見出し画像

佐藤亜紀 『小説のストラテジー』 : 北村紗衣の点対象

書評:佐藤亜紀小説のストラテジー』(青土社→ちくま文庫

今回私が読んだのは青土社版単行本(2006年)の方だが、ちくま文庫版(2012年)の帯には、次のようにある。

小説は快楽の装置である
小説の「形」をめぐり展開される読む/書くための指南書

なかなか秀逸な惹句だ。
著者・佐藤亜紀の「小説」に対するスタンスと本書の内容が、端的に表現できているからである。

『小説は快楽の装置である』という考え方に異論のある小説読者は、ほとんどいないと思う。
平たく言えば、小説は「楽しい(気持ちいい)」。だから読む、ということである。

例えば、「気味悪いホラー小説」を読むのだって、「悲惨な現実を描いた戦争小説」だって、それは「気分が悪くなるために読む」わけではない。

ホラー小説の場合なら、気味悪く感じること、怖いなあとゾクゾクすることが「快楽」なのだ。だから読む。
また「悲惨な現実を描いた戦争小説」のような、この世の「嫌な現実」を突きつけてくるような小説を読んで、わざわざ気を滅入らせたりするのも、それは私たちが「より深く世界の実相に触れたい」と願っており、それに触れることは、たとえ「嫌なこと」であったとしても、「知る(実感できる)」こと自体は、やはり「快楽」だからである。

したがって、上の帯文で問題となるのは、本書の中身を紹介した、

『小説の「形」をめぐり展開される読む/書くための指南書』

の方であろう。

本書は、ほとんどもっぱら『小説の「形」』についての議論に終始し、その上で、そうした「形」の小説を『書くための指南書』となっているのだ。

では、なぜ『形』なのかというと、佐藤亜紀は、小説の「中身」とか、それによって示される「意味」ということを重視しない立場だからである。

小説とは「快楽」装置なのだから、「意味」をもたらす「中身」など必要ない、ということなのだ。「意味のための意味」など必要ない。

平たく言えば、小説を読んで、そこから、深い思想や哲学を引き出そう、それを身につけようなどとするような読み方は間違っているし、そうした小説の書き方も間違っている、という立場なのである。

もちろん、小説の中で、思想や哲学が語られるのは結構なのだが、それは、思想や哲学を伝えたり学んだりするためではなく、あくまでも読者に「読み快楽」を与えるための「手段=道具」であって、それそのものが重要なのではない。
「そんなことをしたいのなら、思想書や哲学書を書け」ということである。

そしてそれは「物語」とて同じことなのだ。
多くの「エンタメ小説」は、読者に「面白い物語」を提供することを目的として書かれ、読者の方も「これはどんな面白い物語なんだろう?」と、そうした期待を持って新作小説を読むのだが、佐藤亜紀にとっては、そうした「物語」というのも、小説の本質ではないのだ。

では、小説における「物語」とは何なのかと言えば、それは「小説の快楽」を盛るための「器」のようなものであり、だからこれ(物語)も、それ自体が目的なのではない(※ ここは、私の理解)。

ただ、器を食べさせるわけではなくても、見栄えの悪い器よりも美しい器の方が、料理にとっては良いに決まっている。
優れた器には優れた料理も盛りやすいし、より料理も美味しくなる。だからこそ、その料理に合った器を選ぶのであって、器つまり「物語」の提供が、小説の本質(本体)なのではないのだ。

例えば「物語」が肝心なのであれば、要は「あらすじ」みたいなものでも良いはずなのだ。だが私たちが小説に求めるのは、「あらすじ」ではなく、あくまでも「語られて小説となったもの」である。
だから、「あらすじ」は小説ではないのかと言えば、無論、小説ではない。

つまり、「これこれこういう展開の話」という意味での「物語」は、小説ではない。
それはあくまでも、小説のための器のようなものであり、適切なそれ(器)があれば便利だが、それが主たるものではない
事実、物語らしい物語が無い小説というのは存在しているし、そんな小説であっても「読みの快楽」を与えてくれる作品は、現に存在しているのである。

だから、「物語」は小説そのものではないし、それこそが小説の本体だというわけではないのだが、そこを理解していない読者は多く、同様の小説家も少なくない。
そうした小説観とは、端的に言って「エンタメ小説」観でしかなく、あまり頭の良くない、視野の狭い小説観だというのが、佐藤亜紀の立場なのだ。

だから佐藤亜紀は、小説を「純文学」と「エンタメ小説(大衆文学)」に分けたりはしないし、そのいずれか一方こそが「小説」の正しい在り方だとも考えない。
どちらも、偏頗な小説観に捉われた、誤った考え方(小説観)だという立場なのだ。

小説とは、思想や哲学を盛る器でもなければ、逆に「物語」そのものでもない。前述のとおり、「物語」は器であり、小説の本体ではないからである。

では、佐藤亜紀における「小説の本質(本体)」とは、何なのか?

本書は、大学での講義のためのメモを元にした、全12章からなる一冊だが、その第4章「楽興の時」の冒頭で、佐藤亜紀は次のように書いている。

『 物語の機能についての続きです。
 小説の快が記述の運動によって齎されるものだとしたら、物語はどのような役割を担っているのか、というのが、前回の問題でした。何についても語らない記述がほぼ不可能である以上、記述はどうしても対象となる事物を必要とします。物語はそうした事物を、場合によっては連鎖的に、発生させます。適用すべき対象を一つ与えられるだけで一個の作品として成立するに足る記述を展開できるとしたら、それ以上の「物語」は必要ではありません(対象を一つ提示するだけで既に「物語」だということにもなりますが)。が、多くの場合、物語は複数の事物の連鎖からなり、記述はその絡み合いから、単一の事物について語る時よりも簡単に、ダイナミックな運動を展開することができます。
 ここで注意していただきたいのは、純粋な物語も、純粋な記述も実際には存在しない、ということです。』(単行本  P74)

『小説の快が記述の運動によって齎されるものだとしたら』と書いているように、佐藤亜紀にとっての小説の本体・本質とは「記述の運動」なのだ。それが読む者の中に「快」を生む。

ただし、最後に断っているように『純粋な記述も実際には存在しない』からこそ、それを盛る(乗せる)ための器にとしての、最小限の「物語」は必要とされるし、そうした「物語」の中で、思想や哲学(的な思弁)が大きな役割を占める形式の小説が、思想小説であったり哲学小説であったりする、ということにもなる。

ただ、佐藤亜紀は、最終章において、本書で繰り返し肯定的に言及した、ウラジミール・ナボコフシャーデンフロイデつまり「他人の不幸を喜ぶ(かのごとき、意地悪な態度)」というものを語って、ほとんど自分自身の立場と態度を表明している。
要は、一般的に言って、佐藤亜紀は、ナボコフと同様、「嫌なことを書く、嫌なやつ」であり、自身もそのことを重々承知しているのだ。

だが、そんな佐藤亜紀ナボコフも、馬鹿ではない。
むしろ知的には明晰であり、まただからこそ、世間が馬鹿ぞろいに見えて仕方ない。だから「嫌なこと書く」ことにもなる。これは必然なのだ。
「シャーデンフロイデなのも仕方ないだろう、だって馬鹿ばっかりなんだから」と、そういうことである。

佐藤亜紀が、いわゆる思想小説や哲学小説、あるいは「純文学」的な文学観を嘲笑的に否定するのも、それは、そうしたものを書く小説家や、それを喜んで読んでいるような読者は、小説の本質である「記述の律動」ということをよく理解しておらず、それを生むための「道具立て」でしかないものを、小説の本体だと見誤って、トンチンカンに勿体ぶった小説をありがたがっていると、そう評価しているからだ。

そして、その指向性は真逆であってと、「エンタメ小説」における「物語」中心主義もまた、「記述の律動」が小説の本体だということを理解していない点では同じことだ、ということなのである。

だから、本書の後半で語られるのは「小説の書き方」というのは、あくまでも佐藤亜紀にとっての「小説」の書き方であって、いわゆる純文学小説や思想・哲学小説でも、あるいはエンタメ的な「物語」小説の書き方でもない。

あくまでも目指されるべきは、それらの要素を適宜動員しながらも、あくまでも、それらの道具立てを駆使して生み出した「記述の律動」によって「快」が生み出す小説なのである。

だから、いわゆる「純文学」的な小説、あるいは、売れる「エンタメ」小説を書くためのヒントなど、本書に求めてはならない。
佐藤亜紀に言わせれば、その考え方自体が間違っているのであり、そんな奴ばかりだからこそ、世の中の多くの小説はクソなのだと、そういうことになるからである。

一一佐藤亜紀の言っていることは、基本的には正しいと、私は考える。佐藤の語っていることは「正論」なのだ。

しかし、問題は、佐藤亜紀自身、繰り返して語っているとおりで、

純粋な物語も、純粋な記述も実際には存在しない、ということ

なのだ。

「小説の快」を生み出すための「記述の律動」を生み出すためには、記述のする「内容」が必要である。
それが、「物語」であり、作中で語られる「思想・哲学」であったりするのだから、それをいっさい排除しなければならないと言っているのではない。
それを本体と見誤って、的を外した小説を書くのは、頭の悪い所行だと、佐藤亜紀はそう言いたいのだ。

だが、私が引っかかるのは、そもそも小説が「快楽」を得るために読まれるものなのであれば、最終的には「記述の律動」がまず大切であり、それが目指されるべきだというのは、所詮、ひとつの立場であり、「好み(趣味)の問題」ではないのか、ということである。
そしてそれは、佐藤亜紀が「音楽」好きだということと、たぶん無関係ではないはずだ。

小説に「あらすじ」的な面白さを求める人もいれば、思想や哲学的なものを求める人も、現にいる。また、いわゆる「人間が描かれている」ことを求める人もいて、「記述の律動」ということを、あまり重視しないと言うか、気にならない人も現にいるのだが、こういう人たちは、どうして「記述の律動」ということを半ば無視して、物語や思想・哲学的な「中身」あるいは「人間描写」といったことを重視するのか? いや、重視できるのか?

一一それは無論、そうしたものがその人に、「記述の律動」以上の「快楽」を与えてくれるからである。

無論、そうした人たちだって、「記述の快楽が無用だ」と言っているわけではない。それは無いよりはあった方が良いに決まっているし、佐藤亜紀自身も、

『純粋な物語も、純粋な記述も実際には存在しない、ということ』

を認めていたとおりで、「記述の律動」に乏しい小説はあっても、それが皆無な小説は存在しないのだ。

佐藤亜紀の期待水準からすれば、「中身重視」であるつもりの思想・哲学小説や、その逆でもあるかのような「エンタメ」小説も、その多くは「記述の律動」ということに鈍感な小説家たちによる、鈍い小説ということになるわけなのだが、そうした感じ方は、所詮「好みの問題(趣味の問題)」でしかないのではないか。

だって、小説の目的が「快」を得るためだというのであれば、その「快」は、何も「記述の律動」から得なければならない、というものではないからである。

例えば、セックス(性交)の快楽は、何も正常位からのみ得られるわけではなく、実に多様な趣味嗜好を持っているというのと同じことである。
「あなたは、それが最も気持ちいいとおっしゃるが、私はそうは感じない」という主張は、間違いではないはずなのだ。

つまり、思想小説や哲学小説を読んで感心し、満足できるのは、その時その読者が、その作品から「快」を得ているからであり、物語中心主義的なエンタメ小説本を続けて読むのも、それは「物語」に「快」を感じているからであろう。
ならば、自分がいまいちピンと来ない「記述の力動」とやらに、義理立てする必要など、どこにもないではないか。

そんなわけだから、私が本書で引っかかるのは、佐藤亜紀は、思想小説や哲学小説、あるいは純文学イデオロギー的なものについては、頭の悪い「中身(深層)」主義だとしてあっさり切り捨てた上で、「物語」中心主義への批判にことさら紙数を費やしている点だ。

たしかに今どきは、戦後に流行した「左翼文学」に代表される思想小説やその変種である「社会派小説」のようなもの、あるいは難解な哲学が蜿蜿と語られるたぐいの古風な哲学小説といったものが、「小説の王道」だなどと思う読者は、ほとんどいないだろう。
だから、現在の小説出版界で覇権を握っているエンタメ小説における「物語中心主義」的な考え方を批判しようという戦略も、わからないではない。

だが、「所詮、物語は、記述の律動を生むための素材であり器でしかない」という理屈で、「物語」中心主義を批判しつつ、「物語小説」自体は延命させることで、その読者を納得させることは出来ても、その同じやり方で、思想小説や哲学小説に「快」を見出す人を、納得させることは出来ないのではないだろうか。

たしかに思想小説や哲学小説にも「記述の律動」による「快」あるし、それがあるに越したことはないけれども、しかし、そもそも、読むに値する、思想や哲学が語られていなければ、そうした読者は、その小説から快楽を得られはせず、満足しはしないだろう。
つまり、そうした人には「記述の律動」だけでは(プラス物語でも)、まったく物足りないのである。

『伝達だけを目標とするなら、どれほど下手糞な一一たとえば同じ単語を繰り返し続けて誤解の余地は確かにないがどうにも鈍重な文章でも、内容が汲めれば構わない、ということになるでしょうが、詩や小説で重要なのは、語が伝達する意味以上に、伝達の身振りを取りながら展開される形の狙うものを見て取ることです。』(P17)

佐藤亜紀の「中身よりもその書き方の妙」つまり「記述の律動」が大切だというその「好み」からすれば、こういうことにもなるだろう。

だが、「上手いこと言うよりも、要は中身だよ。例えば、誤解の余地がないように、二度三度繰り返してでも語らなければならないほどの、中身のあることが語られているのなら、私はその鈍重さもまた美徳であり、愉快なんだな」と、そういう人も当然いて、佐藤亜紀の「趣味」で、そうした他の「趣味(快楽)」(の実在)を否定することは出来ないのである。なぜなら、そうした彼らの「快楽」が、佐藤亜紀には「わかってないだけ」かもしれないからだ。

『 受け手に対しても読み手に対しても、従って、まず要求されるのは表面に留まる強さです。作品の表面を理解することなしに意味や内容で即席に理解したようなふりをすることを拒否する強さです。芸術作品を、あくまで知覚が受け取る組織化された刺激として、眺め倒し、聴き倒し、読み倒すものとすること、表面に溺れ、表面に死に、あくまで知覚のロジックにのみ忠実であること、深層の誘惑を拒み、そこにあるとされる意味が知覚の捉えたものを否定したり、ねじ曲げたりするのを拒み通すこと。芸術を最も倫理的たらしめるのはこういう姿勢です。「意図」や「意味」とだらしなくひと繋がりになった作品の倫理性や深さなど、ほんの一瞬のものに過ぎません。』(P23〜24)

「深層の誘惑」を拒んで「表面に留まる」ことこそが作品鑑賞における「倫理」だというのは、蓮實重彦による「表層批評」そのままである。

だが、その蓮實重彦もまた「シャーデンフロイデ」の人なのだから、佐藤亜紀との共通性は偶然のものではなく、ほとんど同種の「性癖」的な「好み」の共有だと、そう考えた方が良いのではないだろうか。

そもそも「小説の快」の話をしていたはずなのに、都合よく「倫理」を持ち出してくるというのは、それこそご都合主義的に「深さ」の権威に依存した、欺瞞なのではないかということだ。

私は、佐藤亜紀「日本ファンタジーノベル大賞」で作家デビューした際に、受賞作『バルタザールの遍歴』(1991年)を読んで、評判ほど面白いとは思わなかった。
この作品に「記述の律動」があるのかどうかは知らないが、あるのなら、私はそれに鈍感なのかも知れない。だが、達者だとは認めても、少しも「面白くはなかった」というのは事実である。

それでも、佐藤亜紀は、一部に根強い人気のある作家で、絶賛する人は絶賛するので、もうひとつくらいは読んでみようと、やはり評判の良かった第二作『戦争の法』を、刊行後数年経ってから読んでみたけれど、やはり面白くなかった。

それで、佐藤亜紀が優れた小説家なのかどうかは知らないが、少なくとも、彼女の作品は私には合わないのだと判断して、それ以来、佐藤の小説作品は読んでいない。
また、時に視野に入ってくる佐藤亜紀のエッセイだの発言だのは、いかにも「シャーデンフロイデ」の人らしく、感じの悪いものであったから、長らく佐藤亜紀の本を読むことはなかったのである。

なのにどうして、今回ひさしぶりに佐藤亜紀を読むことにしたのかと言えば、それは本書が「評論書」だったからである。
小説はつまらなくても、理論の方は悪くはなさそうだと感じたのが、まず一点。

もう一点は、私が嫌いな「シャーデンフロイデ」の文学研究者である小谷野敦が、私が嫌いな「武蔵大学の教授」で自称フェミニストである北村紗衣の批評書『批評の教室 チョウのように読み、ハチのように書く』についてのAmazonレビューで、北村紗衣の日本文学についての無知を指摘しつつ、北村紗衣の文芸批評(文学理解)のレベルの薄っぺらさを、佐藤亜紀本書を引き合いに出して語っていたからである。

『 (※ 北村紗衣『批評の教室』を)174pまで読んだら「初心者向けの本」とあり、私はどう考えても初心者ではないので、読むのが間違いであったと気づいた。佐藤亜紀『小説のストラテジー』に比べたら驚くほどつまらないが、それではしょうがない。また、特別な才能がない人向けとも書いてあるが、批評というのは特別な才能がなければ書けないもので、佐藤亜紀のように読者が書けるかどうかなど無視して進んだほうがいい本が書ける。』

なるほど、同じ「嫌な女」でも、佐藤亜紀北村紗衣では、頭の出来が違うのだろう。

佐藤亜紀の方は「小説の書き方」なんぞ誰にでも伝授できるわけではないというのを承知の上で、それでもほとんど嫌がらせで「小説って、こういうものなんですよ。それをあなたに書けますか?」という調子で講義したのに対して、「俗ウケ」を狙う北村紗衣の方は、なんとなく参考になりそうでならないことを書き連ねて、いつもつまらない本をいるのである。

だから、北村紗衣流の「プチ教養」が欲しいわけでもなければ、小説を書く気など端からなく、ただ「小説とは何なのか」については考えたい私なら、佐藤のこの「評論書」を読んでもいいかなと、そう考えたのだ。

つまり、たしかにどちらも「嫌な女」であり、言うなれば「嫌な女の新旧対決」といったところだったのだが、「嫌な女」という表面に留まることなく、その「中身」を比較してみれば、その「能力」において、これはもう明らかに「大学院生と小学生」くらいの開きがあった

佐藤亜紀の書いているものが、それくらい高度なものであり、北村紗衣の書くものはいつでも「お子様向けの入門書」であるという「ターゲットの違い」だけではなく、そもそも書き手の力量(能力)が、それほどまでに違う、ということである。

だが、人間を見る場合には、「能力」よりも、やはり「人柄」であろうから、私はどちらも人としては評価しない。
佐藤亜紀の有能さは認めるとしても、やはり私は「人柄という深層」の方を重視するのである。


(2025年10月14日)

 ○ ○ ○



 ○ ○ ○


 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


この記事が参加している募集