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神山健治監督 『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』 : 「私」というゴースト

作品評:神山健治監督『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(全26話/2002101日〜20031130日)

本作は、士郎正宗の漫画原作をテレビアニメ化した、最初の作品である。
それ以前に、押井守による劇場用長編アニメ『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)が作られており、この作品が世界的なヒット作となって、押井を「世界のオシイ」へと押し上げた。
つまり、本シリーズは『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の大ヒットを受けて作られたテレビシリーズであり、最初から海外展開も見据えた、手のかかった作りとなっていいて、月に2話というペースで、有料チャンネルで放映された作品である。
そして、本シリーズもまた高い評価を受け、その後、再編集版長編が作られ、続編シリーズも複数作られている。

「公安9課」のメンバー。左から、パズ、サイトー、バトー、草薙素子、ボーマ、トグサ、荒牧課長、イシカワ)

さて、私の場合、有料チャンネルの類は一切見ないので、このテレビシリーズ第1作も、本放映で見ているわけではなく、それから後のいつかの段階において、DVDで鑑賞したはずだ。それがいつかはハッキリしないのだが、すでに見てから10年以上経っているのは、まず間違いないと思う。
私は、よほどの評判作でないかぎりシリーズ作品は見ない。だから本作にあっても、本放映からそれなりに時間が経ち、それでも評判が衰えなかったから、レンタルDVDか何かで見たのではないかと思う。

また、本シリーズ続編を見ていないのは、この第1シリーズに感心した後に見た、同神山健治監督監督の劇場用長編アニメ『009 RE:CYBORG』(2012年/原作:石ノ森章太郎)が、まったくの期待外れだったせいであろう。
そのため、以降「攻殻機動隊」シリーズに限らず、神山作品には完全に興味を失ってしまったのだ。

そんなわけで、今回『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(『攻殻機動隊SAC』)を再鑑賞して感じたのは、本シリーズは、たしかにテレビシリーズとしてとてもよく出来ており、その最大の要因は「シナリオが、よく練り込まれている」点にある、ということだ。

もちろん、本シリーズの「主筋」となる「笑い男事件」のユニークさは元より、そこからは独立した1回完結の物語においても、極端につまらない回はなく、特に第2話の「暴走の証明」などは「文化庁メディア芸術祭」のアニメーション部門を受賞したというだけのことはある傑作となっており、その完成度は、メインの「笑い男事件」を凌駕するほどだと言っても、決して過言ではないだろう。
そして、この第2話「暴走の証明」の魅力というのも、結局は「人間がよく描けている」という点にあって、その意味では、やはり脚本がずば抜けているのだ。

(第2話「暴走の証明」より)

無論、演出や作画も素晴らしかったからこそ、頭抜けた傑作になったわけだが、私がここで強調したいのは、先にも描いたとおりで、この第2話に限らず、本シリーズは脚本が全体に素晴らしいということ。
特にそれを強く感じさせるのは、「公安9課」のメンバーの「日常会話」であり、例えば、しばしば発せられる「軽口」の類いである。これがあるからこそ、本作は「厚みのある人間ドラマ」となり得ているのだ。

さて、本シリーズの魅力として「人間が描けている脚本」という「見逃されがちな点」を指摘した上で、しかし私が以下で語りたいのは、世間も注目したところの、「電脳化」世界の問題である。
一一つまり、本作の出来不出来の問題を別にしても、時代を先取りしつつ、普遍的な問題を提起しているテーマ的な部分について、以下では、私の思うところを記していきたい。

 ○ ○ ○

「攻殻機動隊」の描く世界とは、一言で言えば「電脳化された世界」である。
では、本作で言うところの「電脳化」とは、具体的にどのようなことなのだろうか?

それは、勘違いされがちな「機械の脳」のことではない。人間の記憶や人格を、すべて機械に移した(アップロードした)ようなもの(機械の脳)のことではなく、人間の脳に機械的な細工を施して、機械と直接繋がれるようになった脳のことを、「電脳」と呼んでいるのである。

少々長いが、本シリーズの世界観の紹介も兼ねて、「Wikipedia」の「電脳化」の説明を引用しておこう。

『脳に直接、膨大な数のマイクロマシンを注入し、神経細胞とマイクロマシンを結合させ、電気信号をやりとりすることで、マイクロマシン経由で脳と外部世界を直接接続する技術。これによって、ロボットなどのメカニックを直接操作したり、電脳ネット(作中におけるインターネットのようなもの)などのネットワークと直接接続したりできる。その結果、あらゆる情報がリアルタイムで検索・共有可能になり、完璧なユビキタスネットワークを構築した。可視化されたネットワーク上にあたかも自分が入り込んだかのように様々なネットワークを自由に行き来できるようになる。

現在のインターネットのように、ダウンロードにより情報を手元に引き寄せるのではなく、電脳空間と呼ばれる仮想空間や他者の電脳などの情報源に、自らの意識が入り込むことによって情報を得ることから、ネットワーク等にアクセスすることを作中では「ダイブ(dive)」と表現する。

電脳化した者同士であれば、有線・無線を問わず他者との通信が行える他、自分の視覚情報や触覚、さらには感情まで相手に伝えることができる。相手との極めて正確な意思疎通や、記憶装置を外部に設けて必要な情報や自己の記憶を保存して再利用することも可能である(作中では外部硬電脳と表記されている)。一方、S.A.C. Solid State Societyにおいて、バトーがアフリカから帰還したばかりのサイトーと交わした会話の中で、明らかに誤った単語を用いている点に着目すると、人らしさの象徴とも言える「ヒューマンエラー」を防止するプロセッサは組み込まれていないと考えられる。ここから電脳倫理下における電脳は、主体的存在である「ゴースト」の意志に対して、たとえそれが誤りであっても不介入であるということが定義できる。

この技術の負の側面として、電脳化により脳そのものが現代のコンピュータと同様にハッキングの脅威に晒されることとなった。ハッキングにより、他者の電脳にウィルスを注入する・記憶を改竄する・行動を操作する・人格そのものを乗っ取るということが可能になる。そのため、作中においてこれらのハッキング行為は「ゴーストハック」と呼ばれ、重犯罪とされている。 このような行為を防ぐため、多くの人は電脳に「攻性防壁」や「防壁迷路」と呼ばれるファイアウォールの一種を導入することで自身の身を守っている。また、罹患率は高くないが、徐々に脳の機能が失われ最終的に脳死に至る「電脳硬化症」を発症することもある。根本的な治療方法は発見されていないが、マイクロマシンや「村井ワクチン」を用いることで病状の進行を抑えることができるとしている。

電脳化技術の発達により、脳神経と機械の接続技術が確立したことで、脳・中枢神経系以外の肉体を機械で代行する「義体化」と呼ばれる技術が登場・発達している。生身の体と義体化を施した部位の割合を「義体化率」として表し、作中では義体化を施した人間は、その義体化率を問わず「サイボーグ」と呼ばれる。

頭部を義体化した際には、その脳は金属のシェルに収められ「脳殻(のうかく)」と呼ばれる。仮に脳殻を他の義体に入れ替えてしまえば、他人になりすますことも可能となる。事実、アニメ攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX第1話において、日本の外務大臣がその脳殻を入れ替えられたことにより、義体を他者に操られ、脳殻はケースに入れられて誘拐されかけるという事件が起きている。

義体には多数のモデルが存在し、それぞれは量産され一般に販売されていることから、同じ外見のサイボーグが多数暮らしている社会となっており、個人を特定するためには「ゴースト」の存在が不可欠となる。

また欠点として、対象物を無意識に見るという行為ができない。これは、山田正紀による小説『イノセンス After The Long GoodBye』で語られている。

年長者や一部の者は、自分達から見れば子供の世代に当たる電脳医師に脳をいじられるのを嫌ったり電脳硬化症への不安の為、電脳化を行わず、手等身体の一部を義体化することで補おうとする者や、逆にトグサのように肉体は生身のまま電脳化のみを行う者もいる。』

(Wikipedia「電脳化」

つまり、人格や記憶を機械的なハードウェアに詰め込んだ「機械の脳」とは違って、「電脳」とは「人間の脳」プラス「ネットワーク・インターフェイス」だと考えれば良い。簡単に言えば、頭の中にスマホが組み込まれていて、簡単に電波通信やインターネットへのアクセスでき、ネットにつながっているなど遠隔操作の可能な機械なら、頭の中で指示するだけで操作できるというようなことだ。

だが、上でも指摘されているとおりで、この電脳化された世界で問題となるのは、ほとんどのものを電脳で操れる以上、他人の電脳にさえハッキングが可能だということである。

本シリーズ中でも、主人公の草薙素子「笑い男」は、こうした電脳ハッキングの天才だということになっており、つまりそれこそが最強の「武器」なのである。
例えば、「公安9課」の素子の部下であるバトーが、人前に姿を現さない正体不明の「電脳テロリスト」である通称「笑い男」を目の前にしながら、「目を盗まれ」て、手も足も出なくなるという様子が描かれる。

(下は、ネットワークに「ダイブ」している最中の草薙素子)

ここで言う「目を盗まれる」とは「視覚が操作されて、見えるべきものが見えなくされた(あるいは、操作者の見せたいものを見せられる)」ということなのだ。つまり、目の前に、「笑い男」の肉体が存在しているのに、その「笑い男」は瞬時にバトーの電脳にアクセスし、その「防壁」を破って視覚野を操作することで、自分の姿だけを消してみせた、ということである。

本作では、このような「ゴーストハック」つまり「脳機能の乗っ取り」は、五感のハッキングによって、他者の身体を操作するレベルに止まっている。だが、こんなことが可能なのなら、これはもう「人間を丸ごと操る」ことも、当然、可能だ。
見せたいものだけを見せ、聞かせたいことだけを聞かせることができるのなら、ハッキングされた者は、否応なくその与えられた情報にしたがって「主体的に判断して、主体的に行動する」しかない。つまり、その人の「人格」や「思考」そのものを乗っ取っているわけではないとしても、「恣意的な情報」を与えることで、当事者の主体的な思考や判断を残したまま「操る」ことが出来るのだから、実質的には、その対象者を、人格や思考まで含めて「丸ごと操る」のも同然なのである。

(「笑い男」は、最初の会社社長誘拐事件の際にだけ、その姿を人前に晒したが、すぐにテレビ場面はもとよりそのデータも、すべて上のように書き換えられた)
(警察の記者会見の際、警察幹部の一人がゴーストハックされ、「笑い男」のコメントを代弁させられる。ハックされている際、テレビ画面ではこのように「笑い男」マークが重ねられた)

もちろん、「同じ情報」を与えても、人によって「予備知識」や「判断能力」に違いがあるから、必ずしも「同じ行動」を採るとは限らない。その意味で、対象者を完全に「乗っ取っている」わけではなく、あくまでも「操る」だけなのだが、それにしても、この「電脳ハッキング」が、いかに恐ろしいものであるか、容易に理解できよう。

しかし、前述のとおり、本シリーズに描かれる「ゴーストハック」は、「人間を自由自在に操る」というところまではやれないようだ。つまり、完全な電脳の乗っ取りによって、完全な別人格に作り変えてしまうというようなことは、なされない。

先のバドーの例で言えば、自分の姿を見せたくないから「見えないようにしただけ」なのだが、そんなことが簡単にできるのであれば、少し手間をかければ、誰であろうと思いのままに操れるはずで、それは「催眠術」以上に強力であり、例えば、主体的な「自殺」への誘導さえ可能なものと考えられるだろう。

一一だが本作では、「ゴーストハック」は、そこまでのものとしては描かれていない。
それは、「笑い男」が、手段としては「ゴーストハック」を使っても、最後のところでは「人間の主体的な良心」を重視する人物だったから、というのもあるのだけれど、実際問題としては、誰でも簡単に操れるようでは「物語にならない」ということがあったからなのではないかと思う。

だから、私がここで考えたいのは、そうした「フィクション」の話ではなく、私たちの「今ここの現実」なのだ。

すでに私たちは、日々「ゴーストハック」に遭っているではないか。一一という話である。

例えば、ごく分かりやすい例で言えば、「東京オリンピック」「関西万博」、あるいは大谷翔平人気」といったものだ。

こうしたものは、平たく言えば「大量宣伝」によって「脳がハッキングされ、操られている」ということ、そのものなのではないだろうか。
そもそも「プロパガンダ」というのは、「大量の恣意的情報」に曝すことで、人々の「思考」を乗っ取り、操ることではなかったか。

だとすれば、そうした「プロパガンダ」によって、発信者の思いどおりの行動を採らされている人たちというのは、先のバトーのような「限定的な知覚操作」ではなく、「人格まるごとの操作」されているということでもあれば、それでも「主体的な判断で行動をさせている」という点においては、ほとんど「思考まることの改変」だと、そう言っても良いのではないだろうか。
つまり、その人がもともと持っていた「精神・魂」としての「ゴースト」は、ハッカーによって上書きされ「改変されてしまった(書き換えられてしまった)」も同然であり、人間の「ゴースト」が「操られた」というよりも、「AI(人工知性)」同然の「薄っぺらい脳」が、簡単に「上書き」されて、別のものに「書き換え(置き換え)」られてしまったと言っても、「過言」ではなかろう。

さて、このように考えてくると、果たして「人間を人間たらしめているゴースト(精神・魂)」とは何なのか、ということが問題になろう。つまり、人間の「ゴースト」とは、果たして「AI」とは別物の、何か決定的に違う要素を持っているのか、それとも「違うと思いたいから、そう思っているだけ」でしかないのか?

そんなわけで、本作『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』でも、中心テーマとなるのは「魂って何? そんなもの本当にあるの?」ということになるだろう。

だからこそ、本作では「かけがえのない個性」ということが扱われることにもなる。
「個性」すら無いのであれば、そんなものは「魂」と呼ぶにも値しないのだが、先の「東京オリンピック」や「関西万博」、あるいは「大谷翔平人気」などの事例を考えれば、大局的には、ほとんどの人間には「個性」と呼ぶほどのものは無く、あくまでも「計算(予測)可能な」、したがって「改変可能な」、単純な行動パターンがあるだけ、なのではないだろうか?

そして、こうした考え方を、厳格につき詰めていけば、「個性」などというものは、せいぜい「イレギュラーな情報の錯誤パターン」でしかないのではないか、などとも考え得るだろう。

本作『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』には、「タチコマ」と呼ばれる公安9課が保有する思考戦車が、複数台(10台弱)が登場する。これは「人工知能」を搭載した「ロボット戦闘車両」だと考えればいい。

(タチコマたちは、まるで自我があるかのように議論をする)

この「タチコマ」には、発声による会話機能も与えられており、「子供っぽくイタズラっ子」めいた「性格」も与えられているが、しかしそれは、あくまでもフォーマットの「設定」であって、「個性」ではない。

タチコマは、ある1台が経験的に学習したデータを、他のタチコマと「並列化」して共有する機能が搭載されており、要は、タチコマは「経験と記憶」を共有するのであり、その意味では、本来であれば、タチコマに個体性としての「個性」が生まれるはずはない。
ところがタチコマたちは、「経験」を積むことによって、徐々に「人間らしさ」を獲得していくと同時に、それぞれの「個性」をも獲得していくのだ。

(第12話「タチコマの家出 映画監督の夢」では、逃げた飼い犬を探す少女と、なりゆきで行動を共にすることになるが、この経験によって、タチコマはさらに人間的になる)
(第25話「硝煙弾雨」では、人間的になりすぎたタチコマに危惧を覚えた素子によって、すでにタチコマは公安9課をお払い箱になっているが、老人ホームで働くようになったタチコマの個体は、テレビニュースで9課の危機を知り、9課の仲間たちの救出へと向かう)

「フォーマットは同一で、しかも経験や記憶を並列化する」タチコマたちは、基本的には「個別性が無い」が故に、「死」という観念も持たない。
ところが、それを知り得ないからこそ、タチコマたちが「死」というものに興味を示すという描写があって、その点がとても興味ぶかい。

「経験や知識」を並列化した同型機が存在するかぎり、彼らは「部分としての個体」を失っても、ひとつの「意識」としては「生きている」ということになるから、個々の「死」という観念は持ち得ない。
したがって、最後の1機(1台)が破壊されて「死なない」かぎり、タチコマには死が経験できないということになるのだが、しかし、最後の1機が死ぬ瞬間には、それを経験する機体は存在しないのだから、「死は経験できない」ということになる。
一一だが、それを言えば、人間だって、誰も「死そのもの」を経験することはできないし、同じ意味でタチコマだって、公安9課以外のタチコマとまでは、情報の並列化はなされないだろうから、その点では「他者(他所のタチコマ)の死」なら経験ができるという点でも、人間と同じなのではないだろうか。

ともあれ、「ゴースト(魂)」を持って「生きている」と言うためには、ただ主体として「考えている私」があると感じられるだけではなく、並列化されていない「個性」くらいは、必要なはずだ。
私たち人間は、例えば、フジツボのような「群生生物」に「魂」があるとは考えないし、その意味では「アリ」にだって「魂」があると考える人は少ない。また、そもそも人間以外の動物には「魂は無い」と考える人も多い。

特に、キリスト教圏では、聖書で「人間だけが、魂を持つ特別な生き物」だと書かれているせいで、他の生物の「魂」を認めない人が多い。
天国には、フジツボもアリもライオンも存在しないのだ。彼らは神の救いの対象ではないのである。

一方、日本のような、アニミズム的な発想(原始神道)や「輪廻」思想(仏教)の影響の強い国では、人間と他の生物に、本質的な差異は認めず、フジツボもにアリにもライオンにも「それなりの魂」が宿っていると感じがちだ。だからこそ、『鉄腕アトム』の昔から「心を持つロボット」や「ロボットが心を獲得する物語」への抵抗が少なく、その線で、タチコマの物語も、さほど目新しいものではないのだ。

タチコマには、あらかじめ「可愛らしい性格や声」が与えられているからこそ、彼らが、徐々に「人間的」になってゆき、最後は、与えられた使命に反してまで「自己犠牲の精神」を発揮して「死」を迎えるという展開にも、何の違和感もなく、素直に感情移入ができるのである。

だが、「ロボットが感情(魂)を持てる」のだとしたら、それは「ロボットが魂を持った」と言うよりも、むしろ私たち人間が「魂を持っている」と考えていることの方が、そもそも錯覚なのではないだろうか?
もともと、そんなものはなく、無いからこそ、多少の条件さえ揃えば、どんなものの中にも、「魂」の存在を見ることも可能なのではないか、ということだ。

で、私が思うには、「人間には魂がある」というのは、やっぱり「錯覚」なのだと思う。

例えば、前述の、バトーの「目を盗まれる」という経験からもわかるように、私たちの認識というものは、極めて「主観的」なものであって、「客観的」なものだという保証は、どこにもない。つまり「我思う故に我あり」とは言えないのではないか。
ただ「我思う故に我ありと思うという現象」が存在しているだけで、それは、私たちが考えるような「魂」とは、かなり違うものなのではないだろうか。
その「機能」や「状態」が存在するからといって、それが「客観的に存在している」ということにはならないはずなのだ。

で、このように考える私は「人間には、魂など存在しない」と考える。

「なら、現に今、こんなことを考えているお前は何なのか? 心を持たないというのか?」と問われれば、「そのとおり」だと答えよう。

そう、私の心は、客観的に存在するものではなく、機能として、変化する状態として、存在しているものでしかない。「ある」ように「感じられているだけ」の現象だと、そんなふうに私は考える。
はたして、このように考えることに、なにか不都合があるたろうか。

「魂」が存在していようといまいと、否応なく「私」が感じられるのなら、そのように感じられるものとして生きていくしかないではないか。
なのに、「絶対にある」などと、意地になって頑張ってみても、それは虚しいだけではないだろうか。

(バトーは、トグサから「タチコマを猫かわいがりしすぎる」と言われていたが)

もしも自分に、他人には無い、誇るに値する「個性」が存在すると思うのであれば、全人類ひとからげにして「魂はある」などという、雑な「自己正当化」を謀るのではなく、「私には、間違いなく個性がある」と、そう主張して見せてこそ、意味もあるのではないだろうか。

「私には個性がある」「独自の魂がある」とか言ったところで、所詮は「その他大勢」として大した個性を持ってもおらず、プロパガンダによって、あっさり誘導されてしまうような「群体生物」並みの生き方しかできないのなら、いずれにしろ「自慢できるほどの魂など持っていない」ということになるのではないだろうか。

だから私は、「人間には、魂なんてものはない」と、そうアッサリ認める一方で「しかし、私個人には、それが何であるにしろ、個性があるんだよね」と、そう言うのである。

例えば、映画のレビューを書くにしても、私は、まずあらすじと登場人物を紹介して、そのあとに「どこそこが面白かった」みたいな「千篇一律の(並列化された)レビュー」などは書かない。
そんな、生成AIに書かせた方がマシなようなものを書いている人間に、わざわざ誇るべき「個性」など存在しないと考えるから、私は私にしか書けないものを書くのである。「個性」があるから、嫌でもそうなっちゃうんだよ、ということなのだ。

そして、そんな私だからこそ、「そう簡単に、ゴーストハッキングされて、いいように他人に操られたりはしないぞ」と、あらゆる流行や流行的あるいは支配的な言説に対して、ひとまず疑ってかかる「頑固者」でいるのだ。
簡単に「データを上書きされて、趣味まで書き換えられてしまう」ほど、私の「ハード」は、柔でも無個性でもないと、そう言いたいのである。

「個性」とは、本作でも語られるとおりで、「ハード」と「ソフト」の、せめぎ合い的な相関関係の中から思いがけず生まれてくる、そんなものなのではないだろうか。


(2025年4月26日)


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