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青崎有吾 『地雷グリコ』 : オリジナルゲームという異世界

書評:青崎有吾地雷グリコ』(角川書店)

本作は、ミステリ小説の「年間ベストアンケート」誌である『このミステリーがすごい!』(2025年度)と、『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』誌が毎年行なっているアンケート「ミステリが読みたい!」(2025年1月号)において、それぞれ第1位を獲得し、さらに本格ミステリ大賞」「日本推理作家協会賞」「山本周五郎賞」までも受賞した、実質的に、「本格ミステリ」における昨年の「ベストワン作品」である(奥付刊行日は2023年11月27日)。

そんなわけで、例によって古本落ちしてから読んだのだが、さすがにとても優れた作品だ。
一一と言うか、優れた本格ミステリ作品を書く作家にいつも感じることなのだが、「この人の頭の中はどうなっているのか」と感心してしまう。それほど複雑なのだ。私の頭では、到底ついてはいけない

本作『地雷グリコ』は、一見「ちゃらんぽらんな、ゆるふわ系」の女子高生なのだが、実はとんでもない思考能力を隠し持った主人公・射守矢真兎(いもりや・まと)による、「ゲーム対戦」の数々を描いている。
つまり、殺人事件ものではなく、「ゲーム」による「知的対決」の描かれた作品だ。

本作は、短編5篇からなる連作長編だが、長編としての結構は「物語」的なものであって、最後に全体の仕掛けが明らかになる、といったパターンのものではない。
しかし、だからつまらないのかと言えば、そうではない。

連作長編作品は、しばしば最後の仕掛けのために、それまでの短編個々が、やや小粒なものになりがちなのだが、本作の場合は、個々の短編のクオリティが重視されているので、いずれも読み応えのある短編ミステリに仕上がっている

本作の「各話」に当たる短編のタイトルは、次のとおり。

・ 地雷グリコ
・ 坊主衰弱
・ 自由律ジャンケン
・ だるまさんがかぞえた
・ フォールーム・ポーカー

これらのタイトルからもわかるとおり、本作がユニークなところは、もともとあった「ゲーム」なり「遊び」に改変を加えて、オリジナルゲームにしたもので対戦する、という点である。
この「改変」こそが、曲者なのだ。

表題作である冒頭の短編「地雷グリコ」を読めば、もうその完成度に、うなるしかないだろう。「よくも、こんなものを作り上げたな」と。

よく出来ている。とにかくよく出来てはいるのだが、しかしかなり頭を働かせなければ、作中でなされている「説明」が、頭に入ってこない。
「たぶん、そうなるのだろうな」と納得はできるのだが、作中の説明で、私自身が、この作品の「細部」まで完璧に理解したとは思えない。もう、ただただ作者に脱帽状態になってしまうのだ。

というのも、もともと私は「複雑なもの」があまり好きではない「直観派」であり、「面倒くさい」ものが苦手なのだ。

言い換えれば、「ある一点」に気づけば、後はスルスルとすべてが解けてしまうようなパターンのものなら好きなのだが、複雑な過程をひとつひとつ踏んで、攻略していくようなものは、面倒くさくてダメ。

だから、本格的なゲーム全般がダメで、将棋も囲碁も、コントラクトブリッジといったものも、ぜんぶダメ。
まず、ルールを覚えるのが面倒くさいし、そのゲームに慣れて、まともな勝負ができるようになるまでの時間が惜しい。

なにしろ私は、本を読むために、テレビの連続もの(ドラマやアニメ)は見ないと決めて実行し、最初にパソコンを買った時も、ゲームには使えないように、わざわざアップルiMacを購入した。
私が初めてパソコンを購入した頃には、すでに(インストール型の)パソコンゲームがブームとなっており、「ネトゲ廃人」ではなく「ゲーム廃人」という言葉もあったはずだ。
だが、当時のアップルコンピュータは、多くのゲームソフトに対応していなかった。だから、わざわざアップルを選んだのだ。
私はもともと凝り性だから、ゲームをやったら絶対どハマりしてしまうと確信していたので、「君子危うきに近寄らず」で、現状で満足な「読書」という趣味に専念しようとしたのである。

閑話休題。
そんなわけで、私はもともと「複雑なゲーム」は、大の苦手である。
あまり頭を使わず、主に運に頼るようなゲーム、例えば、花札だとかポーカー7並べくらいなら子供の頃にやったが、記憶力が勝負の神経衰弱などは、すぐに敬遠した。記憶力が無いのには自信があったからだ。

したがって、本作で扱われているグリコ」「坊主めくり」「ジャンケン」「だるまさんがころんだ」「ポーカーくらいならやったことがある。
いずれも、さほど頭を使わなくてもできるゲームだからなのだが、本作のタチの悪いところは、こうしたシンプルなゲームに、わざわざ「オリジナル・ルール」を加えて、複雑な「知的ゲーム」に作り変えている点なのだ。

まあ、そうしなければ「推理小説=本格ミステリ」にならないというのは私だって理解しているが、本作に描かれる「オリジナルゲーム」は、知的凡人では、とうてい参加できないような、複雑きわまりないものへと「魔改造」されている
そして、その魔改造ゲームを使って、非凡な登場人物たちによる対戦がなされ、それを主人公の射守矢真兎が勝ち抜いてゆき、最後は、因縁のある「旧友」と一騎打ちする、そういうお話なのだ。

 ○ ○ ○

そんなわけで、複雑なものが苦手な私は、本作の複雑さにはついていけず、「面白い」と言うよりは、ひたすら「感心させられた」
「よくもまあ、こんなものを作ったな」と、その点で、呆れもし、兜もシャッポも脱いだのだ。

だが、本作のキモは、まさにこの「複雑さ」にあるし、何よりも「オリジナルゲームによる対戦」というところにあろう。

普通の、事件ものの「本格ミステリ」と比較してみるとわかることだが、普通のミステリの場合は、状況を過剰に「複雑化」させることは、必ずしも作品の評価を高めることにはならない

例えば、よく「木の葉を隠すのなら森に」と言うけれども、木の葉を見つけることが目的のゲームなのであれば、森に隠されてしまうと、絶対に目的の木の葉は見つからないから、それはゲームにはならない。
ゲームが成立しないから、それはゲームとしては「失敗作」だということになってしまう。

だから、ある有名なミステリ短編では「死体を隠すために、戦争をして死体の山を築く」ということをするのだが、この作品の場合、その死体を発見することが探偵役の目的ではなく、死体を「どこにどのようにして隠したか」を探り当てるのが目的だったからこそ、犯人と探偵の知的ゲームも成立したのだ。

また、ある古典的名作では「手紙を隠すのなら、状差しに」というトリックが描かれるが、この作品が「名作」たり得たのは、絶対に隠さなければならない(見つけられてはならない)手紙であったればこそ「まさか、そんな当たり前な場所に置いておくことなどあり得ない」という「常識的判断」の裏を大胆にかいてみせた、「逆転の発想」による「シンプルなトリック」だったからなのだ。

つまり、「本格ミステリ」の場合には、「複雑さ」というのは、必ずしも「美点」ではないのである。

「わかりそうでわからない」あたりの、微妙な「思考の盲点」を突いた作品こそが、真相を明かされた読者に「やられた!」とか「もう少しで気づいたかも知れないのに…」といった「してやられた」感を喚起し、騙した作者の側には「してやったり」感を生む
そのあたりが「作者と読者の知的ゲーム」たる(古典的)本格ミステリにおいては、「傑作中の傑作」ということにもなるのである。

で、そういう観点からすれば、本作はもともと、その「高度に複雑なパズル性」において、凡人の読者では、天才的な作中人物に、初めから「ついていくことのできない」作りになっていると言えよう。
読者はひたすら、作品人物の超人的な洞察に感嘆し、その説明を拝聴するばかりで、作中の探偵役と「真相究明」を競うことなど、初手から不可能なのだ。

無論、「高度に複雑なパズル性」を持った「本格ミステリ」作品というのは、昔から多数存在している。
例えば、私はその昔、ミステリマニアのサークル「SRの会」の例会で、山沢晴雄氏出題の「犯人当て」をやったことがあるのだが、山沢氏によって読み上げられる問題編が始まって早々に、私は問題のポイントのメモを取るのを放棄してしまった。
「これはもう、到底ついていけない」と感じたからである。

ところが、さすがはマニアのサークルだけあって、最後までぜんぶ聞いて、それなりの推理を構築した人が何人もいたのだから、結果として正答だったか否かは別にして、その思考の粘り強さに感嘆させられた記憶がある。

が、それはそれとして、後に、SRの会の会員である戸田和光氏の編になる『山沢晴雄セレクション 死の黙劇』などを公刊する山沢氏だが、それがすべてではないものの、氏は「複雑なパズルミステリ」を得意とする人だったのだ。

さて、ここでなぜ山沢晴雄(以下敬称略)を持ち出したのかというと、山沢の場合は、ベースとしての舞台が現実世界(での事件)であり、その点で、本作『地雷グリコ』とは違って、どこが複雑なのかは、誰の目にも明らかであり、私のような堪え性のない読者にも、すぐに「これは無理」だと見られてしまうという弱点を持っていた。

言い換えれば、本作『地雷グリコ』の場合は、「オリジナルゲーム」という「特殊な舞台」上でのゲームだからこそ、それを読まされる読者は、そのゲームに馴染みがないために「よく理解できなくても当然」だと安心することができるのだ。
「こんな変則的なルールを初めて聞かされて、それに完璧に対応できるのは、天才だけだ」とそう思うから、読者は、その「ルール上での推理」を、敗北感なく放棄することが出来、もっぱら「物語」の観客の立場に安住することになるのである。

つまり、山沢晴雄の作品の時のように「頑張って、論理的に犯人を当てよう」とか「真相を見抜こう」などとは、あまり思わないような作りになっている。

だからこれは、よく言えば「安心して楽しめる、知的エンタメ」と言えるし、悪く言えば、「作者と読者の知的対決」性は後退している、とも言えるのである。

そしてそうした意味では、本作は、近年ブームになった「特殊設定ミステリ」と、同様の性格を有しているとも言えよう。

「特殊設定ミステリ」とは、一般に「特殊な世界における、その世界の法則性に則った本格ミステリ」を指しており、その独自の法則性に基づいて「論理的」である点においては、確かに「本格ミステリ」なのだが、しかし、それまでの「現実世界」を舞台にした「古典的本格ミステリ」と、どこが違うのかといえば、読者が、作者の設定したその「特殊世界」の「特殊法則」に慣れていない、という点にあろう。

「現実世界」を舞台にしていれば、私たちはこの現実世界に慣れているから、おのずと見逃しが少ない。
見逃しやすいのはどのあたりかということを、日常生活の中で何度も学習しているからである。

ところが「特殊設定ミステリ」の場合、作者によって、「その世界特有の法則性」がフェアにすべて説明されていたとしても、なにしろ読者はその法則性に慣れていないものだから、当然「見落とし」や「思い至らない部分」が多くなってしまう。
しかし、作中の探偵は、示されたルールを完璧に理解して、その意味するところも完全に把握できるからこそ、論理的に真相に至ることも出来るのだ。

つまり、「特殊設定ミステリ」の場合、作中の探偵役と同じ立場にある、「ルールを知悉した、ルールの創造者である作者」は、明らかに読者よりも、断然有利なのである。
そして、この有利さは、「現実世界を舞台にしたミステリ」と比べても、格段の差があると言えよう。

近年「特殊設定ミステリ」が増えたのは、要は、読者が知悉している「現実世界=現実世界の法則性」に縛られた上での「論理的かつ意外性を有する」作品というものが、当然のことながら、徐々に書きにくくなってきたためであろう。
もう、たいがいのアイデアは出尽くし書き尽くされたに等しいからこそ、ミステリ作家たちは、「未開拓の地」を求めて、「異世界」へと乗り出していったのである。

そんなわけで、一見したところ「現実世界」を舞台にしているように思える本作も、その本質は「特殊設定ミステリ」なのだ。その一種だと考えたほうがいい。

なぜなら、本作において登場人物たちが対戦する「世界」とは、「特殊設定ゲームの世界(内)」に他ならないからなのだ。
登場人物たちの「特異に歪んだ性格」までも含めて。

(コミカライズもなされている。また、それが合いそうな作品だ)

私たち「一般読者」は、この「特殊世界」の創造者や、その世界の住人と、その慣れない「ルール」に則って勝負したところで、所詮、勝ち目がないというのは理の当然で、作者が「神の如き知性」の持ち主に見えてしまうのも当然のことなのだ。
なにしろ作者は、こちらの現実世界の神ではなく、あちらの作中世界の神だからである。

その意味で本作の作者・青崎有吾は、見事な「本格ミステリ」を書いたという以上に、「見事な異世界を構築した」と、そう称賛されて然るべきであろう。

こんな「身近なものでありそうで、実はぜんぜん違ったゲームの世界」を作ってみせた段階で、作者は物語作家として、すでに読者に勝っていたと、そう言えるのである。


(2025年9月16日)


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