」たらんとする、「リーン・イン・フェミニズム」や「セレブリティ・フェミニズム」といったかたちへと変貌しているのである。

しかしながら、こうした「フェミニズム」では、「女性の一部(エリート女性)が、家父長制社会の中で、名誉男性になる」だけであって、「女性差別」が無くなることにはならない。
エリート女性から見た「頭の悪い一般女性」は、そもそも自分たち「エリート女性」と対等の位置を占めるべき価値の無い存在だと、その「家父長制」的な「強さの価値観」において見下されているのだから、そうした「今どきのフェミニズム」によって、「弱い立場に置かれた女性」が救われることなど、原理的に、あり得ないのだ。
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本作『テルマ&ルイーズ』のラストで、テルマとルイーズの二人は、警察に逮捕され服役するという選択や、最後まで国家権力(法の支配)に抵抗して射殺されるという(『明日に向かって撃て!』のような)選択を採らず、なぜ、みずから断崖絶壁へと車ごと飛び込んでいくという、「自殺」を選択したのか?

それは、彼女たちは、この社会の論理、つまり「家父長的な、法の支配の世界」の外に出ることで、初めて勝ち得た「自由(な旅)」を捨てたくなかったからである。
「逮捕・される」「射殺・される」という「受動的な立場」ではなく、「死を・選ぶ」という主体性において、彼女たちは、この「家父長的な世界」の外へと、逃げ切ったのである。
ちなみに本作が、世間一般的な意味での「男性批判的なフェミニズム映画」ではない、というのは、本作には、テルマとルイーズの「女性であったが故の不幸」に深く同情するハル刑事の存在にも明らかだ。

彼は何とか、彼女たちを無事なまま逮捕し、その上で、彼女たちの「止むを得なかった犯罪」について、その情状を最大限に反映した「法の裁き」を受けさせようとしていたのである。
しかしながら、こんな「女性の味方」であるハル刑事もまた、ある意味では「家父長制」の呪いの中にあるとも言えるだろう。
なぜなら、彼の「保護者的な思いやりや優しさ」というものもまた、「男性的な強さ」から出たものに他ならないからである。
だが、私は、こうした「男性的な強さ」としての「思いやりや優しさ」まで、否定しようとは思わない。
なぜならそれは、「家父長制に抗う強さ」だと考えるからだ。
北村紗衣の「優しさや思いやりを欠いた男性性」が「家父長制の呪い」によるものだとすれば、私たちが目指すべきは「家父長制の呪いとしての強さ」に抗するものとしての「優しさや思いやりとしての強さ」を身につけることだろう。
『テルマ&ルイーズ』の「美しいラスト」に、それでも私たちの心は痛む。
だが、その痛みを忘れないことこそが、本当の「強さ」なのではないだろうか。

(2025年8月18日)
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