ルネ・クレマン監督 『禁じられた遊び』 : なぜ禁じられるのか?
映画評:ルネ・クレマン監督『禁じられた遊び』(1952年/フランス映画)
哀調を帯びたギターソロによるテーマ曲「愛のロマンス」が、あまりにも有名な作品。私が子供の頃にはよく耳にした楽曲だ。
たぶん、小学校の放課後、下校時間の夕刻になると流されていた曲ではないかと思う。私が子供の時分には、集団登校はあっても、集団下校は、半ドンの土曜日しかなかったから、授業が終わっても、平日は陽の暮れちかくまで校庭で遊んでいる子供が結構いたのである。
だからこの曲を聴くと、なんだか淋しい気持ちになって、家に帰らなければという気分になった。一一そんな曲なのだ。
しかしながら、あれだけ有名だった曲も、今ではとんと耳にすることがなくなったのは、あれはあれで当時の流行曲だったということなのであろう。
どんなに普遍的なものに思えても、それは、5年経ち10年経つうちに、いつの間にか忘れ去られていき、人の記憶から消え去っていく。
聞けば思い出すことはできるが、聞かなければそのままになってしまうだろうう。
こうした案外なまでの儚さというものは、なにも流行音楽に限ったことではない。
大スター、人気歌手、流行作家といった人たちも、時代の流れとともに、当たり前のように忘れ去られていく。
写真や映画などを見れば、ああ、こういう人もいたなあと思い出すけれど、世代が完全に入れ替わってしまえば、もはや思い出すことのできる人さえ死んでしまって、すべては記録資料の中の存在となってしまう。
人の一生は斯様に儚く、いやすべてのものがそのようにして、いずこへか去っていく。忘却の彼方に消えていくことになる。
あなたも私も、一人の例外もなく、みんなそうして消えていく運命なのだ。
本作『禁じられた遊び』は、第二次世界大戦初期の南仏の田舎町を舞台にしている。
ナチスドイツの侵攻を受けて、パリから南仏に逃れてきた人たちの、車や馬車や徒歩の列。

そこへ、ドイツ空軍の急降下爆撃機が爆弾を落とし、戦闘機が避難民に向けて機銃掃射を加える。人々はただ逃げ惑うことしかできない。
主人公の少女ポーレット(リジット・フォッセー)もそうした避難民一家の一人だった。まだ、4、5歳といったところだろうか。
飼い犬の仔犬を抱いて、両親との車での避難だったが、戦闘機の機銃掃射によって、両親と仔犬を一気に失ってしまう。

『1940年6月、ドイツ軍から逃げるため街道を進む群衆の中に、幼女ポーレットがいた。そこに戦闘機による機銃掃射があり、彼女は一緒にいた両親と愛犬を失ってしまう。ポーレットは愛犬の死体を抱きながら川沿いの道を彷徨い、そこで牛追いをしていた農家の少年ミシェルと出会う。彼の家庭は貧しかったが、ポーレットが両親を亡くしていることを知り、彼女を温かく迎え入れる。ミシェルは無垢なポーレットに親近感を持ち、無力なポーレットもミシェルを頼るようになる。
幼いポーレットは死というものがまだよく分からず、神への信仰や祈り方も知らなかった。ポーレットはミシェルから「死んだものはお墓を作るんだよ」と教えられ、愛犬の死体を人の来ない水車小屋に埋葬し、祈りをささげる。愛犬がひとりぼっちでかわいそうだと思ったポーレットは、もっとたくさんのお墓を作ってやりたいと言い出す。ミシェルはその願いに応えてやりたくなり、モグラやヒヨコなど、様々な動物の死体を集めて、次々に墓を作っていく。二人の墓を作る遊びはエスカレートし、ついには、十字架を盗んで自分たちの墓に使おうと思い立つ。(以下略)』
(Wikipedia「禁じらた遊び」)





この十字架窃盗が露見して、大人たちの間でちょっとした紛争を巻き起こすのだが、そこはさして重要ではない。
だが、そうした村の庶民的なあれこれがあった後、ポーレットは施設に引き取られることになる。
孤児のポーレットをドレ家が受け入れた際、他に身寄りのあるかも知れない幼児を、勝手に引き取るわけにはいかないから、警察へも連絡していたためで、修道院の運営する孤児院が引き取り手として見つかったのだ。

もちろん、ポーレットとミシェルは、別れを受け入れられない。
ミシェルは、ポーレットに幼い恋心を抱いていたし、ポーレットはミシェルを兄のように慕っていたからだ。
だが、2人の抵抗は、大人たちの現実的な判断に抗い切ることは不可能だった。ポーレットは、否応なくドレ家から引き離されることになる。

物語の後半を知りたい向きには、上に前半部だけを引用した、「Wikipedia」のストーリー紹介をご覧いただきたい。物語の最後までが丁寧に紹介されている。
本作には、まだ「死」の意味をよく理解していない子供たちが、無邪気に、良かれと思って「埋葬ごっこ」をする姿に、人間の「命」の儚さと、「戦争」への告発が込められている一一というのは、確かにそのとおりではあろう。
「戦争反対」とは、たぶん誰もが思っていることであり、誰もが、それでうまく回るのなら、という条件付きで、戦争に反対しているはずだ。
だが実際には、戦争はなくならない。
それは「それ無しでは、うまく回らない現実がある」と人々が考えるような事態が、しばしば起こるからだろう。
「テロの被害に遭った。やられっぱなしで良いのか」
「軍が攻め入ってきた。国土を守るのは当然のことである」
あるいは、
「もともと我々のものであった奪われた土地を取り戻すことに、何の問題があろうか?」
この程度の「よくある主張」を挙げただけでも、こうした主張に対し、それでも「戦争はダメだ」いや「武力衝突は認められない」と言える人など、じつのところほとんどいはしないだろう。それほど「戦争をする(正当な)理由」など、思いのほか、いくらでもあるのである。
しかし、そうやって人の命は、簡単に奪われていく。
ポーレットのように身寄りを失って孤児となる子供など、昨日も今日も明日も「生産」され続けている。決してこれは、「昔話」などではないのだ。
無論、大人と同様に子供たちも殺されるし、ある意味では、ポーレットとミシェルの別れは、悲劇ではあれども、まだマシな別れ方なのかもしれない。
それでは、私たちは本作を見た上で、何をどのように考えて、「反戦」を唱え、「戦争」を批判することができるのだろうか?
いや、私たちは、本当に「戦争」に反対しているのだろうか?

私たちが「反戦」を思い、「反戦」を語る時、そこで考えられている「戦争」とは、あまりにも観念的で、形骸化した「戦争」なのではないか。生(なま)の、現実の「戦争」には、ほど遠いものなのではないか。
かといって、私はここで「戦争は、人間の本質に刷り込まれた、拒絶しがたいものなのだ」とか「残念だが、戦争は必要悪だ」などと言いたいわけではない。
たしかにそうした「現実主義」的な考え方にも、一理以上のものがある。だから、そうした意見を、問答無用で否定し拒否してみても、決して戦争をなくすことは無論、否定することさえ出来ないだろう。
だが、どうすれば私たちは、「戦争という呪われた宿命」に抗することができるのであろうか。
私が本作を見て思うのは、ポーレットに感じられた「死」というものを、大人のそれのようなかたちで、当たり前のごとく「理解しない(意味づけしない)」、というのは、案外、重要なことなのではないか、といったようなことだった。
私たちは、当たり前のように、生きること、生きていることに価値を見出し、そのために「死」というものを反価値だと考えている。
「死んでしまっては、元も子もない」という言葉は、「生命」以上の価値など無い、というのを、議論の大前提としている。
だが、果たしてそうなのだろうか?
私たちは、望んだわけでもなく、たまたまこの世に生み出されてきて、いわば「なりゆき」で生きているにすぎないと、そう考えることは出来ないだろうか?
言い換えれば、生まれて来れないことは、はたして、不幸なことなのだろうか? 何か「損をした」ことになるのだろうか?
しかし「反出生主義」の思想が語るように、生きることは、必ずしも「幸福」を意味しないというのは自明な事実だし、生きることはしばしば「苦しみ」でさえある。
まさにそこから、釈迦の仏教は始まるのだ。「なぜ、人は生きて苦しまなければならないのか」と。

「生まれてなんか来なかった方が良かった」と、そう本気で、身に沁みて考える人が現におり、それが「反出生主義」という思想なのだが、例えば貴方は、自分がどんなに不幸の連続でしかない、苦しみの連続でしかない人生であっても、それでも「生きることそのものに価値がある」と、そう本気で考え、それを実践することが出来るだろうか?
例えば、そんな人生を、自ら進んで選び取ることが出来るだろうか?
たぶん、そんな人はいないと思う。
「生」の肯定とは、やはりどこかで「肯定的な生」を前提としており、だから「生きていれば、きっと良いこともある」とか「生きていて良かったと思える日が、きっと来る」などと、何の保証も無い「希望」だけを、無責任に語ることになっているのではないのか?
もし、本気でそう思うのなら、そんな不幸な人の人生と、自分の幸福な人生を、交換することだって出来るはずなのだが、そんなことのできる人は、有史以来、ほとんど存在しなかったし、ひとまず私たちには不可能なことであろう。

やはり、不幸というのは現実に存在しており、誰も不幸な生涯を送りたいとは思っていない。
もしも、この先の人生が「不幸」なものだと確定しているのなら、誰も生きていたいとは望まないだろう。
生爪を剥がされたり、舌を抜かれたり、目をくり抜かれたり、火炙りにされたりという明日が確定している人の多くは、それくらいなら、今のうちに自殺した方がマシだと考えるだろう。
目の前に毒薬があったなら、むしろ喜んで、それを呑むのではないだろうか。
だが、そうであるならば、私たちは、単に「生きること」の価値がある、とは言えないはずだ。
なぜなら「生爪を剥がされたり、舌を抜かれたり、目をくり抜かれたり、火炙りにされたり」という体験も「生きている」からこそ可能なことであり、死んでしまっては「体験」できないことだからである。
だから、そんな「生」であっても、「死ぬよりはマシだ」「死んでしまえば、その先の希望さえ失われる(だから、生きろ!)」などと、本気で言えるだろうか?
私がここで言いたいのは「生の否定」ではない。
ただ、生きるかぎりは「幸福」を求めるべきだけれども、その可能性が無いに等しいというのであれば、無条件に生きている必要などないのではないかと、そう問いたいのだ。
そして、こうした陰鬱な議論が、どこで本作『禁じられた遊び』につながるのかと言えば、ポーレットが、大人たちの感じているような「死の不幸」を感じていないのは、必ずしも間違いではないのではないか、ということなのである。
つまり、「生きる」ために「戦争」を肯定するくらいなら、「生きる」ために人を殺すくらいなら、自らが死ぬこと、殺されることは、「不幸ではない」のではないか、ということだ。
そこまでして、ただ「生きること=生き残ること」は、肯定されなければならないのであろうか。
それくらいなら、死んでいなくなってしまった方が、むしろ「幸福」なのではないか。
無論、死んでは「幸福」を感じることは出来ないが、「不幸」になることもない。
何も感じることのない「無」に帰するということは、少なくとも「終わりの見えない不幸」よりは、よほどマシなのではないだろうか?
埋葬されて、墓の下に眠る死者(故人)というイメージは、決して「不幸」なものではない。
ミシェルと引き裂かれたことを知って、彼の名を呼びながら、見知らぬ人々の中を駆け去っていくポーレットの悲痛な姿は、彼女が生きていればこそのものであろう。
そんな彼女を見て、それでも「生きていて良かってね」と、そう本気で言えるものなのか?

このように考えてみるなら、本気で「反戦」を主張するというのは、人を殺すくらいなら、自分や家族が死んだ方がマシだと、そこまで思えることしかないのではないだろうか。
人を殺さなければ生きてはいけない世界なのであれば、死という「無」の中に止まる方が、よほどマシなのではないだろうか。
ポーレットとミシェルの「埋葬ごっこ」が、どうして「禁じられた遊び」なのかと言えば、それはたぶん、その遊びが「死ぬことは、それほど悪いことではない。いずれは誰もが死ぬのだから、死は、決して不幸ではないのだ」という事実を、無邪気な語っていたからなのではないだろうか。
「不幸」であり得るのは、私たちが「生きている」からなのだ。
私たちは、その事実を認めたくないから、生きることに価値を見出す努力をし、死を不幸だと思い込もうとするのではないか。
墓など無かろうと、無に帰した人間には、幸も不幸もない。
私たちが、死者を手厚く葬るのは、死が「不幸なもの」だという前提があってのものなのであろう。
だがそれは、所詮「生者の気慰み」でしかないのは明らかなことだ。
つまり、死に対してフラットなポーレットの態度こそが、大人たちの自己正当化、あるいは欺瞞的な自己慰撫に毒されてはいない、死への本来的な感受性を示したものだったのではなかったろうか。

(2025年11月22日)
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