伴名練 『百年文通』 : 短編長編化の無理を感じる残念な作品
SFファン待望の、伴名練の新刊だと言っても大筋では間違いではないと思う。
というのも、伴名練の活字の本としては、大変な評判をとった2019年の短編集『なめらかな世界と、その敵』以来、じつに6年ぶり新刊ということになるからだ。

だが、「活字の本としては」という限定句をつけたのは、本書の原型となる同名作品は、2022年に電子書籍として刊行されているためである。
したがって、熱心な伴名練ファンであれば、すでにそちらで本作を読んでいるだろうから、今回の「活字版」は、さほど「待望の」でもなかったかも知れない、ということになる。
私の場合、活字の本しか読まないから、電子書籍の情報には疎いし、そもそも退職して隠居生活に入って以降は、新刊情報にも疎くなっていたので、電子書籍版『百年文通』の存在などまったく知らなかった。

本書については、先日2ヶ月ぶりくらいに新刊書店に立ち寄った際に、伴名練「ひさびさの」単行本だと思って、飛びつくようにして新刊購入したのである。
最近の私としては、新刊購入は極めて例外的なことであった。
例によって、本書の存在を知ったのは、同日に書店で立ち読みした、『本の雑誌』誌の大森望の連載「新刊めったくたガイド」であった。そこで本書が紹介されており、たしか星4つ半がつけられていたのだ。
大森望は、前々から伴名練を強く推しているので、多少は眉に唾したものの、まあ、伴名練の長編は初めてだし、それなりに面白いはずだと考えて購入したのである。
ちなみに、このレビューを書くために大森望の記事をネット検索してみたが、現時点ではまだ「WEB本の雑誌」にはアップされていないので、私が立ち読みしたのは、同誌の本年11月号の記事だったようだ。
なお、それとは別に、SF評論家の牧真司が、長編版『百年文通』の書評を、「WEB本の雑誌」連載の【今週はこれを読め! SF編】に書いているのを見つけたので、本書の成立経緯やあらすじなどを記した前半部分を、ここに引用しておこう。
『『百年文通』は 2021年、〈コミック百合姫〉に一年間連載され、すでに一迅社から電子書籍が出ている。また、紙媒体では大森望編『ベストSF2022』(竹書房文庫)に収録されている。刊行時に本欄でも取りあげた(https://www.webdoku.jp/newshz/maki/2022/09/20/193506.html)。
今回の単行本は、大幅に加筆された改稿版である。
物語がはじまるのは、平成30年(西暦2018年)の神戸。読者モデル(それほど売れていない)の仕事をしている中学三年生の小櫛一琉(こぐしいちる)は、撮影で訪れた古い屋敷に置かれていた机の引き出しに一通の手紙を見つける。旧字で書かれており、読めないところのほうが多いが、文中の「戀」の一文字が、一琉の目を惹いた。きっとラブレターだと思いこんだ彼女は、読めない字に付箋を貼って調べはじめる。手紙をいったん引き出しにしまい、考え直してまた引き出しをあけると、手紙は消え、代わりに手紙と同じ筆跡の一筆箋があり、《誰ですか?》と記されていた。
そこから、一琉と、大正7年(西暦1918年)に暮らす日向静(ひなたしず)との文通がはじまる。静は一琉のひとつ歳下の十四歳。好奇心旺盛で才気に富んだ、しごく活発な娘だ。ふたりは意気投合し、頻繁に手紙を交換する。あるとき、一琉が手紙を静に送ろうとするタイミングで、急にスマホの着信音が鳴り、その音に慌てた彼女は、スマホを引き出しに落としてしまう。(以下略)』
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さて、ここまで、作品の中身や出来以外のことをあれこれ書いてきたのは、じつのところ本作の出来が、残念ながら期待はずれだったからである。
期待が大きかったからということもあるだろうが、やはり物足りない。伴名練ではなくても、物足りなかったと思う。
で、その物足りなさが何に由来するのかと言えば、それはまず第一に、本作の原型が、コミック雑誌に「表紙連載」されたものだったからであろう。
『『百年文通』は、漫画誌『コミック百合姫』二〇二一年一月号から二〇二一年十二月号まで、イラストレーター・けーしん氏の挿絵とともに表紙連載された作品です。挿絵をすべて収録したバージョンは、一迅社から電子書籍として単体で発売されています。』
(本書「あとがき」P141)
私自身も先ほど気づいたばかりなのだが、この「表紙連載」という言葉は、たぶん「巻頭連載」のことではなく、文字どおりに「表紙」に連載された、ということなのだろう。当然のことながら、1回あたりの文字数はかなり少なかったのではないだろうか。
つまり、イラストストーリー的な作品の補足文的文章であり、活字の部分だけでは小説表現としては不十分な作だったのではないか、ということだ。

だから、それをまとめたものが「短編」として大森望編『ベストSF2022』(竹書房文庫)に収録されたのだが、言うなれば、もともとイラストがあることを前提として書かれ、もとより長編小説を意図して構想された作品ではなかった、ということである。
今回は、そうした基本性格を持つ短編に、徹底的に加筆することで長編化した作品、ということになるのであろう。
したがって、原型版では、イラストによって描かれ、文章化されてなかった「描写」を、長編化にあたって大幅に補い、また、SF作品としてのアイデアの部分も、原型のアイデアを膨らませるかたちで補強した。
しかしながらそれでも、本文が140ページ弱の短めの長編(または、長めの中編)になってしまったのは、もともと本作の原型が、短編的なワンアイデアものでしかなかった、ということではないだろうか。
無論、このあたりのことは、原型である、イラスト付きの電子書籍版や短編版と比較すれば、すぐに明らかになることなのだが、私がここでしているのは「なぜ、この長編小説は弱いのか?」という考察であり、言い換えれば「長編小説というのは、短編を後から膨らませるかたちで書くのは難しいのではないか(つまり、長編小説は最初から長編として構想されなければ、何かと難しいのではないか)」という、問題提起なのである。
したがって、「本作の物足りなさが何に由来するのか」という問題についての、第二点として考えられるのは、アイデア追加型の増補(の無理)である。
新たなアイデアを加えての増補なのだから、単なる「水増し」ではないのだけれど、やはり、元となる「骨格」の部分は基本的に変わっていないはずだから、その骨格に追加的にぶら下げられる「アイデア」だけを増やすというのは、作品としてのバランスが悪くなり、無理が目立つことにもなるのではないか。
実際、本作を読んで感じられるのは、全体としての流れが、なめらかではないということだ。
長編作品としての起伏があるというよりは、串団子状に「困難」に遭遇する。つまり「一難去ってまた一難」というパターンなのだが、これは大長編ならともかく、本作くらいの短い長編でやることではないだろう。
だが、本作はもともと短編で、それを加筆増補するかたちで、半ば力技で長編化したために、こうした無理のある「構成」になってしまったのではないだろうか。
「本作の物足りなさが何に由来するのか」という問題についての、三点目に考えられるのは、伴名練という作家がもともと持っている、「線の細さ」である。
この点については、上に『大変な評判をとった』作品として紹介した、2019年の短編集『なめらかな世界と、その敵』』のレビューで、すでに指摘していたことである。
私はそのレビューを「〈繊細さと不安と救済〉に欠けたもの」と題したのだが、このタイトルに私の言いたいことは尽くされていると思う。

つまり、伴名練は、周知の如くSFに関する膨大な知識を持っているだけではなく、その人柄の良さと繊細さの伝わってくる作家であり、きわめて感じの良い作風の人なのだが、私が感じたところでは、いかんせん「線が細い」。
で、線が細い作家というのは、大成しないことが多いので、私は、前著『なめらかな世界と、その敵』の段階で、もう少し図太さを身につけてほしいと注文をつけたのだ。
だが、私の悪い予感は当たり、『なめらかな世界と、その敵』でたいへんな評判をとったわりには、以降、伴名練は小説家としては目立った活躍をせず、と言うか、そもそも著書を刊行しなかったのである。
SF作家には、専業ではない人も少なくなく、本業のかたわら、質の高い作品をマイペースでぽつぽつと発表しつつ、日本のSF史に名を残すというパターンの人も少なくはない。
だから、伴名練の場合も、執筆時間が専業作家ほどには取れないために、著作が毎年のようには刊行できないということなのであれば、それはさしたる問題ではないだろう。
だが、伴名練が書けないのは、そうした執筆時間の問題ではなく、もともとの性格に由来するものなのではないかと、私にはそう思えてならないのだ。
ちょうど昨夜、NHKで再放送されていた『私の自叙伝』という番組で、手塚治虫が、おおすじで次のようなことを語っていた。
「漫画はハングリーアートだと言われますが、たしかに私自身、自分のコンプレックスから作品を生み出していたようなところがあります。
けれども、それだけでは限界があって、描きたいものを描いてしまうと、もはや描くものがなくなってしまう。
それで私もスランプに陥ったことが何度かありましたが、それでも私が描き続けることができたのは、私自身、損得抜きで漫画をやめられなかったこと。子供のままでいたいという願望が強かったからだと思います。
また、人から『手塚は終わった』と言われると、何くそと思って、新しいジャンルに挑戦したということがあると思います。私の場合は、悪書追放運動なんかで、何かというと叩かれたんですが、しかし、叩かれたからこそ負けられないと頑張れたところがあると思います。
そして、そうしたことからすると、今の漫画界をめぐる状況は、漫画を読んで育った評論家や親御さんが多くなったので、批判されることも少なくなった。
でも、漫画がクリエイティブなものであり続けるためには、やっぱり批判は必要なものだと思うんです。
もちろん、デタラメな批判では困りますが、痛いところを突いてくるような批判というのは、これからも必要です。
だから、皆さんに言いたいのは、ぜひ漫画を批判してくださいということ。いや、手塚治虫を批判してくださいということです。そのことで、私もまた頑張れるからです」
手塚治虫がここで言っていることは、あらゆる芸術や創作に言えることではないかと思う。
そして、これを伴名練に当て嵌めて考えてみると、伴名練の場合は、もともとSFファン意識が強くて、ある程度「憧れた作品」みたいなものを書いてしまうと、そこで夢が叶って満足してしまった、というようなところがあるのではないだろうか。つまり、よく言えば欲がない。悪く言えば、作家的なハングリー精神に欠けるということである。
そのせいで、傑作も駄作も含めて、とにかくどんどん書くということが出来ないのではないだろうか。
だが、こうした危惧を抱いてはいても、基本的には好感を持っている作家だし、期待してもいるので、今回の長編版『百年文通』も、飛びつくように購読したのだが、結果としては、私の危惧を跳ね返すような「骨太な作品」、あるいは「貪欲さを感じさせるような作品」にはなっていなかった。
やはり、伴名練は、ワンアイデアを生かした、繊細な細工物の短編を書くべき作家なのではないか。喩えていえば、芥川龍之介のような。
短編ならば、伴名練らしい「感じの良い」しかし「文学的な厚みを欠く、キャラクター(登場人物)」であっても、良いものが書けると思う。
だが、言い換えるならば、伴名練には長編らしい長編、骨太な長編が書けないのではないか、ということにもなってしまう。
無論、無理に長編を書く必要などさらさら無い。伴名練に「ドストエフスキーになれ」となどと言うつもりなどないのだが、そうならそうで、せめてコンスタントに良質な短編を書くSF作家として大成してほしいと、そう願わざるを得ないのである。
(2025年11月5日)
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