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梅崎春生 『ウスバカ談義』 : 正義と美意識の戦いでは…。

書評:梅崎春生ウスバカ談義』(ちくま文庫)

梅崎春生については、荻原魚雷によって独自に編まれたエッセイ集『怠惰の美徳』で、昨年初めて読んだ。

また、これが好印象だったので、別の梅崎書も何冊か贖っていたのだが、今回読むことにしたのが、「ユーモア小説集」と題され、梅崎最後の短編集として刊行された、最晩年の著書たる本書『ウスバカ談義』である。

とは言え、おおむね1年前に初めて読んだっきりなので、梅崎春生の作風については、ハッキリした印象は残っていなかった。ということは、あまり癖の強い作風ではない、ということなのであろう。

今回は「ユーモア小説集」だから余計になのだろうが、案の定、癖の強さといったものはいっさい感じなかったし、面白いのは面白いのだが、強い印象を残すような作品は無かった。

ただ、本作品集の中に、1作だけ『怠惰の美徳』とダブって収録されている短編があった。
「寝ぐせ」というタイトルの作品で、梅崎自身と考えて良い語り手が、軽度鬱の状態にあって布団から出られない日々が続いていた際に遭遇した、迷惑な押し売りや獅子舞(獅子舞も勝手にやって来て、見料を取る)との丁々発止のやりとりを、ユーモラスに描いたものだった。

前の『怠惰の美徳』には感じられた、梅崎春生の「暗い鋭さ」が、本書『ウスバカ談義』ではほとんど感じられなかったのは、たぶん、本集に収められた作品が、意識的に「小説(フィクション)」として書かれていたからであろう。

無論、梅崎は「私小説家」に分類される人だから、「リアル」と「フィクション」との逕庭は極めて狭い。ありていに言えば、実体験を元に小説を書いているのである。
まただからこそ、「小説」と「エッセイ」との境界も曖昧で、先の「寝ぐせ」も、エッセイ集と短編小説集の両方に収められることになったのだ。

そうした観点からすれば、本作品集『ウスバカ談義』梅崎春生自身が、意識的にボケて見せて、その尖った神経を隠した度合いの高かった作品集だと考えられる。

また、『怠惰の美徳』のレビューで指摘したとおり、初期の作品ほど尖ったものが多いという事情からすれば、最晩年の本書所収の作品に尖った部分が無いのは、当然のことだったとも言えよう。

私は、『怠惰の美徳』のレビューで、梅崎春生を次のように評している。

『表題作からも分かるとおり、この人のエッセイには飄逸なユーモアがあって、とても面白い。本を読んで笑うことなど滅多にない私でも、おもわず吹き出してしまうほどのすっ惚けぶりは、きわめて魅力的である。
だが、こうしたすっ惚けたエッセイばかりではなく、本書には梅崎が、基本「大真面目」で「神経質」な人であることのわかるエッセイや短編小説も収められている。

彼自身、自分が「鬱」持ち的な人間であり、入院するほどではないものの、年に何度か、気分が落ち込んで、寝床から出ることさえできなくなる時期のあることを、それも惚けた筆致で報告しているし、何より、彼が戦後すぐに書いたエッセイには、彼の戦闘的なまでの批判精神がむき出しに表現されている。この人は、間違いなく、そういう側面を持つ人なのだ。』

一方、本書『ウスバカ談義』についての「内容紹介文」は、次のようになっている。

戦後派の巨匠が贈る昭和のユーモア短編集
強烈な友人・知人たちとの奇妙な会話、突飛なエピソード、滲み出す虚無感。
生誕110年記念復刊
 

「相手をグサッと突き刺すような言葉は、お互いに本能的に避けるでしょう。それがルールというものです。あんただって誰かと喧嘩して、大バカと言われるより、ウスバカと言われる方がこたえるでしょう。」(「ウスバカ談義」)

「山名君の説明では、友達にもたくさんの種類があり、たとえば、善友、悪友、益友、損友、その他棋友、釣友などいろいろあって、山名君は私の益友をもって任じているのだそうである。(「益友」)

ウスバカと大バカの違いとは? 善友・悪友ときて、益友とは? 買ってきたタコは何故七本脚なのか? 主人公のもとをたびたび訪れては奇妙な問答を繰り返し、何かを押し付けたりやらせたりする男・山名君との珍妙なやりとりが絶妙な連作ほか、語り手と友人知人が紡ぐ物語10編。戦後派の巨匠にして、虚無と表裏のユーモアで独特な存在を示した著者、最後の傑作短編集。解説・荻原魚雷

Amazon『ウスバカ談義』紹介ページより)

ここで注目すべきは、表題作「ウスバカ談義」からの引用部分だ。

「相手をグサッと突き刺すような言葉は、お互いに本能的に避けるでしょう。それがルールというものです。あんただって誰かと喧嘩して、大バカと言われるより、ウスバカと言われる方がこたえるでしょう。」

「大バカ」と「ウスバカ」の違いとは何か
喧嘩をした際に、相手に対して「この大バカ野郎!」と言うのと、「このウスバカが」と言う場合の違いとは、前者の場合は、相手かまわず、ひとまず強い言葉で罵倒したいだけなの対し、後者の場合は、相手の弱点をきちんと見据えた上での評価を語っているという点であろう。

だから「この大バカ野郎が!」と言われても、さほど腹は立たないが、「このウスバカが」などと冷笑されると、自分の欠点を見透かされていると感じ、「本当のこと」を言われていると感じるからこそ、余計に腹が立つのである。

つまり、上の「ウスバカ談義」の語り手が言っているのは、「あまり本当のことを言ってはいけない」ということなのだ。

「本当のこと言う」とは、相手の急所を「グサッと突き刺す」ことであり、そんな言葉の応酬は、お互いのためにはならない。
だから、そんな急所を突くような言葉は『お互いに本能的に避けるでしょう。それがルールというものです。』一一というのは、それが「現実」だということではなく、「お互いに避けるべきである。それがルールであるべきだ」という、梅崎春生の「倫理」を語った、「べき論」なのだ。
だからこそ現実は、そうもいかないのである。

ましてや、「承認欲求」が肥大した今の高度情報化社会においては、自分がいかに非凡であるのかをアピールしないわけにはいかないし、そんな自分の非凡さを否定する敵手やライバルは、打ち倒さなければならない。だからこそ、恥ずかしげもなく自慢話をする一方、いかに敵手の急所を鋭く突くかというようなことしか考えられなくもなるのだ。

梅崎春生の時代には、自分が賢いと思っていても、あえてそれを隠して「ボケてみせる」ところに、優れた者の「美意識」の表現があった。
けれども今の時代に、そんな「間接的」な表現では、誰も「隠された美意識」まで、読み取ってはくれない。

なにしろ時代は、映画を3倍速で見、小説は「あらすじ」さえ知っていれば「教養」として役に立つのだから、それで十分だ、などという世知辛い世の中なのだ。だから、あえて「ボケて見せた」日には、そのまま「頭の悪い人」だと受け取られておしまい、ということにもなりかねない。一一というか、そうした場合の方が多いのである。

例えば、私は「本物の読書家ならば…。」と題したエッセイで、「本物の読書家ならば、本をこんなにたくさん読んでいるということよりも、まだあれも読んでいない、これも読めていないという、そんな気持ちが先に来て当然ではないのか」という趣旨のことを書いた。

つまり、本来は、そうあるべきなのに、今どきの読書家を気取りたがる人というのは、まず間違いなく「読んだ本」の話しかしない

「私はこんなにたくさん読んでいる」「こんなマニアックな本を読んでいる」「こんな難しい本を読んでいる」といったようなマウンティングばかりで、「読みたいけど読めていない本」の話は、いっかな出ないのである。

例えば、「武蔵大学の教授」で自称フェミニストの北村紗衣は、第一著書『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』の冒頭で、自身の「読書冊数、映画・演劇鑑賞数」を具体的に挙げて、

おかしいと自分でも思えるほど、たくさん鑑賞しています

だなどと、見え透いた自慢話を書いていた。

これは、梅崎春生の語った「本当のことをそのまま言わないのが、人のつつしみであり、倫理というものだろう」という考え方の、真逆をいくものだと言えよう。

「本当のこと」を臆面もなく言う、どころではなく、「実際の何倍もの大言壮語」を吐くし、それくらいしなければ誰にも認めてもらいないという強迫観念めいたものが、今の世には蔓延している。

梅崎春生の時代、かつての日本にあっては、わざと自分を貶してボケてみせるという、謙譲の美徳があったが、今の日本には、そんなものは、かけらも無くなってしまった」とでも書けば、北村紗衣のような今どきのフェミニストからは「それは、男性には男性であるというだけで認められた社会的権威が保証されていたから、安心して自身を貶すこともできたのだ」というような反論が出てくるかもしれない。

これに対して「いや、昔の日本人には、男女を問わず、謙譲の美徳があった。女性こそ、つつしみの美徳を持っていた」と反論すれば「いや、それこそ、男性社会における女性への抑圧の結果に他ならない」とでも言うのではないだろうか。

ということは、今の時代は、男女を問わず「つつしみ」なんて示すべきではなく、「謙譲の美徳」なんてものは「偽善」にすぎないのだから、男女問わず、本音でつけつけと言うべきだ、ということにしかならないだろう。
そして、事実そうなってもいる。

例えば、そうした実例が、上で名前を出した北村紗衣の、「私は批評をやっている人間だから、ボロクソに言ってナンボ」だ式の、身も蓋もないTwitter=Xでの)物言いだし、それに感化されたのか、同類なのかによる、下のような事例(『映画秘宝』事件)もある。

フェミニストというのは「弱者としての女性の権利」のために働いている人たちであるはずなのだが、にもかかわらず、その結果、「つつしみや謙譲の美徳なんて、一文の足しにもならない」などという感覚が当たり前になるのだとしたら、果たして、そんな世の中は、いったい誰にとっての「住みやすい」ものになるのであろうか?

「自分で自分を貶してみせる」という美学は、たしかに今の時代には、リスクが大きすぎるのかもしれない。

だが、だからと言って、「私が私が」「俺が俺が」といった、自己の権利や党派利益だけを求める傾向は、この社会に対する「責任」を放棄した、所詮は「独善」なのではないだろうか。

本書の解説で荻原魚雷は、椎名麟三の言葉を引いて、次のように書いている。

『 友人の椎名麟三は「梅崎春生は、心底からの小説家であった。理屈を嫌い、自分のいわば皮膚感覚を信じた」(『梅崎春生全集』第三巻、解説)と回想している。』(P300)

文学派の私としては、私も「正義と美意識の戦いでは、私は美意識の側に立ちたい」と、そう思っている。


(2025年7月8日)


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